不法就老

輝井永澄

§1 幾子ばあちゃん

「かーっ、ずいぶん偉くなったもんだね、この青びょうたんは!」


 テレビに向かって話しかける、というのは年寄りの特徴のひとつだろうけど、相変わらず幾子ばあちゃんのそれはもう、話しかけるというレベルじゃない。


 居間の真ん中に置かれたちゃぶ台の前に座椅子、そこに深く腰掛け、手にはコーラのペットボトル。お決まりのそのスタイルから繰り出される悪態の数々は、僕ら家族にとって風できしむ窓の音くらいのものだ。母は襖の向こうで台所仕事、父は新聞を広げ、僕はといえばその横で、番組に登場する女性アシスタントばかりを目で追っている。


<……だめだね今の政治家は。庶民の暮らしってものが全然わかってないよ>


 テレビの中から聞こえる、白髪頭の司会者の声。幾子ばあちゃんが「青びょうたん」と呼ぶのはどうやら、この男のことらしい。


<老齢ビザを取得してのうのうと生き延びてる年寄りの政治家に、一般庶民の暮らしがわかるかっていうね……>


 その時テレビでやっていたのは、いわゆるニュースバラエティというやつだ。経済かなにかの話題について、国会答弁の映像が流れ、それについてコメンテイターが上から目線で物を言って、女子アナが相槌を打つ。


 政治の話題に詳しくなくとも、権力をこき下ろすことでなんとなく優越感と爽快感を感じられる、そういう構成の番組だ。特にこの司会者――芸能界の大御所であり、名司会者として名を馳せるサンディ谷仲やなかの、テンポの良い毒舌ぶりが人気らしい。


 そして、我が家の居間でそれ以上の毒舌振りを披露しているのが、俺の祖母である幾子ばあちゃん。御歳69歳で、「定年」までもう1年を切っているのに御覧の通り、元気すぎるほど元気なババアで、そのことは僕ら家族に現実から目を逸らさせてもいる。


「昔はへっぴり腰晒してピーピーだったもんだがね。人間変るもんだ、おそろし、おそろし」


 続けて言った幾子ばあちゃんの言葉は、相変わらずテレビに向けてだったけど、その口ぶりに俺は興味を惹かれた。


「なに? サンディ谷仲と知り合いみたいな言い方」


「知ってるもなにも、こいつの童貞はあたしが喰ってやったのさ」


 台所からは皿が割れたような音が聞こえ、父親がお茶をリアルに噴き出した。


「ちょっと……」


 父親が非難がましい目と困惑した目を、幾子ばあちゃんと俺とに交互に向けるが、この場合、どっちかというとそれを想像してしまった俺の方をケアするべきなんじゃないかと思う。


 ばあちゃんはからからと笑った。


「あいつときたら、この辺りのチンピラ者の中でも特にハンパでね、やせっぽちで不細工で、20歳過ぎてもしばらく童貞だったんだが、頭は良かったし、弱っちいのにギラギラしてるところが、まぁ可愛いもんだったさ。ま、あたしに見る目があったんだね」


 台所から出てきて眉をひそめている母親を余所に、俺は幾子ばあちゃんの話に興味津々で喰いついていた。なにしろ、サンディ谷仲と言えば、高額納税者ランキングにもしょっちゅう顔を出す、芸能界の超大御所なのだ。


 もっとも、幾子ばあちゃんがそんな大御所タレントと知り合い――もしくは、それ以上の関係――だったと聞いても、特に驚きはない。テキ屋の元締めのような仕事をしていたじいちゃんが亡くなった後、この土地の顔役という立場は幾子ばあちゃんに引き継がれていた。実際のところは、じいちゃんと結婚する前から土地の人間には顔が効く存在だったらしい。


 おまけに子供向けの習字教室なども主催しているこのババアは、子どもや若い母親たちから議員や会社役員にまで、むやみに広い人脈の持ち主なのだ。そのためか、何かしらの相談を持ちこまれることも多い。そして、一銭の得にもならないようなそんな頼まれごとに、始終駆けずりまわっている、それが幾子ばあちゃんだった。念のため断っておくけど、うちは地元の名士でもなければセレブでも金持ちでもない、ただの中流家庭だ。


わたるちゃんて、ブログやってないの?」


 亘ちゃん、ってのがこのババアの孫である俺、荒島亘のこと。「ちゃん」づけで呼ばれるくらいにはぴちぴちの、17歳男子高校生だ。


「やってないよ」


「なんで」


「書くことないもん」


「今時の若いもんの癖に、情けないねぇ。なんでもいいじゃない、書くことなんて」


「どういうことよ」


「そうねぇ、例えば、毎日ティッシュを使った枚数をつけるとか……」


 父親が大きく咳払いをした。幾子ばあちゃんはまるで意に介していない。


「あたしもブログやりたいんだけどね、七恵さんが許してくれないのよぉ」


「許さないなんて言ってないですよ、でもそのためにパソコンを買うのは……」


 七恵こと俺の母さんが口を挟んだ。


「パソコンじゃないよ、タブレットってやつ」


「どっちでもいいです、とにかく、そんなもの今買っても、お義母さんは……」


 そこで母さんは言葉を途切れさせ、そのまま台所へと戻っていった。


「なんだい、老い先短いからいらないってのかい」


 そうやって憎まれ口を叩きはするが、これについてはさすがに強くは言えないらしく、幾子ばあちゃんの口調は幾分かトーンダウンしていた。仕方のないことだと思う――もうすぐ「定年」なのだから。



 ちょうど、テレビでその話題が取り上げられているところだった。老齢ビザのない高齢者の摘発が行われたというニュースだ。


 70歳で「定年」を迎えた高齢者が摘発逃れをする、というのは定期的にニュースで見る題材だ。役所は戸籍の記録を元に、その年の「定年」対象者をピックアップしているわけなので、事前に死亡届を出す、行方不明ということにして別の場所にかくまう、といった手口がよく利用されるらしい。


 同級生の山本が学校に持ってきた実話系週刊誌によれば、最近では老齢ビザの偽造などを組織的に行う向きもあるのだとか。今回摘発されたのは、ビザのない高齢者が集まって共同生活を送っていたというもので、これは初めてのケースだという。


<まぁ、長生きしたいという気持ちはわからないでもないけどもねぇ……>


 サンディ谷仲がコメントをしていた。その隣に立っている女性アシスタントは、見憶えのない女の子だった。アイドルの卵かなにかだろうか。


<やっぱりね、社会のリソースってのは限られているわけですから、生産力がなくなった人間がそのまま年老いていくのは、贅沢な行為なんですね。だから、自分で自分の面倒を見れる人だけに、老いを受け容れる権利がある。老齢ビザってのはそういう意味ですからね>


 先ほどは「老齢ビザを取って活動を続けている政治家には庶民感覚が欠けている」と言っていたのと、同じ口でのコメントだった。


「でもこの人たち、誰にも迷惑かけてないよな」


 そのことに反発を感じたのか、自分でもよくわからないけど、俺はそんなことを口にした。戸籍がない状態で暮らし続けている以上、病院で治療を受けることもできないはずなわけで。それこそ全部自分で面倒を見ながら生きている高齢者まで、摘発する必要があるのか?


「こういうのはヤクザの収入減にもなってるからね。放ってはおけないだろ」


 幾子ばあちゃんが他人事のように答えた。


「あとは、見せしめ効果みたいなものもあるんだろうさ。法律は法律だからねぇ」


「そんな法律があるからいけないんじゃないの?」


「学校で習わなかったかい? その法律の意味について」


 そうだ、確か中学の社会科の授業で習ったような気がする。


 かつて少子高齢化がエスカレートし続け、一時期においては国民の70%近くが高齢者となり、医療費や社会保障費が国の財政を圧迫した上、労働人口は減少してGDPは低下する一方となり、経済や制度が立ち行かなくなったことがあったと。それを是正すべく、国の制度は生産性のある若者を中心としたものに変わり、また国民には「定年」が定められた――んだったっけか。


 70歳を迎えた国民は、「老齢ビザ」を取得しなくてはならない。これは先ほどテレビの中で言っていた通り、「社会に負担をかけず、自分で自分の面倒を見ることができる」と認められた人、または「国家に有益な影響を与え続けることができる」と認められた人に、発行される。だけどその実、発行には手数料としてかなりの金額がかかり、しかも毎年の更新のたびにまた費用がかかる。そして――うちの家族に、そんなお金はない。


 でも、俺は知っていた。


 去年くらいから、ばあちゃんに会いに来る人が増えている。


 そういう人たちは決まって、ばあちゃんを説得するかのように話し込み、その後うなだれて帰っていくんだ。


 裕福そうな身なりをした人や、テレビで見たことのあるような人、あとはあからさまなヤクザ――たぶん、いろんな人が、幾子ばあちゃんの老齢ビザ取得を支援しようとしているのだと思う。でも、本人はそれを断り続けている。


「ばあちゃんさ」


「なんだぃね、亘ちゃん」


 テレビから目を離さないままの幾子ばあちゃんに向かって、俺は声を出した。もしかしたら、少し震えていたかもしれない。


「……死ぬの、怖くないの?」


 幾子ばあちゃんは、テレビを見たままだった。どんな顔をしていたのか、俺からは見えない。

 テレビの中では、サンディ谷仲がアシスタントに向かってセクハラまがいの発言をしている。


「……人様に迷惑をかけて生きるよりはいいさね」


 抑えた声で、答えが返ってきた。

 いつの間にか窓から西日が差しこんで、その反射でテレビの画面が見えなかった。

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