運のいい部屋

霜月りつ

運のいい部屋

 深沢麻衣子がそのマンションに引っ越してきたのは九月の終わりだった。

 前のマンションの更新が切れたのを機会に、同じ地域のもう少し新しい物件を探したのだ。


         ◆


 引っ越し当日は秋晴れのいい天気だった。

 エレベータのないマンションなので、二階の部屋に荷物を運ぶには小型のクレーンを使用した。

 てっきり荷物を持って階段をあがるのかと思っていたので、麻衣子は驚いた。

(最近の引っ越し業者もやるもんね)

 オレンジ色の小さなクレーンは手際よく窓から荷物を搬入していく。

 エレベータの件に目をつぶれば、駅にも近いし家賃も安いし、かなりいい物件だ。なかなかこのタイミングで空きがでることはない、と不動産屋も言っていた。

 しかもこのマンションに今まで住んだ女性はみんな、結婚したり栄転したり、住めば幸福になるとまで付け加えた。

(まあ話半分に聞いておこう)

 麻衣子は思い出して笑った。

 どんどん荷物で狭くなる部屋の中を見回していた麻衣子は、壁にかけられたカレンダーに目を止めた。

 そう言えば最初部屋を見に来たときもかかっていた。前の住人が置いていったのだと不動産屋が言っていた。

 日付だけのシンプルなそれを麻衣子はフックから取り外した。

 カレンダーは先月の8月のもの、第1週目の土曜日に〇がついている。

 この日に前の住人は式を挙げたとか言ってたっけ。あたしなら花〇にでもするけどな。

 麻衣子はそれをくるくると丸めると、不用品を入れる段ボールに放った。


 片づけをしているとき、ポケットの中で携帯が鳴った。今日手伝いにきてくれる友人からの着信だ。

”どお? 荷物はいった?”

「うん、もう足の踏み場がないよー」

”あはは、もうじきみんなと行くからさ、待っててね”

「うん、頼むわね。あ、片づけのあとの宴会あるから、ワインお願いね」

”OK?”

 電話を切って部屋を振り向いたとき、ドキリとした。誰かがいたような気がしたからだ。それは壁にかけた自分のジャケットだったので、そんな自分に麻衣子はため息をついた。

 さっきカレンダーを外したフックにジャケットをひっかけておいたのだった。

 麻衣子はジャケットを外し、手に持って窓ガラスをあけた。

 さわやかな風がはいってくる。

「そうそう、カーテンも買わなきゃね………」


 ふと目線を下げたとき、部屋の前の道路の向こう、電柱の下に男が一人いることに気づいた。

 男はくすんだ色のパーカーにジーンズで、両手をポケットにつっこんでこちらを見上げている。

 離れていたのに目があったような気がして、麻衣子はあわてて窓から離れた。

 そのあと注意して覗くと、もう男は背を向けて歩き去っていた。

「やだな、2階って意外と道路に近いのね」

 麻衣子は窓を閉め、心のメモ帳に「カーテン」と書きつけた。



 部屋の片づけに駆けつけてくれたのは、大学の時からの仲間たちだ。

 なにかあると集まってはスイーツだのお酒だのとワイワイ騒ぐ。

 声をかければ四、五人はすぐに集まるが、このときは出席がよく、総勢7人になった。

 みんなでやれば結構早く終わって、最後の7人目が来た時には片づけはほぼ終わっていた。

「ごめーん、遅くなって」

 7人目はケーキの箱を持ってきてくれた。彼女は部屋を見回して、

「わあ、集まりがいいのね。じゃあプチケーキ七個じゃなくて1ホールにすればよかったわ」と笑った。

「あら、七個でいいのよ、全部で七人だもの」

「え?」

 七人目の彼女は首をかしげた。

「あ、なんだ。それを見間違えたのよ」

 彼女が指さしたのは壁にかかっていたコートだ。誰かがフックにひっかけたらしい。

「そそっかしいわね」

「そうよ、この人こないだも郵便ポストに道を尋ねたりしてたのよ」

「それネタとしても古すぎだって」

 仲間が全員揃ったので、何回目かの乾杯をする。グラスの軽やかな音と笑い声が弾けた。

「ここ、いいわね。防音完備でしょ。大声出しても前の部屋みたいに怒られないし」

「オーディオもヘッドフォンなしで聞けるって」

「じゃあカレシもなんの気兼ねもいらないわねえ」

「ちょ、なに言ってんのよ」

「やだぁ、もう」

 笑い声がいくつもあがる。ワインボトルがいくつも空き、楽しい時間がたちまち過ぎていった。



 パーティのあと、終電を逃してしまった2人の友人が麻衣子の新居に泊まることになった。

 麻衣子はベッドで、友人の1人はソファで、もう1人はカーペットの上にクッションを並べて寝ることにした。

 その夜のことだ。

 麻衣子は夢の中でなにか不気味な獣の唸り声を聞いた。

 それが夢ではないとわかったのは、目が覚めたのに、声が止まないからだ。

 驚いて飛び起きると、その声は床に眠っていた友人のものだった。

  彼女が寝ながらひどくうなされているのだ。

「ちょっと、ねえ! 大丈夫?」

 麻衣子が友人を揺り動かすと、ソファで眠っていた方も起きてきた。

「どうしたん?」

「なんかこの子、すごいうなされてんのよ。ねえ、ちょっと、起きて!」

「うう……」

 麻衣子が肩を揺すって頬をペチペチと叩くと、うなされていた友人がようやく目を覚ました。

「……ぁ、はあ、はあ……」

「どうしたの、大丈夫?」

「怖い夢でも見たん?」

 代わる代わる問うと、友人は麻衣子にしがみついてきた。

「こ、怖い……!」

「どうしたのよ」

「夢よね……夢、よね」

「ねえ、大丈夫?」

 もう一人の友人がキッチンから水のはいったコップをもってきてくれた。

「水飲みな、落ち着くから」

「……」

 友人は水を飲んではあっと深い息をついた。

「ごめん、なんか……すごい怖い夢……をみて」

「どんな夢よ。話してしまえばもう怖くないわよ?」

 麻衣子に言われて友人は手の中のコップに視線を落とした。

「……最初は会社の夢で……仕事終わらなくて残業になっちゃって……そしたら会社がこのマンションの部屋になってて……それで」

「それで?」

 友人は言いよどんだ。

「……部屋にカレンダーがかかってて……」

 そのカレンダーが怖くて仕方がなかったと友人は言った。

「どうしてカレンダーが怖いのよ」

「そんなに仕事に追われてたの?」

「ちがうわ、カレンダーが……カレンダーが怖いんじゃ……そうだわ、カレンダーの下から手がでてて……!」

 麻衣子は思わず壁を見て、そして息を飲んだ。

「きゃっ」

 友人が悲鳴を上げた。

 壁の前に誰か立っている!

 だがすぐにそれは壁のフックにひっかけた自分のコートだとわかった。

「コートよ、コート」

 麻衣子は立ち上がってフックから乱暴にコートを外した。

「そう言えばここに……引っ越す前からカレンダーがかかっていたのよ」

「まあ壁にフックがあればカレンダーとか時計をかけるよね」

「コートとかかけるとほんと、人が立ってるみたいに見えちゃうわね。自分でもけっこうドッキリするのよ」

「なんかかわいい絵でもかければ?」

「そうするわ」

 まだ怯えているらしい友人を麻衣子は自分のベッドに誘った。

「ごめんね。片づけで疲れさせちゃったから、そんな変な夢みたのね」

「ううん、私こそ、なんかごめんね。せっかくの引っ越しなのに変なこと言って」

「明日、なにか素敵な絵のパネルでも買ってくるわ……」

 麻衣子はコートが外された壁を見た。

 壁はやけに白く、寒々しい色をしていた。


         ◆


 結論から言えば、翌日彼女はパネルを買いには行けなかった。なぜなら恋人の高志にデートに誘われたからだ。

 会社帰りに落ち合って久々に都心のレストランで食事をして、少しお酒を飲んで―――

 どちらから口にするともなく、2人で麻衣子のマンションに帰った。

 抱き合う前に麻衣子はシャワーを浴びた。高志とセックスをするのは10日ぶりだ、と麻衣子は数えてくすぐったい気分になった。

 友人たちのからかいのように、今日からは気兼ねなく愛し合えるのだ。

 彼の熱を思い出し、麻衣子の身体が甘く疼く。

 そのほてりを鎮めるようにていねいに身体を洗っていた時。


 “ひいいいいいっ!”


 不意にドアの向こうから女の悲鳴が聞こえた。

(え? なんで?! 誰?!)

 麻衣子は驚いてバスルームから飛び出した。バスタオルをひっつかんで部屋に駆け込むと―――

「お、ど、どうしたんだ?」

 リビングで横になってTVを見ていた高志が、驚いて身を起こした。

「ど、どうしたって、今悲鳴が………」

「悲鳴? なんの」

「女の人のよ、高志は聞かなかったの?」

「いや、聞こえなかった。外じゃないのか?」

「あたし風呂場にいたのよ、外なんて………」

「じゃあTVの音を間違えたのかな」

 高志はあごで画面を示した。バラエティ番組が放送中で、タレントたちが大声で笑っている。

「そんなんじゃないわ、ほんとに悲鳴で………」

「それよりさ」

 高志は麻衣子の腕を引いた。胸を隠していたバスタオルが落ちる。

「濡れたまんまってなんかソソる」

 麻衣子はそのまま高志に押し倒されるようにしてベッドに入った。

「いい匂いがするなあ」

「もう………」

 麻衣子は高志の背に腕を回し、シャツを引き上げた。

 高志の両手が麻衣子の髪を柔らかくかきあげたとき、不意に、足首をひっぱられた感じかした。

(え───?)

 目を開けて高志の肩に触れる。両腕はそのまま上に伸びて髪にかかっている。

(? 気のせい?)

 勘違いだったのかしら、と視線を外した先の壁に───

 すっと白い手が消えていった。

「───!」

 あやうく出かかった悲鳴を押さえた。だが、こわばった身体に高志が気づいた。

「なに……どうしたの?」

「……な、なんでも……なんでもないわ」

 今のはなに?

 手?

 白い手。

 骨ばった細い───女の。

 そうだ、女の手だ。あたしの足を……ひっぱった?

 友人が見たという夢。あれは本当に夢だったのか? ではあたしは今夢を見ていたのか?

 目を開けながら、夢を?

 見間違い、気のせい、錯覚、幻覚───

「麻衣子!」

 不意に高志が大声を出し、麻衣子はびくりとすくみあがった。

「なんなんだよ、ぼうっとして。こんなときに何考えてんだ」

「え、あ、あたし……」

「やる気がないのかよ」

「そ、そうじゃないの、ただ、気になって……」

「なにがだよ、こっちが一生懸命になってんのバカみたいじゃないか」

「違うわ、ごめん、ごめんなさい……」

「知るかよ、もう」

 そのあとどんなになだめすかしても恋人の機嫌は直らなかった。そのまま帰るという彼を泣きながら引き止めて、ようやく一晩一緒に過ごしてもらった。

 背を向けて寝る彼に寄り添いながらも、麻衣子は壁から目を離すことができなかった。



 翌朝もまだ高志は機嫌が悪く、「いってらっしゃい」という麻衣子に返事もせずに出ていった。

 麻衣子はそんな彼の後ろ姿に悲しいため息をつき、しかし、前に住んでいた住人のことを聞くために不動産屋へ向った。

「いやあ、あたしはよくわからんのですよ」

 対応してくれたのはいつもの愛想のいい営業マンではなく、隠居してそうな自称・社長だった。

「あのマンションについては若いのに任せておるんでね」

 しかも耳が悪く、麻衣子は怒鳴るような大声を出さねばならなかった。

「あの部屋、なにかあるんじゃないんですか?」

 麻衣子は食い下がった。

「なにか、怖い感じがするんです」

「いや、そういう、いわゆる訳あり物件ならちゃんとお話しとりますよ、最近はそういうのうるさいからの」

「ほんとに何もないんですか?」

「なんもないですよ、ほんとにあたしは聞いちゃおりませんでね。まあ若いのが帰ってきたらもう少し詳しくわかるんだろうけどねえ。今日はちょっと遠くへいっとるから帰りが遅くなるんでねえ」



 結局不動産屋からは何も聞き出せなかった。仕方なく麻衣子は駅前の店で花の写真のパネルを買った。

 昨日のことは夢でも見たのだろう、そう思い込もうとした。

(環境がかわって精神が落ち着かないだけよ、そうよ───)

 部屋の前に立ち鍵を出す。

 急に胸がどきどきしてきた。

  鍵を持つ手がぶるぶる震えていることに気づく。

(なんなの───)

 麻衣子は何度も呼吸をして、鍵穴に鍵を差し込んだ。

 ドアをあけ、おそるおそる中を覗く。

 玄関から直接部屋が見えないようにと、麻衣子はリビングの前にのれんをさげていた。

 そののれんがゆっくりと動いていた。

 麻衣子はごくりと唾を飲んだ。

(窓が開いているんだわ、そうよ)

 パネルを抱き締めてそっとのれんをくぐると、明るい室内。もちろん、壁にはコートもかかっていない。

 案の定窓が開いていた。

 心持ちほっとして、窓を閉めようとそばに寄った時、麻衣子は外の電柱のところに男が立っているのを見つけた。

 男は麻衣子の部屋を見上げていた。

 その男と目があった、と思った瞬間、男は身を翻して早足で立ち去ろうとした。その後ろ姿に記憶が蘇る。

 あの男。

 引っ越しの当日にこの部屋を見上げていた男ではないか?!

「!」

 麻衣子はとっさにパネルを置いて、ドアに走った。


「ちょっと待って! 待ってください!」

 走って追いかけると駅に出る大通りの近くで追いついた。

 息を切らす麻衣子に男は眩しそうな顔をした。

「あの、あなた、あの部屋……」

 何が言いたいのか麻衣子自身にもわからなかった。だが、この男がなにか知っているような気がしたのだ。

「あ、あんた、あの部屋に住んでいるんだろ」

 男がぼそぼそとしゃべった。髪が長く、なまじろい頬に無精髭が生えていた。

 よく見ると結構若い顔だちだった。不健康そうに目の下が黒ずんでいる。

「俺、前にあそこにはいったんだけど」

「え───」

 今日、不動産屋に前の住人のことを聞きにいったばかりなのに。



「あのさ、俺、バイトであちこちのマンションやアパートに入居するんだよ」

 麻衣子は男をファーストフード店に誘った。その彼が話してくれたのは驚くような内容だった。

「事故物件って言ってさ、なにかあった部屋って、ちゃんと言わなきゃいけないんだ。殺人とか事故とか自殺とか───だけど、そんなの言ったら誰も借りないだろ? そんな部屋に少しの間だけ住むんだよ。そしたら少なくとも俺が前の住人だから、前に何もなかったって言えるんだ」

「そんな。それって詐欺じゃないの」

「詐欺じゃないさ。少なくとも新規のお客が入る前は俺が住んでんだもの」

 彼はお金をもらい、そんな部屋にただで数ヶ月住む。

  そして頃合いを見てまた別な事故物件へ。

「あの部屋」

 麻衣子はごくりとつばを飲んだ。

「何が、あったの?」

 男はそろりと自分の首に手を当てた。

「女の人が……自殺した。首を吊って。壁にフックがあるだろ? あそこにスカーフをひっかけて、そこに首をいれて───」

 麻衣子は口を両手で押さえた。悲鳴を上げそうになったからだ。

 あのフック。

 あそこに?!

「あの部屋は───なにか得体のしれない、いやな感じはしたんだけど……俺にはなにも害はなかったんだ。ただ、いやな感じだけで。

だから問題なしって報告して別な物件に移ったんだけど」

 男はコーヒーにいれた砂糖の袋を細かく折り畳みながら言った。

「そのあと、別な女の人がはいってさ。でもその女の人───いなくなったんだよね」

「いなく……なった?」

「部屋から───荷物とかも置きっぱなしで行方がわからなくなって。八月のはじめだった。一ヶ月して契約解除になったあと、問題のない物件にするためにもう一回俺が……二週間だけ住んだんだ。それで───」

 男は目をあげた。

「次の住人も女だって聞いたから少し気になって」


         ◆


 女の自殺の原因はわからない、と男は言った。麻衣子はその事実を聞いて、半狂乱で不動産屋に乗り込んだ。

 泣きわめく麻衣子に不動産屋はお手上げという感じで、新しい物件を探すと約束した。

「とにかく若いもんに連絡とるから」

 すぐにでも部屋を出たかったが、今晩一晩は仕方がない。

 麻衣子は友達に電話をした。誰かが遊びに来てくれれば耐えられるかもしれない。

 だが。


”ごめん、今日は都合が悪くて”

”忙しくて───”

”ごめんねえ”


 友人たちは誰も来てくれない。

 避けられている、と麻衣子は感じた。あの夜、悪夢にうなされた友人が何か話したのかもしれない。だからみんなあたしの家に寄りつかないのだ。


 麻衣子はのろのろと部屋に帰った。

 ドアの鍵はかかっていない。あの時、飛び出したまま、鍵を閉めなかったのだ。

 ドアノブを見ているうちに麻衣子の胸のうちにふつふつと怒りが沸き起こってきた。

 なんであたしがこんな目にあわなきゃいけないのよ。

 せっかく新しい生活を夢見て借りた新居だって言うのに。

 いやな思いして怖い思いして。

 友達だって来てくれないし、高志とも喧嘩になった。

 こんなに怖いのに、あたしは一人だ。

  自殺した住人、行方不明になった住人、どっちも自分には関係ないではないか。彼女らのせいでおかしなことが起こっているというなら、それこそ理不尽だ。

「なんで、あたしが、こんな目にあわなきゃいけないのよ!」

 涙がこみあげるがそれは悲しい涙ではない、怒りと悔しさの涙だ。

 頭が熱くなるほどの怒り。

 麻衣子は怒りのままにドアをあけて部屋に入った。見たくもない壁が目にはいってきた。

 あのフック───

 あのフックにスカーフをかけて───

 考えちゃいけない、と麻衣子は首を振った。

(そうだわ)

 麻衣子は思いつき、窓に走った。カーテンをとると、そこにベタベタとガムテープをはり、壁にむりやりくっつけた。

(これで壁は見えなくなる)

 花柄のかわいいカーテンで壁を覆うと、雰囲気がずいぶんと違って見えた。

 これなら一晩我慢できそうだ。

 眠ると怖い夢を見そうな気がしたので起きていることにした。

 TVの音を大きくし、携帯を握りしめ、やたらと電話をかけた。

 だが、二時を回る頃にはさすがに眠くなり、TVの前で座ったままうとうとしだした。

 カクン、と首が落ちた時、はっと目覚めた。とっさに壁を見た。

 花柄のカーテンがかかっている。

 そのカーテンの間に3本の白い指が見えた。

「───!」

 指は石のようにこわばりぴくりとも動かない。

 麻衣子は歯を食いしばってその指を睨み付けた。

(なによ……なんなのよ……怖くなんか、ないんだから……)

 恐怖をむりやり怒りの下に押さえつけ、麻衣子は立ち上がった。

(死人が、生きている人間になにができるっていうの───怖がらせるだけじゃないの───)

 一歩一歩カーテンに近づく。

「出てって……出てってよ!」

 麻衣子はカーテンの端を握り、思い切ってひっぱった。


 カーテンが開いた。


 そこにはカレンダーがかかっていた。

 カレンダーの月は10月、今月だ。そして〇印が……日付の変わった今日に〇が。

 あの男は何と言ってた? 前の女が行方不明になったのは8月のはじめだったと言っていなかったか? それは、あのカレンダーに〇がついていた日ではないのか?

 

 カタンとカレンダーがフックごと落ちた。

 床に転がったのはフックではなく、白く乾いた骨の指だ。

 カレンダーがあった場所には。

 手足や顔や胴体をでたらめに埋め込まれた2人の女が。

 ぎょろり、とその目が麻衣子をとらえた。

 「ひ、……!」

 腰を抜かし、へたりこんだ麻衣子の足が、目に見えない力でひっぱられた。

 壁だ。

 壁に向って。

「いやああああっ!」

 麻衣子は反転し床に指を立てた。だがそのままずるずると壁に引き寄せられていく。

「いやあああっ! だれか! だれかあああっ!」

 手入れのされた爪が床にひっかかり、めきっとはがれる。その痛みさえ麻衣子には感じられない。

「やめてええええっ!!」

 ずぶずぶと足が、腰が、腹が、胸が。

 白い壁に飲み込まれていく。

 苦悶する2人の女の顔が笑ったように見えた。

「きゃあああああああっ!」

 

 防音は完全だった。

 麻衣子の声はどこにも届かなかった。


         ◆


「駅も近いですしね、防音完備ですし、なによりこのあたりでこのお家賃というのはないでしょう」

 若い不動産屋の営業マンが満面の笑みで客の女性に言った。

「まあ、お安いのはね、ご存じのようにエレベータがないせいで。でも二階だし、さほど不便じゃないんですよ」

「そうねえ」

 迷っている女性客は部屋の中をあちこち見て、なにか文句のつけどころを探している。

「女性に人気のマンションなんですよ。この部屋も女性ばかりに借りられて、みなさん結婚したり、仕事がうまくいって都心にでられたりして───まあ運のいい部屋なんですね、ここは」

 女性客は壁に目を向けた。

「このカレンダーは……?」

「ああ、それは前のお客さんが置いていかれたんですね。日取りを見るのに便利なんでそのままにしてあるんですよ」

 営業マンはにこやかに答えた。

 カレンダーは10月のものだった。その第1日目に丸がついている。


 その印にどんな意味があるのか……女性客はまだ知らない。




                終

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