亡き母との会話

 願い事は何のためにあるのか。


 自分自身が強く願い、信念に基づいて行動することで、周りを動かし、巻き込んで、やがては大きな渦を作る。


 小さな渦を巻き始めた時には誰も気が付かない。もちろん、本人さえも。


 あの後、君は、しばらく祠へは寄ってくれなかった。祠のある小道も通らなかった。



(がんばれって、何をがんばれば良いのだろう……私、そんなにがんばってないのかな?)


 私は、ぼんやりと考えながら、醤油と砂糖を取りだして、茶碗に入れてかき混ぜた。


 この茶碗は、昔、家族で有田の陶器市に行ったときに五十円で買ったものだ。白磁に、藍色が鮮やかなコントラストで、葉っぱをモチーフにしたと思われる模様が描かれている。


 この茶碗をみると、小さな頃にテレビで見た、時代劇のお奉行様を思い出す。


 肩がバリっと尖った着物の、お奉行様と呼ばれる人が、こんな模様の入った襖を、すうっと開けて、長い、長い裾を蹴るようにして歩く姿を思い浮かべながら、茶碗の中で照り焼きのタレを掻き混ぜる。私の頭の中も、同じように掻き回したくなる。


「お父さんを総理大臣に……かぁ」


 父親を総理大臣にするために、何かをがんばり始めないと、祠には足が向きそうに無い。


 お奉行様模様の、タレの入った茶碗をシンク台に起き、フライパンに火をかける。


 神様の存在に関しては、あまり深く考えた事はない――だけれども、あの、茶髪でスーツの男が神様だとはとても思えない。しかし、いつの間にか、家の中に入ってきたのは事実だ。


 玄関のドアの鍵を掛け忘れていたとしても、あんな冗談を言うのが目的で家に侵入する若い男など、いて良いはずが無い。


 そう、あの時、私は下着姿でいたのに、何にもしない変質者なんて――失礼極まりない。


 いや、決して、何かして欲しかったわけではなく、何もされなかったのは、とにかく良かったのだけれども、その行為を目的に侵入してきたとして、私の下着姿を見て、その行為に及ぶのを止めたと言うのであれば、大きな問題だ。


(あの時、上半身は下着姿だったけど、スカートは履いていたから無事だったのかも)



 理沙はまったく僕を何と思っているのやら、まったく失礼極まりない。


 彼女は、他人には良くわからない理由で、自分を納得させる事ができる。少し変わった特技だが、悩みというのは納得できないから湧き出てくるものだ。


 逆に言えば、はたから見て、どんなに理不尽な出来事であっても、自分が納得できさえすれば、そこにストレスは生じない。


 しかし、人間にはなかなか難しいのだ。実は、人間と言うのは、矛盾が固まって魂となり、生を受けた生き物なのだ。彼ら自身はそれを知らない、知る必要もないが、なぜ悩むのかという問いの答えは、そこにある。


 初めから矛盾で出来上がっている彼らは、矛盾から逃れられない。



 さぁ、そんな事より、フライパンはすでに十分熱々になっている。早く、ブリの切り身を乗せなければ――


 火加減を調節した後は、焼きあがる時間を使って、これまでの調理中に使った茶碗などを洗う。


 汚れは、汚れたそばから落としていくのが一番だ。次々に洗い終わり、乾燥機にきれいに並べて行く。


 そして、最後の洗い物となった例の茶碗に取り掛かる。ブリ照りのタレを作るのに使った、あのお奉行様模様の茶碗だ。


(やっぱり、気になるなぁ。お奉行様の模様――何模様と言うのかな? 幾何学模様? 家紋? 陶器市で安かったから買ったんだよね。お母さんに、自分のお小遣いで買うって言って、私が買ったんだった)


 改めて、まじまじと見ると、やはり歪んでいる。デザインはいいが、失敗作なのだ。でも、どうしても欲しかった。実はデザインが気に入ったからではなく、母への対抗心から背伸びがしたかっただけなのだけれど。


(お母さんは、自分用の小物入れに、陶器の砂糖菓子入れを買って、私はこの茶碗を買ったんだ……。百円しかもっていなかったから、五十円で買える茶碗を見つけた時は嬉しかったな。なんだか、大人の買い物をしているような気がして……。でも、お母さんからは、歪んでいるから安いのよ、別のを買ってあげるから――と、言われて、とても悔しくって、絶対に譲らなかったんだよね)


『理沙ったら、茶碗を離さなくて、泣いて、泣いて大変だったわ』


(ないてなんかいないよ! ぜぇったいに理沙が、かうんだって、がんばったただけだもん)


『あら、まあ、自分の都合の良いように覚えているものね、最後は、買っても良いからと言っているのに、嫌だ、嫌だって泣いてね……。自分でも、なんで泣いているのか、わからなくなっちゃったんでしょうね』


(そんな事ないもーん)


「もう、人を馬鹿みたいに言わないでよ、私もお母さんの様に、宝物を茶碗に入れる為に買ったんだからね――宝物を……そう言えば、お母さんも宝物を入れるって言っていたよね。あのとき買った、お花模様の砂糖菓子入れに……」



 香ばしい良い香りがしてきた。ひっくり返したブリは、頃良い色合いだ。


 理沙は洗い物をしながら、母親の涼子と会話する事が度々あった。


 涼子の霊が語りかけてくるわけではない。


『記憶の中の涼子』と話しているだけだ。


 涼子がにいたころは、二人は、毎日一緒にシンクに並んで、洗い物をしていた。


 その時の二人の会話が、何かの拍子に思い出されて、その当時の涼子と、その当時の理沙との会話を思い出している。


 けれども、だんだん、小さかった頃の理沙の代わりに、高校生になった理沙が、涼子の問いに答えるようになった。


 意識しはていないが、理沙は、母と会話していると感じている。



「お母さん、あの宝物入れ、何を入れてあるの?」


『ふふ、内緒よ。でも、大きくなったら理沙にあげるわね。お母さん、とっても気に入っているの。だから、とっても大事なものを入れてあるのよ』


(へぇー、そうなんだ、はやく、ちょーだいよー)


『だめよー、まだ早すぎるわ。大きくなったら見つけられるところに隠してあるのよ、理沙が大人になったら――そうね、高校生ぐらいになったら、あげても良いかな』


(やったー! 理沙、いそいで、こうこうせいになるね)


『そんなに急がないで理沙……。ゆっくり、ゆっくり大人になってね、そうじゃなくても、子供はすぐに大きくなって、お母さんの手の届かないところに行ってしまうんだから……』


(そんな事ないよー。理沙は大人になっても、おとうさんとおかあさんとケッコンして、ずっとこの家にいるんだからね)


『だめよー。お父さんはお母さんと結婚しているんだから――理沙にはきっと素敵な人が現れるわよ。そして、この家を出て行かなくては駄目よ』


「先にいなくなったのは、お母さんの方じゃない……ひどいよ……」



『記憶の中の涼子』は、もちろん、問われたことの無い問いには答えない。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る