人のために
鍋島君と話していて分かった事が二つある。ひとつ目は、世間には、どうにも理解できな人がいること。そして、二つ目は、それが鍋島君だと言うことだ。
しかし、彼の言った言葉は今でも私の心の中で跳ね回っていて、どうにも落ち着こうとしない。
――何かを成し遂げる為には、必ず金が必要になる。その何かが、悪であれば、儲ける事は悪だろう……。しかし、善にお金を使うために儲ける事は善ではないのか?
何かを成し遂げる……今、私が成し遂げたい事は、お父さんを総理大臣にする事だ。だけど、そんな答えはどこにも落ちていない。
秘策と暗号の宿題は、手付かずのままだ。進まなければ……とにかく前へ……。
「もう着くぞ、手を離せ」
いつの間にか私は鍋島君の手を掴み、引っ張りながら歩いていた、恥ずかしさに手を離すと、鍋島君は「一体何なんだ……」と呟いた。
目の前に『ワンダーボーイ』の看板がある。ここに英章先生や、先に来ているかもしれない塾のクラスメート達が……。
私は、一つ大きく深呼吸をして、店に入る決意をした。鍋島君の声が耳に入って来るけれども、頭までは届かない、そんな感覚だった。
恐る恐るドアを開けて店に入ると、英章先生の背中が見えた。着物姿なので、すぐにわかる。
「英章先生……」
声を掛けると、英章先生はビクッと体を震わせ、ものすごい勢いで振り返った。その顔は真っ青で、顔中の筋肉を引きつらせ、泣きそうに笑った。
良くないことが起こったのだ。
英章先生が、がっくりと膝を折ると、その先に、人が倒れているのが見えた。
私は、声にならない、漏れる息だけの声で、英章先生を呼びながら、一緒に座り込んだ。
鍋島君の声が聞こえて来た。
呼んでいる、私の名だ。初めて名前を呼ばれた気がする。
ドアの方を見ると、いつの間にか、二人のおじさんがいた。暗い……店の中は暗くて、良く見えない。鍋島くんは、そのうちの一人に後ろ手に腕を掴まれている様だ。
もう一人のおじさんが、ゆっくりこちらへ近づいて来て、落ち着いた声で尋ねた。
「これは……どういう事かな? 誰か、説明できる方はいらっしゃいますか?」
こっちが聞きたい。でも、声が出ない。
低くて渋い声が店に響いた。沈黙が続く中、また、誰かが店に入って来た。制服の警官だった。
恐る恐る、もう一度、倒れている人を見た。信じたくはないけれども、そこにはありありと死の影が
改めて回りを見ると、床には沢山のゲームソフトと一万円札が散らばっていた。
全く訳が分からない。憔悴して座り込む英章先生と、散らばったお金、やって来た警察官……。この部屋で、一体何が起こって、これからどうなるんだろう?
◇
硬いクッションの冷たいベンチは、あまりにもそっけなくて、警察署に似合っていた。
なぜ、涙が止まらないのだろう。亡くなった方と面識があった訳じゃない。もっと落ち着きたいけれど、悲しくて、切なくて……。
でも、生前はすれ違った事ぐらいはあるのかもしれない。同じお寺の檀家の
ドアが開いて、鍋島君が戻ってきた。私の後に、警察の事情聴取の為に部屋に入ってから、二十分ぐらい経っただろうか。
私は、涙を拭いて、頑張って鍋島君に話しかけた。彼は、終始落ち着いていた。やはり、感情に乏しい人なのだろうか。
「ねぇ、鍋島君……英章先生どうなると思う?」
嗚咽は止まらなかったが、なんとか言えた。鍋島君は変わらぬ無表情で、私を見ている……何を考えているのだろう。
「俺の予想でかまわなければ話すが……文句を言うなよ」
こんな時、冷静な人の話はありがたい。内容はどうであれ、落ち着いた口調は心を落ち着かせるのに役に立つだろう。
「かまわないわ」
「――これまで警察と話した内容からすると、どうやら、殺人の疑いありと言う捜査がされているようだ。大野英章は容疑者の一人と
できるだけ冷静に、そして真剣に、私は、黙って話を聞いた。真っ直ぐに彼を見つめて、一言一句を逃さないように。
「――つまり、悪いほうに取れば、現在のところ、これは殺人事件の可能性もある。容疑者は大野英章、それから、あいつら――警察には俺が話したが、北本、南川の三人が重要参考人と言うところだろう。お金がそのままになっていた事から、窃盗目的ではなく、顔見知りの反抗で、怨恨か突発的な喧嘩の結果と言うところが妥当な線だろう。あくまで、事件であれば……たがな」
「じゃあ、英章先生は……」
「しかし、不可解な点は残る。大野英章が鯨間を殴ったとして、そんなに早く絶命できるものだろうか。大野英章が店に到着してから、俺と理沙が追いつくまで、数分の差のはずだ」
また、名前を呼ばれた。
そうだ、英章先生が、殺人など犯す筈がない。私が助けなければいけない。何をすればいいのかもわからないけれど、とにかく進まなきゃ、前に。
「ねえ! 私は……。私は何をしたら良い? 教えて鍋島君!」
「え? ま、まあ、がんばれよ」
相変わらずの無表情……がんばれって、本当に無責任な言葉だ。
「がんばれって何をよ!」
「何をって、何もする事は無い。これは警察の領分だ。大野英章が殺人を犯していようがいまいが、警察が十分な証拠を揃えれば起訴されるんだ。それに……」
「それに?」
「それに、お前には大野英章のために何かする理由が無いだろう」
「理由? 大野先生は私達の先生よ?」
「それが理由になるのか? じゃあ、塾の理事長が罪を犯したらどうする? 県知事が、総理大臣が罪を犯しても、お前はそのために何かをすると言うのか?」
鍋島君は本気でこんな事を考えるのだろうか……なんだか、バカらしくなってきた。深刻に考えてもしょうがない。わからないことは、考えすぎずに探しに行く方が、きっと早い。
「――わからないわ。でも、しなければいけないと思うの。何故だかは――説明できない。だから、行動して、あなたにやって見せて、そして理由を教えてあげるわ! だからついて来なさい! 私に」
言葉では説明しようがない。するつもりもない。
「――気は進まないが……で、どこへ行くんだ?」
「えぇっと……どこに行けば良いと思う?」
鍋島君は、驚いているようだ。始めて見せた、人間らしい顔かもしれない。まあ、ついて来いと言ったそばから、どこに行けば良いかと聞かれれば、誰でも驚くだろうが……。
「お前は……コンチューに近いな……まあ、そうだな、以外と――彼女のところかな」
「婚……中? 彼女?」
「そう、彼女、鯨間の彼女、たしか名前は
「そうか! 婚約中の彼女さんには、早く知らせてあげなきゃいけないね! 可哀想に……一体、何と伝えたら良いんだろう……」
「いや、そうではなく……」
鍋島君なら、上手に彼女に話をする事ができるだろうか。いや、心配だ。話は上手だが、きっと適切ではないだろう。私が伝えなければ。鯨間さんの彼女には、どこから話せば良いだろうか、とにかく、早く伝えなければならない。そうだ、ここにいても、何も始まらない、まずは、ここを出なければ……。
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