どこかのこと 青春の箱庭と別れの曲(1/2)

―マシューの話


 既に覚悟はできていた。

 己の息の根を止める異端審問官がきっとルカであろうことも、最後に彼へ投げかけたい言葉も考えてあった。だから、もう心残りはない。

 この世界に別れを告げる心構えはできている。



 かつての研究室のボスとともに、世界の果ての地で共同研究をおこなう、マシューにとっては奇妙に懐かしい生活が始まってしばらく経った。

 教授は実験の待ち時間などに、マシューに色々な話をして聞かせた。彼は大学を退官してのち、しばらくは自宅の庭を季節の植物で埋め尽くすことに熱を傾けていたらしいが、バイオ系のベンチャー企業に声をかけられ、ここ数年はそこの特別フェローに就いていたそうだ。週三日ほど技術指導のために出勤する、楽しい日々だったと語ってくれた。

 行動がすべて監視下にあるとはいえ、自分の研究室の元ポスドクと久方ぶりに会話する教授はたいそう嬉しそうだった。そんな彼の表情を、マシューは実のところ居たたまれないような、苦々しい気持ちで見ていた。

 "罪"の本部トゥオネラに連れてこられた当初、教授は"罪"に協力することを躊躇ためらった。当然の反応だろう、好き好んで禁忌に触れたがる研究者などそうそういるはずがない。

 そんな彼にディヴィーネは、ルカとマシューが聞く前で、あの独特のなめらかな声で静かに語りかけた。研究が一段落着いたら、この施設での記憶だけをピンポイントで消してあげると。非合法の研究に手を染めたというあなたの過去は綺麗さっぱり消え去り、罪悪感も持たなくて済むのだと。マシューは知っていたが到底言い出せなかった。そんな都合のいい技術が実用化されたなどと聞いた覚えはないし、この先開発される可能性もないだろうことを。

 記憶を消すなどといった、まどろっこしい手法をわざわざ生み出す必要はない。用済みの人間は、単に殺せばいいからだ。

 もちろん、マシューはかつてのボスをみすみす死なせるつもりはなかった。恩義があるし、彼ほどの権威を失うことは科学にとって大きな損失だ。しかしながら、既に目を付けられて立場を危うくしている自分が、大っぴらに動くことはできないのも事実で、選ぶとしたら方法とタイミングはひとつしかない。

 自分の身の振り方について考えるマシューは、自室で煙草をふかしながら確信を新たにしていた。



 前触れなくマシューの居室のドアがノックされ、思索に沈んでいた意識が現実へ浮上する。短くなりはじめた煙草を灰皿のへりに置き、こんな時間に誰だろうとドアロックを解除した。

 そこにうっそりと佇むのは、薄着の長身の女だった。異端審問官のひとりであるポーラ。真っ赤なルージュを引いた唇が、蠱惑さを見せつけるように弧を描いている。


「ご機嫌よう、マシューさま」

「……あねさんか。何の用だ? こんな時間に」


 眉をひそめて尋ねる。ポーラがマシューの元を訪れたことは今までに一度もない。豊かな胸元を惜しげもなくあらわにした女は、中で話してもいいかしら、と言っている最中に部屋の敷居を跨ぐ強引さを見せた。

 仕方なく彼女を迎え入れてから、流し目で突然の来訪者を観察する。マシューはなぜか彼女のお気に入りであるようで、事あるごとに絡まれてきた経験がある。好みの女性のタイプではないし、そもそもポーラと深く関わることは死と同義なので適当にあしらってはいたが、危険性がなかったら体の関係くらいは持っていたかもしれない。正直、妄想の中でなら最後までなだれこんだことがある。比較的淡白なマシューにさえそう考えさせるくらい、ポーラは扇情的な存在だった。

 被虐性を煽る冷たい灰色の眸。いつも深紅に塗られた爪と唇。血管が透けるほど白くなめらかな肌。すらりとした健康的な体躯に、たっぷりした豊満な胸。つくづく男の欲望を具現化したような女だ。本人にも少なからず、男の劣情を刺激しようと意識している部分もあるのだろう。これ見よがしに開けられた服の袷に目をやると、歩くのに合わせて大きな脂肪の塊が揺れていた。

 ポーラはつかつかと居室の奥へと歩みを進める。構成員に割り当てられた部屋は全て同じ造りなので遠慮もなにもない。彼女は灰皿の吸いさしの煙草をするりと拾い上げ、ためらいもなくそれを咥えた。そのままリビングを抜け、マシューが寝室として使っている部屋まで進み、ベッドに腰かけて足を組む。下着も穿いていないはずなのに、よくそんな芸当ができるものだと感心する。

 ポーラはふうっと気だるげに白煙を吐き出してから、マシューに告げた。煙草の吸い口に口紅がべっとりとついている。


「今夜はお願いがあって参りましたの」

「夜伽の相手ならほかを当たってくれよ。俺はまだ死にたくないんでね」


 肩を竦めて牽制すると、ポーラは愉快げに目元を緩める。


「茶化さないで下さいな。……あなたにしか頼めないことがあるのですわ。ね、ルカさまの弱点を教えて下さらない?」

「ルカの? なんでまた……」


 いぶかりながら訊き返す。ポーラとルカは同じ枢機卿であり異端審問官なので、役職的に同じ立場にある。ポーラはマシューよりも古株で、ルカはディヴィーネとともにここへ来た新参者という違いはあるが。その彼の弱味を握ろうとする意味が解せない。


「弱点たって……大体、会話が筒抜けなのにそんな話をしてたら問題になるだろ。ルカは俺たちの主様のお気に入りだぜ。俺は元々嫌われてるから構わないが……姐さんの心証が悪くなるんじゃないか」

「心配ご無用よ。ボスは今、ルカさまの独奏会をお聞きになっているもの。あの方たちは防音室の中に二人きりでいらっしゃるわ」


 そこまで折り込み済みなのか、とマシューは呆れた。「二人きり」の部分を強調する含みのある言い方が若干気になるが、突っ込まないことにする。ルカはよほどこの怖いひとの恨みを買っているらしい。大変だな、あいつも。

 目の前のポーラが不意に笑みを深めた。


「もちろん、ただでとは言いませんわ」


 すらりと長い腕が伸びてきて、出し抜けに手首を掴まれる。そのまま手がぐいと引かれ、服の下で激しく存在を主張している胸元へと掌が押し当てられた。指が沈みこみ、男を狂わせる弾力と柔らかさが布越しに伝わってくる。あまりにも唐突で大胆な行動に、どく、と体の奥の方が脈打ち熱を持つのが分かった。

 だが、マシューの心に純粋な喜びはない。ポーラの"ご褒美"は死と隣り合わせだからだ。ここで言う通りにしなければ殺すという脅しなのかもしれず、目の前に快楽か死かの究極の選択を突きつけられているとも言えた。マシューは今、理性で身の危険を感じながら、本能で愉悦を求めかけていた。

 試すような目線がこちらを捉え、どう答えたものかと思考を走らせる。先日聞いた、ルカの身の上話は弱点に入るだろうか。とはいえ、入るとしてもそれを目前の女に教える気はさらさらなかった。曲がりなりにもルカを友人と公言したのだ、たとえこんな状況でも――ルカが自分を何とも思っていなくても――己の気持ちを裏切ることはできない。

 代わりに、落としどころとして思いついたことを口に出す。


「ルカの弱点なんて思い浮かばないがな。間接的に弱点になりうるものなら教えられるぜ」


 ポーラの瞳に興味の色が表れる。マシューは語った。己とルカがたびたび、ヴァイオリンとピアノで共に演奏していたこと。その行為により、やっかみかどうかは定かではないが、主の怒りに触れたらしいこと。


「演奏自体は楽しかったがね。俺のやったことで、ルカの立場を危うくしちまったかもしれないとは思ってる。そこがウィークポイントと言えなくもないんじゃないか?」


 ディヴィーネはどうやら、ルカが弾くピアノを大切に思っている。その独占に分け入って、またルカと二人でのデュエットに持ち込めば、意図的にルカが責められるよう仕向けることも可能だろう。だがおそらくそれは、自惚れでもなくマシューにしかできない。

 理論上弱点と言えなくもないが、実際には弱点とはならない箇所。それがマシューが得た、自身もポーラも納得させる落としどころだった。

 目の前の女は返答を聞いて剣呑にほほえむ。


「それ、ご自慢?」

「は?」


 思いもよらない反応に小首を傾げる。女は短く溜め息を吐いて、灰皿はあります? と逆に訊いてきた。マシューは懐から携帯灰皿を取り出し、騎士のようにそれを恭しく差しのべて、煙草をひねり消すささやかな圧力を受け止めた。

 それが済んでから、だって、とポーラが甘えるような声を出す。


「あなたの言い方、『俺はルカと仲がいいからボスが嫉妬したんだ』と自慢してるようにしか聞こえなくてよ」

「そう聞こえたなら悪いね。なんたって俺はルカの唯一の友人なわけだし。ま、向こうにはフラれたが」

「嫌なひとね、あなたって。そんな方法、あなたしか使えないって分かっているくせに」

「嫌な人間だって、もちろん自覚してるさ。でも弱点は弱点だろ? ……さて、そろそろ対価を貰いたいんだがね」

「……本当に嫌なひと」


 ねたように言いながら、ポーラはマシューの両手を引く。どこか東洋を思わせる、ミステリアスで奥深い香水の匂いが漂ってくる。体の密着を強いられ、もはやマシューは彼女の膝の上に乗っているも同然だった。視界のほとんどを迫力のある双丘が占めている。主導権を握られるのは趣味ではないが、この光景は壮観で悪くない。

 両腕を伸ばし、背中から細い腰へと掌を滑らせ、ポーラのシルエットを指先で味わう。太ももに至った手の動きを上へ向け、とうとうふたつの丸みを下部から鷲掴みにした。文句は飛んでこなかったから、先に進んでもいいということなのだろう。魅惑的な手応えに、マシューの興奮は否応なしに高まっていく。

 ――やばいな。久しぶりに、その気になってきたかもしれない。

 ポーラの腕が伸びてきて、マシューの首の後ろに回される。吐息を含んだつやっぽい声が、耳に吹き込まれる。


「あなたもお好きね……」

「は、煽っといてよく言うぜ」

「ふふ、良くってよ。お好きに、存分に堪能なさいませ」


 余裕がなくて、駆け引きなどする気も起きなかった。色事いろごとからはだいぶ離れていたから、一度火がつくと止められそうにない。昂る欲望そのままに、ポーラをベッドに押し倒す。ふわっと立ち昇る甘やかな香りは、まるで男を狂わす媚薬のようだった。

 女は身をよじらせ、誘うような、それでいて見透かすような目をする。本当はこういうときに相手の泣き顔を見るのが趣味だが、ポーラ相手にはきっと無理だろう。

 仰向けになっても、ポーラの胸は本当に大きかった。マシューはいつも疑問に思っていたことをふと口にしてみる。


「なあ、姐さん。なんだっていつもこんな格好してるんだ?」

「だって、一番上のボタンが留まらないんですもの」


 ややずれた受け答えに笑いそうになる。就寝時の格好を訊かれて香水の種類を答えた、かの有名な女優のよう。あわせが閉まらないのなら、中に何か着ることだってできるのに。

 ポーラはマシューの耳元で「本当かどうか、お試しになる?」と囁く。


「いいや、俺はあんたに服を着せるより、脱がす方が断然いい」

「……ふふ、お上手ですこと」


 言葉尻を待たず、手を服の内側に滑りこませ、さらさらした素肌に直接触れた。相手の胸を触っているだけで自分が気持ちよくなるなんて、ティーンエイジャーのようで気恥ずかしいが、しかし仕方ない。これだけ大きいのは初めてなのだから。掌にも余る魅惑的な感触を好きに味わいながら、マシューの息は熱くなっていく。


「……なあ、姐さん」

「なあに」

「これ……舐めてもいいか」


 こちらを見上げるポーラのなめらかな頬も上気していた。裸でなく、上着を肩に引っかけたままなのがよりいっそう艶かしい。女は目元を笑ませながら、細い指先をマシューの下半身に伸ばし、つう、と撫で上げる。


「……ッ、おい」

「私にしてほしいことが別にあるのではなくって? ふふ、もうこんなにたくましくして……慎みがありませんこと」

「っは、慎みがないのはあんたの体の方だろうが……」


 ポーラの長い脚が下から絡んできてひやりとする。まるで蜘蛛の足のようだ。さしずめ毒蜘蛛の足といったところか。

 死の気配が近づいてくることを感じながら、ゆるゆると指でもてあそばれる快感で脳内はショート寸前になっていた。喉を緩めたらみっともない声が漏れそうだ。

 忌々しく思いながら、しどけなく寝そべる女を睨みつけると、してやったりと言わんばかりに喜色が顔全体に広がる。


「きちんと言葉にして下さいませ、マシューさま。そうすればちゃんと可愛がってあげますわ」

「……下、触ってくれ。ひとつ言っておくがな、可愛がるのはあんたじゃない、俺の方だ」

「口の減らないひとね。よろしいでしょう、嫌いじゃありませんわ」


 二人のあいだに不敵な笑みが交わされる。

 互いに呼気を熱くしながら主導権争いをするなんて、あまりに不毛で、不純だ。だが何も生まない無意味でただれた関係はどこか心地好くもある。口の端に薄笑いを浮かべ、ただひたすらに快楽を求めるくらいの退廃的な夜が、自分たちにはお似合いだ。

 マシューのだった脳での思考は、視界がすべてぱっと白く染まり、快楽の中に散り溶けるまで、続いた。



 数日後。

 マシューがいつものようにラボに向かうと、ドアの前が人だかりになっていた。そこには明らかにマイナスの感情が渦巻いており、肌がぴりっと緊張する。不安げなざわめきに負けじと「おい、どうした」と声を張り上げると、集団が弾かれたように一斉にこちらを向く。一様に憔悴した顔が揃っており、あまりの光景に肝を冷やした。


「ああ、マシューさん……」

「大変です」

「俺たち抗議に行こうかって今話してて」


 切実な声を掻き分けてドアの前まで到達し、マシューはははあ、と納得する。内部で光が行き交うドアの表面に、一枚の紙が無造作に貼りつけてあった。そっけないフォントで「マシュー氏に反逆の疑いあり。よって異端審問の場に召喚する。期日通り来られたし」との旨が印刷されている。誰がやったのか知らないが、連絡したければ電子メールで十分なのに、これ見よがしにアナログでアナクロな手法をとった相手に思わず笑いが込みあげる。最新技術の実験室のドアに、申し渡し書を貼る誰かの姿は、想像すると滑稽であり間抜けでもある。

 異端審問への召喚それすなわち死刑と同義なので、まあ事態としては笑い事ではないのだが、マシューにとってはいつ連絡が来てもおかしくない内容ではあった。"反逆の疑い"なんて、ディヴィーネがこの地に来た当初から持たれていたことだし、実際その意志を持ち続けてもいる。本人よりむしろ、マシューが実験の指導や助言をしてきた同僚たちの方が動揺していた。

 事によっては異端審問官のひとりであるポーラも、近々マシューの忌日が決まると知っていて、あの日部屋を訪れたのかもしれない。


「まったく、食えない女だな。姐さんは――」


 若干の苦々しさとともに恨み言が飛び出る。だがここは、最後にいい思いをさせてもらったから良しとするか。最後の晩餐としては悪い味ではなかった。

 そんなことをつらつら考えていると、


「マシューさん……」


 意を決したように名前を呼ばれ、振り返る。同じチームとして研究を進めてきたメンバーが揃って自分の傍に集っていた。皆、告別式に臨むような深刻で悲痛な表情を浮かべている。

 マシューは沈痛な空気を払いのけようと、努めて茶化すような明るい声音を作る。


「おう、何だ? また実験でうまくいかないところがあったか?」

「マシューさん、僕たち……あなたがいなくなったらどうすればいいか……」

「組織だって、困るはずです……! 私たちじゃマシューさんみたいにはできないのに」

「こんなの間違ってます!」


 彼らは途方に暮れつつも、それぞれ一対の瞳の奥に熱情の炎をともしていた。詰め寄ってくる人波を何とか押し止めようと両手で制止する。


「そんなに心配するなって。大丈夫だよ。必要な技術も知識もあらかた教えてあるし、研究者としての立場は確かに非合法だけど、お前たちの腕は本物だ。この俺が言うんだから間違いないぜ」


 はは、と笑ってみせるが、期待していたように笑いは広がらなかった。研究員たちは皆同様に目元を赤くして、見間違いでなければぐっと泣くのをこらえている。実際に、我慢できずはらはらと涙を流している者もいた。

 マシューは面食らった。確かに技術指導は熱心にやっていたけれど、よもや自分がいなくなることで、泣く人間が出るほど彼らに慕われているとは思っていなかったのだ。普段、彼らは"罪"に属する人間らしく、あまり感情を見せずごく淡々と研究を進めていた。ここにいる時点で、人間性には多かれ少なかれ欠落を抱えている人物ばかりだと思っていたのに、そんな侮りを彼らの涙がすべて吹き飛ばしてしまった。

 すすり泣きはどんどん感染していく。まるでもう自分が死んでしまったような気になる。まだ死んでないぞ、最後に生きてる俺を見ろ、との思いを込め、一番手近な二人の頭を乱暴にわしわしと撫でる。二人はわっと堰を切ったようにマシューの体に抱きついてきた。それが契機だったように、群衆がこちらに殺到してくる。上も下も分からなくなるほど揉みくちゃにされながら、マシューは幸福感が胸の内に生じていることに、少なからず戸惑っていた。

 自分が正しい道を歩いてきたとは決して思わない。真っ黒に汚れた資金で非合法な実験を行い、表立って公表することのできない研究を進めることが、世間一般的には悪だという事実を否定するつもりもない。科学的好奇心という名目の元ですら、倫理的に許されるはずのない探究行為だと分かっている。科学の道そのものにもとる行いだということも分かっている。

 ただ、日々研鑽を積んで磨いた彼らの実験の腕と情熱とを、自分一人くらいは純粋に認めてやりたい。そうマシューは思うのだ。


 * * * *

―ルカの話


 マシューの異端審問への召喚が掲示される前日。

 ルカは一人ピアノの置かれた防音室にこもり、演奏に没頭していた。弾きたくて弾いていたのではない。何かに集中していないと、寄る辺ないことを延々と考えてしまいそうだったからだ。

 十指が奏でるはベートーヴェンのピアノソナタ第十七番「テンペスト」その第三楽章。もはや奏でるというレベルではなく、文字通り嵐のように、音楽記号を無視して荒々しく指を叩きつける。

 胸の内に湧いてくる思考を封じこめるように。マシューから投げかけられた問いについて思索しないように。

 ルカは、己自身がいくつかに引き裂かれていきそうな感覚を覚えていた。ディヴィーネの元で右腕として命令を聞き、彼の望みを叶える。それで良かったはずなのに、それが自分の総てだったはずなのに、なぜかマシューの言葉を反芻してしまう。

 嫌だった。考えたくなかった。しかし、考えたくないと拒絶するほどに、脳のどこかが意志に反して「考えろ」と囁く。それがマシューの声であるのか、自身の声であるのか、ルカにはもう分からなくなっていた。

 葛藤を全部吐き出すように、高速で動いていた指が終曲と共に静止する。ルカは長身をだらりと脱力させた。息が上がり、肩が大きく上下する。足りない、と思った。まだ、体の中のどろどろしたおりを出しきるにはまったく足りない。

 力任せに十本の指すべてを鍵盤に叩きつける。滅茶苦茶な不協和音が鼓膜を刺し部屋中に響き渡るのと同時に、右手の指先に痛みが走った。


「ルカ。そんな弾き方をしたら手が壊れてしまうよ」


 なめらかで歌うような声にはっとする。横を見ると、主たるディヴィーネが艶然とほほえみ、すぐ傍まで歩み寄ってきていた。

 ルカはほとんど反射的に立ち上がる。どうやら演奏に無我夢中で、彼が入ってくるのに気づかなかったらしい。あるいは、彼が最初から部屋の中にいたか。

 ディヴィーネの女のように白くたおやかな指が伸ばされて、そっとルカの右手を持ち上げる。彼が俯くと、銀細工のように輝く髪がさらさらと揺すれ、ごくささやかな音を立てた。その様子は、清廉な花の蕾が朝露に濡れ、そっと開くさまを想起させた。

 彼に視線を誘導され自分の手に目をやると、右手人差し指の爪が割れ、うっすら血が滲んでいる。なるほど、先ほどの痛みはこれだったらしい。

 主は割れた爪先の様子をとっくりと観察する。彼の指は吸い付くようにしっとりとして、少し冷たかった。ディヴィーネはその桃色の口元をほんの少し開いたかと思うと、何の予兆もなく、艶やかな唇の中にルカの指を含んだ。

 一連の仕草はごく自然で、あっと思う間もなかった。彼の目は伏せられ、長い睫毛が震えている。温かい咥内に迎えられた指が舌に舐め回される感覚と、耳に届く濡れた音に、ルカは我知らずぞくりとした。

 おそらくそれは数秒の出来事であっただろう。気づいたときにはディヴィーネは既にルカの手を離し、なんでもないような顔でこちらの顔を見上げていた。


「後でちゃんと消毒するんだよ。指は大切にしてもらわないと、ぼくが困る」


 そしてルカが首肯するより、眼前の光景を飲み込むのよりも早く、目元だけはやや細め、優しい口調のままで先を続ける。


「マシューくんを異端審問にかけることにしたよ。担当官は、君だ」


 淡々と宣言され、体が硬くなるのが分かった。他人に警戒感を抱かせない、彼の特別な声の響き。それが今は鼓膜から脳へとぬるりと入りこみ、思考すべてを揺さぶった。主はマシューのことを、投薬や脳外科手術で意識を乗っ取り、廃人になるまで傀儡のごとく操る道は選ばなかったらしい。

 想定外の決定では決してない。しかし性急とも思えるほどにタイミングが早すぎる。

 ルカは、足元に生じた渦に呑まれていくような感覚をおぼえた。まさか、自分がマシューの共奏の誘いに乗ったことが、彼の審問を早める要因となったのだろうか? そして想定していた事態にもかかわらず、自分はなぜ衝撃を受けているのか。まったくもって不可解だった。

 その上、マシューとまた顔を合わせなくてはいけないことに、自覚なく気後れしていた。

 あの自信家の彼は最期の瞬間まで、先日ルカに投げかけたような言葉を放ってくるかもしれない。いや、殺されかけても相手を「友達」呼ばわりする奇矯な男だ、確実にそうすることだろう。己の正しさを露ほども疑わない声音で、他に進むべき道の存在をほのめかす言説。

 聞きたくない、と強く思った。認めたくはないが、またマシューの言葉に影響を受けてしまうのを避けたかった。それは己の主と信念に対する裏切りだから。

 その感情が恐れだということが、ルカには分からない。ただ漠然とした違和感が、晴れない靄のように胸の内にわだかまるばかりである。


「ルカ。お願いできるでしょう?」


 内奥の恐怖心を知ってか知らずか、ディヴィーネが微笑したまま冷淡に問うてくる。あくまでもそこに、ルカ自身の意思が必要だとでもいうように。

 これは単なる儀式だ。ルカに元より拒否権などない。しかしながら、主は欲している。マシューの殺害を、他でもないルカが自身で選び取ったという言質を。

 ディヴィーネの立ち姿はいつものように可憐そのものだ。けれどそこには確かに、すべてを隷属随従ずいじゅうさせる王の風格がある。冷たく口元を笑ませ、ひとつしかない選択肢をあえて選ばせる冷酷な彼は、ルカの目にこれまでで最も美しく映った。どんな人類も彼の圧倒的な美の前にひれ伏さずにはおれまい。ディヴィーネの前では、男女の性差も善悪の区別も意味を成さず、霞んで消えていくようだ。

 その時の彼はまさしく美の化身であった。

 ふとディヴィーネと初めて会話した日のことを思い出す。これはきっと、あの月光の夜の再現なのだ。初めて人を手にかけた日の誓い、それをルカに改めさせるための。

 そしてまた、ルカとマシュー双方への、これは罰であるのかもしれない。

 ルカにできることはひとつだけだ。目を伏せ、その場に跪いて答える。

 ただ一言、「御意」と。

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