僕らと彼らのこと 暗殺計画(4/4)

(承前)


 * * * *

―桐原錦の話


 エントランスホールで、娯楽室で、大浴場で、豪奢なステンドグラスの前で、私たちは命を賭けた一世一代の交戦を繰り返した。その間、やはりヴェルナーは一度も引鉄を引いていない。

 ひりついた緊迫感を持っていたそのやり取りは、互いに負傷の数が増えるほど、洗練さを失っていった。骨へのダメージも打撲も裂傷も、流れ出る血さえも、致命傷以外は気にかけている余裕がない。もはや意地だけで身体の状態を保っているに等しく、端から見たら大がかりな喧嘩のように映るだろう。まさしく泥試合と言えた。

 ――だが、これでいい。

 これでいいのだ。ヴェルナーと敵対すると決めた時、無傷で済むとはそもそも思っていなかった。私が抗おうとしたのはヴェルナーではなく、この理不尽な運命、そのものだ。

 未来からやってきて否応なしに人間に襲いかかる、血も涙もない数々の宿運。すべては何者かの大いなる力によって、予め定まっているのかもしれない。それでも、何の罪もない少年を、運命が無慈悲にも飲み込もうとするなら、私は。

 私は、泥にまみれ傷だらけになって、地面に這いつくばってでもそれに歯向かいたいと思う。そうでなければ、生きている甲斐が、ない。

 大切な人たちのおかげで、ようやく命の使い方が分かったのだ。

 ヴェルナーと相対しながら、左右も上下も視界が激しく入れ替わる。自分の周りを目まぐるしく見慣れぬ景色が通り過ぎていく。それはあたかも、私自身の人生そのものであるようだ。

 戦いに身を投じている自分と、こうして思考している自分とが、ふっと乖離していくような不思議な感覚に襲われる。思えば、ひとところに留まったことがほとんどない人生だった。施設から養父に引き取られてからは、同級生の顔と名前を覚える頃に居住地が変わり、やがて帰る場所も父も失って、根無し草みたいに戦地を転々とした。その果てに深い喪失を経験し、茅ヶ崎龍介に会うことを唯一のよすがとして、八年間を無為にやり過ごしてきた。

 その悪路のような道行きに同行してくれたのは、自身だけだ。自分独りだけがずっと、いつでも自分自身についてきて、傍らにいた。今までずっとそうだったから、これからもずっとそうなのだと思っていた。

 最初から持たなかったもの、諦めていたもの、途中で失ったものなど数えきれない。故郷、両親、養父、家族、友人、戦友、上官、そして、恋人。

 それら切れぎれの情景や出会った人の顔が浮かび、後ろへ飛びすさっていく。まるで人生を早送りして見ているように。まるで、これが今際の際に見る走馬灯であるかのように。

 その幻視は、没入の裏返しでもあったろう。正直に言って私は、途方もなく不謹慎ながら――高揚していたのだ。

 きっと、相手がヴェルナーだったから。

 断言する。それは相手も同じはずだと。刹那のやり取りのあわいに、ヴェルナーの口元に限りなく愉快そうな笑みが浮いていたのを、私は見た。

 この時間がいつまでも続けばいい。そうすれば永遠に、誰も死なずに済む。

 しかしながら、無限に引き延ばされたような時間にも、無情に終わりは来る。意に反してがくりと折れた私の右膝を、ヴェルナーが見逃してくれるわけがなかった。

 長期戦になれば、持久力に劣る者――ここでは体力が戻りきっていない私が不利となる。

 ものすごい衝撃が全身を襲い、それがヴェルナーの渾身の蹴りだと気づく前に、受け身を取りきれないまま背中から床に叩きつけられていた。一瞬呼吸が詰まるが無理に体を起こし、銃を構えようとする相手の腕を、槍のつかの方で遠心力を使って弾く。得物の回転の勢いを利用して立ち上がるが、崩れた体勢と趨勢は容易には戻らない。

 じりじりと追い詰められていく先は、何の因果か、最初にヴェルナーを出迎えたエントランスの二階部分だった。

 目が霞んでくる。どうにかしなければ、と思うほどに体の動きが鈍ってくる。相手とて軽傷ではない。それでもこちらの隙を縫って間合いに潜り込み、私の溝尾へ放たれた肘打ちは、雌雄を決する決定打となる威力を持っていた。

 木製の手摺りを薙ぎ倒しながら、私は仰向けにくずおれる。腐食と風化により弱くなっているとはいえ、木材の硬さは背中に多大なるダメージを与えるには充分だった。上半身が中空に投げ出され、両腕がだらんと力なくぶら下がる。得物が床に落ちる重い音がした。せめて全身が完全に落下していたら、一瞬でも距離を取れたのにな、と空虚な笑いが湧いてくる。

 決定的な構図。ヴェルナーにとってはまたとないシチュエーション。

 起き上がろうとすれば 、その瞬間に私の急所を弾丸が貫くだろう。横に体を転がそうにも、残っている柵が邪魔でできそうにない。

 間延びしたような瞬刻の中で、茅ヶ崎はどうしているだろう、と考える。まだ金庫の前にいるだろうか。彼と別れてから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。

 緩慢な仕草で拳銃を突きつけながら、なあ錦、とヴェルナーが呼びかけてくる。彼は淡く笑っていた。眉尻を下げて、もの寂しそうに。


「俺ァな、こんな形でお前とお別れするなんて残念に思ってんだ。……本当だぜ?」


 引鉄に指がかかる。身に迫る死の冷たさを、肌にひりひりと感じる。

 私は、まったく諦めてなどいなかった。

 死角になっている背中、その黒いシャツから、素早く自分の得物を引き出す。槍の質量は私の意のままに瞬間的に増し、軽く足で蹴っただけで背中の摩擦係数を運動エネルギーが超過する。その結果、全身がずるりと落下した。視界がぐるりと変化する端に、目を見張るヴェルナーの顔が映り、すぐに残像になる。よほど意外だったのだろう、銃弾はついに放たれなかった。

 体を反転させてなんとか着地したあと、エントランスと一続きの空間にあるラウンジへと転がり込む。布張りのソファがたくさんあるので弾除けにはうってつけだが、所詮は一時凌ぎだ。いつまでもこうしているわけにもいくまい。乱れた息を整えながら、態勢を立て直す算段を思案する。

 時計をちらりと確認すると、茅ヶ崎と別れて20分強。ヴェルナーはもう一階部分へ降りてきただろうか。大きくひとつ深呼吸をする。不意打ちを狙うか、また接近戦に持ち込むか。奴の居場所を探らねば――。

 そこで、この場に聞こえるはずのない声が、空間全体に響き渡る。


「先生! 上です!」


 聞き知った声が鼓膜を震わせた刹那、意味を頭で理解するのより速く、体が反射的に動いていた。総身を一回転させてその場から逃れる。視界が上を向いた際の0コンマ数秒で、ヴェルナーの位置が網膜に焼きつく。彼は壁の上方にある明かり取り用の窓枠にぶら下がって、上からこちらを狙っていたのだ。黒々とした銃口をぴたりと私に向けて。

 こちらが逃げ込んだ先を見て、一階を経ずに先ほどいた二階部分から直接あそこまで飛んだのだろう。直線距離は目算で八メートル近くある。大した跳躍力だ。椅子の裏に隠れても、確かに上からでは丸見えだ。

 いや、それよりも。


「茅ヶ崎! どうしてここにいる」


 ラウンジに走り込んできた華奢な姿に、私は蹲ったまま大声を放った。焦りの含まれた声は、5メートルほど先に立つ教え子の、こちらに向いた側頭部に間違いなく届いたはずなのに、彼は私を一瞥すらしない。ラウンジへ来る前までの交戦内容を見ていないだろうに、ヴェルナーがいる場所を言い当てて警告するという離れ業をやってのけた茅ヶ崎は、窓枠からぶら下がった赤毛の男に真っ直ぐ目線を固定し、物陰に隠れるでもなく力強く仁王立ちしていた。


「茅ヶ崎、何をしているんだ。逃げてくれ」


 遮蔽物がなく目標まで距離がある状況では、私は守るものも守れない。それどころか情けないことに、一度膝をついてしまうとなかなか立ち上がれないほど、体力を消耗している状態なのだ。茅ヶ崎に逃げてもらうほかない。

 それなのに、彼は肩越しにちらりとこちらを見やるだけで、身を隠す素振りも見せない。目線が動いたのも一瞬のことで、表情すら読めないまま、茅ヶ崎は再び前方に視線を戻してしまう。

 ヴェルナーが窓枠から飛び降りた。五メートルはあろうかという高さをものともせず、軽やかに着地する。革靴の踵が絨毯を踏み打つくぐもった音が、じっくり時間をかけて近づいてくる。

 私に顔を向けないまま、茅ヶ崎が低く問うた。


「先生……あれ、何ですか」

「あれ、というと」

「どうして"遺書"なんか、俺に託すなんて言ったんですか」


 その問いかけに、思わず瞠目してしまう。中身を見たということは、この短時間でロックされた金庫を開けたというのか? 信じがたかったが、確かに私は、あの中に大切な人へ宛てた最期の手紙――それは遺書とも呼べるだろう――を何通か入れていた。

 茅ヶ崎の問いかけの中には、噴出しないよう抑えた強い感情が如実に滲んでいる。それは怒気でもあり、悲しみでもあるだろう。己には生きろと言っておきながら、勝手に死を覚悟し受け入れた私への、膨れ上がる感情。

 彼の激情も尤もだ。しかしながらあれは、遺書でありながら遺書ではない。自分の中ではそういう認識だった。


「すまない……本当に、あれを他人に見せるつもりはなかった。君が鍵を開ける前に絶対に戻るという……願掛けだったんだ」

「……本当に?」

「ああ。昨日、意思を固めるために書いているうちに、絶対に死ねないという内容になった。勝手な言い分だが、あれは遺書ではなく、決意書のつもりだったんだ」

「そうですか。俺は自分宛のを最初の方しか読んでないから。……」


 茅ヶ崎の声がいくらか和らぐ。彼から怒りを向けられたのは、記憶にある限り初めてだった。私はどうしてだか、それが嬉しいような気さえ覚える。この少年の背中は、こんなに大きかっただろうかと、不思議と眩しく感じられた。

 これまでと、何かが違っている。茅ヶ崎の背からそんな、曖昧だが明確な違和感が放たれている。

 無論、先刻の言い訳が自分本意に過ぎることは理解しているし、茅ヶ崎だって完全には納得していないだろう。だからこそ私は、これから行動でその証明をしていく必要がある。そのためには、二人揃って現在の窮地を切り抜けることが必須条件だ。

 不意に、二本の脚で豎立じゅりつする少年がばっと両手を広げた。まるでヴェルナーの注目を、一身に集めようとするように。


「なああんた! 先生を殺したくないんだろ、だったら俺だけを撃てよ!」

「茅ヶ崎!」


 自分の呼び声に、焦燥が混じる。

 ヴェルナーが銃を握った腕を持ち上げていくのが、妙にスローモーションに見えた。

 照準が茅ヶ崎に合ってしまう直前、ようやく立ち上がることができる。私は槍の柄側を相手に向け、腕も折れよとばかり、全力を振り絞ってそれを投擲した。ヴェルナーの腕が弾かれ、銃が玩具のようにくるくると回転しながら飛んでいく。腕に当たって数回転した槍が、音も高く床に突き刺さる。そのおよそ一秒後、銃がごつりと床材にぶつかる鈍い衝撃音がラウンジに響いた。

 ヴェルナーはもう、得物を拾おうとはしなかった。私もこれ以上、道具を使うつもりはない。きっと、頭に浮かぶ考えは同じだ。結局我々は、同じ組織の同じ思想に浸って育った同胞はらからなのだから。

 思うように動かない体を叱咤しながら、ヴェルナーへと歩み寄っていく。静かな怒気を込め、相手を真っ向から睨む。


「貴様の相手は私だ。移り気は許さん」

「これはまた、熱烈なこって」


 ヴェルナーは無理に口の端を吊り上げ、切れた唇から流れ出た血を手の甲で拭う。こうして相対すると、相手も満身創痍であることが伝わってくる。


「最後は正々堂々丸腰でいこうや」

「ああ。望むところだ」


 お互いにぐっと腰を落とす。

 ここが終着点だ。本気で傷つけ合い、深い断絶を隔てた崖の端に向かい合い立っているようなものなのに、どこかしら心の繋がりめいたものを感じるのはなぜだろう。

 間近から注がれる教え子の視線をうなじあたりに感じながら、彼の名を呼ぶ。


「茅ヶ崎」

「……はい」

「釈明は後でゆっくりさせてくれ。我々から離れたところで、最後まで見届けてほしい」

「分かりました」


 気配が後退っていく。ぼろぼろになったヴェルナーの姿をしっかりと見据える。教え子の前で、これ以上みっともない姿を晒すことはできない。

 深く息を吐いた。もはや気力だけで立っている体を、もう一度奮い起たせる。身体のすべてのリソースを、目の前のことに集中させろ。ヴェルナーの一挙手一投足を捉えることだけを考えろ。この場で骨の髄まで粉々に砕けたっていい。

 互いの呼吸がだんだんと合ってくる。緩く構えながら、周りの音が急速に遠ざかっていくのを肌で感じた。両者を上空から俯瞰しているような、不可思議な感覚に没入していく。

 ヴェルナーと私の動きが、寸毫のあいだだけ静止した。

 同時に間合いへ踏み込もうとする、そのわずかに直前。


「両者、構えを解きなさい」


 空気をぴしりと打つような、張り詰めた冬の空気。それに似通った声音が、鼓膜を鋭く震わせる。

 声に聞き覚えはなかった。私とヴェルナーは一気に毒気を抜かれ――興を削がれたとも言う――割りってきた声の主の方へ視線を動かした。後背に玄関からの逆光を背負うようにして、見知らぬ男性が立っている。薄い色素の髪に、真冬に着込むようなロングコート。一体、誰だ? 訝しむ間に、さらに人影がもうひとつ走り込んできた。


「間に合ったか? 暗殺指令は取り消しだ、二人ともやめてくれ!」


 よく響く声を放ったのは、髪を後ろに撫でつけ眼帯を着けた、大柄な男だった。

 私も、ヴェルナーも茅ヶ崎も、唖然としながら二人の闖入者の全身を眺めていた。


 * * * *

―茅ヶ崎龍介の話


 俺が物音を頼りにホテルのエントランス部分に辿り着いた時、それまでの交戦の経緯などはまったく分からなかった。桐原先生がどんな状況にあるのかも、ヴェルナーの動きと狙いも。

 それなのに、なぜか俺にはヴェルナーの居場所が想像できた。正確には、ヴェルナーがのだ。眼前に映像が展開するような、それが確実に起こると自然に信じられるような、これまで感じたことのない、おかしな感覚だった。

 結果として先生は窮地を脱し、武器を用いない直接対決にもつれ込んだのだが、そこに待ったがかけられ今に至る。

 現れたのは、コートを羽織った青年と体格のいい男性。

 ヴェルナーと桐原先生の顔を窺ってみたが、先生は俺と同じような気持ちらしい。混乱しているのが表情に表れている。

 妙な静寂が場に満ちた。それを破って次に行動を起こしたのはヴェルナーだった。突然現れた背の高い方の人物にずかずかと近づき、胸倉を掴まんばかりに詰め寄っていく。

「おい、セルジュよお」と荒々しく口火を切る。


「なんでこんなところにいやがる? 取り消しってのはどういう意味だ」

「ちょっと日本に用事があったもんでな。取り消しというか、暗殺指令は元々誤報だったんだ。俺ももっと下の奴らも、誰一人そんなもの出しちゃいない。お前たち二人とも全然連絡がつかなくて焦ったよ。ともかく間に合って良かった」

「は? どういうことだよ……」


 日本語のやり取りのあと、途方に暮れたように赤毛の男が語気を緩めた。ヴェルナーの知り合いということは、二人は影のメンバーだろうか。大柄な男性はセルジュという名で、俺を殺せという命令はどうも誤りだったらしい。そんな……そんなことって。

 力が抜けて、へなへなとその場に倒れ込みそうになる。そうならなかったのは、桐原先生が肩を支えてくれたからだ。ここにいる誰よりもぼろぼろの状態なのに、その腕は力強かった。

 大柄な方の男性が俺に歩み寄ってくる。鳶色の髪を撫でつけていて、顔立ちからするに西洋人だろう。彫りの深い顔には柔和な笑みが浮かんでいるが、右目を覆う眼帯と服の上からでも分かる立派な筋肉とが柔らかさを打ち消し、総合的には怖さと威圧感がまさっていた。肩に置かれたままの先生の掌に力が入る。俺は無意識にじり、と一歩引いていた。

 男性がにかりとこれまた大きな口を開く。


「よう坊主、久しぶりだな。ずいぶん立派になったもんだ」

「え? っと……」


 一瞬呆気に取られるほど親しげに話しかけられ、俺は反応に窮してまごついた。


「なんだ、忘れちまったのか? 人相を覚えてもらうのは得意なんだがな。ま、あの頃は坊主もこーんなに小さかったから仕方ないか」


 セルジュというらしい人は、こーんなに、と言いながら右手の親指と人差し指で一センチメートルほどの隙間を作る。


「それは……小さすぎるんじゃ」

「冗談だ、冗談!」


 わははと大口を開けて相手の男が快笑する。朗々としたよく響く声だった。この空気感の中で冗談言えるのすごいな、と俺はひそかに感心した。と同時に、その磊落な雰囲気と記憶の中の人物像が一致する。


「あの……昔、誘拐された時に助けてくれた人?」

「なに?」傍らの先生が意外そうな声を上げる。

「おう、覚えててくれたか。そうだ、その時の一人だよ。いや懐かしいなあ」


 薄い茶色の片目を細めてセルジュがほほえむ。その目線がすいと隣に移る。


「桐原くんは初対面だね。初めまして」

「……どうも」


 硬い調子で、新鮮な呼び方をされた先生が手短に返す。

 俺たちからやや離れて、ヴェルナーともう一人の参入者は、小型犬の喧嘩のようにきゃんきゃんとやり合っていた。


「てめえはなんでここにいるんだよ、ドミトリー」

「野暮用です。ただの組織の駒である君に、僕らの業務は明かせません」

「ああ? 普通に会話できねえのかてめえは。相変わらず辛気くせえ顔しやがってよお」

「品のない君のような顔よりはよほどマシです」

「なんだとォ?」


 どうも二人は仲が悪いらしい。

 セルジュがちらりとそちらを見て苦笑する。肩を竦めながら、再び俺の方に向き直った。口元に微笑を残しながら、真剣な目つきになる。


「お察しだろうが、俺は影に所属する人間でね。実は……茅ヶ崎龍介くん、君に話があって俺は日本に来たんだ」

「……俺に?」

「ここではできない話だから、一日時間をくれないかな。一緒に来てほしい場所がある」


 また、これだ。自分の心境を置き去りにするように、目まぐるしく周囲の状況が変わっていく。俺は、その濁流で溺れないようなんとか必死に息継ぎをする。自分の力では沈まないようにもがくので精一杯だ。

 すうっと息を吸ってから尋ね返す。


「これから――どこに?」

「トーキョーだ」


 東京。

 その一日に一回は耳にするようなありふれた単語が、その時ばかりはいやに新鮮な響きに思えた。

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