10 愛
「どうした、ニヤニヤして……。何かを思い出したか」
「いや、急に昔の同棲相手のことが頭に浮かんで……」
「凄くいい男だったとか」
「ううん、そうじゃないのよ」
美里は不意にわたしの前から消えてしまう。だから一緒に暮らした期間は半年に満たない。性格が違い過ぎるのか、大きな喧嘩もなく、わたしは十年後も美里と一緒にいるだろうと漠然と感じていたはず。だから、いなくなったときの喪失感は尋常でなく、病院にさえ入院している。
「衿子さんが毀れたと聞いたときは驚いたよ」
「済みません、ご迷惑をおかけしてしまって……」
「目が虚ろだったし、わしのこともわからなかったからな」
「見張りがいたんですね」
「偶々だよ」
「嘘とは思いますが信じます」
「嘘は吐かんさ。ただ気にかけてはいた」
「益田さん、本当にわたしにご執心だったのね。笑ってしまうわ」
「わしの時代の若い男だったら、今の衿子さんの言葉で二三発、頬を張っているな」
「それならわたしも張り返しますよ。益田さんの時代の女として……」
美里の方がどうだったか知らないが、彼女と同棲していた間、わたしは男と寝ていない。美里とのセックスだけで満足していたことになるが、実際ほぼ毎夜、彼女と交わっている。もっともいくらか派手な交わりは興味に惹かれた最初の頃だけ。その後は世間ではセックスとさえ呼べないような愛撫のみ。それでもわたしはいつも充たされた気分で眠りに就き、完全に充ち足りた気分で朝目を覚ます。
「お姉さん、おはよう」
「お姉さん、いってらっしゃい」
「お姉さん、おかえりなさい」
「お姉さん、おやすみ」
わたしと美里がしばらく暮らした格安事故物件は広い部屋で、ユニットバスではない普通の風呂場まで付いている。噂ではそこで一人死んだようだが、不思議とわたしには気にならない。……といっても美里が気にするので、わたしから彼女にその話を切り出したことがない。洗濯物の干し方で些細な喧嘩をしたときにも、そのことを持ち出し、美里を不安にさせようとは考えない。後で振り返ってみると選択肢にさえ挙がらなかったようなので、本当に微塵も考えていなかったのだろう。
「お姉さん、大好き」
「お姉さん、ずっるーい」
「お姉さん、ちょっと、ちょっと」
「お姉さん、いい子して」
「お姉さんの舌、甘―い」
「お姉さんの胸、柔らかーい」
「お姉さんの声、アルトって言うの、素敵」
「お姉さんの脚、傷があるじゃない。どこでぶつけたのよ」
「お姉さん、いつまでも一緒にいようね」
「お姉さん、料理は上手くないんだ」
「お姉さん、性格が男過ぎるよ」
「お姉さん、愛してる」
精神病院のベッドの中で、わたしはどんな言葉を聞いていたのだろう。
今では不安に襲われず、可笑しくもならずに思いだせる美里の言葉で溢れかえっていたはずだ。
そうだ、と断言できる日があれば、そうではない、と曖昧に考え込んでしまう日もある。いずれにせよ、わたしは美里を愛していたのだ。当時、自分でそれに気付けなかったのが嘘のよう。
「あれ、美里、どうしてここに」
「そんなの、お姉さんが倒れたって聞いたからじゃない」
「もう、わたしの許に戻ってこないと思ってたわ」
「ウン、実は戻れない。でも、会いに来させてもらったの」
「美里はわたしのことが好き」
「あったりまえじゃないの。お姉さんが一番好きよ」
「どうして居なくなったの」
「ゴメン、言えないんだ」
「何か事情があったのね」
「まあ」
「美里ってさ、本当は人間じゃなかったでしょ」
「お姉さん、何でそう思うの」
「だってさ、空気の中から急に現れたみたいだから」
「違うわよ。じっとしてても、お腹は空くし、砂ぼこりの中にいれば汚れるから」
「妖精だって、人魚だって、お腹は空くし、汚れるわよ。それに美里の肌って、いつもツヤツヤで……」
「あら、それはお姉さんのおかげだ。いっぱい愛してくれたから……」
「でも、いなくなっちゃったのよね」
「だけど、ギリギリまでいたのよ。もう無理になるまで」
「今は幸せ」
「お姉さんがいないことを除けば」
「そうか。なら良かったわ」
「ゴメンね。いろいろなことが言えなくて」
「それは、お互い様だから」
「お姉さん、優しい」
「最後に一つだけお願いがあるんだけど」
「ダメ、お姉さん、最後だなんて言わないで」
「ああ、そうか。美里にお願いがあるんだけどさ」
「なあに」
「キスして。あなたとわたしが大好きなところに」
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