お寺は必要なのに必要なお金がない

 僕は、この景色が好きだ。


 見渡す限りの田んぼ。伸び始めた苗が、ようやく、風の軌跡を見せてくれるようになった。


 秋になれば、黄金色の稲穂が勇壮な風のダンスを見せてくれる。ここで育った人は、風を見た事があるかと問われれば、きっと、全員がイエスと答えるだろう。


 でも、まだまだ、青々とした稲が、じりじりと照り付ける太陽をいっぱいに受けようと、一生懸命に背伸びしている様子で、一面の黄金色の風景を見るには、まだまだ時間がかかりそうだ。


 僕は、暫く故郷の美しい景色に心を奪われていた。しかし、それも一瞬の事だった。なぜなら、今日は飛び切りの夏の太陽と、昨日まで続いた雨の名残で、この夏一番の気温と湿度が重なったのだ。


 塾講師をしているときには、上下スウェットでも、誰も文句は言わないが、実家のお寺の仕事の時にはそうはいかない。


 特に、今日は、お知り合いの由緒あるお寺に用事があってきたので、正装ではなくても、少し生地の厚い立派な着物を着ている。 


 この熱さでは、いくら若い稲達で紡いだ緑の絨毯が美しかろうと、長く僕を惹きつけておく事は出来ない様だ。


 それから、美しい世界から僕を現実に引き戻したのには、もうひとつ理由があった。


 それは、実家の勝厳寺しょうごんじだけではなく、この天由寺てんゆうじにも共通した、お金というシビア過ぎる現実だった。


英章えいしょうさん、どこのお寺も同じだよ、商売っ気がある和尚さんは少ないんだ」


 二つの寺は借金で苦しんでいた。いや、それ以外にも、知り合いのお寺はほとんどが同じような状況だった。


 僕はお金の事を考えると、自分がけがれて行きそうな感覚を覚えて気が引けた。


 次男坊とは言え、僕も勝厳寺の僧侶の一人だ。商売と宗教を一緒にはしてはいけない気がする……でも、お金がないと、お寺はなくなってしまう。そんな、ジレンマに頭を抱えていた。


 僕は、あまりの暑さに耐えかね、一時の涼を求めて辺りを見回した。


 太陽が真上にあるので、境内に日陰と呼べるのは、大きく枝を張り出した楠の下ぐらいしか見当たらない。


 和服のたもとから扇子を取りだし、パタパタと仰ぎながら大きな楠の下へ歩いていると、滴り落ちる汗の一滴ごとに、悶々としたお金の問題があふれ始め、ついには独り言となって口から出てきてしまった。


「ぬわぁ、あっついなぁ。汗はどんどん出てくるのに、お金は全然出てこない。何故、みんな、こんなにお金が無いんだろう。お寺って必要だよね? 必要なのに、何故、無くなりそうなお寺がこんなにあるの? なんかおかしいんだよなぁ。何がおかしいんだろう、わっかんないなぁ」


 楠の幹の寄りかかり、そのまま背筋を伸ばして見上げる様に首を伸ばした。


 大楠の茂った葉の隙間から木漏れ日が差している。湿度が高いので、日陰に逃れても、涼しさを感じる事はない。ずいぶん昔に、修学旅行で行った京都は、盆地だから夏も暑いと聞いていたが、実際は、日陰にいればずいぶん涼しく感じた事を思い出した。


 京都は夏も暑いと言っているのは、きっと、京都よりも東の人たちなのだろう――と思いつつも、日向よりは、木陰の方が随分ましだった。


 大きな楠は佐賀の名前の由来にもなっている。


 古事記よると、日本武尊やまとたけるが佐賀に来た時に、楠が茂っている様子を見て、『さかえくに』と名付けたとされている。


 この立派な大楠も、日本武尊が『栄えてるなあ』と思った内の一本なのかもしれない。


 僕は、自分の何代前のご先祖様までさかのぼれば、この大樹が幼かった日の姿を見られるのだろうかと、悠久の歴史を感じて目を閉じた。


 十人ほどで手を繋いで取り囲まなければならないぐらいの大楠は、周囲に大きく枝を張り出して、今でもその生命力を誇っている。


 まるで、自分を激しい日差しから守ってくれていると感じたが、それは都合の良い勘違いだ。日差しを沢山受け取るのが、木の本来の仕事だ。


 勝手に大楠の慈愛を感じながら、ゆっくりと閉じていた目を開き、その枝振りを驚嘆とともに見つめた。


(随分遠くまで枝を張り出しているのに、よくも折れてしまわないものだなぁ)


 枝を辿って、僕の視線は自然とその先端に向かって行った。すると、その先に、大きく立派なお墓が目に入り、その前で、この日照りの中、熱心に手をあわせる着物姿の老人を見つけた。


 この暑いところをご苦労だなと思いながら、その老人を数分ぐらい眺めていた――しばらくすると、老人はきびすを返し歩き始めた。しかし、数歩進んだところで、躓いて膝をついた。


「大丈夫ですか?」


 僕は、扇子をしまいながら、大急ぎで駆け寄って声をかけた。


 膝をついたままの老人は、近くで見ると、ずいぶん立派な着物を着ている――きっと、名家の御隠居さんに違いない。


 老人は苦笑いを浮かべ「ああ、何とか大丈夫じゃが……。鼻緒が切れたな」と、ばつが悪そうに言った。上等な着物に負けず、厳かな気品を発している。


 気品とは、目で見て感じる物ではあるが、目には見えない不思議なもので、これが気品だと指差す事はできない。老人は、この気品を漂わせていた。


「鼻緒ですか……大丈夫、私も前に切った事があるので予備を持ち歩いているんですよ」


 僕は、僧侶であると言う事もあって、和服が好きで、普段も着物で過ごしている事が多い。


「ほら、コレで大丈夫。ちょっと見た目は悪いけど、ちゃんと歩けますよ」


「おうこれは、なかなか良い具合じゃよ。若いのに着物姿とはめずらしいのう。うちの息子はいつもスーツじゃよ」


 老人は、にっこりと微笑んだ。立派な白い髭に不似合いな、まるで子供の様に、かわいらしい笑顔だ。


「僕も、普段はスーツですよ、じゃ、お気をつけて」


 僕は、さらりと見栄を張ってしまった事に後悔しつつ、その場を離れた。楠の庇護下ひごかに戻り、老人が、お寺を出て行くまで見送った。また、転んでしまわないかと心配しての事だったが、どうやら杞憂きゆうに終わって安堵した。


 さて帰ろうかとした時。あの、気品のあるおじいさんは、どこの良家の方だろうと気になり、振り返って、先ほど老人が手を合わせていた大きなお墓を見上げた。

 

――空がまぶしい。流れた汗が目に染みて、思わず目をつぶった。

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