読んだ本の数は、手に入れた命の数
トイレ掃除以外の家事は全て私の仕事だ。こだわりがあるらしく、昔から父は進んでトイレ掃除を丁寧にする。
料理はからきしダメで、そのかわり、私の作ったものを文句も言わずに褒めてくれる。
『母の味に近付いた』だなんて……母のブリ照りは格別だった。
食器をシンクに運びながら、思わず、ふふふと笑ってしまう。
「『8』……なんだろうなぁ。お母さん、もう、ギブアップだって言っているのに……」
食器を洗っていると、また、母が話しかけたくれた。宿題が嫌だとごねた時の事だ。
『宿題、もうやめちゃったの? 理沙は、賢いから、あんまり自分で考える事をしないのよね』
「バカだから考えられないのよ」
『馬鹿じゃないわよ。だって、お父さんとお母さんの子供なんだから』
「賢かったら、暗号も簡単に解けるんじゃない?」
『賢いと、逆に、大事なものを見落としてしまう事もあるのよ。洗い物と同じ……最初は、ゆっくり時間をかけて丁寧に洗うのよ』
「暗号と、洗い物は違うと思うよ……」
『宿題は難しいよね……解らない問題があったら、人に聞いて教えてもらうのが正解なの。でもね、初めは何でも丁寧に……自分で考える練習をしておこうね――もし、無人島に一人で流されたら、質問する相手もいないじゃない?』
「無人島に流された時点で、あきらめます」
『賢いから、一番効率のよい方法を解っているんだと思うの。高い塔を建ているには、ブロックを真っ直ぐ上に積んでいくのが一番早いじゃない?』
「覚えているよ。だけど、高く、ひょろ長く積んだブロックは、ちょっとの力で倒れてしまうんでしょ?」
『ピラミッドみたいに、しっかり、一段一段積んでいけば、絶対に倒れない本当の実力が手に入るの』
「それじゃ、時間がかかりすぎるよ」
『うん、理沙には、もっとぴったりの方法があるけどね。もう少し大きくなったら、教えてあげるね』
「私、もう大きくなったよ……だから、教えてお母さん……」
『よーし、おわりー。理沙は、本当に洗い物が上手だね! きっと良いお嫁さんになるわよ!」
「お母さん……」
母は、これ以上答えてくれない。聞こえてくるのは、小さな頃に交わした事のある言葉だけだ。母との会話は楽しい、でもいつも、終わりには寂しさがぶり返してくる。
しかし、今日は違った。
『悩んだときには、本を読みなさい』
「え? 何? そんな話した?」
『本を読む事は誰かの人生を借りることなの。読んだ本の数は、手に入れた命の数と同じなの』
いつだったか迄は覚えていない。
私には『聞こえても、聞いていない』時がある。何かが気になり始めると、人の話が途中でも、お構いなしに聞かなくなる。
ただ、記憶には残っていて「さっきの話おかしいよね」何て事を、後になって言ったりするので、周りからは嫌がられる。
新しい母の声は、ボンちゃんの手紙をもらった時と同じ様に、私に新しい母を教えてくれた
難しくて理解できなかった言葉も、音として記憶され、長い年月をかけて理解できるようになった時に初めて言葉として解凍されることがあるなんて、新鮮な驚きだった。
「ありがとう……お母さん……」
そう、きっと『本』はキーワードだ。
気になり始めた事ってリンクする。
もう、夜も遅いが、いてもたってもいられず、私は廊下の本棚へ駆け寄った。本棚にこれまで興味を持ったことはなかった。
「推理小説と実用書が多いなぁ、三割程度はお父さんの本らしいけれど――」
下から二段には、法律関係とか、税金関係、辞書、辞典などの分厚い本が並んでいる。
きっと、ここが父の棚だ……しかし、他の本は母の物なのだろうか? しっくり来ない。
『エクセルマクロ百選』『ジャバスクリプトと人生』『人工知能と人工無能』訳のわからない本が並んでいる。
さて、次の棚だが、相変わらず、読みたくなるような本は見当たらない。
『日本の菌類』『日本と西欧での自我の違い』『TAROT』『解説古事記』
「たくさん付箋紙が貼ってあるから、読んだのよね? なぜ、この本を買おうと思ったのか……『日本の菌類』が欲しくなる時なんてある? 全く想像がつかないわ――あ、でも、これって……」
書棚から一冊の本を取り出した。
本のタイトルは
『何かを成し遂げるには――
可能性は無限大』
この本ならば、手を伸ばしたくなる気持ちが、分かるような気がした。
何かを成し遂げる……鍋島君がそんな事を言っていた。あの時、私に言われたような気がして、目をそらしてしまった。
『何かを成し遂げる為には、必ず金が必要になる。その何かが、悪であれば、儲ける事は悪だろう……。しかし、善にお金を使うために儲ける事は善ではないのか?』
鍋島君は、かなり変わり者だけど、言う事を一つ一つ見ていけば、まあ、まともな事を言っている。言い方が問題なんだ。
鍋島君の言葉を思い出し、自問自答を始めた。今まで、何かを成し遂げた事があるのだろうか、考えた事すらないのではなかったか。
少なくとも、鍋島君は何かを成し遂げたいと思っているのだろう。それが何かはわからないけれども『何か』を持っている彼をうらやましく感じた。
そうだ、私にもできたのだった。父を総理大臣にする――途方もない事で、何から手をつけたら良いかも分からないけれど。
とりあえず、さっき手に取った本を開いてみよう。暗号も『何か』に含まれても良いはずだ。暗号を解く事を成し遂げようとしているのだから。
しかし、重厚な表装に気後れしてしまう。
この本は、紺一色のハードカバーの装丁に、金色の文字で『可能性は無限大』と書かれている。
「挿し絵とか……ないよね、やっぱり」
パラパラと無造作にページを進めてみると、栞が挟まっているのに気が付いた。普通の栞よりも随分大きい――カードに近いサイズだ。
「え? 糊付けされている……」
ページ上の余白の部分に糊付けされている。カードをめくれば、本文は読む事が出来るけれども、なぜ、糊付けなんか……。
カードをめくると『読書のススメ』と書いてある。読書に馴染みはないけれども、これも何かのご縁だと、ここだけは読んでみる事にした。
――読書のススメ
読書とは、人の人生を借りる事だ。
本を読む事が嫌いなら、映画を見る事でも、人の話を聞く事でも良い。自分自身が経験できる事は限られている。人の人生は、それほどに短い。
誰かの人生を借りる事で、自分には無い体験、自分には無い視点を借りて、様々な物を見て、考え、感じる事ができる。
あなたは、もっと遠くへ行ける。
本の力で、それに気が付くだろう。
さっき聞こえた、母の声が伝えたのと同じ内容だ。やっばり、母はこの本を読んだんだ、そして、このカードを張り付けたのも、きっと母だ。
「もしかして、このカードって……」
さっき『日本の菌類』の近くで見つけたこれと……やっぱりそうだ、間違いない。
私は『TAROT』と書かれた本を抜き出した。しかし、それは本ではなく、カードケースだった。中には、栞に使われていたカードと同じタッチで書かれた、沢山のカードが入っていた。
私は、カードを食卓へ持って行き、一枚一枚、並べてみた。
初めて見たタロットカード達は、私に何かを訴えかけている様だ。一体、何を伝えようとしているのだろう。
一枚だけ、何となくカードを手に取った。旅人らしき人物と仔犬が描かれている。
「仔犬とお散歩かな? ふふっ、可愛いな」
印象に残るカードだった。
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