神の降臨?
「お嬢さん、何かお探しですか?」
私は、弾かれたバネのように飛び上がり、勢いよく振り向いた。黒いスーツを着た男が、いつの間にか、すぐ後ろに立っていた。
私は、その男の目線を避けるように、少し
――こんな人いなかった、細い一本道に人がいたことに気が付かないなんて……。
「あの……オサガシ? お探しではありません。えーと、あの……ど、どちら様でしょうか?」
「ああ、失礼致しました。その祠の――関係の者でして、何か御用事かなと……」
スーツの男は物腰柔らかに訊ねてきた。明るく、さらりとした茶髪をしている。今をときめく人気俳優の顔が思い浮んだ。
その俳優について、学校で
「そ、そうなんですね! すみません、つい気になって勝手に掃除なんかしたりして……きっと、貴重な物なんですよね? そうですよね? 私ったら、本当に――ごめんなさい……私、バカだから、でも、壊したり傷つけたりとか……あ、ちょっと角が欠けちゃったりしたんですけど、きっと直ると思うんです。ですから、あの……」
声は上ずっているし、説明はしどろもどろで、これじゃ、万引Gメンに捕まって言い訳しているのと変わらない。もう少しうまく話せるようになりたい。
「いやいや、手入れが行き届いていないのは、お恥ずかしい事で……最近は、あなたの様な人はいないものでね。お嬢さん、よろしければ、また、掃除をしに来てくれませんか? 申し遅れましたが、私、神なんです。この
「ああ、そうなんですね……。よかった、てっきり怒られるものだとばかり思って……。私なんかで良ければたまに掃除に来ますよ。私掃除好きなんです!」
言っていることは良くわからないが、どうやら怒ってはいないらしい。そうと分かれば長居は無用、両手で、ぱぱっとスカートの埃を掃うと、さようならと深くお辞儀をして、自宅の方へ向かって小走りに駆け出した。
辺りは暗くなり始めていた。
「あぁ、びっくりした!」
◇
びっくりとは失礼な話だ。
でも、まあしょうがない、神の降臨なんて、滅多にあるものではないから。
しかし、本当に驚く事になるのは、家に着いた後の話だ。話をろくに聞かないで逃げ出すからこんな事になる。
◇
もう、太陽は山影に隠れてしまった。遠くの空が赤く染まっている。
『ゆうやけ』の後の、あの赤い空は『こやけ』と言うんだ。誰かに、そう教えてもらった。まだ幼い頃の話だ。あまりはっきりとは覚えていない。
スカートがめくれないように、小走りで駆け続けた。息を切らしながら、幼い日に歌った歌を口ずさむ。
「夕焼け……ふぅ、小焼けで……はぁ、日が暮れて……」
赤から藍へと色を変える空の下、早足に帰途を急いだ。英語ではトワイライト、日本語では黄昏時、昼と夜の間には何だか不思議な魅力を感じる。何かと何かの境目や狭間に、こんなにも惹かれるのは、きっと、私達が大人と子供の境目にいるからではないだろうか。きっとそうだ。
程なく家に辿り着くと、玄関の鍵を差し込み、扉を開いた。今は暗くて分かりづらいが、白くてちっちゃな可愛らしいおうちだ。多分、母の趣味だったんだと思う。
この、可愛らしいおうちに照明を灯すのは私の役目だ。
母親である
父は佐賀県の県会議員をしているが、議会が開かれていても、いなくても、家に帰って来るのは早くて午後十一時過ぎだった。
洗面所で汗のにじんだ制服を脱ぎ捨て、下着姿のまま、父親の着替えの準備を済ませると、鏡に写った自分の顔を見ながら、なんとなく、こう思った。
――急がしく東奔西走している父は、きっと私との約束を果たそうとしているんだ。お母さんが事故で亡くなったあの日、父は、母の最期に間に合わなかった。
あの時、私は声を荒げてしまった。辛いのは父も私も一緒なのに……。
父はその時、私に決意表明した。こう、はっきりと言ったのだ。
――必ず総理大臣になってみせると。
私は自分の父親が総理大臣になる事など毛頭望んではいない。父には、ただ傍にいて欲しいだけだった。母の、そして自分の……しかし、そうとしか出来ない人であると言う事も知っていた。
「お母さんに会いたいな……」自然と、親を亡くした子供ならだれでも願うだろう一番の望みが、口からこぼれ出た。
洗面台で泥の残った手を洗った。鏡を見て頭に泥が付いている事に気が付いた。
「何でこんな所に……そうだった、泥だらけの手で頭をかいたんだ、急にあんなところで声を掛けるものだから……」
と、今日会ったスーツの男の事を思い出した。
関係者だとか言って何だかわからない事を言っていた。それにしても、あの祠は何なんだろう。あと、大願成就って願い事が叶うって意味だったかな?
――もし、願い事が叶うのならばお父さんを総理大臣にしてあげたい。
総理大臣の父親が欲しい訳ではない。ただ、約束を果たさせてあげたいだけ……母と私に対する贖罪を……そう心の中でつぶやいた。
「お父さんを総理大臣に!」
叫ぶつもりはなかったので、自分の声の大きさに驚いた。ノリノリで拳を高く突き上げてしまった、自分が自分で恥ずかしい……。
誰もいない家の洗面所で、下着姿で盛り上がっている自分の姿を映した鏡が目に入り、虚しく拳を下ろそうとした。
その時、見えるはずがないものが見えた。
「え?」
落ち着いて考えよう。今、この家にいるのは私だけ。だから、下着姿のまま、うろうろできたりするんだ。つまり、他には誰にもいない。だけど、見える。
私を映した鏡ごしに、男の姿が……。
「願い事を叶えてあげるよ」
私は、まだ挙を突き上げていた。しかも、下着姿のまま。そして、その向こうで微笑んでいるスーツの男……。錯覚だ……そうに違いない、でも、たった今声が聞こえた。何と言った?
「だから、願い事を叶えてあげるって言ったんだよ」
私は、またもや、バネのように飛び上がり振り向いた。驚きと恐怖で声も出ない。とにかく落ち着こうとした。しかし、どだい無理な話だ。
「僕の願い事は、取り敢えず落ちついて欲しいって事だけどね」
スーツの男はそう言ってクスリと笑った。どうやら冗談は下手らしい。
「な、何なんですか!?」
そう言うのが斉一杯だ。スーツの男は平然として意に介さない。
「勝手に家の中まで入って来たのは気にしないでね。分かっていると思うけど、さっき話したように僕は神なんだ、願い事を叶えに来たよ」
事の次第を理解するのに時間がかかった。いや、理解したのかも分からない。とにかく、目の前に急に現れた人間がいる以上、それなりの対処が必要だ。いや、人間ではなく、神様だったか。
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