僕らと彼らのこと 円卓の識者たちⅠ

―茅ヶ崎龍介の話


 日本の首都、東京。

 その土地は、地方の人間にとってはフィクションのような存在だ。

 自分の身がそこにある時だけ出現する、真新しくぴかぴかした虚構。あるいは、自分がそこから立ち去ると一気に実在感がなくなる白々しい幻想。

 俺には東京で生まれ、東京で生活している人々の毎日が想像できない。

 東京が夢に似た場所だと思っているなんて、東京に暮らす人が聞けばきっと嗤うのだろう。



 そういったイメージの首都へ向け、俺は100キロ超のスピードで近づいていっている。

 年月を経て再会したばかりのセルジュに促され、建物の外へ出た俺は目を剥くほど驚いた。そこに停まっていたのが、いやに車体が長く黒光りするリムジンだったからだ。

 遠目で走っているのを見かけたことはあるものの、一介の高校生には縁遠い存在。もちろん乗車するのは初めてで、車内で盛大なパーティーでもするのかと思ってしまうほど大袈裟で豪華な内装に面食らい、既に二十分以上座っている革張りのシートにも全然慣れない。

 運転席とシートのあいだには仕切りがあって、前方の様子は窺えない。高速道路に乗ってしまえば車窓の景色も画一的だ。バスで言えば後部座席に座る俺と、進行方向に直角に座っているセルジュ、ここにはたった二人きり。


「東京に行って……俺に何をしろって?」

「何かしろということはないよ。ただ、我々の話し合いの場にいてほしいんだ」


 来てほしい、と請われていぶかる俺に、セルジュは微笑を浮かべて説明した。リムジンに乗り込む直前、振り返って桐原先生を探すと、ぼろぼろの姿のまま相手は強く頷いてくれた。きっとあのときの俺は、不安で情けない顔をしていたのだろうと思う。

 物理的な速度に心がついていかない。今だけじゃない。ここ半年間、その感覚はずっと自分につきまとっている。

「坊主、何か食べるか?」と不意に話しかけられ、はっと顔を上げた。グラスや食べ物を仕舞ってあるらしい、備え付けのボックス――正式名称は分からない――の前に座るセルジュが、微笑を浮かべてこちらを見やっている。このタイミングで沈黙を破ったのは、高速に乗って車内が落ち着くのを待っていたのだろう。

 眼帯を着けた大柄な男性は、丈の長い上着を座席に畳んで置いて、ベストとワイシャツ姿になっている。そのせいで逞しい胸筋や腕の太さが強調されていた。


「緊張が解けて腹が減ったんじゃないかい? ここにあるのはクラッカーにサラミ、チョコレートにヌガー……乾物ばかりだが味は保証するよ。飲み物もある」

「……じゃあ、水を」


 聞く者を安心させる低い声に、まだ緊張はしていると返せる空気でもなく、俺は最低限のものを所望する。

 セルジュは小さく頷いてボックスの中からボトルを取り出すと、ものすごい勢いでめりめりと蓋を外す。それを高く掲げて中身をどぽどぽと口内に注いだかと思うと、再び栓をしてこちらにひょいと投げて寄越した。

 慌てて掌で受け止め、呆気に取られていると、


「毒や薬は入っていないよ。安心して飲むといい」


 毒味をしてくれたのだと、その言葉で理解した。

 蓋にはセルジュの体温がまだ残っていた。四分の一ほど中身が減ったボトルにそろそろと唇をつける。なんだか数日ぶりに何かを口にするような気持ちがした。

 まっさらな液体を一口含むと、体が一気に喉の乾きを訴えてくる。その欲求に従って、ごくごくと残りの水の半分ほどを飲み下した。

 口元を拭って一息つく俺に、セルジュが柔らかい、それでいてどこか油断ならない笑みを向けてくる。


「やはり君は図太いみたいだね。車に連れ込まれてどこかへ連れていかれるなんて、以前誘拐されたときと同じシチュエーションなのに」

「あ……」


 トラウマを引き合いに出されて言葉を失う。そうは言っても、確かに状態こそ似通っているが、状況はまったく違う。俺は自らの意思で車に乗り込んだのだし、身動きを制限されてもいない。それに、セルジュは俺の味方である、はずだ。


「それは――あの時とは、全然違うから」

「なるほどね。何にせよ君は他人を信用しやすい性格らしい。ある意味それが君の美徳なんだろう」


 ぼそぼそと弁解めいたことを言うと、相手は何やら思案げに口元に手をやる。何やら含みがありそうな気配だが、その正体は自分には分からない。

 もしかして、しばらく沈黙の時間があったのはこちらを観察するためだったのだろうか。だとしたらかなり居心地が悪い。

「さて」とセルジュが空気を仕切り直すように居住まいを正した。


「訊きたいことが山ほどあるだろうから、何でも訊いてくれ――とその前に、自己紹介が遅れたね。俺はセルジュ・アントネスク。33歳。出身はルーマニア。トランシルバニアって聞いたことあるかな? そこで生まれ育った。今じゃ世界を忙しなく飛び回っているけれどね。あと、犬が好きだ。君も知っての通り、影に所属している。立場的にはヴェルナーの上司にあたる。奴と違って実戦はもう退いているけれどね。まあ……そんなところかな」


 そこまで一息に言ってから、次は君の番だ、というような視線を送ってくる。


「俺が話せる限りの範囲で、何でも答えるよ。車内での会話は外から傍受される心配はないから、そこらへんの気も遣わなくていい」


 訊きたいこと。改めて言われると何をどう尋ねればいいのか分からない。犬が好きという情報は要るのか、とか余計なことを考えてしまう。

 脳内をざわつかせる様々な声音のざわめき。それらに耳を澄まし、ひとつひとつの問いを抽出していくほかにない。


「ええと、まず――本当は暗殺指令が出されてなかった、ってことは……俺はもう安全だと思っていい?」

「ああ、安心していいよ。その件に関しては、二人を止めに入るのが遅くなって申し訳なかった。謝って何がどうなるわけでもないが……」


 セルジュは苦い表情を浮かべる。きっと桐原先生もヴェルナーも、途中から端末の電源を切っていて連絡したくてもできなかったのだろう。セルジュがもう少し遅ければ誰かの命が喪われていたかもしれない。そう考えると今さら背筋がぞっと冷えた。


「ただまあ、君に接触するために俺たちが日本が来ていたのは不幸中の幸いだったと言えるかもしれん。俺は部下の居場所を調べることができるから」

「じゃあやっぱり、けっこうヤバい状況だったってことか……。その、犯人、って言っていいのか分からないけど――偽の指令を出した人の正体は?」

「まだ判明していないんだ。現在影の人員を割いて調査しているところだ。不安にさせてすまないね」

「いえ……。そういえば、桐原先生やヴェルさんも、東京に?」


 セルジュが片目をすがめた。しっかりした顎が重たく引かれる。


「ああ……彼らにも一緒に来てもらうよ。ひとつ言いつけたことがあるから、集合場所につくのは少し遅れる予定だが」

「そう……あの、ヴェルさんの処遇とかは、どうなるのかなって」


「処遇」薄い茶色の目が瞬く。


「そうだな、指令が偽のものだったとはいえ、一応組織の命令に従っての行動ではあったからな。ヴェルに責任を問うことはできないだろう。もちろん責任という意味では桐原くんも同様に。危険な目に遭った君からしたら、納得できんかもしれんが」

「いや、いいんです。それを聞いてほっとした」


 その言葉に嘘偽りはない。あれでヴェルナーが罰せられ、彼ともう二度と顔を合わせられなくなったらどうしようかと思っていたのだ。

 セルジュは意表をつかれたように瞠目した後、髪を掻き上げる仕草とともに相好を崩した。


「こりゃ驚いた、ヴェルのことも気にかけてくれるのかい。殺されかけたのに? 怒ってもおかしくないと思うが」

「それは……なんか、怒るとかとは違うような気がして。確かに怖いのは怖かったけど」

「そう。やっぱり、優しいんだね」


 何かを見透かすように隻眼でじっと見つめられ、やや気まずい思いをする。

 怒りが湧かないのは、そんなにおかしいことだろうか。結果論でしかないが、三人みんな無事だったのだ。それで良しとしたらいいと俺は思う。そこで当事者の誰かを責めたって仕方ないのだし。

 それに俺が一番気に病んでいることは、他にあるのだ。

 きっと甘い――のだろう。俺が想像もつかない状況をくぐり抜けてきたのであろう、ヴェルナーや桐原先生や目の前の筋骨隆々の男からすれば。

 俯いていると、視界に映ったセルジュの左手に意識が引きつけられた。なぜだろう、と思う前に、薬指の指輪にフォーカスが集中する。その指輪が俺の知っている意味と同じなら、彼は結婚しているのだ。こう言っては失礼だがなんだか意外である。この強靭そうな男の隣に立つなら、きりっとしたタフな人だろうか――そこまで無意識に考えて、いやいやそんなのあれこれ想像するのは失礼だろ、と内省して妄想を断ち切る。

 と、そこで体の妙な重さに気づいた。身体の危険が去ったからなのか、なんだか急激に眠くなってきている。先ほどよりも耳に届く走行音が遠い。


「眠たいかい? 目的地に着くまで眠っているといいよ。ゆっくりおやすみ」


 毛布みたいに優しげなセルジュの声に返事をする前に、俺の意識は静かな暗がりへと沈んでいった。


 * * * *

―桐原錦の話


 首都圏の専門店で、ヴェルナー共々新しいスーツを選んでいる。なぜか。


「そんなぼろぼろの格好でミーティングに参加してもらうわけにはいかないな。どこかでスーツでも新しく揃えてくるといい、立て替えてもらった分は経費か俺のポケットマネーから出すから」


 死闘を繰り広げた廃墟の前で、そうセルジュに言われたからである。ちなみに本当に代金が戻ってくるのか、正直私はそこそこ疑っている。

 事情の説明を差し置いて、彼が我々に言ってきた理由。大方、ミーティングとやらが始まるまでに仲直り――とまではいかないまでも、互いに言葉を交わして余計な蟠りを取り除いてこい、と言いたいのだろう。店まで指定されてしまってはヴェルナーと顔を合わせないわけにいかない。

 スーツ専門店の前で鉢合わせした私とヴェルナーは、互いに応急措置だけした手負いの姿でまともに向き合った。

 妙にぴりりとした、居心地の悪い数秒が流れ――。


「悪かった」「すまない」


 そう、謝意の言葉が同じタイミングで被る。私は眉をひそめた。ヴェルナーも同じように顔をしかめている。


「お前は悪くないだろ」「なぜ貴様が謝る?」


 再び言葉が被り、先ほどまでの緊張感はどこかに散ってしまった。私が呻きながら側頭部のあたりを掻けば、相手は嘆息とともに天を仰ぐ。


「そうは言ってもさあ」と次に口火を切ったのはヴェルナーだった。「命のやり取りをしてたのは事実なんだしさ。お前、死ぬとこだったんだぜ?」

「それは貴様とて同じだろう」


 自分の口がへの字に曲がるのが分かる。

 私の方は、ヴェルナーに対して思うところは特段ないのだ。あれはあくまで組織に殉ずるか抗うか、互いの信念がぶつかり合っただけのことで、どちらが善でどちらが悪とかそういう話でもない。それにあの、最後に丸腰で対峙した時の抑えきれない高揚感。他人から見れば褒められたものではないし、他者からの謗りも甘んじて受け入れるつもりだが、あれをなかったことにはどうしてもしたくない。それが私の偽らざる本音だ。

 きっとどちらかがいなくなったとて、私たちの関係は変わらないままなのだろう。かなりしゃくだけれど。

 肩を竦めてから言葉を継ぐ。


「私に謝る必要はない。時にはそうならざるを得ない状況になる心構えと覚悟はできているからな。それより貴様は、茅ヶ崎に心から頭を下げる準備をしておくべきだ」

「そりゃあもう……。でも、坊っちゃんは許しちゃくれねえだろうなあ。さんざん酷ェこと言っちまったし。はあ……」


 いつでも不遜な赤髪の狼は視線の先でめそめそしている。かなり珍しい姿だ。

 結局、あくまで影の人間として繰り出された彼の主張の、何割が真意なのか正直分からなかった。私にはどうも、ヴェルナーはヴェルナー・シェーンヴォルフという人間を演じているようにも見える。

 わざと露悪的に振る舞い、壇上で一人スポットライトを浴び、孤独に踊る道化。

 そんな想像を軽く頭を振って払いのける。こいつの本心がどこにあろうと、付き合い方を変えるつもりはなかった。


「謝罪は許されようとしてするものじゃないだろう。自分の気持ちを示すためにやるものだ」

「分かってるよォ……」


 髪をがしがしと掻き回すヴェルナーを横目に捉えながら思う。私とて、茅ヶ崎には謝らねばならない。大切な存在がありながら、また命を投げ出すような真似をしたことで信用を失ったに違いなく、そのうえ彼の才覚を侮ったのだから。謝罪ひとつで失墜した信用を取り返せるとは思わないが、謝らねば溝ができたままなのだ。

 不意にヴェルナーが「なあ」とこちらに体の正面を向けてきた。


「結局素手でやり合う前に指令はナシになったじゃん? ちょっと一発殴ってくれねえかな、本気で。そしたら俺もお前も気が済むかも」


 何かと思えば、どこかで聞いたような台詞を吐くものだ。


「こんなところで殴り合ったら警察を呼ばれるぞ。『走れメロス』みたいなことを言うな」

「え? 『滾れエロス』?」

「……。いや、もういい。さっさと服を選ぶぞ」


 平常運転で聞き返してくるヴェルナーに、どっと肩の力が抜ける。

 なんだか色々なことがどうでもよくなった。先ほどまで殺し合いを演じていた相手と、お互い満身創痍ながらも命に別状なく向かい合っているのが、急にとても奇妙でこそばゆいことに思えてくる。

 店内は専門店だけあって様々な色、様々なタイプのスーツがずらりと並んでいた。時間的に既製品を買うしかあるない。私は店員から勧められるままに、光沢のある深いブルーのスーツを手に試着室へ進む。同じタイミングでヴェルナーも隣の試着室に入った。こんなところまで被らなくていいのだが。

 仕切りの向こうからごそごそという身動ぎと衣擦れの音がする。しばらくそうしていたところに、ヴェルナーの声が降ってきた。


「なあ、錦。聞こえるか?」

「ああ……何の用だ? 謝罪ならもう聞かないぞ」

「そうじゃなくてさ……お前、手加減したろ?」


 ベルトを締めかけていた手が止まる。思わず舌打ちしそうになった。


「……どうだか。その台詞、そのまま返したいがな」

「さァてね。聞こえねえな」


 薄い壁の向こうで食えない男はうそぶく。早くも元の調子を取り戻してきたらしい。私としては、今しばらく悄然と大人しくしていてほしいのだけれど。

 ほぼ同じタイミングで試着室から出る。深い赤紫色のスーツに黒シャツを合わせたヴェルナーと無言のまま見合うと、図らずも色違いの格好をしているようにも見え、無意識のうちに口元が歪んでしまう。


「あーちょっと」なぜかノータイのままのヴェルナーが、微妙に視線を外して言ってくる。「お願いがあんだけどよ。ネクタイ結んでくれや」

「はあ、いい歳してネクタイも結べないのか? まったく……」


 渋々引き受けてしまったものの、自分より少し背の高い、ほぼ同じ体格の男と手の届く距離で向き合うのは気持ちのよいものではなかった。ヴェルナーは目を伏せてされるがままになっている。店員はなぜか我々を遠巻きにして他の客の対応をしていた。


「なあ、錦」

「……なんだ」

「なんでこのタイミングでセルジュが来たんだろうな。しかもドミトリーも一緒に。あんなお偉方が坊っちゃんに何の用事だと思う」

「さあ、分からんな。だが、ろくでもない話には違いない」

「だよなあ。……なあ、お前にゃ悪ィんだが」


 伏せられた目が見開かれ、血の色を透かせた瞳が私をまともに捉える。その双眸はもう、油断なく獲物を探す獣の目に戻っていた。

 ネクタイの形を仕上げに整えながら、軽く嘆息する。目の前の男が言わんとすることが、私にはよく分かった。


「私に必ずしも同調できんと言うんだろう。それは勝手にしろ。私も好きにさせてもらう」

「話が早くて助かるよ。――愛してるぜ、錦くん」


 ヴェルナーは後半の台詞を、目いっぱい顔をしかめたものすごく嫌そうな表情で口にした。対する私も同じ顔になる。

 そんな嫌なら言わなければいいのに――私だって不快な思いをしたくないのだが。


「やめろ、気色悪い……」


 殴れと言われた時よりもよほど、ネクタイを引き絞って首を絞めてやろうかと思った。

 洗練されたスーツに囲まれた、汚臭を嗅いだような表情の三十絡みの男二人、という謎の構図が出来上がる。意味不明すぎて目も当てられない。

 その後は会話も絶えたまま退店し、真新しいスーツ姿でそれぞれの車に乗り込んだ。


 * * * *

―茅ヶ崎龍介の話


「坊主、もうすぐ着くぞ。起きれるかい?」


 やんわりと肩を揺すられ、意識が浮上する。瞼を開くと厳つい男の顔が間近にあって一瞬で眼が覚める。落ち着いてから辺りを見回し、自分がどこにいるか分からなくて数秒混乱した。そうだ、リムジンに乗せられて東京へ向かっていたんだ――思い出すと同時に空腹を覚える。携帯で確認すると正午を過ぎている。今日はまともに食事をしていないから、腹も減るはずだ。

 セルジュに言ってクラッカーを貰う。これは秘密にしてねと俺に頼みながら、彼もサラミやらチョコレートやらをひょいひょいと口に投げ入れ始めた。さくさくとクラッカーを食みながら窓の外を眺めると、妙に現実感のない光景が広がっていた。

 まるでドラマのセットのように見える、ちりひとつなく小綺麗な街並み。歩道に整然と敷き詰められた石材や、完璧に整えられた植え込み。ぴかぴかに磨き上げられたガラスに覆われた、たくさんの飲食店。明らかにエリートだと分かる、IDカードを首に提げた色々な人種の人々が、そこかしこを歩いている。


「ここらに来るのは初めてかな? このあたりは大使館が多い場所なんだ」

「そう……ですか」


 相槌を打つ以外に言葉が見つからない。すべてが自然ではなく、ここを訪れる人々のために寸分の狂いなく誂えられている。そしてきっと、訪れるべき人の中に俺は入っていない。

 確実に、俺は異物だった。

 地下駐車場へと向かったリムジンは、入口で停車してセルジュと俺を降ろす。車が再び発車する前に、セルジュと運転手が空けたウインドウ越しに言葉を交わしていた。運転席に乗る人物が想像よりずっと若いことに驚いた。せいぜい二十代半ばの青年だ。彼も影の一員なのだろうか。

 セルジュに先導されて行き着いたのは、ガラス張りのビルだった。なぜか表のエントランスからではなく、細い通路を通って裏口のようなところから中に入る。タブレットが置かれた受付の前にはゲートのようなものがあり、事前の説明なく身体検査をされたものだから、面食らってどぎまぎしてしまった。

 だだっ広いエントランスホールに先客は一人だけ。確かドミトリーと呼ばれていた痩身の青年は、空調が効いているにもかかわらず黒い厚手のコートを着込んだまま、ホールに並んだソファに腰かけてタブレットに目を落としている。


「ここでちょいと待っててくれるか? 役者が揃うまで待機だ。ミーチャ!」


 セルジュはそれだけを言い残して、コート姿がうずくまるソファの方へつかつかと歩み寄っていってしまう。

 セルジュに応対するドミトリーの灰色の頭がふと揺らぎ、色素の薄い容貌が俺の方に向けられた。繊細な印象の銀縁眼鏡、その奥の冷たい瞳が俺を捉えた気がして、反射的にぺこりと頭を下げれば、静かな黙礼が返る。その姿に不思議なデジャヴを感じたが、車上で眠ってしまったから記憶がリセットされたのかもしれなかった。

 一人取り残され手持無沙汰になったため、習慣で携帯電話の画面をついついと操作してみる。昨日の夜からまともにニュースを見ていない。ニュースサイトの見出しを一通り確認したが、目ぼしい出来事は特にないようだった。二十三区内で火球のようなものが目撃されたことが、主にSNSの一部で話題になっているくらいか。


「お、やっこさんたち、ようやくご到着だ」


 セルジュの弾んだ声に顔を上げれば、エントランス正面から入ってくる人影が三つある。

 まず背の高い二人、その後ろに二人よりは小柄な一人。背後に晩秋の日の光を背負うその長身の男性二人が、真新しい細身のスーツを纏った桐原先生とヴェルナーだと気づくのにたっぷり三秒かかった。その後に現れた金髪の青年には見覚えがない。

 まずはセルジュがそちらへ大股で近づいていく。ちょいちょいと右手で招かれ、自分もそちらへ歩み寄った。全員が歩みを止めたときには、セルジュがヴェルナーと桐原先生の二人を俺に引き合わせるようなフォーメーションになっていた。


「まずは貴様からだ。ちゃんと言えよ」


 桐原先生が低く言葉で促し、ヴェルナーの背をぐっとこちらへ押し出す。

 これほどの距離でヴェルナーと真っ向から向き合うのは初めてのような気がした。光沢のある深い紅のスーツを着た相手は、しかし以前よりどこか萎縮して見える。いつでも余裕たっぷりの表情が、今はどこか強ばっていた。血色の瞳も定まらず小刻みに泳いでいる。

「あー、坊っちゃん。何ていうか、その」赤髪の男は居心地悪そうに頬を掻く。


「危険な目に遭わせちまって、悪かった。こんな風に話しかけていい立場じゃねえことは重々分かってる。……虫のいい話だが、今後も君の護衛は続けるつもりでいる。ただし、君の前には二度と姿を見せないようにするから、それだけは許してくれねェかな」


 俺を見下ろしながら、神妙な顔つきで謝罪と展望を口にするヴェルナー。俺は言葉が切れるまでは我慢していたが、彼が言い終わるや否や堪えきれずに「ぷっ」と噴き出してしまう。

 呆気に取られたのはヴェルナーと桐原先生の方だった。


「おいおい、なんだってんだよ」

「だって、あんたが真面目な顔してると、面白くて……駄目だ、笑える」

「勘弁してくれよ、こっちは真面目な話をしてるんだぜ。俺は君のことを思ってだなァ……」


 途方に暮れた様子が可笑しくて、こみ上げる笑いがますます大きくなってくる。

『それだけは許して』も何も、俺自身はヴェルナーに対して蟠りは持っていない。彼も仕事でやっただけで恨みがあったわけではないだろうし、桐原先生と並んで来たということはおそらく二者のあいだにも禍根は残っていない。だから、もうそのことはいいのだ。

 あまりにもお人好しかもしれないが、俺の一番の懸念は、自分の存在が彼らの強い結び付きを破壊してしまったのではないか、ということだったから。


「許すも何も……俺は別に怒ってないから。それよりヴェルさん、桐原先生には謝ったのかよ」


 少し唇を尖らせて言うと、なぜか目の前の二人は同じタイミングで顔を見合わせる。


「なんつうか、あれだな。この親にしてこの息子ありって感じだよな」

「だから、息子じゃないと言っているだろう」


 その会話の意味を推し測る前に、今度は桐原先生が「じゃあほら、次はお前の番だ」とヴェルナーに押しやられて俺の目の前に立つ。服装こそ真新しい濃紺のスーツに黒シャツだったが、頬を覆うガーゼや額の擦過傷などが痛々しい。

 先生はばつが悪いような、痛ましいものを見るような複雑な表情を浮かべている。言葉を探す間を埋めるように、黒縁眼鏡のブリッジへ伸びる指先と手の甲を見て、思わず息を飲む。

 見慣れているはずの、しかし今は傷だらけの武骨な手。

 衝動的に伸ばした自分の掌に、ごつごつした節の感触が握りこまれる。桐原先生が動揺を隠さずに体を硬直させた。自分でも驚くスピードで、俺は先生の分厚い手を両手で掴んでいたのだ。

 至るところに切り傷や擦り傷がある、俺のよりもやや乾燥した大きな手。確かに血が通った、温もりのある手。俺は彼がいなければ、ここに立っていなかった。桐原先生がそこにいてくれる喜びが、じわじわと心臓のあたりを温める。

 生きている。先生も。俺も。


「良かった、生きてる……」

「茅ヶ崎……?」


 俯いて手を握ったまま、ほとんど泣き出しそうになる俺を、先生は困惑して見ているだろう。俺がヴェルナーだったら先生を熱く抱擁できたのかもしれないが、ハグの習慣なんてない日本人には気恥ずかしくて到底無理だった。


「すまなかった。心配をかけて」

「……いいんです。今、ここにいてくれるから」


 おもてを上げた俺がぎこちなく笑いかけると、桐原先生も精悍な顔に優しい微笑を浮かべた。

 そんな俺たちを「うわー」と言わんばかりに掌で口を押さえ、横目で見やっていたのはヴェルナーである。どこか遠い目をして交互に俺たちを見る。


「あのさあ、そういうのは人目をはばかった方がいいんじゃないのかなァ……」

「うるさい」と言い返す俺。

「それか、抱き締めてやれよォ、錦くん」

「うるさい!」と桐原先生。

 やいやいとやり合う三人をやや遠巻きにして眺めていたセルジュが、弛緩した空気を察して輪に近寄ってくる。


「さて、そろそろ仲直りは済んだか?」

「仲直りってなァ、子供扱いすんなってんだよ。俺たちのこと何歳だと思ってんだ」


 唇を突き出して言い返すヴェルナーの口調はそれこそ子供じみていた。

 炭酸水の泡のような心地好い笑いが場に広がる。

 しかし今日の目的は仲直りではないのだ。先導していくセルジュに続き、俺たちはぞろぞろとエレベーターホールに向かった。セルジュ、ヴェルナー、桐原先生、自分、まだ言葉を交わしていないドミトリー、名前すら知らない美貌の金髪の青年。

 身長も年齢も髪の色もばらばらな六人が、揃って階数表示を見上げる。到着した地下二階には余計な廊下や部屋はなく、エレベーターのドアが開いた先には、短い通路と異様に迫力のある観音開きの扉だけがあった。


「今日の本題はここからだ。用意はいいか、坊主?」


 眉に力をこめて笑むセルジュが、ちらりと俺を振り返る。俺は薄い茶色の目を見返し、こくりと浅く頷いた。

 セルジュが力強くドアを開け放つ。視界が開け、学校の教室よりよほど広い空間に、二十人は就けるかと思えるほど巨大な円卓が設えてあるのが見えた。

 俺は一体、ここで何を知ることになるのだろう。

 形の掴めない渦巻く不安と、奇妙な淡い期待を抱きつつ、その部屋に足を踏み入れた。

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