彼らのこと・回想 スカーレット・カメリアを君に

―セルジュ・アントネスクの話


 自分には夢がある。

 妻と二人、陽の光に満ちた家に寝起きし、小さくも人懐こい犬を飼って、談笑を交わしながら穏やかに暮らす。そんなささやかで、同時に途方もない夢が。

 それが結婚して以来数年の、俺の宿望だった。



 日本産の菓子を手土産に、上司の隠れ家をおとなったのは、実にひと月ぶりのことだった。

 我が上司――影を統べくくるシューニャは、"罪"の詮索の目を逃れながら、ここで隠遁生活を送っている。詳しい場所は残念ながら明かせないが、数人の予見士と、自分の部下である執行部の部員たち、そして俺の愛する妻がひそやかに暮らしている。

 入り口の扉を開けると、すぐにぱたぱたと足音を立てて小柄な女性が走り寄ってきた。くるぶしまである中華風のロングドレスに、肩下までの艶やかな黒髪、憂いを含んだヘーゼルアイ、抜けるように白い肌。髪は真っ赤な髪飾りでハーフアップにされている。愛おしい妻のりんである。


「セルジュ様、お待ちしておりました」


 妻は口元を控えめに綻ばせ、名のとおり鈴を転がすような声音で、そう出迎えてくれた。


「久しぶりだね、鈴。元気だったかい」

「はい、おかげさまで。あの、お荷物を――」


 俺の手荷物を預かろうと鈴が手を伸ばす。その意図には答えないで、たおやかな手をぐっと引き、彼女の華奢な体躯を出し抜けに抱きすくめた。鈴がはっと息を飲むのが伝わる。


「会いたかった」

「……わ、わたくしも、同じです……」


 言葉尻が少しだけ震えている。腕をいったん解き、軽くキスをすると、鈴の体はぴくりと跳ねた。結婚して数年経つのに、まだこういったことに慣れないらしい。そんな奥ゆかしいところもすべて、自分は好意を抱いていた。

 顔を離すと、妻の頬は桃色に染まっていた。


「あ、あの――」

「そんなところで何をしとるんじゃ。いちゃつくならわしの見えんところでせい」


 声変わりのしていない、しかし口調だけは老人めいた少年の声が割って入る。

 鈴の肩越しに廊下の向こうを見やると、我がボスたるシューニャがドアからひょっこりと顔を覗かせていた。ほとんど人形めいた、整いすぎた容貌は目線のかなり下にある。白髪に薄い灰色の瞳、瞬きするたびに揺れる長い睫毛、床に届きそうな法衣の上にサイズが合わないだぼだぼの白衣を羽織っている。見かけでは十歳かそこらにしか見えないが、彼はとうに五十を超えている、そうだ。

 シューニャは自分の上司でもあり、また口うるさいしゅうとのような存在でもあった。

 美少年の皮を被った壮年の医者がふんと鼻を鳴らす。


「誰かと思えばお主か。まったく、お主のようなむさ苦しい男の顔など見とうないわい」

「そう言うな。あんたの好きな菓子も買ってきたんだから」

「そうならそうと早う言わんか。茶会にするかのう」


 俺が手に持った荷物を掲げながら言うと、シューニャはほとんど表情を動かさずにそう言い返す。鈴はほんのりとほほえんで、それでは珈琲を淹れますね、と俺たち二人の顔を交互に見た。


「嬉しいな。君の淹れた珈琲は世界で一番美味いから」

「わしの前でのろけるなと言うに」


 シューニャがぶつくさと文句を吐く。

 茶会とは名ばかりで、その小一時間ほどのあいだ、俺はシューニャに小言をぶつけられるままになっていた。一応、俺からもシューニャに報告する内容もあったのだが、そんなことは些事と言わんばかりの態度であった。それよりも、目の前に広げられたたけのこの形の菓子や、船が型どられた菓子を食べることの方が大事だと思っているのではないか、そう疑わずにはいられない。


「まったく、なぜお主はきのこもたけのこも買うてくるんじゃ。いつになったらわしはたけのこ派だと覚えるのかのう? これだから図体が大きいだけの甲斐性なしの熊男は困るのう」


 毒づきつつ、シューニャはひょいひょいと菓子を口に放り込んでいく。この狸爺たぬきじじいめ、という反駁が喉まで出かかるが、鈴の手前なんとか理性で押し止めておく。


「そんなことより、食べすぎだろう。もう年なんだから、糖尿病になるぞ」

「かーっ、医者に説教とはお主も偉くなったものじゃの。老い先短いんじゃ、好きにさせい」

「都合のいい時だけ老人ぶるなよ……」


 俺たちが何のかんのとやり合っているあいだ、鈴は口元を押さえてくすくすと笑っていた。その笑顔を見ると、日頃の影での仕事の疲れが全部吹っ飛んでいくようだった。

 ようやっとシューニャのぼやきから解放され、鈴の居室で二人きりになった時には、既に夕刻を迎えていた。

 ソファに体を沈め、ふうと息をつきながら、ネクタイを緩める。その様子を、鈴は部屋の隅から遠巻きに眺めていた。この場所の主なのだから、もっと厚かましくしていていいのに、鈴はどこまでも慎ましやかだった。


「あの……」

「うん?」

「おそばに行っても、よろしいですか」

「もちろん。おいで」


 腕を差しのべ、胸を開く。鈴がとつとつと歩み寄ってきて、俺の胸の内に収まる。会うたびに、こんなに細い体だったかと喉の奥が詰まる。ちゃんと食べているのかと心配になるほどだ。

 そのままの体勢で、妻の髪をく。指が途中で髪飾りに引っかかる。これはかつて、自分が贈ったものだ。普段は分からないが、俺が会いに来る時はいつも着けてくれている。そんな彼女が愛おしかった。

 二人きりでないとできない深い口づけを交わす。毎日一緒に過ごしたいのに、こうして会える日が月に何日もないのはひどく残念だった。

 名残惜しく思いながらも、顔を遠ざける。少し潤んだ瞳でこちらを見つめている、彼女の両肩に手を置く。


「鈴。ここでの生活は退屈だろう。何か欲しいものはないかい。何でも言ってごらん」

「いいえ……わたくしには、ここで生活させてもらえるだけで、十分すぎるほどですから」


 鈴はふるふると頭を振る。うっすらと浮かんだ笑みは、ひどく寂しげだった。

 心にちくりと痛みが走る。こんなに近くにいるのに、遠く感じた。そんなに物分かりよくなくていいのにと思った。もっと我が儘になってほしかった。妻の願いなら何だって、身をにしてでも叶える心積もりはできているのに。

 彼女が出生に秘密を抱えていることを、俺は知っていた。そのことで、周りに負い目を感じているのも。自分の夫に対してくらい、そんな後ろ暗い想いを取り払ってほしかった。


「鈴」


 心持ち強く呼びかけると、鈴の美しい双眸がはっとこちらを見据えた。左しか見えない目で、彼女をじっと見つめる。


「俺の前でくらい、本音を隠すのはやめにしないか。俺は君が何を言おうと、君を嫌ったりしない。思っていることを言ってごらん。だって俺たちはもう他人じゃない、夫婦なのだからね」


 鈴の右手を両手で包み、諭すように言うと、彼女の唇が震えた。左手が鎖骨の下あたりを押さえ、視線がふらつく。そうだよ、言っていいんだよ、無言で俺は促す。


「わ、たくしは……」

「うん」

「……もっと、セルジュ様に会いたいです。ご無理を言っているのは分かっています、でも――もっと会いに来てほしいです。もっと、一緒にいたいです……!」


 感極まったように、鈴が抱きついてくる。その軽すぎる全体重を受けとめた。肩口が濡れる気配があって、ああ、と天を仰ぎたくなる。また泣かせてしまった。もう、悲しませないと約束したのに。

 自分よりずっとずっと薄い肩をぽんぽんと優しく叩く。頑是がんぜない子供を宥めるように。


「うん。すまないね。もっと会いに来れるようにするよ」

「はい……」

「いずれ君と二人で暮らせたらいいなと思っている。君の自由を取り戻したいとも。そうなったら、君の好きなところへ一緒に行こう。――だから、もう少し待っていてくれるかい」

「はい……、もちろんです」


 涙声だったけれど、その声はしっかりとしていた。

 抱擁を解くと、もう涙は止まっていた。頬に残る筋を親指でそっと拭うと、今度は鈴の方から口づけされて、一瞬たじろぐ。首に回された腕はいつになく自分をひたむきに求めているようで、切なかった。彼女との口づけはいつだって、わずかに悲しみの味がした。

 もっと深く、その心の真奥しんおうに迫れたらいいのにと、それだけを願った。

 自分が鈴と出会ったのは、影対"罪"の全面闘争――パシフィスの火――から数年経ってからのことだ。

 "罪"の連中はかしらを喪い、表面上の活動は沈静化していたが、影の方も事情は同じで、将来を有望されていた面子の殉死もあり、組織の基盤はがたがたに揺らいでいた。自分も無傷ではなかった。火の期間に右目の視力を無くした俺は、現役を退いて管理職のポジションに就き、組織の立て直しに奔走していた。将来は隣にいてほしいと約束していた親友は鬼籍に入ってしまっていた。

 一報を聞いたときは信じられなかった。あのルネが、まさか死ぬだなんて。

 パシフィスの火の後、数年はシューニャとともに各地の様子を視察に回っていたものの、彼の体力の衰えと"罪"の輩に襲撃される危険性を踏まえ、形式上は隠居生活をしてもらうことになった。

 慣例となっていた日本産の手土産を携え、久方ぶりに訪れた彼の幻住庵で、俺は鈴に出会ったのだった。

 初めて会ったとき、鈴はまだ十代だった。シューニャからの小言を聞き流しながらテーブルで菓子をつまんでいると、後方から視線を感じた。振り返ってみれば、年若いアジア系の相貌をした娘が、茶器の乗ったトレイを持ってドアの傍らに立っている。覚えのない顔立ちには、怯えが生じていた。

 後から本人に聞いた話だけれど、その際俺のことを怖い人だと思ったらしい。まあ無理もないだろう。身長は185cmあるし、現役の名残で無駄に筋肉が付いているし、髪は全部後ろに撫で付けていたし、極め付きに右目は眼帯で覆われている。初対面で怖がるなという方が厳しい。

 やあ、と声をかけてみると、びくりと小さな肩が跳ね、コーヒーカップが音を立てた。その様は人慣れしていない野生のうさぎを思わせた。


「君もこっちに来て、一緒に食べないかい」


 笑いかけると、おずおずと彼女は頷いた。

 彼女は小さな声で、鈴といいます、と名乗った。


「リン。素敵な響きだね、よく似合っているよ」

「そ……そうですか?」

「なんじゃお主、口説いておるのか? わしが許さんぞ」

「そんなんじゃない、ただ思ったことを言っただけで――」


 そういったやり取りに馴染みがないのか、鈴の可憐な白面が朱に染まった。

 それからは、彼女は始終無口だった。菓子を少しずつかりかりと食べる様子は、か弱い小動物を連想させた。おそらく予見士の一人だろう、と見当をつけ、素性はそれ以上尋ねなかった。

 そうこうしていると、俺の前にあった、自分用に取り分けた菓子の皿を、シューニャが勝手に鈴の方へと押しやる。


「ほれ鈴、こやつの分も食うてやれ」

「俺が買ってきたんだぞ……」

「わしが貰ったものなんじゃから、わしがどうしようと自由じゃろう。つべこべ抜かすな、図体の割に器が小さい男じゃのう」

「……まったく口の減らない爺さんだな」

「ふん、わしを口で負かそうなんぞ百年早いわい。この鼻垂れ小僧めが」

「もうすぐ三十になるんだが……」


 呆れてものを言うと、くすくすという控えめな笑いが聞こえた。鈴が可笑しそうに目尻を下げ、口元を押さえていた。

 目が離せなくなった。小さな野の花が咲くのに似た、主張しないけれど華やぎを持った笑み。それだけで、今まで関わってきたどの異性とも違う人だと分かった。そのまま数秒惹き付けられたが、またシューニャに小言をぶつけられると感じ、いそいそと視線を戻す。

 シューニャは目くじらを立ててはいなかった。代わりに、俺たち二人を唖然として眺めていた。彼のそんな表情を見るのは初めてで、思わず面食らった。

 その日は次の朝まで滞在することができたから、一部屋を借りて羽を休めた。そろそろ眠ろうかとしていると、ドアをノックする者がある。開けると、神妙な顔つきのシューニャがそこにいた。乏しい光源の中で、灰色の目の底がきらりと光っている。


「お主に話があっての」

「なんだ、改まって」

「入るぞ」


 可否を口にする前に、シューニャはするりと自分の脇をすり抜け、不遠慮にベッドの中央にぼすんと陣取った。ホテルと同じく一ルームしかない部屋の中で、仕方なく立ったまま己の上司の話を聞くことにする。

 いつもぬけぬけと詭弁を弄しているシューニャの老獪な目は、しかし今は真剣そのものだった。


「あれが笑うところを、わしは初めて見た」

「あれ?」

「あの娘子むすめご……鈴のことじゃ。あの娘がここに来てから、もう丸三年は経つ。それなのに、初めてじゃ」

「そうなのか? 笑わない娘だとは、思わなかったが」

「あまり信じたくもないが、お主とあの娘は相性がよいかもしれんのう」

「何なんだ、いきなり……」

「あれは不憫な娘よ」

「え」


 シューニャはそこでベッドからとすんと降り、後ろ手に指を組んで、月明かりが差す窓辺に歩み寄る。

 ちっぽけなはずの背中がいやに大きく見えて、俺は一歩も動けず、また一言も発せなかった。


「あの娘はのう、わしの娘も同然なのじゃ」

「シューニャ?」

「お主には話しておこうと思ってな。鈴の出自について」


 シューニャがこちらに向き直る。白髪がぼんやりと月光に照らされて鈍い輝きを放っていた。その姿は少年だけれど、様々な感情がない交ぜになったその深い眸からは、確かに酸いも甘いも噛み分けた老練さが滲み出ていた。知らず、自分の喉が鳴る。

 そして俺はすべてを聞き遂げた。鈴の、壮絶な身の上について。


「セルジュよ。あの娘を悲しませるなよ。泣かさないと誓え」

「そんな、突然……」

「できんのか?」

「いや――分かった。約束する」

「うむ。確かに聞いたぞ」


 シューニャが冷たい光を目に宿しながら、深々と頷く。

 翌朝、根城を退去するとき、鈴が見送りに出てくれた。少ししか話せなかったのに、彼女の眉は垂れ、寂しそうな目をしていた。昨日シューニャから身の上話を聞いたばかりだったので、何か言わなければいけないと思ったが、何を言えばいいのか分からなかった。他人の心情の機微が察せない仕事人間は、こういう時に困る。

 心のどこかで特別な感情が湧いてくるのを自覚したけれど、彼女とは十歳違いらしいので、きっとこれは妹に向けるような親愛の情に違いなかった。

 結局、当たり障りのない台詞で口火を切った。


「わざわざ見送りに来てくれてありがとう」

「いえ……あの、お話しできて、楽しかったです。その――」

「うん?」

「あの――また、こちらにお見えになりますか」

「ああ。いつになるかは分からないけれど、また来るよ。あの爺さん、甘いものが食べられないと癇癪を起こすからな」

「そんな、……またお会いできる日を、楽しみにしています」

「……ああ、ありがとう」


 ほほえむと、ぎこちないながら鈴も笑みを返してくれた。

 話せて楽しかった。また会えるのを楽しみにしている。そんなことを言われたのは初めてだった。つい、手を伸ばして彼女の頭を撫でたい衝動に駆られたが、すんでのところで思い止まる。

 じゃあ、と遂に立ち去るまで、鈴はじっとこちらを見つめ続けていた。その双眸に熱いものを感じてしまい、気のせいだ、本当にどうかしている、と考えを振り払った。

 それから数度、シューニャの隠れ家を訪れたが、鈴はいずれも歓待してくれた。

 ――表面的には。

 俺は次第に、鈴の態度がどこかよそよそしくなっていっているのに気づいた。向い合わせで話をしていても、目線が合わない。視線を感じて振り向くと、そこにいた鈴がふいっと顔を逸らす。そんな場面がたびたびあって、俺は人知れず思い悩んだ。心当たりがないが、何かまずい行為をしでかして、嫌われたのかもしれない。

 シューニャとの約束を忘れたことはなかった。鈴を悲しませない。そのためにはどうすればいい、と自問して、喜ばせばいいのではないか、と自答を返した。

 そういうわけで、安直だが何か贈り物を探すことに決めた。よくよく思えば、いつもシューニャのために菓子を用意していっているのに、鈴には何もないでは不公平であった。もしかしたら、そのせいで気分を害したのかもしれない。ばつの悪い思いを抱えながら、執務のあいだを縫ってプレゼントを見繕うことにした。

 贈り物選びは難航した。そもそも、鈴が何を貰えば喜ぶのかとんと見当がつかなかった。食べ物であれば外れはないかもしれないが、それではシューニャと同じで芸がない。

 今まで交際した女性は数人いたものの、皆上昇思考の強い人ばかりで、彼女らの好みは指標になりそうもなかった。影のエージェントもそうでない人も、ことごとく俺の仕事ができそうなところを好きだと言い、関係が冷えてくると仕事ばかりでもう付き合いきれないと言い放った。180度変わる彼女たちの態度に途方に暮れるしかなく、俺はいつだって袖に振られる側だった。鈴がそのような女性でないのは明らかだ。ブランドものの装飾品や、高価なフルコースや、希少なワインを好む人であるはずがなかった。

 そんな折、部下のヴェルナーに久々に会う機会があった。この赤目赤髪の軽薄な男は、度を越した女好きで勇名を馳せていた。女性に贈る物の目利きは頼れるかもしれない。男と二人なんて嫌だと渋るヴェルナーを、俺は奢るからと食い下がってバーに誘い込んだ。


「お前、前より目付きが悪くなったと思ったらそんなことで悩んでたのかよ」


 上司を上司とも思わぬ男は、事情を説明すると開口一番そんな失礼な台詞を吐いた。目付きが徐々にきつくなっているのは自覚していたことだが。


「お前にとってはそんなことかもしれんが、俺にとっては大問題なんだ」

「つうか、アドバイスするのは簡単だけどさァ、それで仲直りできたら俺のおかげってことになるじゃん? お前はそれでいいの?」


 無闇に強い酒を舐めながら、ヴェルナーが探りを入れてくる。確かに、その通りだ。助言を受け入れて関係が修復されれば、間接的にこの男が仲を取り持ったことになってしまう。


「それは確かに、御免被りたいな」

「けっ、正直な奴だな。……指定しない程度に言うけどよォ、実際何でもいいと思うぜ。お前がどんだけその子のことを考えて選んだかって方が大事なんだよ。要は気持ちよ、気持ち」

「……俺の気持ちか。なるほどな」

「ま、上手くいったら事の顛末を聞かせろよ。お前から好きになるなんてケース、そうそうないからな」

「――彼女はそういう相手じゃない」

「へええ、そう?」


 ヴェルナーは小馬鹿にするようににやにや笑いを浮かべていたが、唐突に顔を青ざめさせると、口を手で覆いながらトイレへ駆け込んでいった。アルコールに強くもないのに、見栄を張って度数の高い酒ばかり注文する悪癖は治っていないらしい。

 俺は琥珀色の液体が入った自分のグラスを傾けた。氷が位置を入れ換えて、からん、と軽やかな音を奏でる。影の組織内で、自分と同じくらい強い酒好きはいなくなってしまった。もはや帰幽きゆうの人となったルネのことを考える。あいつと飲む酒ほど美味い酒はなかった。

 グラスの残りを一気に煽ると、胃の腑が一瞬熱くなったけれど、すぐにやるせなさだけが腹に残った。



 次に隠棲いんせいの庵を訪ねる際、自分の心が少しばかり張りつめているのを感じていた。片手に旅行鞄を、片手にプレゼント用の小さい紙袋を提げている。鈴に会ったら、すぐさま手渡すと決めていた。だらだらと機を逃すと、こういうことに慣れていない俺には一生渡せなくなりそうだったからだ。

 二人きりになるなり、君に渡したいものがあるんだ、と単刀直入に切り出した。鈴はぱっと弾かれるようにおもてを上げたが、その表情には疑問の色が濃い。気持ちが挫けないよう鼓舞しながら、自分が持参するには相当不釣り合いな、薄桃色の小振りな紙袋を鈴に差し出した。


「良かったら、受け取ってもらえないかな」


 俺より幾回りも小さく細い指が、おずおずと伸ばされる。その様子には喜びの色はなく、ただただ困惑しているのが伝わってくる。


「これを、わたくしに?」

「ああ」

「今、開けてもよろしいでしょうか」

「もちろん」


 大きく頷いたつもりだったが、力が入りすぎた首がぎしっと軋み、動作はぎこちないものとなった。

 鈴の白魚のような手が袋のシールを外し、中から透明な箱を取り出す。そこには、深紅の椿を模した、髪飾りが封じられていた。

 雑貨屋でそれを見つけたとき、目が吸い寄せられた。その鮮やかな赤と、鈴のあでやかな黒髪とのコントラストは、さぞかし美しかろうと断言できた。

 鈴が両目を見開き、花びらのひとつひとつまでまじまじと見る。


「これは……髪飾り、ですか?」

「ああ。この赤が、君の黒髪にえると思っ――」


 て、という音が喉元で消える。驚きによって、発声できなかったのだ。

 鈴の澄んだヘーゼル色の双眸から、ふたすじの涙が白磁の頬を音もなく伝っている。

 動揺した。女性の涙を見るのは何年ぶりかの出来事だった。咄嗟に反応できないでいると、ごめんなさいっ、と高く声を放って、鈴が部屋から走り去っていった。

 俺は部屋に取り残された。パッケージングされたままの、椿の花と一緒に。

 その髪飾りを掬い上げて、うーむと観察する。表面にちりばめられたジルコニアが、きらきらと光を反射している。


「泣くほど気に入らなかったのか……慣れないことはするもんじゃないな……」


 一人、そうちた。

 夕飯の時間になっても、鈴は居室から出てこなかった。大方、お主が何か良からぬことをしたのじゃろう、お主が何とかしろ、とシューニャに詰問され、反論の余地なく彼女の元に向かう。もう自分とは顔も合わせたくないのではないか、という苦い思いとともに。

 左手には、あの髪飾りを握っていた。気に入ってもらえなかったからといって、放置するわけにもいかない気がしたためだ。

 コンコンコン、とドアをノックすると、はい、と弱々しい声が返ってくる。扉に顔を近づけて、できるだけ穏やかに、真摯な口調を心がけて話しかけた。


「俺だ、セルジュだ。さっきはいきなりのことで驚かせてすまなかった。もし君が良ければ、謝らせてくれないかな」


 少し待つが、声は返らない。胃の底がずしりと重くなる。落胆して引き返しかけたとき、音もたてずにドアがすっと開いた。

 子うさぎが巣穴から外を窺うように、怖々と鈴がこちらを見上げていた。泣き腫らした目は赤く充血し、泣いたためか頬は上気してぽっと朱に染まっている。自分が何か言いかける前に、小さめの口が震えて、どうぞ、と俺を中に導いた。

 部屋は小綺麗に片付いていたが、それは整理整頓が行き届いているというよりも、むしろ物が無さすぎるためで、寒々しく殺風景な印象があった。偏見かもしれないが、年頃の娘が好みそうな内装ではない。

 部屋の中央のテーブルに腰を落ち着かせて、鈴と相対する。ぐっと腹の底に力を入れ、


「ごめんなさい」


 謝ったのは鈴が先だった。

 虚を突かれ、え、と間が抜けた声が漏れる。


「どうして君が謝るんだい」

「さっきのは、わたくしが悪いのです……泣いてしまったのは、嫌だったからではなく……びっくりしてしまったからなのです。あの、わたくし……人から何かを頂くのって、初めてでしたから……」


 訥々と、水が滴るような調子で、鈴は信じられないようなことを語った。


「え、初めてって、本当に?」

「はい。肉親を除いたら、今まで何も……ですから、セルジュ様からの贈り物が嫌だったわけではないのです。むしろ、あの……とても、嬉しかったです」


 鈴は恥ずかしそうに顔を俯け、さらに耳まで真っ赤になった。

 こんな時なのに、素直に可愛らしいと思ってしまう自分がいる。それくらい、庇護欲を刺激する仕草に感じられた。


「泣いてしまって、本当にごめんなさい」

「ああいや、誤解が解けたならいいんだ。じゃあ、改めて受け取ってくれるかい?」

「はい……喜んで」


 持っていた髪飾りの箱を再び渡すと、鈴は今度はほんのりと笑ってくれた。自分には、その笑顔はどんな大輪の花よりも輝いて見えた。


「綺麗ですね、これ」

「……そう言ってくれて、嬉しいよ」

「これ、今着けてもいいでしょうか」

「ああ、ぜひ見たいな」


 パッケージから椿を掌に移して、鈴は部屋の奥に引っ込む。二、三分ののち現れた彼女は、編み込みにした髪のサイドを後ろでまとめ、後頭部に髪飾りを留めてハーフアップにしていた。それまで見たことのなかった鈴の耳が、ちょこんと慎ましく頭を覗かせていた。清楚な印象がより際立っている。

 恥じらいを含んだ様子に、なぜかしらどきりと心臓が跳ねた。


「いかがでしょうか……」

「うん、似合うよ。耳が出ていた方が可愛い」


 そう感想を伝えつつ、思わず立ち上がって、鈴の耳にそっと触れていた。

 間髪入れず、彼女の顔は真っ赤になった。頬を手で覆い、鈴が慌てて顔を逸らす。俺も慌てて手を体の前で振った。しまった。せっかく関係修復できそうだったのに、自分ときたら何を血迷ったことを。


「ああごめん、今のは問題発言だったかな」

「いえ……」


 鈴がちらりとこちらを見上げた。何かしらの強い意思が、瞳に灯っているように感じられた。


「え」


 頓狂な声が漏れる。不意に胸が温かくなって、数瞬、何が起こったのか分からなかった。

 鈴が俺に抱きついている。

 我に返った時には、鈴の体が自分に密着していた。目の前で展開する事態に頭が着いてこず、思考が真っ白になりかける。どういうことだ、これは。


「り、鈴?」

「……いけないことだと分かっています……。ですが、お慕いしております……」


 絞り出すような声だった。禁忌に触れているとでも言うような、切なく、寂しく、それでいて何かが燃えているような、そんな声色。きゅ、と胸に置かれた鈴の手が、物欲しげに、もどかしげに握られる。

 いつしか、彼女はさめざめと泣いていた。

 半ば呆然として突っ立っていると、何かを振り切るみたいにして、鈴の体は俺からぱっと離れた。


「すみません……今のは、全部忘れて下さい……」

「待ってくれ、鈴。いけないことって、どういう……?」


 鈴がまた部屋の奥へ引っ込もうとする。その細い手首を、ここで行かせてはいけないと、反射的に握っていた。

 どうも齟齬が生じているようだ。いけないこと、の意味が分からなかった。

 鈴が楚々として唇を震わす。


「……何回かお会いしているうちに、いえ――初めてお話しした時から、心惹かれておりました。わたくしは、あなたのことが好きです。でも……セルジュ様には、奥さまがおありでしょう。ですから――」

「いや、俺は独身だし交際相手もいないけど……」

「えっ?」


 今度は鈴が頓狂な声を上げる番だった。きょとんとした顔の中で、黒目がちな目がまんまるくなっている。

 大体の事情が氷解した。つまり、鈴は俺が既婚者だと思い込んでいて、好意を表すまいとしていたのだ。あのよそよそしい態度は、気持ちを隠すためだったのだろう。そう察しがついた。

 鈴はぱっと喜色を滲ませ、そうなのですね、と両手を組む。しかし数秒後には、喜びを如実に見せたことを恥じ入ってか、またもや俯いてしまった。

 むずむずとした、甘酸っぱい空気に包まれる。生まれてこの方、味わったことのない雰囲気だった。参ったな、と思う。三十路を目前にして、こんな浮わついた心持ちになろうとは。

 もじもじと落ち着かない様子で、鈴が重ねた両手を胸に当てる。


「あ、あの……セルジュ様、それでは……」

「あ、ああ……そうだったな……」


 そうだ。好きだと言われているのだ。俺が、返事をしなくてはいけないのだ。

 年甲斐もなく、自分の頬も紅潮しているのが分かる。年が十も離れているのだ。本当に俺でいいのか、という思いは否定できない。けれど、きっと勇気を出して好きと言ってくれたのを、無下にするなど考えられなかった。自分だって前々から、鈴を憎からず想っていたのは確かなのだ。


「鈴」


 呼びかけながら、両肩に手を置く。その薄さと頼りなさに、少しだけはっとなった。

 はい、と鈴が答える。


「こんなに年が離れている俺を、好きだと言ってくれて嬉しい。俺も、君が好きだ。これからよろしく頼む」

「……はい」


 今にも泣き出しそうな顔の鈴を、抱き寄せて抱擁した。折れてしまいそうだった。シューニャが語った、彼女の出自を思い返す。これからどんな困難が振りかかろうと、自分はこの人を守ってみせる。そう自分の心に誓いを立てた。

 鈴もおそるおそるといった動作で手を伸ばし、抱擁を返してくれた。

 どれくらいそうしていただろうか。体を離すと、緑がかった双眸が一心に俺を見つめていた。鈴の滑らかな頬を親指で優しく撫でる。そっと細い顎を持ち上げると、長い睫毛と一緒に、薄い瞼がゆっくり閉じられた。

 鈴の顔はだいぶ下にあったから、かなり腰を屈めないといけなかった。

 吐息をわずかに顔に感じる。唇が触れ合いそうなまでに近づいて、


「何をしておるんじゃ! 夕飯が冷めるぞ」


 けたたましいノックとともにシューニャの声が響き、俺たちは二人揃って数センチほど飛び上がった。

 これではお預けにするほかない。鈴と苦笑いを交わし、今行く、と気難しい上司の元へ馳せ参じる。

 この日から、俺と鈴は互いに一人きりの相手となったのだった。



 星も冷えるような夜だった。

 深更、隣からの物音で目が覚める。鈴はこちらに背を向けていたが、声を押し殺して啜り泣いているのが分かった。

 彼女は時おり、決まって夜中に泣くことがあった。鈴、と呼びかけて、素肌を合わせて妻の全身を抱き締める。眠る前、どれだけ熱を与えようとも、こんな時の彼女の体はひどく冷えきっていた。

 腕の中で、鈴が身じろぎをし、こちらに顔を向ける。涙が筋となってまなじりを濡らしている。顔が綺麗だからこそ、いっそうその姿は痛々しかった。

 こんなときでさえ、鈴は一番に詫びるのだった。


「起こしてしまって、すみません……」

「いいんだよ。謝らなくていい。怖い夢を見たのかい?」

「はい……」


 妻の頭から足先までが、小刻みに震えている。その眼は俺を突き抜けて、どこか遠くを見ていた。恐怖と、怯えと、失望の光が、暗く瞳の奥に揺れている。二人を脅かす者たちが、すぐにでもどこかからやってくる、それを恐れているかのように。

 指でそっと滴を拭う。けれど、止めどなく涙はあふれてくる。

 鈴の容貌がくしゃりと歪んだ。


「わたくしには……こんなに幸せになる権利など、ないのです……。本当は、こうして生きてさえ、いけない人間なのです……」

「そんなことはない」

「ごめんなさい……本当にごめんなさい…………」

「鈴」


 わななく鈴の指が、俺の右目を隠す眼帯を撫でさする。パシフィスの火で負った傷。手術を担当したシューニャには、あと五ミリ深かったら致命傷だったと言われた。鈴はその傷に対して、そして傷を負った俺に対して、謝り続けている。まるで、この傷が彼女自身の罪悪だとでも言わんばかりに。

 そんなわけがなかった。泣きじゃくる彼女をかき抱く。泣いてほしくない。笑っていてほしい。約束したのに。誓ったはずなのに。どうしたら彼女の涙を止めることができるだろう。それさえ叶えられない己がどうしようもなく情けなく、腹立たしかった。


「泣かないで。君が泣くと、俺まで悲しい」

「セルジュ様……」

「鈴……俺は、君の味方だ。何があっても、君を愛している」


 小さく縮こまった体の震えが止まるまで、その夜はずっと、そうしていた。

 彼女の涙が乾くなら、何だってする。鈴の心の暗がりを、自分が照らさねばならないのだ。自分はきっと、照らせるはずだ。

 いくら夜が闇深くとも、朝陽は必ず昇るのだから。


 * * * *

―鈴の話


 私は、過去に囚われている。

 あの人たちに。あの場所に。あの暗闇に。そしてあの、冷たい声に。

 今が幸せであればあるほど、それを失う恐怖はどんどん膨らんでいって、無力な自分を覆い尽くしていく。



 凍てついた目と、凍てついた声が、私をその場に縫い止めました。

 すぐ近くに立っている相手が、あなたはか弱くて一人では何もできない、と言い放ちます。

 水の中のように、自分と相手の髪がゆらゆらと揺蕩たゆたっているのが見えました。周りは暗いのに先は見通せて、液体と化した闇が満ちているかのよう。相手は笑っていました。背筋がぞっとする、嘲笑でした。私をわらっているのです。


 ――あなたは何もできないお人形で、周りの人間が何でもやってくれた。

 ――それを当然だという顔で享受していた、そんなあなたが大嫌いだった。


 あなたの周りで起きたことを覚えていないのかと、相手は訊きました。

 あなたの生まれを忘れたのかと、あなたはなぜ生きているのかと、相手は訊きました。

 あなたが幸せになる権利なんてあるのかしら? 相手はそう訊きました。


「わたくしは……わたくしは……」


 空気を求める魚みたいに、口をあえがせます。けれど、何も言葉が出てきません。きっと、私に言っていい言葉なんて何もないのでしょう。相手がすべて正しいのですから。


「ねえ、お嬢様。生きているのは苦しいでしょう?私が楽にしてさしあげますわ」


 冷たい掌が頬を優しげに包みました。逃げたくても、逃げられない。相手が顔を寄せてきます。彼女の冷たい灰色の眼に、私のおののいた表情が映り込んでいました。氷水のごとく冷えきった唇が私の口元に押し当てられて、ああ、自分は死ぬのだと、それだけを悟りました。

 相手がほほえんでいるのが分かります。口から空気のあぶくを吐いて、自分の体は闇の底へ沈んでいきます。さようなら。さようなら、大切な人たち――。



「……は、ぁ……」


 目が覚めると、両の目から涙が伝っていました。この夢を見るのは何度目でしょう。私は今までに何度死んだでしょう。全身がどうしようもなく、小刻みに震えています。私にとって、先ほどまでの夢はただの夢ではありませんでした。実際の身の上と陸続きの、明日正夢になってもおかしくない、明確なリアリティーを持った悪夢。こうして大切な人の隣にいる夜でさえ、自身の中の恐怖に押し潰されそうになることは珍しくありませんでした。

 必死で嗚咽をこらえていると、衣擦れの音がしました。また旦那さまを起こしてしまった、と私の心がまた一段と沈みました。涙をできるだけ拭いて、背中側にいる彼に向き合います。起こしてしまってすみません、と謝ると、セルジュ様は微笑して首を横に振るのでした。


「いいんだよ。謝らなくていい。怖い夢を見たのかい?」


 夫のセルジュ様が優しく囁きます。こくりと頷いて、私は彼の大きな胸の中に顔を埋めました。

 自分が泣いたら、彼を困らせてしまう。涙を見せたら、彼にも悲しい思いをさせてしまう。そのことは分かっていました。けれどどうしても、自分の過去を断ち切ることができないでいるのでした。彼は黒々と渦巻く暗い過去から自分を引っ張り上げてくれるけれど、過去から伸びる彼らの手が、夜な夜な私を絡み取り、容赦なく冷たい深淵へと引きずり込むのです。

 きっと、この過去を清算しなくてはいけなくなる時が来る、と分かっていました。その日を思うと途方もなく怖い。愛しい人の腕の中で、祈るあてもないのに、私は必死に祈りました。

 どうか勇気を下さい、と。

 過去に真っ向から向き合って自分の足で立つ、強い心を下さい、と。

 それは自分自身への誓いにも似た祈りでした。藍で何度も染めたような夜、その未だ明けぬ深い底で、ただひたすらにそれだけを願い続けるのでした。

 勇気を。

 強い心を。

 どうか、私に。

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