僕らと彼らのこと 暗殺計画(3/4)

(承前)


 廃墟とは、時間の流れに取り残された場所だと、中に踏み入る前は思っていた。けれど、それは違った。

 廊下の壁に何重にもされた落書き。跡形もなく割られた窓ガラス。厚く床に堆積した埃。澱んでじめじめとしたかび臭い空気。汚らしく剥がれた天井や床材。ばらばらになった生き物の死体のようなシャンデリア。それらすべてが、取り戻しようのない時間が過ぎ去ったことを五感に語りかけてくる。

 廃墟の本質とは、可視可された不可逆な時の流れ、なのかもしれない。

 そんな風に考えつつ歩く俺の前を、顔の横にライトを掲げた桐原先生はずんずんと進んでいく。その足取りは、まるで以前もこの地に来たかのように淀みない。自分も彼の真似をして、渡されたライトで前方を照らしていた。照明など点くはずもない室内は全体的に薄暗く、暗闇が隅にしつこく居座っている部屋もある。物音は二人の歩く音だけのはずなのに、緊張感からか、反響した音が別の人間の足音にも聞こえた。

 気を紛らわせようと、前にも来たことあるんですか、と先生に尋ねてみる。いや、と背中越しに答える声は落ち着いていた。


「それにしては、すごく慣れてるような気がするんですけど」

「ああ、下調べをしてきたからな。世の中には廃墟巡りが趣味で、写真と文章をブログにまとめている人がいるんだ」

「でもこういう……勝手に建物に入るのって、大丈夫なんですか、法律とか」

「大丈夫ではない。本来は違法行為だ」

「じゃあ……」

「それでも、捕まることはほとんどない。私と君は、これで共犯者だな」


 やや冗談めかした調子で言う。

 ホテル部分の裏口から一旦外に出ると、隣に簡素な造りの小さいマンションのような建物があった。それぞれの長方形の建物は山の中腹に並んでおり、一階部分は木々や蔦などが緑色に塗り潰している。マンションめいた建造物は、ホテルの従業員向けの住宅か何かだろうか。先生はそちらへ歩いていく。足元で草や歯や小枝がぱりぱりと音をたてる。

 建物の状態はホテルよりも無残だった。壁という壁が剥落し、雨に濡れる場所のコンクリートは腐食し、ばらばらになり、住人が残したと思われるプラスチックの桶やら掃除用具やら玩具やらが散乱していた。こちらには廃墟マニアも寄りつかないようで、落書きも何もないのがいっそう寂しさを募らせる。

 桐原先生は外階段を昇りながら、ひとつひとつの部屋のドアをがちゃがちゃいわせている。鍵が開いているところを探しているのか。声をかけて、俺も手分けして探すことにする。

 同じデザインのドアをひたすら試すうち、妙な気分になってきた。永遠にこの時間が続くのではないか、ドアが開かないうちは追手もやってこないのではないか、という奇妙に間延びした気分に。時間の前後感覚が希釈されていく。そうだ、もしかしたらこれは夢なのかもしれない。本当の俺はまだ、休日の惰眠をベッドの上でむさぼっているのかもしれない。

 しかし、とうとう何回めかの試行で、がちゃり、と一室のドアノブが回った。回ってしまった。


「先生。きました」


 他の階にいた彼が戻ってくる。開け放した戸口から先生がするりと身を滑りこませるのに続き、自分も閉ざされていた部屋へと踏み入った。

 むっと黴の臭いが鼻腔を突く。中は家電などがなくがらんとしていた。靴を履いたままフローリングを進む。入ってすぐに玄関とキッチンがあり、右手に浴室への擦りガラスの扉がある。玄関からまっすぐ奥に向かうとリビング、というか茶の間があった。虫食いだらけでほつれているが畳敷きだ。とこの間にぽつんと扉のあいた小さい金庫がある他は、住人の生活を感じるようなものは何一つない。きっと、ここが廃墟になる前から空き部屋だったのだろう。

 桐原先生はそこにあった金庫をあらためて、何やらパーツをバラしたり、きりきりとダイヤルを回している。そうしておもむろに立ち上がるなり、


「君とはここでお別れだ。内側から鍵をかけてここにいるように」


 と指示をされて面食らう。反射的にえっ、と声が出た。


「お、お別れって」

「ああ……別行動ということだ。さすがに一緒にヴェルナーと相対するわけにはいかんからな。無事に戻ってきたらノックを五回打つ。そうしたら開けてくれ」


 先生が帰ってくるとはつまり、ヴェルナーがこの世からいなくなっているということだ。

 本当に? 現実感がまるでない。桐原先生はちゃんと戻ってくるだろうか。すぐに、会えるのだろうか。

 なんだか、ここで行かせてはならないという気がした。


「待っ、あの」

「茅ヶ崎」


 鷹のように鋭い目が、今は少し和らいでいる。その両目に、正面から見つめられた。

 この人は、もっと大きくなかっただろうか、とふと心がざわつく。俺の背が伸びたのかもしれない。入院生活の影響がまだ残っているのかもしれない。

 桐原先生は先ほどいじくっていた金庫を指差す。


「ここに君に託したいものが入っている。万が一……万が一、君がこれを開けるか、または一時間経っても私が戻ってこなかったら……どうにかして逃げてほしい。長谷川先生に連絡して場所は報せてある」


 そんな。どうして、そんな言い遺すような話し方をするんだ。

 いつも授業でチョークを持っていた手が、食卓で箸を握っていた手が、車のハンドルを颯爽と操っていた手が、俺の肩をぐっと掴む。痛いほどの力だった。


「無論、私は戻ってくるつもりだ。だが、必ずとは言えない。……茅ヶ崎、頼んだぞ」


 真っ直ぐすぎる視線が、俺をその場に縫い留めた。

 先生がこちらに背を向け、ドアから外へ出ていく光景が、スローモーションのように奇妙にゆっくり見えて。

 俺は何も言えなかった。呼吸が浅く、速くなる。膝頭ひざがしらが震えて、その場に崩れるように膝と掌をついた。

 桐原先生だって、俺の大切な人のひとりなのに。見慣れない汚れた床にぼたりと水滴が落ちる。自分はなんて、無力なのだろう。


 * * * *

―桐原錦の話


 茅ヶ崎と別れて、私はホテルの本体部分へ足早に戻った。ヴェルナーがここに辿り着くまでに、内部構造を頭に叩き込んでおく必要があるからだ。

 籠城して相手を迎え撃つならば、建造物の構造を把握していればいるほど優位に立てる。場を掌握して、少しでも勝機を掴むために、息を潜めて潜伏する、などという愚は犯さない。

 ホテルは湯水のごとく資金をぎ込んだと見えて、様式に節操も統一感もなく、異様に部屋数が多い。エントランスホール、だだっ広い大浴場、ビリヤード台などが打ち捨てられた娯楽室、ステンドグラスを擁したカフェの名残り、宴会場は和洋どちらもあった。

 三次元構造を頭に叩き込みながら、同時にヴェルナーの戦術を予測する。私の性格と思考の癖を熟知しているヴェルナーの、思考パターンを逆にトレースするのだ。

 奴の得物は銃だが、いわゆる狙撃手スナイパーの性質とは大きく異なっていると言える。何せ彼の相棒は、ほとんど護身用のような拳銃だ。私の攻撃圏外から狙い澄ました一発を撃ってくるのは現実的ではないから、ほぼ確実に体術を組み合わせた格闘戦を挑んでくるはずだ。

 それならば、勝算はある。

 息が上がらないぎりぎりの塩梅でくまなくホテル中を捜索した直後、自動車のスキール音がわずかに耳に届いた。


「……来たか」


 ちょうどそこに落ちていた、ひび割れたグラスを拾い上げる。酒は当然持っていないが、それでもいいだろう。目の高さに掲げてから、手にしたものを思い切り床に投げつけ、叩き割った。

 行かなければ。私の大事なすべてのものを守るために。



 予想通り、ヴェルナーはエントランスから堂々と入ってきた。私が待ち伏せして奇襲してくるとはまるで考えていないみたいに。そしてその読みは正しい。自分は玄関を見下ろす吹き抜けの二階部分に立って、睥睨するように赤髪の男を出迎えた。

 ヴェルナーは上着を脱いでおり、普段は隠されているホルスター付きのサスペンダーがあらわになっていた。拳銃を握った手を掲げながら「おうい」と気安く声を放り上げてくる。明らかに頭がおかしい人間のそれだ。


「坊っちゃんはどこだい」

「言うわけがないだろう」


 しばし睨み合う。相手の口元にはほのかな笑みがあるが、目は笑っていないどころか冷たく凍てついており、全身に纏う雰囲気もぴりりとした緊張感を孕んでいる。

 私は低く問うた。


「ヴェルナー。引き返せる最後のチャンスだ。自分の行いがお前の信念に背いていないか、己の胸に訊いてみたか? 貴様はいつから、唯々諾々と従うだけの組織の犬に成り下がった?」

「あはは。お前からそんな言葉を聞く日が来るなんてな」


 こちらを見上げた男は、尖った犬歯を覗かせて獣のように笑う。


「俺たちの組織が決めたことなんだ、それで世界が少しでも良い方向に向かうんだろうさ。そう信じてなきゃ、この組織じゃ狂わずにいられんよ」

「思考停止だな。よく考えろ、罪のない少年の命と引き換えに得たものに、一体何の価値があるんだ?」

「それをお前が問うのかよ。そんなことをほざく権利がお前にあるか? お前だって、ずっと影でそうしてきたんだろ。一を切り捨てて十を得る。それが俺たちのやり方だ」

「確かに以前はそうだったよ。胸糞悪いと思いながらも、私は組織の命令に従っていた。それが正しさだと言い聞かせて。――だが今は違う。人間は考え方を変えられる生き物だ、それが進歩ってものだろう。不変でいることは、停滞と何が違う?」

「よく喋るね。こりゃあ平行線だな」ヴェルナーは聞き分けの悪い子供の相手をしているように、苦く笑んで頭を掻く。「やっぱり、どっちかが倒れるまでやり合うしかなさそうだ。――なあ、来いよ」


 ちょいちょいと人差し指を動かす様は、不良少年がやる軽佻な挑発めいていた。

 木製の柵を乗り越えてエントランスの床へ降り立ち、改めて相手と対峙する。ヴェルナーはまだ、こちらに銃口を向けてはいない。けれど、あと少しでも刺激があれば、均衡は崩れるだろう。器を満たす水が、表面張力を超えて縁から一気に溢れるように。

 じりじりと距離を詰める。ヴェルナーが予備動作を始めて弾道がこちらに届くまでの時間と、私がそれを避けるか弾くまでにかかる時間。そこから算出される距離が我々の間合いになる。

 殺気を滲ませながら交わす会話は、とめどなく湧き溢れてくる戦意をいなすための手遊てすさびめいていた。


「坊っちゃんの場所を教えてくれりゃ、お前には手を出さずに済むんだがな。お互い不要な労力は使わん方がいいと思わねえか?」

「たわけたことを。貴様だって茅ヶ崎とは親しく言葉を交わしていただろう。情が移らんのか?」

「情?」はっ、と狼のような男が冷たくせせら笑う。「教えてやるがな、錦くん。俺が何がなんでも守りたいと思う人間はこの世に二人しかいない。分かるか? たった二人だ。その中にはお前も、ましてや坊っちゃんも入っちゃいねえ。だから俺はな、その二人以外なら切り捨てることだって厭わねえんだ」


 ヴェルナーが利き腕をもたげる。低い囁きが開戦の合図になった。


「後悔するなよ、錦」

「こちらの台詞だ」


 床を蹴る足に渾身の力をこめる。迷いと恐れを捨て、相手に肉薄した。接近戦では、銃火器よりもナイフなどの近接武器の方が有利さで上回る。掌サイズに圧縮した槍を逆手に持ち、右腕の根元を狙うも、ひらりと難なくかわされた。あはは! とヴェルナーがこんな時でもけたたましい笑い声をあげる。


「おいおい、この期に及んで無力化を狙ってんのかい? 殺す気で来いよォ、俺もその気でやってんだからさ」


 ――振るわれた銃床部分が唸りを上げて背中を掠める。あれをまともに食らったら、零コンマ何秒かは呼吸が止まっていただろう。

 懐に入ってしまえば撃ってこないはず、との推測は当たった。ヴェルナーときたら、一発しか装填されていない拳銃をたのみにしているようなものなのだ。

 奴は一人につき一発しか銃弾を使わない。それが現在の信条なのだという。

 本人やハンス君から話を聞いて、少々面食らったのは否めない。八年前の、アサルトライフルを手に戦闘へ身を投じる彼の姿を記憶していたからだ。アサルトライフルは特性上、狙い撃ちではなく連射がメインの戦い方になる。弾幕とも言っていいほどの、間髪入れない射撃の物量で場を制圧するのだ。

 ――足払いを狙った脚同士ががっちりかち合う。考えることは一緒だ。それが癪に障る。

 ところが今のヴェルナーときたらどうだ。八年ぶりに再会し、これが相棒だと量産型の拳銃を見せられたとき、私は思わず笑いそうになった。殺傷力もそれほど高くない、ありふれた型の何の変哲もない拳銃。それで、一人一発で済ませるのだから恐れ入る。

 ――溝尾みぞおちに入りそうになった拳を、すんでのところで左腕で受ける。びしり、と走る痛みには気づかないふりが正解だろう。手を捻ってヴェルナーの手首を掴み、相手の勢いを利用して投げ飛ばす。

 この極限の状況だって、闇雲に乱射はしないはず。奴が信念を曲げて、私を粗雑に扱うことはきっとない。それくらいの付き合いの深さの自負はある。ヴェルナーがただ一回引鉄を絞るときが、私の死期になるはずだ。

 それすなわち、必殺の一発。

 ――投げられた男は全身を回転させ、腰を沈めて身軽に受け身を取る。そこから次の動作に移るまで、刹那もないように感じた。真っ正面から、お互いの力がぶつかる。

 セオリー通りなら飛び道具の方が有利だろうが、我々の場合はそうでもない。

 私の手にあるのはナイフであり、投げ矢であり、槍であり、棍棒でもある。しかも自分が黒いものを身につけている限り、どこからでも回収できるから弾切れもない。

 互角か、それ以上。

 もちろん、得物の比較だけでは結果を占うことなどできない。自分自身の努力で、そこまで持っていく。

 ――二人して放った拳は相手の頬に命中した。弾かれるように飛びすさって、再び距離を取る。

 口のなかに血の味が滲んだ。それはヴェルナーも同じだったらしく、ぷっと血を吐き出して手の甲で口元を拭う。


「動けるじゃねえか、お見逸れしたぜ。病み上がりとは思えんな」

「それはどうも」

「戦い方に迷いがねェな。死ねないから生きてるだけの錦くんはどこ行ったよ? どういう心境の変化なんだか。今まさに死にかけてるってのに……」

「私は死なん」


 相手の発言を遮ってはっきり断言すると、ヴェルナーの片眉が意外そうに持ち上がる。


「へえ? ずいぶん強気じゃねぇの」

「もし貴様が勝ったとしても、貴様に私は殺せない」


 殺されても、死なない。死んでも、殺せない。

 大いに矛盾するようだが、それが現在の自分の心境であった。私の心の内は、不思議と静かに凪いでいる。


「茅ヶ崎も、水城先生も、私のことを忘れないでいてくれるだろう。貴様だってそうだ……私の今際いまわの瞬間を、自分が死ぬまで網膜に焼きつけておく。貴様はそういう男だからな。何人もの人が私を記憶してくれる。彼らの中で私は生き続ける」ヴェルナーの双眸を真っ直ぐ見据え、宣言した。「だから、怖くない」


 これは完全なる逆説だ。己が負けたとして、記憶に留めてくれる人がいる。だからこそ、思いきり戦える。死ぬ気がまったくしないほどに。

 以前抱いていたような、自分の命などいつなげうっても構わない、という捨て鉢な気持ちとは正反対のもの。こんな心情を、私は未だかつて持ち合わせたことがなかった。茅ヶ崎や水城先生たちがいてくれたから、彼らとの関わりがあったから、胸の内に生まれた強い思い。

 それが太い芯となって、自分の中心をがっちり貫いて支えている。同時に赤熱する歯車となって、自分を前へ前へと掻き立てる。心臓が熱く滾っていた。

 ヴェルナーが微笑する。いっそ儚いほどの優しさを湛えて、どこか眩しそうに。


「なるほどな、ちょっと前までの甘っちょろい錦くんとは違うってわけかい。……なんでだろうな。こんな時だってのに、お前がそんな風に断言するのが嬉しい気がするぜ」


 赤毛の男のほほえみは、しかし一瞬で獰猛なものへ塗り替えられる。


「でも残念だが、最後まで立ってるのは俺だ」

「そう思うなら、来い」


 この命のやり取りは、きっと数回では終わらない。

 長期戦の予感を頭の後ろ側あたりに感じながら、思考を後方へ置き去りにするように、また相手の間合いへと強く踏み込んでいく。


 * * * *

―茅ヶ崎龍介の話


 桐原先生と別れてしばししょぼくれていた俺は、若干気を取り直して金庫と向かい合っていた。

 先生が託したいものとは何だろう。暗証番号は俺に解けるのか。腕組みをして熟考するうちに、まずダイヤル式金庫の開け方を知らないことに気づく。

 携帯で検索してみると、ダイヤルを左右に回し、決められた数字のところに止めていくと解錠できるらしいと分かった。先生は中身を入れる前に何やら作業をしていたから、おそらくデフォルトの番号ではなく、彼の意図した番号になっているはずだ。

 肝心のダイヤルの数字は0から99まである。設定された数字を四種類と考えると、単純に百の四乗で組み合わせは一億通りあることになるが、数学教師である桐原先生が適当に数字を決めるわけがない。

 もし俺なら、どうするだろう。大切なものを仕舞うとき、鍵の番号はどう決めるだろうか?

 真っ先に閃いたのは、素数だ。一と自分自身の数字でしか割り切れない、長年数学者たちを悩ませ虜にしてきた、不思議な数字たち。

 数学の研究者は、居酒屋などの靴入れを選ぶ際に素数が振られたものを選びがちだそうだが、俺も博物館などのロッカーは素数の番号を選びたい人間なので、とても気持ちが分かる。

 百までの素数は覚えているので個数も把握している。ニ十五個だ。それを四乗するとなると……駄目だ、まだ四十万通り近くある。すべてを試していたら膨大な時間がかかってしまう。まだ、何か手がかりはないか?

 部屋をぐるぐると歩き回るうち、素数を暗証番号として使う場合には、二つのパターンがあることに思い至る。すなわち、二桁の素数を四つ組み合わせるパターンと、すべての数字を連番にして――四つの数字の組み合わせなら八桁の――大きい素数になるパターンだ。

 先生なら、後者の八桁の素数を用いる気がした。素数を四つ組み合わせても素数にならないのでは収まりが悪い。しかし、そこまで大きい桁の素数は膨大な数があり、その中からひとつを予想するのも、そもそも任意の八桁の整数が素数かどうか判断することさえ難しい。


「どうしたもんかな……」


 がしがしと頭を掻きたくなる。時刻を確認すると、桐原先生と別れてからおよそニ十分が経過していた。

 何かヒントはないかと、インスピレーションを 求めて携帯にキーワードを打ち込み検索してみる。大きい桁の数字でも、一瞬で素数判定ができるサイトが存在したのは僥倖だった。

 数字、数字、と心の内で唱える。

 そこで、目の前にぱっと光が瞬くような感覚があった。そうだ、誕生日はどうだろう?

 先生の誕生日は確か、三月十四日。どこで聞いたのか忘れてしまったが、それが円周率πの日であり、俺の誕生日は分数にすると円周率の近似値になる七月ニ十二日なので、運命的なものを感じたからよく覚えている。お互い誕生日は偶数だから、月と日を並び替えてみたらどうだろう。つまり、彼と俺の誕生日を並べて、14032207のように表すのだ。素数になる可能性がある候補は14032207、22071403のふたつ。

 このどちらかが素数なら、可能性は高いんじゃないか? さっそく素数判定機にかけてみようとするも、にわかに緊張してきて指が震え、なかなか数字が入力できない。

 やっとの思いで打ち込み、意を決してボタンをタップすると、間髪入れずに結果が表示される。14032207は素数ではない。

 この考えでは駄目なのか。唇を噛みながら次の候補を入力する。祈るような気持ちでボタンに触れた。


「おお……!」


 思わず声が漏れる。22071403は、素数だ。

 反射的に小さくガッツポーズしそうになったが、まだこれが正解と決まったわけじゃない。しかし何かに導かれているような、正しい道の感触を感じながらしっかり歩んでいるような、そんな不思議な感触があった。

 はやる気持ちを抑えながら金庫の前に蹲り、シリンダーをリセットするためにダイヤルを五回ほど回転させる。ここからが勝負だ。右に四回捻りながら22で止め、次に左に三回捻りながら07で止める。また右にニ回捻りながら14で止め、最後に左に一回捻って03で止めた。

 かちり、とわずかに軽い音がしたように聞こえたのは、果たして空耳だったのかどうか。キーを捻ると、今度こそ金属音を立てて金庫が解錠された。その音はささやかなのに、部屋全体に響いたように感じられた。

 そうっと扉を開く。存外に滑らかに開いて、中にいくつかの封筒が入っているのが目に入る。

 途端に、真水に濁った液体が拡散するように、嫌な予感が胸の内に広がる。封筒を取り出すと、宛名面に俺の名前が書かれたものもあった。

 生唾を飲む。見ない方がいいかもしれないと思いながら、封を開けて中身の便箋を見てみる。素っ気ないほどシンプルな用紙に、やや角が目立つ律儀そうな佇まいの文字が書き連ねてあった。


「……これって」


 文面の冒頭数行を読んで絶句してしまう。こんなところでのうのうとしてはいられない。居ても立ってもいられず、衝動的に部屋の扉に取りつく。

 外側に何かでバリケードがされていたとしても力ずくで突破してやる。そんな俺の気合いとは裏腹に、ドアは呆気なく外側に開いた。

 行かないと。桐原先生のところへ。

 ホテルの建屋へ向けて、震えてもつれそうになる脚を叱咤しながら、けつまろびつ全速力で急ぐ。


(続く)

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