神の降臨?

「お嬢さん、何かお探しですか?」


 私は、弾かれたバネのように飛び上がり、勢いよく振り向いた。黒いスーツを着た男が、いつの間にか、すぐ後ろに立っていた。


 私は、その男の目線を避けるように、少しうつむき、さっきまで地面を支えていた泥だらけの左手で、つい頭を掻いた。手に泥が付いていることは、すっかり忘れてしまっていたのだらからしょうがない。それぼど緊張していたのだ。


――こんな人いなかった、細い一本道に人がいたことに気が付かないなんて……。


「あの……オサガシ? お探しではありません。えーと、あの……ど、どちら様でしょうか?」


「ああ、失礼致しました。その祠の――関係の者でして、何か御用事かなと……」


 スーツの男は物腰柔らかに訊ねてきた。明るく、さらりとした茶髪をしている。今をときめく人気俳優の顔が思い浮んだ。

 その俳優について、学校で友香ともかと良く話しをした。でも、友香は彼の事を良く言わなかった。理由はよくわからなかったが、どうやら総括すると『理沙は男を見る目がない』という事のようだった。


「そ、そうなんですね! すみません、つい気になって勝手に掃除なんかしたりして……きっと、貴重な物なんですよね? そうですよね? 私ったら、本当に――ごめんなさい……私、バカだから、でも、壊したり傷つけたりとか……あ、ちょっと角が欠けちゃったりしたんですけど、きっと直ると思うんです。ですから、あの……」


 声は上ずっているし、説明はしどろもどろで、これじゃ、万引Gメンに捕まって言い訳しているのと変わらない。もう少しうまく話せるようになりたい。


「いやいや、手入れが行き届いていないのは、お恥ずかしい事で……最近は、あなたの様な人はいないものでね。お嬢さん、よろしければ、また、掃除をしに来てくれませんか? 申し遅れましたが、私、神なんです。このほこらまつられているんですが、扉が閉ざされてから、出てこられなくなってしまいましてね。あなたの様な方を探しに行く事も出来ず、困っていたのです。私の願い事を聞いてくれるのなら。私も、お礼に何かひとつぐらい願い事を聞きますよ」


「ああ、そうなんですね……。よかった、てっきり怒られるものだとばかり思って……。私なんかで良ければたまに掃除に来ますよ。私掃除好きなんです!」


 言っていることは良くわからないが、どうやら怒ってはいないらしい。そうと分かれば長居は無用、両手で、ぱぱっとスカートの埃を掃うと、さようならと深くお辞儀をして、自宅の方へ向かって小走りに駆け出した。


 辺りは暗くなり始めていた。


「あぁ、びっくりした!」



 びっくりとは失礼な話だ。


 でも、まあしょうがない、神の降臨なんて、滅多にあるものではないから。


 しかし、本当に驚く事になるのは、家に着いた後の話だ。話をろくに聞かないで逃げ出すからこんな事になる。 



 もう、太陽は山影に隠れてしまった。遠くの空が赤く染まっている。


『ゆうやけ』の後の、あの赤い空は『こやけ』と言うんだ。誰かに、そう教えてもらった。まだ幼い頃の話だ。あまりはっきりとは覚えていない。


 スカートがめくれないように、小走りで駆け続けた。息を切らしながら、幼い日に歌った歌を口ずさむ。


「夕焼け……ふぅ、小焼けで……はぁ、日が暮れて……」


 赤から藍へと色を変える空の下、早足に帰途を急いだ。英語ではトワイライト、日本語では黄昏時、昼と夜の間には何だか不思議な魅力を感じる。何かと何かの境目や狭間に、こんなにも惹かれるのは、きっと、私達が大人と子供の境目にいるからではないだろうか。きっとそうだ。


 程なく家に辿り着くと、玄関の鍵を差し込み、扉を開いた。今は暗くて分かりづらいが、白くてちっちゃな可愛らしいおうちだ。多分、母の趣味だったんだと思う。


 この、可愛らしいおうちに照明を灯すのは私の役目だ。

 母親である涼子りょうこが亡くなって、もう七年も経つのだが、この役目にはまだ慣れない。昔は母と二人で、遅くまで帰ってこない父を、母と二人で待っていた。もっとも、私はいつも先に寝てしまったけれど。


 父は佐賀県の県会議員をしているが、議会が開かれていても、いなくても、家に帰って来るのは早くて午後十一時過ぎだった。


 洗面所で汗のにじんだ制服を脱ぎ捨て、下着姿のまま、父親の着替えの準備を済ませると、鏡に写った自分の顔を見ながら、なんとなく、こう思った。


――急がしく東奔西走している父は、きっと私との約束を果たそうとしているんだ。お母さんが事故で亡くなったあの日、父は、母の最期に間に合わなかった。


 あの時、私は声を荒げてしまった。辛いのは父も私も一緒なのに……。

 父はその時、私に決意表明した。こう、はっきりと言ったのだ。


――必ず総理大臣になってみせると。


 私は自分の父親が総理大臣になる事など毛頭望んではいない。父には、ただ傍にいて欲しいだけだった。母の、そして自分の……しかし、そうとしか出来ない人であると言う事も知っていた。


「お母さんに会いたいな……」自然と、親を亡くした子供ならだれでも願うだろう一番の望みが、口からこぼれ出た。


 洗面台で泥の残った手を洗った。鏡を見て頭に泥が付いている事に気が付いた。


「何でこんな所に……そうだった、泥だらけの手で頭をかいたんだ、急にあんなところで声を掛けるものだから……」


 と、今日会ったスーツの男の事を思い出した。

 関係者だとか言って何だかわからない事を言っていた。それにしても、あの祠は何なんだろう。あと、大願成就って願い事が叶うって意味だったかな?


――もし、願い事が叶うのならばお父さんを総理大臣にしてあげたい。


 総理大臣の父親が欲しい訳ではない。ただ、約束を果たさせてあげたいだけ……母と私に対する贖罪を……そう心の中でつぶやいた。


「お父さんを総理大臣に!」


 叫ぶつもりはなかったので、自分の声の大きさに驚いた。ノリノリで拳を高く突き上げてしまった、自分が自分で恥ずかしい……。


 誰もいない家の洗面所で、下着姿で盛り上がっている自分の姿を映した鏡が目に入り、虚しく拳を下ろそうとした。


 その時、見えるはずがないものが見えた。

 

「え?」


 落ち着いて考えよう。今、この家にいるのは私だけ。だから、下着姿のまま、うろうろできたりするんだ。つまり、他には誰にもいない。だけど、見える。


 私を映した鏡ごしに、男の姿が……。


「願い事を叶えてあげるよ」


 私は、まだ挙を突き上げていた。しかも、下着姿のまま。そして、その向こうで微笑んでいるスーツの男……。錯覚だ……そうに違いない、でも、たった今声が聞こえた。何と言った? 


「だから、願い事を叶えてあげるって言ったんだよ」


 私は、またもや、バネのように飛び上がり振り向いた。驚きと恐怖で声も出ない。とにかく落ち着こうとした。しかし、どだい無理な話だ。


「僕の願い事は、取り敢えず落ちついて欲しいって事だけどね」


 スーツの男はそう言ってクスリと笑った。どうやら冗談は下手らしい。


「な、何なんですか!?」


 そう言うのが斉一杯だ。スーツの男は平然として意に介さない。


「勝手に家の中まで入って来たのは気にしないでね。分かっていると思うけど、さっき話したように僕は神なんだ、願い事を叶えに来たよ」


 事の次第を理解するのに時間がかかった。いや、理解したのかも分からない。とにかく、目の前に急に現れた人間がいる以上、それなりの対処が必要だ。いや、人間ではなく、神様だったか。

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