亡き母との会話
願い事は何のためにあるのか。
自分自身が強く願い、信念に基づいて行動することで、周りを動かし、巻き込んで、やがては大きな渦を作る。
小さな渦を巻き始めた時には誰も気が付かない。もちろん、本人さえも。
あの後、君は、しばらく祠へは寄ってくれなかった。祠のある小道も通らなかった。
◇
(がんばれって、何をがんばれば良いのだろう……私、そんなにがんばってないのかな?)
私は、ぼんやりと考えながら、醤油と砂糖を取りだして、茶碗に入れてかき混ぜた。
この茶碗は、昔、家族で有田の陶器市に行ったときに五十円で買ったものだ。白磁に、藍色が鮮やかなコントラストで、葉っぱをモチーフにしたと思われる模様が描かれている。
この茶碗をみると、小さな頃にテレビで見た、時代劇のお奉行様を思い出す。
肩がバリっと尖った着物の、お奉行様と呼ばれる人が、こんな模様の入った襖を、すうっと開けて、長い、長い裾を蹴るようにして歩く姿を思い浮かべながら、茶碗の中で照り焼きのタレを掻き混ぜる。私の頭の中も、同じように掻き回したくなる。
「お父さんを総理大臣に……かぁ」
父親を総理大臣にするために、何かをがんばり始めないと、祠には足が向きそうに無い。
お奉行様模様の、タレの入った茶碗をシンク台に起き、フライパンに火をかける。
神様の存在に関しては、あまり深く考えた事はない――だけれども、あの、茶髪でスーツの男が神様だとはとても思えない。しかし、いつの間にか、家の中に入ってきたのは事実だ。
玄関のドアの鍵を掛け忘れていたとしても、あんな冗談を言うのが目的で家に侵入する若い男など、いて良いはずが無い。
そう、あの時、私は下着姿でいたのに、何にもしない変質者なんて――失礼極まりない。
いや、決して、何かして欲しかったわけではなく、何もされなかったのは、とにかく良かったのだけれども、その行為を目的に侵入してきたとして、私の下着姿を見て、その行為に及ぶのを止めたと言うのであれば、大きな問題だ。
(あの時、上半身は下着姿だったけど、スカートは履いていたから無事だったのかも)
◇
理沙はまったく僕を何と思っているのやら、まったく失礼極まりない。
彼女は、他人には良くわからない理由で、自分を納得させる事ができる。少し変わった特技だが、悩みというのは納得できないから湧き出てくるものだ。
逆に言えば、はたから見て、どんなに理不尽な出来事であっても、自分が納得できさえすれば、そこにストレスは生じない。
しかし、人間にはなかなか難しいのだ。実は、人間と言うのは、矛盾が固まって魂となり、生を受けた生き物なのだ。彼ら自身はそれを知らない、知る必要もないが、なぜ悩むのかという問いの答えは、そこにある。
初めから矛盾で出来上がっている彼らは、矛盾から逃れられない。
◇
さぁ、そんな事より、フライパンはすでに十分熱々になっている。早く、ブリの切り身を乗せなければ――
火加減を調節した後は、焼きあがる時間を使って、これまでの調理中に使った茶碗などを洗う。
汚れは、汚れたそばから落としていくのが一番だ。次々に洗い終わり、乾燥機にきれいに並べて行く。
そして、最後の洗い物となった例の茶碗に取り掛かる。ブリ照りのタレを作るのに使った、あのお奉行様模様の茶碗だ。
(やっぱり、気になるなぁ。お奉行様の模様――何模様と言うのかな? 幾何学模様? 家紋? 陶器市で安かったから買ったんだよね。お母さんに、自分のお小遣いで買うって言って、私が買ったんだった)
改めて、まじまじと見ると、やはり歪んでいる。デザインはいいが、失敗作なのだ。でも、どうしても欲しかった。実はデザインが気に入ったからではなく、母への対抗心から背伸びがしたかっただけなのだけれど。
(お母さんは、自分用の小物入れに、陶器の砂糖菓子入れを買って、私はこの茶碗を買ったんだ……。百円しかもっていなかったから、五十円で買える茶碗を見つけた時は嬉しかったな。なんだか、大人の買い物をしているような気がして……。でも、お母さんからは、歪んでいるから安いのよ、別のを買ってあげるから――と、言われて、とても悔しくって、絶対に譲らなかったんだよね)
『理沙ったら、茶碗を離さなくて、泣いて、泣いて大変だったわ』
(ないてなんかいないよ! ぜぇったいに理沙が、かうんだって、がんばったただけだもん)
『あら、まあ、自分の都合の良いように覚えているものね、最後は、買っても良いからと言っているのに、嫌だ、嫌だって泣いてね……。自分でも、なんで泣いているのか、わからなくなっちゃったんでしょうね』
(そんな事ないもーん)
「もう、人を馬鹿みたいに言わないでよ、私もお母さんの様に、宝物を茶碗に入れる為に買ったんだからね――宝物を……そう言えば、お母さんも宝物を入れるって言っていたよね。あのとき買った、お花模様の砂糖菓子入れに……」
◇
香ばしい良い香りがしてきた。ひっくり返したブリは、頃良い色合いだ。
理沙は洗い物をしながら、母親の涼子と会話する事が度々あった。
涼子の霊が語りかけてくるわけではない。
『記憶の中の涼子』と話しているだけだ。
涼子がそっちにいたころは、二人は、毎日一緒にシンクに並んで、洗い物をしていた。
その時の二人の会話が、何かの拍子に思い出されて、その当時の涼子と、その当時の理沙との会話を思い出している。
けれども、だんだん、小さかった頃の理沙の代わりに、高校生になった理沙が、涼子の問いに答えるようになった。
意識しはていないが、理沙は、母と会話していると感じている。
◇
「お母さん、あの宝物入れ、何を入れてあるの?」
『ふふ、内緒よ。でも、大きくなったら理沙にあげるわね。お母さん、とっても気に入っているの。だから、とっても大事なものを入れてあるのよ』
(へぇー、そうなんだ、はやく、ちょーだいよー)
『だめよー、まだ早すぎるわ。大きくなったら見つけられるところに隠してあるのよ、理沙が大人になったら――そうね、高校生ぐらいになったら、あげても良いかな』
(やったー! 理沙、いそいで、こうこうせいになるね)
『そんなに急がないで理沙……。ゆっくり、ゆっくり大人になってね、そうじゃなくても、子供はすぐに大きくなって、お母さんの手の届かないところに行ってしまうんだから……』
(そんな事ないよー。理沙は大人になっても、おとうさんとおかあさんとケッコンして、ずっとこの家にいるんだからね)
『だめよー。お父さんはお母さんと結婚しているんだから――理沙にはきっと素敵な人が現れるわよ。そして、この家を出て行かなくては駄目よ』
「先にいなくなったのは、お母さんの方じゃない……ひどいよ……」
◇
『記憶の中の涼子』は、もちろん、問われたことの無い問いには答えない。
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