母の秘策
神様さえいなければ、もう、ただの日常だ。どんな超常現象が起こっても、結局は家事から解放される事はない。
――兼業主婦も大変だ。
今日は、食事の準備をいつもより早くしてしまったため、段取りが狂ってしまった。予定に無かった神の来訪で、すばやくできるパスタに献立を切り替えたせいだった。
ぽっかり明いた時間で、さっきの事をぼんやり考えてた。しかし、考えがまとまる前に、いつもよりも遅く帰ってきた父、一郎を迎える事になった。
考えても良くわからないと言う事はわかっているので、考えてもしょうがないとわかっている。
父の帰宅は、訳のわからない考え事を断ち切るのに丁度良かったのかもしれない。
冷めてしまったスープを温めなおし、同時にパスタを茹でた。今日はちょっと手抜きしたのだが、父は全く気が付かない。食事に対しての興味が薄いのだろうか。
「お父さん。総理大臣になるには何をしたら良いの?」
何となく聞いてみた。
スーツを着たまま、食卓で資料を読む父の為にパスタを皿に盛り付ける。
「なんだ? 怖い顔をして。そうだなぁ国会議員になって議員の投票で……」
「議員の投票って言っても、一番大きな政党の一番偉い人がなるんだよね?」
「……まあな」
父は、少し渋い顔をして、握ったフォークを一瞬止めた。
「お父さんって無所属でしょ? 無所属で総理大臣になれるの?」
「……お父さんにはやりたい事があるんだ。その為には無所属でなければ――どうしたんだ? 急にそんな事聞いて。社会の宿題か? だったら、父さんに聞くより、
「あ、うん……
最近、お父さんは、成績にうるさくなった。確かに伸び悩んではいるが――。
「――でも、違うの……お父さんを総理大臣にするために私は、何をしたら良いの?」
「あはは、そうだなぁ。いつも元気に頑張ってくれたら嬉しいな」
(頑張ってか……)「何を頑張れば良いの?」
「そりゃ、学生の本分は勉強だろう。そういえば、この前のテストの結果、まだ見てなかったな。持って来なさい」
(藪へビだ……)「そ、そう言えば、今日、神さまに会ったの。掃除のお札に願い事を叶えてくれるんだって! すごいでしょ?」
わざとおどけて言った。こんな話を誰が信じるものかと思っているが、話をそらすには、良いネタだと思ったからだ。
「神様か……」そう呟くと、予想外に顔を曇らせて黙ってパスタを食べ初めた。
「パスタ、おいしくないの?」いつもは、ワザとらしいほど、ウマし、ウマしと食べるのだ。
「理沙は――神様に願い事をすれば叶うと思っているのか?」
「えっ……? そんな事――思ってないよお……」
話はそらせたが、逆に、余計に心配させてしまったかもしれない。あまりにも、ばかばかしい事を言ってしまったと後悔した。
「叶うと思っていない願い事など、叶うはずがない」
(一体どっちなのよ……)「おかわりは? もういらない?」
「ごちそうさま」
少し低い声だったのが気になった。いつもの様に食器をシンクへ運んだあと、書斎へと消えていった――キッチンに、なんだか重い雰囲気を残して……。
(疲れているのかな? 機嫌が悪いだけ? 洗い物する人の気持ちにもなって欲しいわ。さあ洗おう! と思えるような一言が欲しいよねぇ)
父の事も気になるが、家事を終わらせないと、私は寝られない。気持ちを切り替えて洗い物をやってしまおう。
掃除と同じように、洗いものも好きだった。実は、先に好きになったのは、洗い物の方だ。
小さい頃には、お気に入りのヒヨコのエプロンを母に着せてもらって、シンクに並んで手伝った。
カエルの背もたれの付いた、小さな椅子を台にして、何とかシンクでお皿が洗える。
『理沙は、洗いもの上手ねぇ。お母さんが小さい頃はもっと下手だったよお――』
(へへ、ほんとう? 理沙がんばっちゃうもんね!)
お母さんは人を『のせる』のが上手な人だった。お父さんが議員に立候補したのも、彼女の影響による所が大きかったのだろうと思う。
『あなたなら大丈夫よ。だって私が選んだ人なんだから』
何の根拠があるのかは解らないが、いつも自信満々だった。根拠の無い自信と言うのは、周りを不安にさせる事が多いが、お母さんのそれは、いつも人を勇気付けた。自信と言うのは伝染するのだと学んだ。
今日も私は、いつものように、一人でシンクに立っている。でも、いつもお母さんを感じていた。
あの時の様にお皿の泡を流していると、あの時の様にお母さんの声が聞こえてくる。
『――でもね、そんなに急いで洗わなくても良いのよ。まずは、時間がかかっても丁寧に洗う事。丁寧にきれいに洗えるようになったら、自然と丁寧に速く洗えるようになるわ。初めに速く洗えるように練習すると、丁寧に洗う事は一生覚えられないの』
(うーん、よくわかんない)
そう、まだ私が幼い頃、お父さんの誕生日のお祝いに、すき焼きをした。
とても美味しくて、私はすき焼きが大好きになったし、その後のうどんスキも格別だった。
食事の後も、美味しい匂いの残り香を楽しみながら、子供ながらに最高に幸せな時間を感じていた。
そんな時だった。
私は、元々、
『初めから速くやろうとすると、丁寧さは、一生身に付かない』
真偽のほどはわからない。でも、大雑把な私にとっては、『まず初めは丁寧に』と徹底する癖が付いたので良かったのだろう。
私と比べて、母は大雑把と言うより大胆に近くて、たまに、とんでもない事を平然と言い放つ事があった。
『私ね……私にはね、あなたを総理大臣にするための秘策があるのよ』
あの時、父に向かって、いたずらっぽく微笑んで、確かにそう言った。私が洗ったお皿を拭きながら。
「秘策――お母さん、お母さんの秘策って何? 私に教えて……お母さん……」
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