9 棲

「お姉さん、経験者でしょう」

「数は少ないけどね」

「悔しいわ。わたし、お姉さんのこの身体、誰にも渡したくない」

「あら、その言葉は赤信号よ。わたしは誰も所有しないし、されもしない」

「疼かないの」

「不感症なのよ」

「何、その男みたいな台詞。お姉さんが男だったら、あたし殴っているわ」

「そういえば昔、殴られたことがあるわね。でも、あのときの相手は男の娘だったな」

「だからじゃない。性的に不安定だから、却って言葉に敏感なのよ」

 本名の衿子で雇われるときがあれば、寝ることもある。そうではなく仮名で雇われるときがあれば、寝ることもある。当然のことだが、大検は本名で受けている。何故その気になったか説明できないが、心の奥底に理由があるのはわかっている。

 さて、日本には戸籍制度があるから煩わしい。かつて東アジアの広域に存在した制度だが、現在では日本と中華人民共和国にのみ保存され、後者では農民差別の元凶となる。

 大検に必要な戸籍謄本を実家のある区域の役所に求めたときには心が揺れる。が、案ずるより生むが易しか、心配は外れ、書類のみが届く。もう誰も、わたしのことを覚えていない。心配してもいない。そう思うと少し寂しいが、自分で選んだ道だからと考え直す。いずれその寂しさを小説に使おうとちゃっかり思い、忽ち元気を取り戻す。

 中学二年生で家出するまで、わたしは勉強が嫌いではない。が、いざ問題集を紐解くと、まるで異国の言葉が並んでいる。一気に気持ちが萎えたが、それもまた楽しみなのだ、と考え直し、モチベーションを上げる。

 これまでずっと小説を読み漁ってきたせいか、現代国語や古文は比較的気が楽で正答率も高く安心。けれども同時に多くを読んだはずの科学解説書の成果はどの程度あったのか。少なくとも数式を解く役にはまるで立たない。が、科学一般の諸概念理解には有用だったようだ。そのご褒美として世界史の同時代理解に繋がったのが正直嬉しい。

 人にも寄ろうが、女の身体でセックスが本当に愉しくなるのは三十歳を過ぎてからだ。だからわたしにはまだ先なのだが、振り返ると結構多くの人たちと裸の関わりを持っている。一処に長く定着しなかったのが、数の多さの主たる要因だと自分では分析しているが、果たして正解かどうか。場所への定着は柵(しがらみ)の蓄積というのが単純なわたしの見解だ。また、それも人によるだろうが……。

 身体を重ねた相手の数がそれなりといえども、いつだって細心の注意を払ってきたつもり。だから危険なアフェアに手は出さない。そもそもセックスが好きではないから、しばらくの間相手がいなくても苦にならない。ほとんどの場合、わたしからではなく、相手に求められ、関係が始まる。父が出遭った母のような理想の相手に、わたしはまだ出遭っていない。この先ずっと出遭わないかもしれないが、そのときはまたそのときのこと。自分が誰かに求められる間は幸せなのだと感じつつ、現実的には粛々と生き続けるしか道はない。

「お姉さんのことが好き」

「あら、嬉しいわ」

「でも、お姉さんがそうでもないから美里は悲しい」

「仕方がないわ。わたしはそういうヒトなのよ」

 美里と名乗る少女と出会ったのは、実家がある都市郊外の街に移った頃だ。相変わらず外食関連の仕事をしていたが、格安物件があり、生涯で初めてアパート生活を体験する。その部屋に転がり込まれ……。

「この部屋、幽霊が出るらしいわよ」

「えっ、やだ。おどかさないで……」

「でも事故物件なのは事実だから……。わたしは幽霊を信じないけど、ここ十数年で三人も自殺者が出たみたい。だから見える人には見えるのかもね」

 美里と出会ったのは勤務先。最初は店の客として現れる。数人の女友だちと一緒に訪れるが、特に親しい付合いではなかったよう。彼女の顔に浮かぶ笑顔が作りモノなのが、鈍感なわたしにも、すぐに見抜けるほどだから。

「美里ちゃんも家出娘なの」

「えっ、……『も』って、もしかして」

「わたしは違うわよ。今まで多くのそんな娘さんたちを見てきたから、そう思ったまで」

「警察に突き出す」

「まさか。面倒はイヤ」

「じゃあ、ここに置いてくれますか」

「美里ちゃんに家があるなら帰った方が幸せよ。詮索はしないけど。わたしは相部屋生活が長かったからあなたがここにいても気にならないけど、一緒に暮らすのならば、やっぱりお金は戴かないと」

「ありません」

「ならば稼ぎなさい。わたしはあなたのお父さんでもお母さんでもないし、血の繋がった誰かさんでもない。それなのに一緒に暮らしてあげると言ってるんだから、お金くらい払いなさい」

「わかりました。何とかします」

 殊勝にも美里はそう言ったが、わたしは少しも信じていない。だから一旦わたしの部屋を去り、翌日、多くはないが纏まったお金を持ってきたときには正直驚く。

「あなた、まさか盗んだんじゃ」

「違います」

 そこだけは強く美里が主張したので、わたしもそれ以上の詮索を止める。

 実際、今となってもわたしは彼女が毎月何処からお金を稼いできたのか見当が付かない。

 美里との初めての同居の夜が同時に始めての同棲の夜になる。小説を読むのは好きだったが、想像力のないわたしは、まさか最初の同棲相手が年下で、しかも女だとは思いもしない。

「お姉さん、男の人のこと、嫌いでしょ」

「ううん、そんなことないわよ。ただ、まだ真の出逢いがないだけ」

 閨での美里の問いかけにわたしは咄嗟にそう答えたが、それが事実かどうか、自分で知りもしないのだ。

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