§2 女優の定年

 その日、俺は一人で居間にいて、相も変わらずサンディ谷仲やなかのテレビ番組を眺めていた。父さんはまだ仕事から帰ってこない。母さんはまた台所でなにかしているし、幾子ばあちゃんはどこかへ出かけていた。


 番組ではまた、政治家の不正会計疑惑を取り上げていた。ハゲの老人が画面に映る。確か、宮坂善市とかいう大物議員だ。手元の原稿を見ながら喋るために顔を伏せているのだが、そのためにハゲ頭が画面に大映しになっている。


 その映像をバックに、アナウンサーがニュースの概要を説明する音声が入る。しかし、見事なハゲだ。


(こんなハゲ頭になるために、高い金を払って歳をとりたいもんなのかな)


 それくらい、見事なハゲだった。


 画面が切り替わって、今度はサンディ谷仲が映しだされた。こちらは見事な白髪頭だ。その隣に立つアシスタントの女性タレントと比べて頭が大きく見えるのは、その白髪のせいもあるかもしれない。


<まぁねぇ、法律的には問題ないのかもしれないけどね、だからってやっていいことと悪いことってのはね……>


 白髪を振りながら繰り出される言葉を聞き流しながら、俺は女性アシスタントを目で追った。


美莉奈みりなねえちゃん、今日も出てないのか……)


 近所に住んでいた幼馴染の美莉奈ねえちゃんが、東京でモデルやらタレントやらの仕事をしているのは、俺にとって誇らしくもあるし、気持ち悪くもある。なかなかテレビに出る機会に恵まれない、そんな駆けだしの芸能人を見ることのできる数少ない機会が、この番組だった。と言っても、大抵はプラカードを持って突っ立っている、ただそれだけ。それでも、その姿を目にすれば自分の、その誇らしさと気持ち悪さが幾分かでも紛れるのだ。それなのに、ここ1カ月ほどはぷっつりと、美莉奈ねえちゃんは画面に現れなくなってしまっていた。


 番組が途切れてCMが流れ出した。髪の短い女性タレントが視聴者に向かって話しかける。


<最高の時間を、最高の場所で! だって、あなたが主役の人生だったんだから!>


 なにかと思えば、葬儀場のCMだった。「定年」になる高齢者向けに、「お別れ式」を盛大にやるのが流行りらしい。そういえば、この間出席した従兄弟の結婚式はホテルのホールだったけど、隣でそんなことをやってたっけ。


 CMは式場の豪華さ、格式高さとサービスの良さ、そして価格を華やかに見せるものだった。笑顔で語りかける女性タレントは、「CM女王」と言われる人気タレントだ。もっとも、俺の周囲での人気はそれほどでもない。業界によるゴリ押しや政治的な裏、という話は、山本がいつも学校に持ってくる実話系週刊誌でも定番のネタだ。


――美莉奈ねえちゃんは、そういうゴリ押しを受けることが出来ないんだろうか?


 俺はその思考を、次の瞬間には振り払った。だって、そういうゴリ押しを受けるってことはきっと、プロデューサーや編成の偉い人と、つまりそういうことをするっていうことなんじゃ――


「今帰ったよ!」


 その時、ガラガラという古い引き戸の玄関を開ける音とともに、幾子ばあちゃんのダミ声が響いた。誰か別の人と話しているような声が聞こえたような気もするが、よくわからない。


「あらぁ、おばあちゃん帰ってきたのね」


 母さんが台所から顔を出して言った。ネガティブな思考が途切れ、俺はそのままテレビを見続けた。テレビの中ではCMが終わり、番組が次のニュースを映し出している。見覚えのある女優の記者会見の様子、そしてその下にテロップで「大女優・佐々山芳乃よしの(69)、老齢ビザを取得せず」――


「なんだい、いい若いもんがごろごろとテレビばっかり観て。ガールハントでもしに行ったらどうなんだい」


 居間に入ってくるなり毒づく幾子ばあちゃんの声に、なにか言いかえしてやろうと振り向いたら、ばあちゃんの後に見憶えのある女の人の姿があった。いや、それは見憶えがあるとかそういうことじゃなく――


「え!?」


 思わず、俺の首は180度の角度を何度か往復した。さっきまで見ていたテレビと、同じ顔が、反対側にある、ということは、つまり。


「佐々山芳乃……?」


 と、幾子ばあちゃんのげんこつが頭上に振って来た。


「初対面の人間を呼び捨てとは、なにごとだぃ」


「いやいやいやいや」


 だから、そういう問題じゃないだろこれは。


「七恵さん、悪いんだけどお酒の支度してくれない? なにかつまみとかあったかしら」


 台所に首を突っ込んで幾子ばあちゃんがそう言っている間、俺はたぶん口を開けていたと思う。幾子ばあちゃんが連れてきた大女優・佐々山芳乃――さん、は、にっこりと笑って俺に会釈をした。びっくりするほど、綺麗だと思った。



「大体ねぇ、あんたの映画はもう、あんたじゃないと成立しないでしょ。それが最大の欠点なのよぅ」


 とっくりから日本酒を注ぎながら、幾子ばあちゃんが眉間に皺を寄せてくだを巻く。どうやら、相当楽しいらしい。佐々山さんの方は、ニコニコと微笑みながら杯を受けていた。俺はなぜかその場に参加して、横で黙って話を聞いている。


「映画ってのは元々そういうものよ。主演から助監まで、誰ひとり別の人には代えられないの」


 佐々山さんは静かに反論してみせた。玉を転がすような声、というのはこういうのを言うのだな、と俺は思っていた。


「はー、なんだか随分大人になっちゃったもんねぇ」


「なに言ってんの。幾子ちゃんこそ、そんな偏屈なババアになって」


 幾子ばあちゃんはくっくっと笑った。


「そりゃババアにもなるわぃ。お互いもう『定年』でしょ」


「そうねぇ、まぁ、時間が来ちゃった感じね」


「あんた、なんでビザ取んなかったのよ。金あんでしょ」


「あら、それを言うなら幾子ちゃんこそ」


「あたしは金ないもの」


「出そうか?」


「やめて」


 あまりにも明るく交わされる「定年」についてのやり取りに、俺は居心地の悪さを感じていた。だってこんなの、どんな顔をして座っていればいいかわからない。とりあえず、手にしたコーラを飲みほしてみる。


「よし」


 幾子ばあちゃんが突然立ち上がった。


「あたしは便所に行ってくるから、あんたこの人にインタビューしときな」


「い、インタビュー?」


「せっかく大女優さまとお話する機会だろ?なんか話を聞きだしな!そんなことも出来ないから女にモテないんだよ!」


 そう言って幾子ばあちゃんはトイレの方へと向かっていった。


 そしてこの場には、日本を代表する大女優と俺の二人が残されたわけだが――


「相変わらず元気ねぇ、幾子ちゃんは」


 佐々山さんは穏やかに笑っていた。


「それじゃ、せっかくだからインタビューに答えましょうか。なんでも訊いてちょうだい」


 そう言ってこちらへと向き直り、座りなおすもんだから、こちらもどぎまぎしてしまう。相手は50歳も年上のおばあちゃんだと言うのに。


「え、えっと、その……」


 どぎまぎをごまかすためにもなにか質問を、と考えるが、出てこない。「定年」のことについて訊くのはさすがに憚られるし――


「あ、そうだ、友達にタレントになった子がいて……」


 俺の頭にその時浮かんで来たのは、美莉奈姉ちゃんの顔だった。


「その……やっぱり売れるには、ゴリ押しされなきゃいけないのかなって。プロデューサーとそういう関係になったり……」


 ここまで口にして初めて、失礼を避けたつもりの質問が物凄く失礼になっていることに気がついた。慌てて取り繕おうとなにか言おうとするが、何も浮かんでこない。佐々山さんは眼を泳がせる俺を見て、ゆっくりと口を開いた。


「そのお友達がどんな芸でやってるのか、私にはわからないけど……」


 口元は微笑みを湛えたままだったけど、佐々山さんの眼は真剣だった。


「この世界はね、続けていれば必ず成功するようになっているの。けど問題は、間に合うかどうか、なのよね」


「間に合う……?」


「そう。だって人間いつか必ず死ぬんだもの。そうでなくても、お金がなくなるとか、病気になるとか、時間切れはいつか必ずやってくるの。それがいつか、わからないから皆不安になるのね」


 俺は黙って聞いていた。佐々山さんはふと、眉をひそめるような仕草をした。


「だから、申し訳ないけど、若くて可愛い自分を見て欲しいっていう女の子のタレントなんか、実は不利なのよね。制限時間が短いんだもの。それで、そういう『抜け道』に頼っちゃう人もまぁ、いるのは確かよ」


「どっちかって言うと、そういう不安につけ込むクズな男が多いってことさなぁ」


 いつの間にか戻って来ていた幾子ばあちゃんが口を挟んだ。


「でもまぁ、時間制限がわかってるのなら、そこに間に合うための手段としては悪くないんじゃないかね、なぁ芳乃ちゃんよ」


「おっと、その手には乗りませんよ」


 二人の老婆は不敵な目線を交換した。それは妙な迫力のある画だった。


「いずれにしても、お偉いさんと親しいから売れるとか、そんな単純なものではないのよ。それに、売れることが成功とは限りませんしね」


「あんたは売れたからそんなことが言えるんだろう」


 幾子ばあちゃんが入れた茶々に、佐々山さんは笑顔で答えた。


「わたしは制限時間が長かったもの。死ぬまで女優でいられれば、それでいいのよ。『定年』までやれたから、それで充分」


 その笑顔は穏やかで力強くて、とてもきれいだった。


「『時間切れ』がいつかわかっているというのは幸せなこと。これからまた、将来が見えない不安に怯えて生きるのなんてたくさんよ」


 そう言って佐々山芳乃は、脚を崩してお猪口の中の酒を飲みほした。



 後から聞いた話だけど、佐々山さんと幾子ばあちゃんとは、若いころからの友人なのだという。佐々山さんがまだ駆け出しのころに、幾子ばあちゃんの夫だったじいちゃんが地元の興行主に口を利いたことがあり、その時にいろいろ世話をしたのだとか。


「今まで全然、そんなこと言わなかったじゃん」


 次の日になってからそれを聞かされて、俺はばあちゃんにそう苦情を言ったのだが、


「あいつの映画を一本も見たことないガキに自慢したって甲斐がないからね」


 といった具合にあしらわれてぐうの音も出なかった。


 それから俺は、サンディ谷仲の番組の中に美莉奈ねえちゃんを探すのをやめた。「間に合うかどうか」――何に間に合えばいいのだろう? 時間切れってどんな風にやってくるのだろう? 美莉奈ねえちゃんがどんな風に、なにを目指して努力しているのか、俺にはさっぱりわからないけど、きっとねえちゃんにはそれが、しっかりと見えているに違いない。なんの根拠もなく、そんな風に思ったのだった。


「かっこつけてんじゃないよ。惚れた女ならなりふり構わず追っかけるもんだ」


 幾子ばあちゃんはそんな風に言うけど、惚れた女かどうかっていうのは少しニュアンスが違う気がする。でも――近々、会いに行ってみようかなと、そんなことを思ったりもしていたんだ。



 そんな折だった。


 サンディ谷仲が逮捕された。老齢ビザを取得せずに「定年」を超えていたことが発覚し、当局に摘発されたのだ。

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