11 醒

 そんな夢から醒めると、わたしは急に憑き物が取れたように正気に戻る。自分の居場所を把握し、近くにいた看護婦に詰め寄ったのだから、相手にはさぞ迷惑だっただろう。看護婦と担当医師の口から老人のことが伝えられ、自分が病院のベッドで目覚めるまでの凡その流れをわたしが掴む。が、病室に老婆が現れたときには、あっ、と驚く。

 もちろんすぐに益田さんの妻とわかるが、わたしを訪れた理由の見当が付かない。

「あなたのことを主人が気に病んでいましたからね。でもあの歳になってさえ、主人は忙しく飛びまわってばかり。次に来られるのは早くて数日後と秘書に聞いたので、わたしが黙って様子を見に来ました」

「済みません。奥様にお見せする顔がありません」

「あら、いいのよ。それにあなた、ちゃんとした大人のヒトじゃない。気にしないで……。あなたが可笑しな人か、あるいは悪い病気を持った人でなければ、わたしには渡りに船だから」

「今回はこんなことになりましたが、身体はたぶん丈夫です」

「ええ、そのようね。安心したわ」

「黙っていらしたってことは、益田さんは、ご存知ではないってことですか」

「そういうこと。でもそれは表面上のお話で、実際はわたしの行動を主人が知らないわけがないでしょ。もちろん逆もまた然り」

「いろいろと面倒臭いんですね」

「主人が気に入っただけのことはあるわ。なかなか素敵よ、あなた。孫の嫁に欲しいところ」

「遠慮します。わたしは八方美人にはなれませんから……」

「あらあら、益々残念」

 それからしばらく益田婦人と他愛ない会話を続けるが、それでわかったのは益田さんが益田さんではないということ。

 つまり偽名。

 ただしその偽名は益田さんたち一族の一般名でもあるらしく、正しく庶民であるところのわたしには闇が深過ぎ、何が何やらまったく理解できない。

「いいんですよ、益田は益田で……。その名で困ることはありません」

「はあ。どうやら、そのようで……」

「お名前、衿子さんと仰ったわね。ねえ、もっと良くお顔を見せていただけないかしら」

「こんな顔で良ければいくらでも……」

 その頃にはもう、わたしはわたし自身に戻っている。だから相当ふてぶてしい顔をしていると思ったが、

「衿子さん、お綺麗ね。だけど、ちょっと笑ってしまえる部分もあって」

「それは」

 すると一般名益田婦人は自分の両の目尻を指差し、

「この部分を何十年も若返らせて御覧なさい。主人はいつでもそうなのよ」

 と指摘する。

「ああ、そういうこと……」

 とんだ食わせ者のロリコン爺さんということか。当然わたしの妹もどこか夫人に似ているのだろう。

「もっとも、それだけで主人は人を選びませんが……」

「奥様、もうご馳走様です。お腹いっぱいです」

 とは、わたしの悲鳴。

 すると――

「でも若い頃には夜叉にもなったわ。息子たちの出来が今一つ良くないのは、きっとわたしのせいね。それだけは主人に申し訳なくて……」

「奥様は益田さんとは、いつからのお知り合いですか」

「もう、ほとんど生まれたときから」

「つまり幼馴染というわけですね」

「両方の親に徐々に慣らされたのでしょうね。子供の頃から、将来わたしはこの人と結婚するのだと思っておりましたわ」

「けれど、お厭ではなかった」

「そこは微妙かしら。だけど三十歳も年上の猩猩のような人の許に嫁ぐと思えば上出来じゃない」

「猩猩でもセックスが上手い男はいますけどね」

「残念ながら、この歳になるまで夢のような経験がないのよ」

「だけど益田さんが始めてのお相手でもないのでしょう」

「さあて、そこのところは衿子さんのご想像にお任せするわ」

「あの、奥様、それって白状してるのと同じことですけど……」

「おほほほ……。やはり、あなたは面白い人」

 最後に、支払いの心配はないから、とわたしに言い置き、益田さんの妻が去る。

 庶民であるわたし相手に打ち解けた口調で話してもらったお蔭で会話自体は楽だったが、いなくなってわかる緊張感が半端ではない。が、指の動き一つでわたしを闇に葬り去れる実力者だと思えば却って現実感が薄れ、頬に笑みさえ浮かんでくる。歳は彼女の方がずっと若いが、益田さんのやんちゃを愉しんでいる風情はまるで母親のよう。益田さん自身もおそらくそれを知り、妻の激昂を買わない範囲でノンビリと自分の趣味を充たしているのだろう。

 医者に無理を言っても詮無いので、わたしが篠原精神病院を退院したのは数日後だ。アパートに戻り、一人孤独を噛み締める。自分が誰かを愛さなければ、あるいは一緒に暮らさなければ、わたしには知り得なかったはずの感情だ。

 それで元家族を思い出す。

 父は、母は、妹は、わたしを思いだすことがあるのだろうか。そんなことに想いを馳せる。

 今更家族に戻れるとも思わないが、一度くらいは謝った方が良いのではないかと反省する。もっともわたしが謝れば謝ったで、何を今更、と罵られるオチがつくだけだろうが……。

 けれども偶然とは恐ろしいもので、わたしは父と出会ってしまう。それは本当に偶然で、あのときは父もわたしも互いにあんぐりと口を開けてしまい……。

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