どこかのこと 青春の箱庭と別れの曲(2/2)

 * * * *

―マシューの話


 約十メートル四方のコンクリート造りの寒々とした部屋は、トゥオネラの中で一番恐れられている部屋だ。

 自らの墓場となる場所の前で、マシューは異端審問が決まってから今までの日々を思う。時間はあっという間に過ぎた。最期の数日は監視も厳しくなり、世話になったり世話をしてきた人々に別れを伝えることすらままならなかった。付き添いの"罪"の構成員にせっつかれ、ついに異端審問が執行される部屋に一歩踏み入れたマシューは、その冷え冷えとした禍々しさに身震いする。

 ここから生きて出た人間は――異端審問官を除けば――存在しないのだから当然だが、部屋の中を見るのは初めてだった。前面は一面鏡張りになっており、ただの鏡ではなくマジックミラーのはずで、その鏡兼覗き窓の向こうにディヴィーネはいるはずだ。ローブを目深に被った付き添いの構成員は、部屋の奥に進むよう促して退出していった。鏡の向こうを睨みながら、ディヴィーネに横顔を見せる向きになり入り口を振り返る。

 付き添い人と入れ替わるように、ぬらりとルカの長い影が現れた。

 しばらく顔を合わせないうちに、彼の雰囲気はいっそう研ぎ澄まされた刃物のように変貌していた。またもぞくりと総身が震える。凍てついた光を目に宿すルカへの恐れだけではない、最後にもう一度彼に会えたという安堵のためでもある、と信じたい。

 舌で唇を湿らす。先手を打って、マシューはルカに問いかけた。


「よう、ルカ。久しぶりだな。また顔色が悪くなったんじゃないか、不眠症か?」

「……」

「なあ、あのあと、考えてくれたか?」

「……」


 ルカは口元を真一文字に結んだまま、答えない。おそらく主から問答するなと言い含められているのだろう。知るもんか。そっちがそんな考えなら、こっちもこっちだ。


「なあ、これで最後なんだ。少しは俺を楽しませてくれよ。あんなに深いことをした仲じゃないか」

「……」

「あんただって、あっさり殺してはい終わり、ってんじゃ退屈だろ、なあ?」

「……。……いえ、別に」

「おっ、喋ったな」


 にやりと笑ってみせると、ルカは仏頂面を強くする。琥珀色の瞳が鏡の方に目配せされた。ディヴィーネとの何らかの指示がやり取りされたのだろう、ルカは観念するように二、三度頭を振り、こちらへ向き直る。死ぬまでは人間として扱ってくれる気はあるらしい。

 死神を身に宿したような男が、静かに問う。


「……考えるとは、何をです」

「あんたの人生の生き方だよ」


 間髪入れずに返すと、ルカの顔が盛大にしかめられる。ぎらついた目が「その話題を即刻止めろ」と言っていたが、死を前にした人間に怖いものなどない。足を一歩前に出しながら勢いこんで続ける。


「自分で何も決めないままでいいのかって、前に言ったよな。俺はあんたが思うままに生きてほしいんだよ。こんなちんけな場所で、卑怯者の言うこと諾々と聞いてるだけの人間にしておくには、あんたは惜しすぎる。どう生きたいのか、立派な頭で考えてくれよ。あんた、したいことはないのか?」


 ややあって、ルカの唇が動く。マシューの熱をかわすように、冷淡な声音がそこを突いて出る。


「私の意思は、あの方の意思です。私の体も心も、あの方のものです。したいことなど、私には何も――」

「違う」言葉尻を待たず、強い語調で否定する。「あんたはあいつの所有物じゃない。人間は物じゃない。過去に何があったとしても、あんたの意思や人生を踏み躙っていいわけがないんだ。なあ、きっとあるだろ? あんた自身のしたいことが」

「……ありません」

「今ここで答えを出せって言ってるんじゃない。考えろよ。思考停止するな。物事を結論ありきで捉えようとするな」

「……。……これ以上、私を惑わさないで下さい。私の心を、乱さないで下さい」

「ルカ……」


 語調に滲み出る切実さに、マシューは気圧されそうになった。ルカの表情は苦々しく、強い煩悶がありありと浮かんでいる。まるで水中で息ができずに苦しんでいるみたいに見える。追い詰められている獣のようにも。

 自由意思の存在を示すこと。それはとても残酷な行為なのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。ルカとマシューでは最初から生まれた土壌が違う。

 マシューが生まれついたのは言わば元からふかふかに耕された土地だったし、土壌の豊かさに加え、収穫のための大規模な機械を導入できるだけの資金も家にはあった。翻ってルカは、土地とも呼べないような荒れ地を自力で開墾せねばならず、その上誰の力も借りられず、生き延びるためには虫や草の根すら口にしてきたかもしれない。それくらい一方はやりたいように選択する自由に恵まれ、他方は生きるためにすべての選択肢を捨てなければいけなかった。

 元々の土台が違う場所から放たれる「考えろ」という響きは、耳を塞ぎたくなる言葉かもしれない。家族も故郷も信仰も奪われたルカにとって、意思を他人に明け渡し、これしかないと信じこまされて、無機質な人形のように指示に従い続ける方が幸せなのかもしれない。

 それでも彼には、世界を自分の目で見て自分の耳で聞いて判断してほしかった。瞑っている目を開いて、"ちゃんと"生きてほしかった。

 彼を友人だと思っているから。

 ルカの表情がくしゃりと歪む。


「考えて……一体どうなるというのです。私は数えきれないほどの人間を殺しました。引き返せる段階などとうに過ぎています。今の私は死体の山の上に立っているのです」

「あんたは別に殺したくて殺したわけじゃない、そうだろ? 命令され脅されて仕方なくやったことだと言えばいい。どこの警察機関でも情状酌量の余地があると判断してくれるさ」

「あなたは何も分かっていない」


 ルカの頭が強く左右に振られる。あくまでも頑なな様子が胸にずきりと刺さる。


「なあルカ。俺はあんたのことが好きだぜ。今まであんたにそう言ってくれた人間はいるのか?」

「……」

「じゃあさ、今までに友達いたことあるか」


 ルカは答えない。ただ、伏せられた瞳がわずかに揺れているのが見える。

 マシューは彼が見ていないことを承知で、ルカに思いきり笑いかけた。


「そうかい。あんたにとって一人目の友達になれて、俺は嬉しいぜ」

「……私に友人はおりません」

「分かってないな。片方が友達だと思ってるならそれは友達なんだよ」


 その解釈はおかしいのではないでしょうか、とぼそぼそ呟く声が耳に届いて、己の命が風前の灯だというに、マシューは吹き出してしまいそうになる。

 ルカを苦しめている自覚はあったが、彼の思い悩む表情を見るのは嫌いではなかった。人間の意思を形成しているものはそもそも、脳内における様々な欲求の競争である。そのせめぎ合いに勝った欲求が意思となって意識にのぼる。意思とは、思考とは、そのようなプロセスそのものであり、つまるところ懊悩や逡巡こそが人間を人間たらしめているとも言える。

 だからこそ、苦悩の色を帯びたルカの表情は、とても人間らしいものにマシューの目に映る。

 ただし、今ここは悩めるルカのための時間と場所ではない。

 マジックミラーの向こう側から指示が飛ばされたのだろう、すっとルカの纏う空気が冷える。仕事モードというわけだ。延命は終わりだ、と宣言するように、抑揚のない凍てついた声がこちらに投げかけられる。


「そろそろ無駄話は終わりにして頂きましょう。……あなたには現在、ディヴィーネ様に対する反逆の嫌疑がかけられています。申し開きすることはございますか」

「ないね。あんな奴、大っ嫌いだ」


 少しも躊躇することなく言い放って、不遜に笑ってみせる。

 ルカの眉間の皺が深くなる。静かに怒っているのだろう。まだ脳裏に生々しく焼き付いている、彼の指が喉に絡む感触が甦り、無意識にじり、と半歩後退していた。


「痛いのは苦手なんだ、なるべく苦しまないようにしてくれよ」

「そのようなことが頼める立場だとでも」


 こちらににじり寄ってくるルカの表情から、そのときふと、"罪"の異端審問官としての表情がすうっと消え、代わりに純朴なニ十一歳の青年の顔が表出した。「ずっと不思議に思っていたことがあるのです」と、まるで生徒が教師に尋ねるときのように、何の気負いもなしに言葉が紡がれる。


「不思議? 何だよ」

「あなたは以前、人を殴ったこともないと仰っていましたね。身を守る術も身につけていないようにお見受けします。それなのになぜ、権威に逆らい、相手を否定するような言動ができるのですか」


 ルカはそれを心底不可解に感じているようだった。もう両腕を伸ばせば指先が首にかかるという距離にあって、マシューは一瞬虚を突かれたのち、こみ上げてくる笑いを奥歯で噛み殺す。


「なんでって、そんなの考えたこともなかったな。誰かと戦うのに、言葉があれば十分じゃないか?」


 琥珀色の瞳が大きく見開かれる。まったく聞き取れない未知の言語を聞くような、人語で喋る犬を発見したような、理解の範疇を超えたものを見る目をしていた。

 物理的な力だけが力を持つのではない。知こそ力なのだ。それがこんな世界であっても。

 ルカは数秒沈黙していたが、すべてを吹っ切るようにまた強く頭を振って、マシューに正対する。もう純朴な青年の顔の名残はどこにもなかった。邪魔物を排除するための獣の顔つきが、そこにはあった。

 低く冷たい声が、最後通牒を突きつける。


「あなたには、死をもって罪をあがなって頂きます。言い残すことがあればお聞きしましょう。あなたと言葉を交わすのは、これで最後です」


 マシューは少し、考えた。前から用意していた言葉たちはルカにすべて渡し終えている。自分がここでできることはもう、何もない。

 自らの命を刈り取る鎌を振り上げている死神に、マシューはにこりと笑いかけた。


「そうだな……最後に、ハグしていいか?」


 静寂。または、絶句。

 ルカは文意を一瞬失ったのだろう、硬直したあと目に見えてたじろいだ。「いいだろ?」と念押ししながら逆にこちらから歩み寄る。こんな展開は彼にとっても初めてに違いなく、冷徹な無表情が崩れかけていた。

 自分より十cm以上背が高い体に思いきって腕を回す。彼の総身がぎくりと強ばるのが分かる。マシューはルカの体温を感じ、皮膚の下で完璧に連動している筋肉を感じ、呼吸や拍動のリズムを感じた。それは機械などではありえない――たとえ体の何割かが無機物に置き換わっていたとしても――温かい生き物の存在そのものだった。

 両腕にぐっと力をこめてから、最後に広い背中をぽんぽんと叩いて体を離す。能面のような、だがマシューには呆気に取られていると分かる顔に向かって、


「あんたは人間だよ。ただの、人間だ」


 そう言ってやった。ルカは棒立ちのまま、マシューを見下ろしている。視線が交錯したのが永遠に思われたけれど、実際はほんの数瞬だったろう。

 言葉は尽くされた。二人のあいだにはただ、死あるのみ。

 いつルカの指がマシューの喉元を捉えてもおかしくないというタイミングで――

 お互いの肩が急激な空気の震えに跳ね上がる。

 緊急警報アラートだ。

 一瞬で空気が緊迫する。ビーッ、ビーッというけたたましい大音量が鳴り始め、鋭く鼓膜に突き刺さる。数秒を置いてそこかしこからばたばたという足音が一斉に聞こえ始め、誰かが悲鳴に近い金切声を上げた。

 マシューの息の根が止まるまで閉ざされるはずだった扉が、勢いよく開け放たれる。顔面蒼白の構成員が「大変です!」と息急ききって飛びこんできた。


「なんだ! 何が起きている!」


 ルカが怒鳴る。今まで聞いたこともないような大音声で。


「電源系統の不具合が発生したようです! 第九ラボから第十三ラボまで、完全に電気の供給が断たれています」

「非常用電源があるはずでは」

「はい、ですがそちらも作動しておらず……」


 ルカが珍しく焦りもあらわに舌打ちする。脳髄をがんがんと揺らすアラートはずっと鳴りっぱなしで、そのうち何らかのトランス状態に陥りそうだ。

 マシューはルカに向き直り、語調を早めた。


「ルカ、どうするんだ? 九から十三って言ったら、今の状況はかなりまずいだろ」


 電源を喪失している五つの研究室を思い浮かべる。そこには継代けいだいに熟練の技術を要する細胞や、非常に珍しいタイプの大腸菌、骨を折って遺伝子変異を加えた種々のウィルス、高額な酵素や試薬の数々が保管されている。失われれば取り戻すのに時間がかかるのは明白だ。電源がすぐに復旧しないのなら、それらをレスキューするために研究者の手が必要である。


「このままじゃ、少なくともいくつかの研究はおじゃんになる。俺に行かせてもらえれば――」


 そうですね、とルカは深く頷く。


「緊急度が高いと思われるラボに至急、向かって下さい。異端審問は後回しです、判断は一任します」

「了解だ!」


 マジックミラー越しに主と目配せしたルカの指示を聞き、マシューは弾けるように駆け出した。ルカも長い脚を素早く動かして出入口に向ける。ああ、生きてこの部屋を出ることになろうとは。

 トゥオネラのそこここを慌ただしく人が行き交っており、当該のラボに近づくにつれ、廊下にひしめき合う研究員たちが増大する。

 響き続けるアラート、忙しない足音、我が子同然の研究成果の行く末を案じる悲痛な声、悲鳴、怒声、現状報告を求める甲高い声、トゥオネラは様々な騒音で溢れかえっていた。もう誰がどこにいるかも判然としない。

 混沌とした状況の頂点で非常用電源が復旧し、どうも停電は人為的に起こされたらしいとの報告が叫ばれるまでに、そこから五分間ほどの間断があった。ほっと胸を撫で下ろす人々の波のさなかで、茶髪のアメリカ人の影を見失い、一人呆然とするルカの姿をマシューは想像する。

 先刻まで絶体絶命だった――今や騒乱から遠く離れつつある――そのアメリカ人が策を弄したのだ、と先に気づくのは、ルカとディヴィーネ、どちらであろう。

 しかしそれももう、 自分には関係のないことだった。以前から立てていた計画の通り、緊急用の脱出艇にマシューは乗り込んでいる。かつての研究室のボスと隣り合って。


 * * * *

―ルカの話


 マシューに一杯食わされことを悟ったルカが、ディヴィーネの元へ急ぎ戻ると、彼はもうすべてを了解しているようだった。

 マジックミラー越しに審問室を望む部屋で、主は落ち着き払って椅子に深く腰かけていた。こちらを見上げる凍てついた青緑の瞳に向かって、ルカは手早く説明する。

 異端審問のやり取りをしている間に、マシューのかつてのボスであった研究者が、電源系統のサーバのプログラムの一部を破壊したらしいこと。

 どういった手順かは不明だが、彼らは結託して前々から計画を立てていたと思われること。

 脱出艇を二人に奪われたこと。

 空虚なほほえみをたたえていたディヴィーネは、ルカが申し訳ございません、と頭を垂れるのとほぼ同時にけたけたと大笑いし始めた。その場にいる全員がぞっとするほどに、乾いてたがが外れた異様な笑い方で。


「あはは! はは……まったくマシューくんは本当に面白い人だなあ。こんなことをやりおおせるなんて……これほど他人に虚仮こけにされたのは初めてだよ。はは……あははは……!」


 哄笑が響く部屋で、ルカだけが顔色を変えず進言する。


「いかがなさいますか。まだ遠くには行っていないかと。追いかけますか」

「いや、今はいいや」麗しき主はぞんざいに首を振った。「今はそれより、彼にふさわしい惨い死に方を時間をかけて考えてあげようよ。それに彼は篭の外に出たつもりかもしれないけど、結局は世界中あらゆる場所が檻の中なんだし」


 どこに逃げたって、"罪"の息のかかった人間なんてごろごろいるんだからね。

 そう低く冷たく呟いて、またけたけたと笑い転げる。


 * * * *

―マシューの話


 トゥオネラからの脱出計画を立てていたとき、マシューはそれが絶対に成功するとは思っていなかった。成功率はよくて五分五分か、もっと低いと見積もっていた。

 計画の全容はこうだ。

 まず、マシュー一人では監視の目があるため"罪"から離脱するのは不可能と言ってよい。そのため、かつての研究室のボスに協力を仰ぐことにした。そうすれば二人で本部を脱することにもなり、一石二鳥だ。

 無論おおっぴらに声をかけ、直接やり取りをすることなどできない。そこで、分子生物学をかじったことのある人なら誰でも一回は夢想するであろう、必須アミノ酸の略号と、コドンを用いた暗号を用いたのである。

 必要アミノ酸はニ十種ある。その略号はアラニンがA、アルギニンがRなどと定まっていることは生物屋には周知の事実だ。さらにアミノ酸は、DNAのATCG(またはRNAのAUCG)の塩基対三種の順序によって種類が記述される。例えばアラニンならGCT(またはU)など、アルギニンならCGCなど、といったように。その順序を一覧にしたものがコドン表だ。

 マシューは教授とプリントアウトした論文をやり取りする際に、文章内のA、T、C、G、Uの文字に印を付け、コドン表に照らし合わせれば文章が浮かび上がるようにして渡していた。 この暗号は必須アミノ酸の個数の都合上不完全で、欠けているB、J、O、U、X、Zの六文字は適宜補ってもらう必要があったし、 そこに行きつく前の問題で、暗号だと気づいてもらえる確証もなかった。また、他人に感づかれれば言い逃れはできない。まさに綱渡りの作戦である。

 開始コドンを示すAUGに印を付けるとき、マシューは教授が気づいてくれますようにと強く祈った。ニ度目までは見落とされてしまったが、果たして三度目でその祈りは届いた。暗号に書いたのは電源装置のプログラムの破壊方法とその依頼、そして最も重要なタイミングの指定だった。

 そう、タイミング。

 この計画の肝は混乱を起こすタイミングにある。混乱に乗じトゥオネラを脱出するには、実働員である教授が監視の隙をついて電源系統を破壊する必要がある。だが現実的にそんな隙はない。――マシューが、ルカの異端審問を受けている時間を除いては。

 構成員の動向を監視するモニタから、ディヴィーネとルカが揃って目を離しているのは、彼らが防音室内にいるときと、ルカが何者かに異端審問を行っているときだけだ。防音室を使うタイミングは事前には予測できない。審問官は三人いて、どの審問で誰が担当になるかも当事者以外には分からない。けれど、マシューの異端審問なら。

 マシューは確信していた。自分の異端審問の担当官は百パーセントルカが指名されると。あの性悪のボスなら絶対にそうするはずだと。

 マシューの異端審問は、ディヴィーネの警戒心を薄れさせ、監視の目をかいくぐる、最初にして最後のチャンスだった。

 マシューは自らの命をチップにして、成功する方にベットした。自分の運に賭け、結果として勝負に勝利したのだ。



 目的地点を入力された脱出艇が、なめらかに推進力を増す。マシューの背中が、わずかに背もたれに押しつけられた。

 脱出艇の中でマシューは教授と視線を交わし、緊迫した空気を緩めてほっと息をつく。ここに二人が生きて揃っているのは奇跡だ。生まれてからこの方ずっと運は良かったけれど、これで手持ちの幸運も使い果たしたかもしれない。だがそれでも良かった。

 マシューは教授に預けておいた命の次に大切なヴァイオリンを受け取り、計画の仕上げにやらねばならない最後のワンステップに向き合う。ふーっと息を深く吐き、両耳のリングピアスに触れる。

 このピアスはただの装飾品ではない。これは"罪"の一員であることを示す首輪であり、枷だ。着用が義務づけられたのはディヴィーネが組織のトップに立ってから。内部にはGPSが埋めこまれているのみならず、ディヴィーネの指先の采配ひとつで装身主に耐え難い苦痛を与える引鉄ともなる。彼の手元のスイッチがひとたび入れられれば、信号を受け取ったピアス状の受信機から、全身に張り巡らされた神経へと電気信号が放たれ、直接的な刺激を引き起こし耐えがたい痛みを生みだす。当然自分の意思では外すことができない。

 だからこの小さく凶悪なドックタグは、何としてもここで捨て去る必要があった。教授が心配そうな目でこちらを見ているのが分かる。ざーっと頭や手先から血の気が引いていく。


「いや、参ったな。人生で今くらい、マゾだったら良かったのになと思ったことはないですよ」


 そう強がりを口にして、マシューは両手に全力をこめる。



「くそっ、めちゃくちゃ痛いな……最後まであいつ、腹立つ……」


 ぶつぶつ恨み言をぼやきつつ、引き千切った耳たぶの処置を終え、ダスト孔を通じてピアスを機外に捨て去る。これでもう、気がかりはない。マシューは教授に笑いかけた。教授はまだ緊張しているようだったが、こちらの笑みに釣られるように口元を笑ませる。

 ブウーンという低い機械音を聞きながら、マシューはこれまでのことと、これからのことに思いを馳せた。事象のスピードにまだ脳と体が追いつかず、想像と現実の狭間で、自分という実存がゆらゆらと揺らいでいるように感じる。まるで現実感がない。

 計画の初期段階ではルカも連れていくことを検討していたが、難易度の高さに断念せざるを得なかった。それにもしルカがここにいたら、ディヴィーネは全力をもって追手を差し向けていたに違いない。

 あの黒髪の青年は今、何をして何を思っているだろう。友と言っておきながら置き去りにした自分を恨んでいるだろうか。それでもいい。ルカが某かの感情を抱いてくれるのなら、マシューにとっては途方もない贅沢だ。

 ぴんと張りつめていた神経が少しだけ弛緩して、その間隙を縫うように、マシューの脳内に流れこんでくる曲があった。優しく切ない、ピアノのメロディー。別れの曲などと呼ばれることもある、やりきれない思い出を思い起こさせる、ショパン作曲の感傷的な曲。

 不意に、高名な音楽家であったピアノの詩人の最期が思い出された。

 ショパンは晩年、祖国ポーランドに戻りたいと強く願い続けたものの、敢えなくパリで客死する。ショパンの姉は弟の最期の願いを叶えるべく、アルコールに浸けた彼の心臓を瓶に入れてドレスの下に隠し、パリから出奔したという。その心境はいかなるものであったのだろう。かつて兄弟姉妹を捨て、今また友人を捨てたマシューには想像するべくもない。彼女の覚悟が、筆舌に尽くしがたい悲壮なものだったのだけは確かだ。

 ショパンの心臓が安置されている教会の柱には、マタイの福音書からの引用が刻まれているという。


『あなたの宝があるところに心もある』


 ――俺の大切なものは、心は、どこにあるのだろうか。

 そこまで想像したところで、"罪"でのマシューという名が、聖人マタイを由来としていることに思い至り、因果の偶然性におののく思いだった。

 この先にはどのような展開が待ち受けているのだろう。思えばあの狭い箱庭で、ハイティーンから二十代の半ばまでを過ごした。暗黒の世界の青春だろうと、マシューにとっては輝いていた日々には違いない。

 過去からぐんぐん遠ざかりながら、奥歯をぐっと噛み締める。マシューがショパンの心臓の代わりに身に隠しているのは、自身の命を唯一助けてくれるかもしれないものだ。そして今一番に願うのが、己の身の安全ではなくルカの身の安寧であることを自覚して、マシューは少しだけ苦笑した。



 ずっと前から、覚悟はできていた。

 最後にルカへ投げかけたい言葉も考えてあったし、決別の前にすべてをぶつけることもできた。だからもう、何も心残りはない。

 トゥオネラこの世界に別れを告げる心構えはできていたのだ。

 さようなら、青春の季節のきらめきよ。

 そしてルカよ、どうか思うままに生きてくれ。

 それが彼にとっては辛苦の源になろうとも、そう願わずにはいられなかった。

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