第8話 夜明け前ほど闇は濃く
結局、愛子は事務所の目と鼻の先にワンルームを契約し、そこでその男と暮らし始めることになったようです。
だからといって、それでまた店は元通り・いつも通り・これまで通りという感じには全くならず、たまに行く事務所には、そこはかとなく「次の場所を望む空気」が充満しておりました。
愛子は、その男との間に子供を作っての専業主婦を狙っておりましたし。
結奈は、看護師系の求人を見ては説明会に参加したりしておりましたし。
涼子は、借金が落ち着いてきたのか、こちらも子作りに励んでおりましたし。
恵美子も、愛子や涼子に触発されてか、タバコを減らし、子作りに勤しみ始め。
志保美は、懲役に行った彼への思いをようやく振り切り、こちらも新しい男の部屋に転がり込んで。
・・・そして何より、オーナー自身がもう殆ど風俗店への意欲を失っておりました。店からの収入も開店当初に比すれば激減したし、もはや【続けている】というよりも、【5人の誰かが終わりを口にするのを待っている】という感じです。
ただ、休みや夜間など、時間を見つけては差し入れなどを持っていき、月に1度は皆をご飯に連れていくなど、相変わらずコミュニケーションは取っておりました。
(もう長くはないな・・・。かしましい5人がガールズトークするこの花壇を眺められるのも・・・)
3年間、その花を傍で見守ってきた僕は、さしずめ役に立たない「案山子」のようなものです。彼女達にちょっと居心地のいい環境は与えられたかもしれないですが、結局、彼女達を「全うな社会人」に戻すことはできませんでした。
以前、何かで読んだことがあります。
風俗経験のある女性と、そうじゃない女性では、脳内の何かが大きく異なるのだと。それが本当かどうかなんてどうでもいいんですけど、確かにうちの店にいる嬢達を見ていると、その一線は、できるなら越えない方が良いかもしれない・・・と思ったものです。
いや、『女性が体を資本に仕事をすること』の是非については、僕は正直、個人の自由だと思っておりまして・・・。
もちろん、それは 法や倫理に基づいてではなく、あくまで個人的な感覚として、です。肯定派ではないけど否定は絶対しない、という立ち位置。
ま、だいたい風俗のオーナーを経た人間がそれを否定なんてできるわけがないですからね。
そりゃあね、自分の娘が大きくなって、
『私、風俗嬢になりたい!』
と言ったら・・・さすがに父親として止めると思うのです。
でもそれは、倫理的・世間的・法的に風俗嬢が悪いから、後ろ暗いから止めるわけじゃなくて、体や心への負担、そして本人に対する世間の目が心配だから、女性の仕事としては最高クラスに大変だと知っているから、止めるだけでして・・・。
【 職業としての風俗嬢】
を否定するつもりは毛頭ありません。
そういう仕事は社会に絶対に必要なものだと捉えています。
そういう生き方を自分で選ぶ女性がいてくれて、本当にありがたいとさえ思うほどです。
(男性の昂りを諌める仕事)
実際に紀元前からある伝統ある仕事だし、どの時代のどんな国にもあったであろう仕事だし、そりゃあ、法律で規制を受ける仕事ではあるけれど、それを悪とするなら、やはりそれは【必要悪】というか、なくなることは考えにくいと思うのです。(なくなったら確実に犯罪は増えるんじゃないかな?)
だって戦争や侵略の歴史を振り返れば、それはもう強姦の歴史でもあります。
つまりは無法化した場所、何をしても罪が問われない状況では、多くの男が即座に女性を襲うということ(全ての男性の本質がそうだ、というわけじゃないですよ)
この現在の、平和で、まだ治安が保たれた日本にいればあまりピンと来ないし、自分は理性があるからそんなことしないと・・・僕自身もそう思いますが、極限状態になった時のことなんて憶測では語れないし、果たして「世界中のオスがみんな理性的だ」とは、誰も言い切れないと思うんですね(ちなみに僕の妹の旦那はスパニッシュ系ブラジル人ですが、ブラジルでデリヘルは不可能だと言っておりました。そんなもん、無事で帰ってくるわけがないと)
具体名はあげませんが、明日、某国が攻めてきたら、兵士である男達は、日本の女性達に一体何をするでしょうか・・・?
『男子の性欲は笑い事じゃない』ことは、毎日のニュースが教えてくれていますが、だからこそ、風俗嬢とはありがたい存在です。
ちなみに僕はオーナーもしていましたが、その時期以外に『元』ではあるけど風俗嬢と付き合ったことがあるし、過去の彼女には「割り切り」の経験がある人もおりました。別に抵抗もありませんし、仮に今の嫁から
『実は私、昔、風俗にいたの・・・』
とカミングアウトされても、
『あ、そう!』
・・・で、間違いなく終わりですよね。
(『今昼間パートでしてる』ってんならさすがにビックリしますが)
そんな風に抵抗がなくなったのは、まさしく風俗店を営んだからです。
要は女性にとって【仕事や遊びでするH】【気持ちを入れずにするH】が、いかに過ぎてしまえばどうでもいい取るに足りないことか、よく分かったんですね。
ところでそれに関連する話ですが・・・。
僕は何人もの嬢に、もの凄く興味深い話を聞きました。
風俗 嬢を開始した直後は、女性って、やっぱり仕事だといってもなかなか割り切れないんだそうです。つまり、つい気持ち良くなってしまうこともあった、と。
ところが3ヶ月もそんな生活が続けば、もう何をされようが、皆何も感じなくなるんだそうです。
中には仕込み用のローションを使わないと痛い、という嬢までいて・・・。
・・・慣れって、ほんと凄いもんですね。
で、ちなみにお客の「上手い下手」なんですが。
(この人上手い!仕事忘れそう!)
という達者な殿方は、3年やって皆1人いたかどうか・・・とのことでした。
「男なんて99%同じようなもんですよ。激しいのが上手いと勘違いしてる人とかほんとイタイ。アレの大きさとか気にする人も多いけど、全然関係ない。そりゃ、あまりにちっちゃい人はちょっと気の毒かもしれないけど、普通の範囲ならもう何の問題もないです。女って最終的には、好きな人とするごく平凡なHが、1番幸せだし最高なんですよ。風俗やった子は皆、それに気付くんじゃないかな?」
これは発言した恵美子だけの意見じゃなくて、殆どの嬢がそれと似たようなことをしみじみと言っていたので、本当のことなんでしょうね。
【若い時遊んでない男が歳喰ってから遊びを覚えたらマズい】
とはよく言われることですが、そういう意味では風俗を経た女性は、特定の人ができて以降、魔が差しての火遊びに興じる確率は非常に低いと思われます。
「男なんてみんな同じ」なことを身を持って体験した元風俗嬢は、実は物凄く身持ちの固い良妻になる基盤を育んだ女性、とも言えるのです。
【好きな人とする平凡なHが1番】
それはつまり、女性の体は男と異なり
【心と直結している】
ということ。
ちなみに嬢の言う「Hが上手」というのは、どちらかといえばキスや指の技術、オーラルセックス的なもののことを指しているようでした。
ま、誰かの参考になる話じゃありませんが、一応明記しておきます。
おっと、話が逸脱しました。戻しまして・・・
・・・では職務として風俗嬢をするのは良し、とするなら、何で一線を越えない方がいいとウチの嬢を見て思ったか、なんですが・・・。
要はそれが、プロの意識のある風俗嬢と、ない風俗嬢の差ですよね。
風俗店という場所には、実はルールが沢山存在します。
店長やオーナーともうまくやらなければならないし、待機所には嬢同士の派閥や人間関係もある。
要はプロの風俗嬢は【社会人的側面】をきちんと持っているのです。
保険証は発行されないにしても・・・です。
とはいえ全ての嬢がそうかといえば全くそんなことはなく、多くはここまでに前述してきた通り、その場しのぎの毎日です。線引きと覚悟のない子は恵美子の言う通り、普通の風俗店の嬢など到底続かないでしょう。
美人十音は、自分でいうのもなんですけど、嬢には物凄く甘かった。
それは多分坪井氏と違い、僕自身が、一生風俗をしていくという覚悟を持てなかったからかもしれないですね。
そしてその甘さこそが、皮肉にもこの店が3年間も続いた要因だったのです。
ただその流れた3年は、果たして彼女達を成長させたでしょうか?
社会人として、女性として、人間として・・・。
(もう少し、厳しいお店にしても良かったかもしれんな・・・)
そんなことを思いつつ、車を走らせていた僕の携帯が嫌な音色で鳴ったのは、開店からちょうど3年が経過した、風の強い春の午後でした。
まさにその着信音こそが【終わりの始まりの号砲】だったのです。
愛子から、悲壮な声でTELが入ったのは、陽も傾きかけた夕刻の宵の口のこと。
僕はその日仕事がお休みで、朝、結奈はじめ3人を久しぶりに店まで送り届けた後、知人とちょっと遅めの昼食へ行っておりました。
帰りの車に乗り込んだ途端の着信。
ただならぬ雰囲気というものは、すぐに伝わるものです。
「オーナー!マズいです!私のせいです!スイマセン・・・」
「落ち着け落ち着け、何があったんや?」
「今日、新規の、車のお客さんから結奈ちゃん指名の電話があったんですけど、予め聞いてた車種とナンバーじゃない車で来たらしくて・・・」
「えっ?で、結奈ちゃんそれに気付いたんやろ?」
「結奈ちゃん、今月は稼ぎたいから乗るわって・・・。大丈夫やって・・・」
「えええっ!マジかよ!?止めへんかったんか!?客の携帯番号は!?」
「・・・スイマセン。予約の時は折り電してちゃんと確認したんですけど、さっきからかけてもかけても電源が入ってなくて・・・」
「飛ばしか・・・プリケーかな。で・・・結奈ちゃんの携帯は?」
「それが・・・コールはするんです・・・。ただ出ません・・・」
「結奈ちゃんからは入室のTELはなかったんやな?最後のTELからどれくらいや?」
「今で1時間です・・・」
「えっ・・・!?そんなに経ってんの・・・!?」
(・・・マズい、マズい、マズい、マズい、マズい・・・)
まさかあれほどルールを厳守してきた結奈が、こんなことになるとは。
油断、楽観、風俗の大敵です。
これはもう、完全に管理を他人に委ねた僕の責任。
是が非でも彼女を救わなければなりません。ただ・・・
(自分の意志で乗り込んだ。つまり強引に引きずり込まれて連れ去られたわけではない。さすがに複数の男が乗っている車なら、結奈も乗りこまんやろ?)
「愛子、で、実際来た車種は何やったんや?」
「聞いてたのはセダンだったんですけど、小さな白い軽だって言ってました」
(ってことは・・・後部座席に誰かが隠れていた可能性は少ない・・・と。軽を1人で運転しながら助手席の女性をどこかに連れ去るのは、まずスタンガンとかで気を失わせない限りは無理や。しかも結奈はあの気の強さ、抵抗するやろうし、そういう時は信号待ちで停まった瞬間に逃げろ、と何度も教えてきたしな。しかも携帯の電源は入ってる。その辺をひっくるめて考えると・・・)
僕は自分を落ち着かせるように静かに考えました。
もし結奈を乗せた車がホテルに向かわず、どこかの港やら倉庫やらに向かったとすれば、もうほぼ【アウト】かもしれません。
でももし、ホテルに入室してから何かがあったのなら・・・
(とりあえず片っ端からホテルをあたるしかないな・・・)
ただ、何か悪さをしようという輩が、店の至近にあるホテルになど行くもんでしょうか?
(薄いかな・・・でも、あたるしかないか・・・)
最寄駅付近のホテル街はそれほど大きくはなく、ホテルは数軒しかありません。
電話をするより、白い軽を求めて駐車場を巡った方が確実だとふんだ僕は、結奈の電話を鳴らしながら車を走らせ始めます。すると・・・
(えっ!?繋がった!?)
何と拍子抜けするほどすぐに、誰かが出てしまいました。
「結奈ちゃん、無事か!?おいっ、大丈夫か??」
「・・・・あ・・・・オー・・・・お・・・・」
プチッ!!
(えええっ!今の結奈の声やん!?何ですぐ切れるわけ?まさか・・・犯人に切られたんかな!?)
再度、コール!・・・コールは・・・ひたすらします。
(・・・いや、犯人が電話に気付いているなら、電源落とすなりするやろ。さっきの声からしたら彼女は意識朦朧・・・多分・・・)
【何か盛られたな】
確信がありました。
しかもさっきの通話時の背景のノイズ音は、間違いなく室内ではありませんでした。もう、恐らく結奈は外に出ているはずです。
僕は1つ深呼吸をして、近所のホテル街に猛スピードで車を向かわせました。
今まで色々あったけど、これは最悪の事態になりかねません。
そう、風俗とはこれほど危険な仕事なのです。
今更ながらそれに気付き、眩暈がしました。
(潮時だと感じていたのに・・・一歩遅かった・・・)
彼女にもしものことがあったら、親族や彼氏にどうお詫びをすればいいのか・・・
まるで満ち潮の波のように押し寄せてくる不安が、僕の脳内で渦を巻きます。
と、不意に、携帯がまた鳴りました!
結奈からです!
「・・・お・・な・・・・」
「結奈よっ!今おる場所だけ言ってくれ!迎えに行くから!そこはどこや!?何か目印ないか!?」
「・・・・じ・・・ん・・・じゃ・・・・」
プチッ!!
(き・・・切るなよな・・・。ジンジャ・・・エール!?ドリンクの看板か!?それとも・・・神・・社・・・あっ、神社かっ!?)
再度結奈に電話を掛けます。
ただ・・・・遂に電源は切れてしまっていました。
(マズい、これはマズい。電池切れはマズい・・・)
マズい理由は多々あります。
まず、神社といっても、そんなもん大阪には無数にあるわけで、それだけではまず探しようがありません。
更に、仮に結奈が僕の予想通り誰かに薬を盛られて野外で気を失っていると仮定したら、警察に通報される可能性が非常に高いわけです。
彼女はアリバイ会社に登録していて、実家の家族や彼氏には「事務員」ということになっております。もし、お巡りさんが薬を盛られてホテル街近辺で倒れている彼女の状況を家族に伝えたら・・・
(いや・・・もうそれはラッキーなくらいや。とりあえず無事が先決や)
そう(家族バレもやむなし)とある種諦めかけた瞬間・・・頭の中を強烈な電流が走り、僕は車内で叫んだのです。
「あっ・・・あるやん!?あの神社やん!!」
ここから1駅ほど離れた場所、まさにホテル街の脇に、確か神社がありました!
待ち合わせ場所からの距離や、事ここに至るまでの時間を考えても・・・
(恐らくアソコしかない、間違いない!)
キュキュキュキュ・・・・と急発進!
もう僕の中ではそこ以外に選択肢はありません。
ただ恐ろしいことに、あの神社には確か交番が隣接していたような・・・?
そして辿り着いたその神社で僕が見た光景は・・・・
・・・なんと交番の背面の壁にもたれかかり、ぐったりと、まるで酔っぱらいのように座り込んでいる結奈でした!
(ビンゴッ!!おった!!!)
素早く交番の中を窺うと・・・ラッキー!!お巡りさんは不在です!
エンジンをかけたまま雑に路駐した僕は、結奈に駆け寄り、声を掛けました。
「おいっ!結奈!!大丈夫か!?」
顔が・・・紅潮してます。にもかかわらず、アルコール臭は一切しません。
ぐったりした彼女に肩を貸し、どうにか助手席へと運びます。
(おっ・・・重い・・・)
身長も高く、そこそこポッチャリ気味な彼女を運ぶのは、ドラマのようには上手くはいかず、強烈に難儀でした。
それでも何とかシートを倒した上に横にならせて、すぐさま急発進!
とにかく運転しながら事情を尋ねようとするも、結奈のリアクションは皆無です。
様子を窺うと、苦悶の表情と紅潮した顔もさることながら、頸動脈の脈がとんでもない速さでした。そしてガチガチと歯を鳴らすほどに震えてもいて、これは・・・どんな愚鈍な人間が見てもただ事ではありません。
(吐かせるしかねーな、即座に)
若い女性に対して気は進みませんが、胃や腸が薬物を吸収してしまう前に、出してしまわなければどうにもマズい気がします。
だいたい、僕はタバコは吸うにしても、薬物なんぞに微塵も興味はないので、一切その方面の知識がありません。
彼女が一体何をどうされたのかなんて、想像もつかず、吐き出させる以外の選択肢など全く思い浮かびませんでした。
(違法薬物とかの類か?それとも、違う何かか?)
しばらく走ると、市街地の中にある小さな公園を発見しました。
もはや一刻の猶予もありません。
脇に車を停め、肩を担いで公園の敷地に彼女を四つん這いにさせると、僕は思い切りその背中をさすりました。
「出んか・・・。結奈ちゃん、ちょっと堪忍やで・・・」
そして指を彼女の口に突っ込んだその瞬間・・・・
どっばぁ!!
まるで噴水のような勢いで、オレンジ色の液体が地面に放出されました。
(ビ・・・ビール!?オ・・・オレンジジュースか・・・!?)
見たこともないような濃い橙色の、しかも大量の吐瀉物に、ちょっと怯みます。
多分ジュースか何かの中に薬物を混入されたんでしょうが、それにしても・・・この大量は何でしょう?
僕も数多の酔っぱらった友人を吐かせてきましたが、こんな嘔吐はホント・・・破天荒でした。まさに、前代未聞。
いったん止まった放出は、背中をさすると再度再開しまして、それを2度、3度と繰り返し、ようやく結奈の、苦しい産みの作業は終わりました。
胃の内容物は液状化して全部出た感じがします。
さすがにこれだけ出たら、体調は劇的に改善されるのではないでしょうか?
ひとしきり吐き終えた彼女は、ようやく小さく呟きました。
「す・・・スイマセン・・・オーナー・・・」
再度助手席に寝かせて、とりあえず僕は尋ねてみます。
「なぁ結奈ちゃん、病院行くか?大丈夫か?」
震えながらも、力強く即座に首を振る彼女。
看護師だけに、ま、その辺の判断はできるでしょう。
事務所に電話を入れ、不安一杯の愛子に無事を伝えます。
そして結奈を自宅マンションまで大急ぎで送り、洗面所で再度、最後の最後まで吐かせ、冷蔵庫を拝借して水を飲ませ・・・
「オーナー・・・スイマセンでした・・。油断しました・・・」
「ま、ま、話は後や。とりあえず横になれ、な?」
ベッドに横たわった結奈は、まだ少し震えております。
僕は押入れから毛布と掛け布団を出してきて、それを彼女に掛けてやりました。
「オーナー・・・寒い・・・。抱きしめて下さい・・・」
「アホか!冗談言ってんとはよ寝ろ!」
結奈はあっという間に眠りに落ち、結構ないびきまでかき始めて、それは心底僕を安堵させました。
寝顔をそっと確認すると、脈も収まり、紅潮も消えております。
恐らくは、もう大丈夫でしょう。
(・・・凌いだか・・・何とか・・・)
僕は結奈の鞄から、嫌いなはずのメンソールのタバコとライターを拝借しました。子供ができて以降やめていましたが・・・こんな時くらいいいでしょう。
換気扇を回してその下で火を点け、吸い込んだ久しぶりのタバコ。
頭をクラクラさせながら何気に部屋を見渡せば、そこには30歳になった女性の生活感が確かにありました。
(嬢の部屋・・・初めてやな)
今まで待機所の愛子部屋以外入ったことがありませんでしたが・・・気の強い結奈の部屋も、普通の女性の部屋と何ら変わることはありません。
そう思うと、僕の固まりつつあった決意は更に固まりました。
(引き際だ。もう、お開きの時間だ。普通の女の子の部屋に住んでんだから、普通の女の子に、看護師に戻るべきやな、この子も・・・)
今回、結奈を無事に、周囲にも知られずに救えたことは、幸運というほかありません。もし次こんなことが誰かに起きたら、助けられる保証は全くないわけで、思えばこの事件は、神様からの(もうやめておけ)という通告だったのでしょう。
ちなみに、目覚めた結奈から聞いたその日の経緯なんですが・・・
彼女は車で、真面目そうなお客に貰ったジュースを飲んだらしいです。
特に変な味がしたというわけでもなかったそうですが、入室する前くらいから急激に眠気に襲われて、部屋に入ってソファーに腰を下ろした段階では、意識が混濁していた模様・・・もうそこからのことはうる覚えなんだそうな。
ただ、はっきり思い出せるのは、お客がビデオを固定するような三脚を組み立て始めたことと、そこからはとにかく大声を張り上げて自分が転げ回ったこと・・・。
その後のことは・・途切れ途切れのフラッシュバック、のち、ブラックアウト。
必死に誰かに「大丈夫です」と言った記憶と、ホテルから公園へ向けて壁伝いに歩いた記憶が少し、あるような、ないような・・・何ともまぁ危うい状態だったわけです。ほんと、神社まで行ったのがど根性ですよね。
「オーナー、助けてくれてありがとうございました。良かったらこの体、好きにして下さい!」
「もうええっちゅうねん!とりあえず結奈ちゃん、しばらくはゆっくりしーや?今回のこともそうやけど愛の引っ越しのこともあるし、俺もお店のこと、そろそろ本気で考えなあかんわ・・・」
「はい・・・私もさすがにちょっと本気で転職考えます。明日から数日、仕事探しますんで休んでいいですか?」
「もう何日でも遠慮せんと休め!ま、とりあえず他の4人とも話し合って、いつ頃閉店するか決めるわな。また落ち着いたら事務所顔出してな?」
「はい。最後はみんなで居酒屋でも行きましょうね?」
「おうよ!もちろんや!」
翌日、営業活動を抜け出して朝イチで事務所に顔を出したスーツ姿のオーナーを見て、結奈を除いたレギュラーメンバー4人は大笑いしました。
「オーナー、スーツ・・・全然似合わないですね!?」
「あのな愛子、それが仮にもオーナーに会って一言目に言うセリフか!?えー・・・みんな、ちょっと話があるんや。実は昨日な・・・」
「愛子ちゃんから聞いてますよ。結奈ちゃん無事で良かったですわ」
食い気味にオーナーの話を腰を折る咥えタバコの恵美子。
涼子と志保美の表情を見ても、すでに愛子が話し尽くしている模様です。
「うん、何事もなく無事やってんけどな・・・いや・・・実はオーナーな・・・」
ちょっと緊張しながら要点を口にしようとしたその瞬間一。
「・・・オーナー、閉店したいんでしょ?」
「あああああああ!!?今度は涼子ちゃんかいな!?最後まで話させてくれや!ここはオーナーが場を引き締める重要な場面やがな!?」
ドッと沸く事務所。以心伝心、よくできた妹達です。
「私らもね・・・そろそろ潮時やって、4人とも同じ意見です。オーナー、長いことありがとうございました。楽しかったです!」
恵美子は・・・そう言ってニコリと笑いました。
あとの3人も、一様に頷きながら、笑顔です。
不覚にも涙腺が緩みそうになった僕は泣くのを辛うじてを堪え、口に出してはこう言いました。
「最後は焼肉食べ放題やな!愛子、いつもの店、予約入れてくれ!!」
・・・こうして、3年に及んだ僕の、波乱万丈の風俗店オーナー生活は、その月末には終わりました。5本の造花がその後どんな道を歩んだかは・・・。
次章にて触れることにしましょう。
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