第四章 壱
「紅蓮。今日お前を呼び出したのはな」
昼間。目覚めてすぐ。紅蓮は作之助に呼び出されていた。場所は作之助の部屋。作之助は椅子に座ってこちらを見ていた。
「ああいいや。単刀直入に聞く。お前、夜中何してた?」
そう聞く作之助の目の下のクマはいつもよりひどくなっていた。夜中よっぽど大変だったのだろう。
「見回りですが」
「本当か? 雫ってガキを守ったガキ、相当強かったらしいんだが、お前に剣が似てるってさ。あと、目つきも」
「気のせいでしょう」
紅蓮は表情を変えずに答えた。表情を変えないのは簡単だった。だが、内心少し焦っていた。雫と会う前に、自分に何かあったらどうしよう、と思ったのだ。夕方雫に会えなければ、雫はもっと危険な目に遭う。それは避けたい。
「気のせいってもんかね」
作之助が睨む。
「手ぇ引くなら今の内だぜ?」
「何のことですか」
「しらばっくれんのか」
「失礼ですが、話が分かりません」
あっさりと言うと、作之助がため息をついた。
「まあいいさ。訓練行け」
「はい」
紅蓮は一礼すると、その場を離れた。
(さすが隊長だな)
あなどってはいけない。絶対に。
(問題はいつ基地を出るかだな……)
紅蓮は大きな難関に頭を悩ませた。
紅蓮とほとんど入れ違いで入ってきた紫陽を、作之助は手招きで呼んだ。そして近くに置いた椅子を指さす。
「紫陽、ちょっとここ座れ」
「はい」
紫陽はすとんと座った。顔が一瞬で真剣になる。
「紅蓮のことですか」
「まあな。――あいつ、記憶戻ったと思うか?」
答えにためらうかと思ったが、そんなことは無かった。
「ええ。さっき会ったのですが、以前と顔色が違いました。生き生きとしています」
紫陽も最近少し変わった気がする。何というか、前よりも積極的になったように思える。
「やっぱそうだよな。お前も知ってんだろ? 現れた強ぇガキが紅蓮かもしれねえ、ってこと」
「はい。その少年が紅蓮なら、辻褄が合うんですよね」
頷く。
「あの子は、雫ちゃんを守りたかったんですね、きっと」
だから戦ったと。離反という危険を冒したと。
(随分と人間らしくなったな)
きっとそれは雫と天泣のおかげだろう。もちろん雫の影響が一番大きかったのだろうが。天泣がいなければ今のようにはならないだろう。天泣が二人を思いやったからこそ、今がある。
「別に、俺はガキの事には興味ねーよ」
そう言うと、紫陽はくすりと笑った。
「分かりやすい嘘つくんですね」
「は?」
思わず瞬きする。
「私を呼んだ理由、分かりますよ。神崎博士が手を出す前に、私に雫ちゃんの保護をお願いするつもりだったんでしょう?」
「……」
「隊長はここからなかなか動けませんしね。私ならある程度自由がききますから。きっと紅蓮たちは夕方あたりから会うんでしょうけど、万が一に備えて、ってことですよね」
ぺらぺらと話す紫陽の言っていることは全部当たっている。何一つ間違ってはいない。
「図星って顔してますね」
「うるせ。図星だよ、図星」
手をひらひら振ると、紫陽は再び笑った。
「分かりました。任されました。紅蓮に会ったら、ちゃんと引き渡しておきます」
「んまー、その後はあいつらにどうにかしてもらうしかねぇからな。そうしといてくれ」
「はい」
「ありがとな、頼むぜ」
紫陽は分かりました、といって立ち上がる。それから歩こうとして、止まった。
「隊長」
「あ? 何だ?」
見ると、紫陽は真剣な顔をしていた。
「私、たまに思うんです。隊長が本当は優しくて、仲間思いだってこと、隊員全員が知れたらなって」
「――」
(そんなこと考えていたのか)
隊員からしたら、きっと自分は結果主義の冷たいヤツに見えるだろう。そういう風に振る舞っているから。紫陽はそれが少し不服らしい。だが、優しい隊長だったら、卍部隊の隊長を外されるかもしれない。紫陽だってそれは分かっているはずだ。きっと、分かっていても言わずにはいられなかったのだろう。それほど気にしているのか。
気にしてくれるのはありがたかったが、実行は無理だ。
「いいんだよ。俺は悪役で」
紫陽が少し目を伏せた。それからほんの少し間を空けて、そうですか、とだけ言った。
紫陽は部屋から出て行った。それを確認して、作之助は椅子に寄りかかった。
「神崎、てめぇの思う通りにはなってねぇぞ。やれやれ、悪役も疲れるぜ」
紅蓮が食堂に行くと、ほとんどの隊員が食事を取っていた。
無言で席に着く。近くにいる隊員が視線を上げたが、すぐに元に戻した。
「……」
天泣が「みんな愛想なくて面白くない」と言っていたのを思い出した。確かにそうだな、と今更納得いく。雫だったら「遅いね」とか、「どうしたの」とか言ってくれるのに。天泣もそんなことを言いそうだ。
(少し前までは俺が文句言われる側だったのにな)
今は自分が不満を思う側か。不思議なものだ。
「いただきます」
手を合わせ、食べ始める。相変わらずの簡単な食事だった。
(雫の飯の方がおいしい)
今度はみそ汁や焼き魚も作ってはくれないだろうか。絶対に見た目も味も良い物が出てくるはずだ。紅蓮はそう思いながら黙々と箸を動かした。
「雫ちゃん、いる?」
夕方四時を回った頃、ようやく紫陽は雫の店にたどり着いた。
本当はあと一時間は早く来るつもりだったのだ。だが、神崎やその手下の研究員が基地中をうろうろしていたせいで遅くなってしまった。あまり下手に動くと怪しまれるからだ。いつもはこんなことにはならない。普段は研究室に籠もって実験をやっているくせに、こういうときに限って外にいる。本当に苛立った。
おそらく、向こうもこちらの行動を読んでいて、それを阻止に掛かってきたのだろう。神崎が誰か隊員を呼んで何があったのか聞けば、彼らは何でも喋ってしまうから、夜の内に何があったのかを調べるのも簡単だったに違いない。その情報から、作之助や自分が何をしようとするのか予想するのも容易いだろう。
神崎がこちらの動きをどうしても阻止したいのは分かった。問題はその理由だ。自分はそれを分かってる。神崎の実験のためだ。その実験に雫が――。
(考えたくないわ。やめましょう)
紫陽は頭を振った。一瞬わき上がった想像にぞっとする。鳥肌が立った腕をさすりつつ、もう一度雫の名を呼んだ。
「あれ、お客さん……?」
「雫ちゃん!」
無事だった? 何ともない? 大丈夫だったのね、そうよね、紅蓮が守ってくれたものね。ねえ、夜中に紅蓮と何を話したの? どうだった? どんな話ができた?
聞きたいことは山ほどあった。でも、それをぐっと飲み込み、恐る恐る奥の部屋から顔を出した雫の手を握る。
「ねえ、どこか行きましょう? 喫茶店とか」
「え」
「だめかしら?」
案の定雫は戸惑った。
「私、約束があるんです」
(やっぱり。今日なのね)
「紅蓮とでしょう?」
「……知ってるんですか?」
知ってるも何も。
「ええ。紅蓮にはちゃんと時間に会わせるわ。でもそれまで」
「どうして、優くんのこと知ってるんですか?」
言わなきゃだめか? 「日本帝国軍卍部隊副隊長」だなんて言ったら、この子は怖がってついてきてくれないかもしれないのに。ああ、言葉を選び間違えた。いつもならこんな間違えしないのに。相手が雫だからだろうか。自分が焦っているのがよく分かる。どうしよう、こんなんじゃうまくいかない。
紫陽は唇を噛んだ。
「雫ちゃん、驚かないで聞いてくれる?」
「あ、はい」
ほんの少し息を吐く。
「私はあの子の上司なの」
雫は首を傾げた。
声が震える。
「私は藤咲紫陽。日本帝国軍卍部隊の副隊長です」
雫の顔が青くなる。想定していたけれど、やっぱり辛かった。
元々雫にとって、私はただの客だっただろう。でも、裏切られたとか、騙されたとかいった思いは少なからずあるに違いない。そう考えると、再び後悔の念が押し寄せてきた。この後悔は絶対に消えることはないだろう。だったらせめて、事が良い方に進むようにしたい。
(お願い、私を信じて)
「今研究者たちが動いてるの。このままじゃあなたが危ないから――」
雫が半歩下がった。それに胸が締め付けられそうになる。
「あなたに『死んで』ほしくないの。騙そうってわけじゃないわ。信じてもらえないかもしれないけれど」
本心を話して信じてくれなかったらどうしよう。
「だから、お願い。私と一緒にきてくれる?」
お願いだ。本当にお願いだから、信じて。
(神様――)
神様なんて、信じたこともないくせに。どうしようもないときだけ神様に頼るなんて。
「知ってたなら――」
雫が震えていた。最初は怖いからかと思った。でも違う。怒りだ。
「どうして早く言ってくれなかったんですか。もっと早く言ってくれたら――」
言葉が出ないようだった。ぎゅっと口を結ぶその姿は、溢れる言葉が絡まり合っている、という印象を受けた。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
もっと早く言っていたら、二人とも危険に身をさらさずに済んだのに。考えてみれば、随分と虫の良い話だ。本当に危なくなった時だけ、善人のように手を差し出すなんて。今更のように、身勝手さを思い知らされる。自分の発言をひたすらに後悔した。
自己満足。ふとこの言葉が浮かんだ。普段は無理なんだ、命令は絶対なんだ、逆らえないんだって諦めて、こういう時だけ助けようとして、この子たちだけはって思って。自己満足以外何のものでもないじゃないか。
(そんなの、分かってるわよ)
紫陽はもう一度雫の手を取った。
(でもね、自己満足でもいいの)
私があなたとあの子に、生きてもらいたいって思ったのは事実だから。
「私を殴ってもいいわ。ひどいことしたもの。でも、今だけでも。あなたを助けたいのよ」
随分と勝手なことを言っている。それは分かっているけど、言わずにはいられない。
「本当よ、全部」
「……」
雫は血が出るほど、ぎゅっと唇をかみしめた。
「あなたは優しそうだなって思ってました。それ、私の思いこみじゃないですよね……? 本当のことですよね……?」
期待を込めるような目だった。信じて良いのか、疑いを拭いたいけれど、拭いきれない、そんな思いが見て取れる。
「ええ、そうよ」
嘘を言った気がした。本当に自分は優しい人だろうか。自分でも分からない。
(何を今更……)
どうにかしてよぎった疑いを振り払う。「行きましょう」と言おうとして、口を開いたときだった。
大きな音を立てて、扉が開いた。驚いて辺りを見回す。どうやら音は家の方からしたようだ。
(裏口かしら)
反射的に身をすくませる。誰だろう。
「藤咲さん。何してるんですかァ」
その声は唐突に聞こえた。
「神崎博士っ」
(しまった――)
神崎はしきりの向こうから現れた。その顔にはニヤニヤとした笑いが浮かんでいる。その笑みは、状況を楽しんでいるようにも、見下しているようにも見えた。
神崎に向き合おうとして、ぎゅっと袖を掴む手があるのに気がついた。もちろんその手は雫だ。
(雫ちゃん)
雫は怖がっているのだ。それで無意識に袖を掴んでいるのだろう。
「手間かかるのは天霧さんだけだと思っていたんですけどねェ。とんだ見当違いのようでしたねェ」
「何のつもりですか」
「分かって聞いているんでしょう」
その通りだ。分かって聞いている。
神崎は雫を研究に使う気なのだ。それにしても自分から動くだなんて、夜に部隊が動くのを待ち切れなかったとでもいうのか。
「全く。揃いに揃って反抗がお好きですねェ。まあいいですけどォ」
神崎は身振りで「やれやれ」と言った。
「……」
紫陽は雫の手をしっかりと掴んだ。
(どうにかして雫ちゃんを連れ出さないと)
そう思った瞬間だった。
(人の気配が、増えた?)
家の中に何人も人が入ってきた。誰だ? 研究員? まさか、卍部隊?
紫陽はコートの前を開けた。腰に提げてある銃を手に取る。
「……う」
雫が小さくうめいた。銃について何か嫌な思いをしているのは明かだった。
「ゴム鉄砲よ」
同じ銃でも、銃よりも鉄砲の方が軽く聞こえる気がする。だからあえて『ゴム鉄砲』と言ったのだ。これで少しは安心してくれるだろうか。
これは紫陽が常に持ち歩いているもので、あくまで護身用だ。そのため、実際に中に入っているのはゴムでできた弾だ。よっぽど当たり所が悪くない限り、死ぬことはない。
(気配が……、一人、二人……、四人?)
四人か。そんなに多くない。
(それにしても、誰?)
不意に人影が現れた。反射的に銃を向ける。
(研究員!?)
白衣をまとった男だった。その男が向かってくるかと思ったが、違った。彼を飛び越して、黒い影が吹っ飛んできたのだ。
慌てて回避する。黒い影は紫陽の目の前に降り立った。
「くっ……」
案の定卍部隊兵だった。彼は冷たく無機質な瞳を紫陽に向けている。
「どうしてここに!」
「ワタシが連れてきましたァ。特別特別の特例ですゥ」
なんてことだ。
銃を持つ手が震える。訓練だったら躊躇はしないのに。これは訓練じゃないから、こんなにも手が震えるのだろうか。雫を助けるためには、自分の部下をここで倒さなくてはいけない。それは分かっているのに、震えが止まらない。
「副隊長。貴女はここで何をしているのです」
何って。そんなの。
「分かっているでしょうけれど、貴女よりも研究員一同の命令の方が上位命令ですので」
不利だ。この状況では、自分と雫が圧倒的に不利だ。例えば「帰りなさい」と言ったところで、神崎が「ここにいなさい」と言えば隊員はここに残る。つまり、今誰も味方にはならないのだ。
「副隊長。彼女をこちらに渡してください」
「断るわ」
「なら、無理矢理にでも」
紫陽が雫を連れて下がった瞬間、彼も動いていた。一撃目を回避した時だった。
ぱん、と誰かに横っ面を叩かれた。その一瞬の隙に。
「――!」
声にならない悲鳴を上げて、雫が倒れた。また現れた、奥に潜んでいた隊員に腹を殴られたらしかった。
「雫ちゃん!」
慌てて抱き留める。雫はすでに意識を失っていた。
このままだと、本当に雫は連れて行かれてしまう。どうにかしないといけないのに、あまりにも絶望的だ。
「殴られても倒れないあたり、さすが軍人ですね」
紫陽に平手打ちを喰らわせた研究員が言った。褒められてる気はしない。むしろけなされている気がした。せめてこの研究員を痛い目に遭わせてやりたい。
「副隊長」
「……」
銃を握る手に力を込める。だが、隊員の手により、あっという間に銃は取られてしまう。
気がつけば壁際にいた。周りは研究員と部下に囲まれている。
「諦めてください」
紫陽は雫をしっかりと抱きしめた。諦めたくない。でも、道は無い。
紅蓮が早く来ますように、と祈るほか無かった。
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