6 揺
「おまえは嘘つきだな」
そう言われたとき、わたしはあの人の心の中に入る。
「そんなに他人が信用できないか」
そう言われたとき、わたしは口を閉ざす。
「そんなんじゃ、長く世を生きられないぞ」
そう言われたとき、わたしはどうしようかと迷う。
「オレは確かにいい加減だが、おまえのことは真剣に好きだ」
そう言われたとき、わたしは不思議と心を動かされる。とりわけ好きでもない相手の言葉に過ぎないというのに……。
身体が変わると心も一緒に変わるようだ。生理的な嫌悪感を恥ずかしいと思うような一時期が訪れる。若くてまだ想像力がないから、脳裡に浮かぶのは、かつて読んだ本の中にあった言葉だけ。誰のエッセイか忘れたが、小説を読む年齢でその内容が変わるという。そのことは知っていたが、所詮頭の中だけの知識だったようだ。
ところで、いくら鈍感なわたしでも本当に惚れられれば、それがわかる。いや、本当にわかっているのか、と問われれば、疑問符ばかり頭に浮かぶが……。
ただ一緒にいたり、あるいは話したり、仕事をしたりすることを愉しいと感じる。顔には笑みまで浮かべている。自分でそれに気づくと赧くなる。
わたしの初体験は当たり屋の起こした自動車事故のようなものだから、心では初体験と思っていない。ならばどう思っていたかといえば、実はよくわからない。男の精通……ではないか、初めてのマスターベーションのように感じているかもしれない。
「エリちゃん、本当はいくつなんだい」
たとえば六十代の店主がわたしに言う。
「エリちゃん、いったいいくつなの」
たとえば疑わし気に店主の妻が問いかける。
「エリちゃん、子供みたいな顔をしてるけど、実はずっと歳上なんでしょう」
たとえば勘違いをするのは決まって店主の娘か、あるいは訳あって雇われた店主の親戚の子供で、おそらくわたしと同じ家出人の住込み女は決してしない。
「エリちゃん、風呂の番だよ」
たとえばわたしに関心があってもそれを隠している若い板前の口調は冷たいが、やがてからかうような調子が混じってくるのも良くあること。
とにかく本を読むことだけは続けている。わたしが父から譲り受けた血のその部分だけが、わたしの許を去りそうにない。大抵は小説を読んだが、科学解説書に嵌っていた時期もある。文章の良し悪しは別にして、古本で買った昔の科学解説書はとても硬く、同じ古本でも現在に近づくほど柔らかくなる。内容の軽さと比例して。だからどうというわけではないが……。
「エリちゃん、いやエリ子さん、オレと結婚する気はないか」
「エリちゃん、いやエリ子さん、オレと結婚してくれないか」
「エリちゃん、いやエリ子さん、お願いだ。幸せにするからオレと結婚して下さい」
「エリちゃん、いやエリ子さん、オレと結婚しよう。もちろんキミは今のキミのままでいいから……」
まだ十四歳だったときにはさすがにないが、何人もの若い/若くない男が、わたしとの結婚を望む。思い返すとぞっとする。……というより、いつも信じられない。が、昔は自分の文字で綴られた日記の中に書かれているから呆れるのだ。わたしの日記が電子化されてから久しいが『結婚』でソートすれば集まる内容が一割以上ある。残念ながら、その傾向はまだ続きそうだ。
そんなわたしでも辛い恋に出遭ったりする。それとは別にわたしの身体に触れもせず入水自殺し、妻を泣かせた男もいる。どうにも心に重いので何度も形を変え小説に書き、自ら癒されようともがき苦しむ。そんな自分の不手際が二十歳を越えた頃から段々と見える。その歳になればもう家出娘ではなく、似たような表現をすれば元家出娘になってしまったという自覚とともに……。
成人を迎える少し前に血が騒ぐ。どうしても家族の姿が見たくなる。
かつて家出した自分の家に行こうと思えば簡単で新幹線に乗り、私鉄を使えば半日足らず。
自分なりに世間で揉まれ、顔つきは変わったはずだが、さすがに親が見ればわかるだろう。だからスッピンや薄化粧では心許ない。そう考え、厚化粧をするが、自分では化けたと信じても親の目は侮れないと多くの小説家が語っている。それでずいぶん悩んだが、家出と同じ摩訶不思議な体内からの熱に浮かされ、実家を目指して出立する。
巡礼のような旅だから、わたしの目指す家は目的地であるが終着地ではない。
呪(まじな)いのように何度も口の中でそう唱えつつ、身体の方は震わせる。仕舞いには熱まで出る。よくそんな意気地の無さで嘗て家出ができたな、と別のわたしが遠くから笑う。
ほほほ ははは ふふふ
まるで自分自身を安心させるかのように……。まるで自分自身を不安にさせるかのように……。
わたしの実家は新築ではない。が、それに近い一戸建てで、前の家主が強引に親に呼ばれ、田舎に帰り、売りに出されたという。そう話す父の言葉が耳のすぐ後ろから聞こえてくる。
夜遅くタクシーを遣い、実家から数ブロック離れたビル前で降りる。近くに親戚の家はないが、知り合いはまだ暮らしているはずだ。不意に隣の一軒家の小母さんの顔を思い出す。これまで一度も思い出したことがなかったというのに……。
わたしの家は直接道路に面しておらず、いわゆる路地を入った途中にある。だから昼間に見るのは絶対無理。それで夜中にこっそり移動する。夜道を歩くどの人に誰何されることなく家の前まで辿り着く。玄関灯は消えているが、見上げる二階の窓には煌々とした灯。今では妹一人の部屋だろうが、彼女は大学に受かったのか、それとも就職しているのだろうか。そう思うと途端に憑き物がとれ、殊勝にも元我が家に一礼してから、わたしがゆっくりとその場を去る。おそらくもう一度見に来る日があるのではなかろうか、と揺れる心で想いながら……。
まだ動いているはずの私鉄の駅にゆるゆると向かう。すると目の先に若い女の姿がある。前方から歩いて来たのは、どうやら妹の孝子らしい。コンビニの袋を左腕に提げている。左掌には携帯電話かスマートフォンがあり、もしかして恋人と通話しているのか、数十センチ隔てた距離でわたしとすれ違っても気づかない。しばらくしてから、わたしだけが彼女に振り向き、息を吐く。
ふうっ
ついで頭上の月を冷ややかに見上げ、嗚咽する。
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