隠された宝物

 理沙は強い女の子だ。


 幼い頃に母親を亡くし、仕事で遅くまで帰ってこない父親を持っても、駄々っ子のようにごねて立ち止まることはない。


 もちろん、寂しいとは感じている。だが、そこにはない。


 それは、亡くなる前に沢山の愛情を降り注いできた母の力だ。記憶は薄れて行っても、受け取った愛情は消えることなく、彼女の中に息づいている。


 それが、理沙の強さの根っこにある事を、彼女は知らない。



 焼きあがったブリ照りを皿に移し、今度はサラダを作り始める。レタスと人参スティックと胡瓜のスライス。


 それから、ストックしてあるスープも重宝する。煮込んだ後、野菜を取り除いてスープだけにして冷蔵庫に保存しておけば、随分長持ちする。ジップロックに二人分に小分けして冷凍保存したスープが五種類ぐらいあるので、飽きもこないし、随分な時間短縮にもなる。


「いただきます」


 だいたい夕食は一人で食べる。父と二人で食卓を囲むことは、月に一度か二度だ。そもそも、二人では、食卓をと言っていいのかわからない。せめて、三人いなければ囲んだとは言えない気がする。


 今日のブリ照りは特にいい出来だ、ブリに感謝だ。


「『ブリのお命、美味しくいただきました』と、お母さんがよく言っていたなぁ。私も真似して(ブリのお命、頂戴いたす!)と、アニメの真似をして言っていたよね」


『ふふ、ちょっと違うんだよねぇ。お命だけをいただく訳じゃないのよ。お命と元気をいただくの。元気良く泳いでいた、ブリの元気をもらって、私たちは生きて行けるの』


(元気良く泳いでたお魚さんを食べちゃうの? 可哀想だよ、理沙、もう、お魚食べない)


『お魚さん、可哀想だよね……でも、豚さんや、牛さんや、野菜や、果物だって、みぃんな、元気に生きているんだよ。そしたら、理沙は何を食べるの?』


(お菓子……ニッ!)


 ニッと言いながら、歯をむき出しにして笑うのが、当時、流行っていた。


『お菓子ねぇ、お菓子だけ食べて、元気な大人になれるかしら……』


(なれない……気がする)


 おどけて見せたが、当時の幼い私もなんとなく分かっていた。元気な食材の方が美味しい事、病気の食材を食べれば、きっと自分も病気になってしまう事、食材になる生き物達を殺してしまわなければ、自分は生きていけない事。しかし、可哀想と言う気持ちは、どうしても消せない。始めて直面した、正義と正義がぶつかる葛藤だったのかもしれない。


『だから、手を合わせて、いただきます、と言うのよ。私が元気に生きて行けるために、命を終わらせてしまったみんなに、ごめんなさい、ありがとう、やすらかに、みんなから貰った元気を無駄にしないように、今日、精一杯頑張って生きて行きます――と言う気持ちを一言に集めて、いただきます、と言うのよ』


 私はこの話を聞いてから『いただきます』と言わないと、ご飯が食べられなくなった。


 しかし、友人と一緒にご飯を食べる際に、たまに冷やかされる事がある。例えば、友香は――いただきますって言われても……奢ってあげないよ、と言って笑った。


 私には友香が言っている意味が、すぐにはわからず、しばらく、本気で、その意味を考えた。


 友香は「理沙の場合は、お行儀が良すぎるだけなんだよね」とフォローらしき事を言ってきた。私が、気を悪くして、黙ってしまったと勘違したのだろうが、


 そうではない。


 私は、本当に意味が分からなかったのでまじめに考えていただけだった。中途半端にはしてはいけない気がして、しっかりと、友香に質問した。曖昧では終わらせられない、大切な事だと感じたのだ。


「いただきますって、私が言うと、なぜ、友香は奢らないといけなくなるの?」


 友香も、私の言っている事が本当に分からないらしく「いただきますと言うのは、作ってくれた人や、ご馳走してくれた人に言うでしょう?」と、真面目な顔をして言った。


 更に、こんな話をしてくれた。給食費を払うのは生徒の親なので、本当は生徒が先生に、いただきますと言う必要はないのよと……。


 これを聞いて、なるほど一理あるなと思ったので、その後は、家族以外の誰かと食事をする時には、小さく手を合わせ、小声で、いただきます、と言う事にした。


 これならどこにも角が立たないと、我ながら良いアイディアだと思ったのだが、今度は、あまり、仲の良くない女子から、かわい子ぶっていると言われているのが、遠くから聞こえてきた。世の中には、なかなか、八方うまく収まるような事はないんだな、と思うようになった。


(こうやって、みんな、周りと協調性をとって、ちょうど良いバランスを保つ事を覚えながら、角が取れて丸くなって行くんだろうな……これが、大人になると言う事かなぁ)


 しかし、今日のブリ照りは格別だ。もしかしたら、料理の腕前が上がったのかも知れない。


 あんまりいい出来だったので、早くお父さんに食べさせたいと、時計を見た。


 丁度、八時を回ったところだ。いつもの帰宅時間には、まだ、ずいぶん時間がある。残りのブリ照りが程よく冷めるのを待って、ラップをかけて冷蔵庫に仕舞い込んだ。 


 そして、上機嫌のまま、また、洗い物を始めた。


 洗い桶に水を張って、食器を水に浸す。先に乾燥機にかけてあった食器を片づけて――その時、忘れていた記憶が、ぼわんと浮かび上がった。


「そうだった。お奉行様の茶碗と一緒のお店で買った、お母さんのお花の砂糖菓子入れ――高校生になったら私にくれるって言っていたんだった。そして、大きくなったら見つけられる場所に隠してあるんだって……」


 私は、居ても立っても居られない気持ちをグッとこらえて、食器洗いに集中しようとした――しかし、無理だった。


(ああ、洗ってしまいたい……洗いかけのままほおっておくなんて絶対に嫌だ! でも、我慢できない……ああ、あああ……)


 洗いかけの食器を、洗い桶の水に浸し、急いで手を拭いて、エプロンを食卓の椅子に向かって放り投げた。


 ふわりと高く舞ったエプロンは、見事に椅子の背もたれに着陸していたが、それを確認できたのは後の話だ。エプロンが宙を漂っている間に、私の右足は二階へ向かう階段の三段目ぐらいまでには到達していた。


 そのまま大きな足音をたて、階段を駆け上がると、部屋に飛び込んだ。


 私は母の部屋である、自分の部屋に宝物を探しに来た。


 だけれども、自分の部屋に何年も気がつかないまま、そんな物が隠されていると思っている訳ではなかった。


 あるのは期待よりも、願いに近い、希望だった。


 大きくなったら――自然と視線を上げた。


 そこには、押し入れの上に、開けた事はあるが、奥まで覗いた事が無い、小さな押し入れ――天袋があった。


 冬物の布団を圧縮袋で薄くしてから、押し込んであるが、背伸びすれば手は届くから、中まで覗いた事はない。


 もし、自分の部屋で見たことのない空間があるとしたら、間違いなく、この、天袋の奥だけだろう。


 早速、足がつりそうになりながら、背伸びをしてみた。


 天袋の襖を爪先立って中指一本で開けると、少しジャンプして、圧縮袋に入った冬物布団を天袋から引きだした。


 次に、初めからそうすれば良かったのだが、椅子を用意して中を覗いた。暗くてよく見えないが、奥の方に段ボール箱がある。布団を押しこんだときに、箱があるなんて思わないから、押されて奥の方へ行ってしまったのだろう。


 その、ダンボール箱以外には何もない。あると言えば、埃の固まりぐらいだ。

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