僕らと彼らのこと 暗殺計画(2/4)
(承前)
出口のない暗いトンネルをあてどもなく
翌朝、朝食の時間には既にヴェルナーの姿はなく、ハンス君と二人で黙々と料理を食べ進める。金髪の青年はこちらを気遣わしげな、それでいて探るような視線を送ってきていた。支援部所属の彼にはおそらく指令は行っていないが、雰囲気で何かしら察するところがあるのだろう。
いずれにせよ、ヴェルナーが行動を起こす前に彼に全容を話す時が来る。ヴェルナーの部下であるハンス君は上司側につくのがほぼ確実だから、私はどのみち彼とも敵対せねばならなくなるだろう。あまりに気が重かった。事情をハンス君に説明してヴェルナーの翻意を促す――という選択肢も論理的にはないでもないが、成功率は限りなくゼロに近いと言える。
そこまで考えて、もう一人身近に影の執行部員がいることに思い至った。シャーロット・エディントン。彼女は計画を知っているのだろうか? シャーロットが何も知らないことを私は祈った。かつて私の前で少女のように怯えていた彼女の手が、教え子の血で汚れるところなど絶対に見たくない。
泥沼のような思考に沈む私に、物分かりのいい金髪の青年は何も尋ねてはこなかった。ほぼ無言のままに私は家を出、学校への道を辿りながら考える。
私はどうすべきなのか。
答えはひとつだ。ヴェルナーにあんな発言をした以上、指針など一点に定まっている。分かりきっているのに悩むのは、無意識下で結論を先送りにしているからだ。その情動はひとえに、自分の心の弱さに起因している。
こんな身体及び心理状態で、授業に集中できる道理はない。八年間教師として勤めてきて、私は初めて授業中にミスをした。
「先生、問二の右辺って二乗じゃなくて三乗じゃないですか?」
チョークを掲げた格好のまま、生徒からの声で我に返る。今、私は何を考えていた?
指摘のとおり誤っていた式を書き直す。そんな私を、生徒たちは皆責めるでもなく心配そうな表情で見つめてくる。その中には先刻までぼんやり外を眺めていた茅ヶ崎も含まれていて、ぐっと喉のあたりが詰まるのが分かった。
ヴェルナーに啖呵を切っておきながらこの体たらくは何だ。情けない。みっともない。私は教師としての職務すら全うできていない。
放課後までに、堂々巡りしていた迷いにケリをつけ、決心を固める。そもそも退路など用意されてはいないのだ。
自分にきつく言い聞かせる。成すべきことなど、最初から決まっているだろう?
* * * *
―茅ヶ崎龍介の話
携帯電話が聞き慣れないメロディーを奏でた。
画面を確認すると、表示されたのは桐原先生からのメール。彼からのメールなんて初めてのことだ。
なんだか胸騒ぎがした。時刻は午後八時過ぎ。ちょうど自分の部屋に引っ込んだところだったので、無題のメールを開封して中身を確認する。
文面は素っ気なかった。
「明日、朝七時に家に迎えに行く
貴重品をまとめておいてほしい」
唐突で不可解な文章の下に、内容を確認したら返信が欲しい旨が続けられている。
思わず首を捻ってしまう。これは一体どういうことだ。先生と約束なんてしていないはずだし、俺が忘れているだけだとして、土曜日にこんな時間に家に来る用事が思いつかない。迎えとは何だ? 俺はどこに行くんだ?
鳩尾のあたりがざわざわする。今日の先生はずっと心ここにあらずといった雰囲気で、切羽詰まったような、噴出しそうな焦りを押し殺した顔をしていた。その様子を思い返したら詮索する気にはなれず、というか、何かしら訊けば取り返しのつかない重大な言葉が返ってくる予感がして、ただ「分かりました」と送信することしかできなかった。
翌朝、約束の二十分ほど前に起きる。まだ外は薄暗く、ぼんやりした頭はガス欠したように動きがのろい。空気の冷え込みを感じながら可能な限り手早く着替え、昨日のうちに荷物を入れたボディバッグを身に付ければ、もう準備は終わりだった。
親には昨日、学校の用事で担任の先生が家に迎えに来る、とだけ説明していた。二人とももっと事情を聞きたそうな顔つきだったが、朝早いから早めに寝たいと伝えると口を噤んだ。
両親ともまだ眠っているのか、一階には降りてきていなかった。おなかは空いているが、この先を思うと食欲は湧かない。食パンを焼かずにもそもそ咀嚼するだけで朝食とし、耳を澄ませて家の前に車のエンジン音が滑り込むのを聞く。
スニーカーの紐はいつもよりきつめに結んだ。玄関のドアを開ける前に、なんとなく振り返って室内を数秒眺める。その光景はどこかよそよそしく、透明な壁を隔てた向こうにあるように見えた。もしかしたら俺はもうここに帰ってこないのかもしれない。そんな不可思議な思いにとらわれる。
外では桐原先生が車の助手席の傍らに立ち、俺を待っていた。片手を上げる彼の表情は硬く、笑みはない。黒いシャツに黒いニットを重ねて、ボトムスはブラックデニムという出で立ち。彼のイメージは黒だけれど、ここまで黒ずくめの桐原先生を見るのは初めてだ。
時間が妙に引き伸ばされたみたいな、変な感覚を覚えながら、彼のそばまで歩み寄る。「突然すまないな」「いえ」と短く言葉を交わして、彼が開けてくれたドアを
自分のうちの車とは違う、柑橘系の香りがほのかに混じった空気に包まれる。爽やかなそれに反し、緊張を孕んだ雰囲気は質量を感じるほどに重苦しかった。
シートベルトを締める間に、先生が口を開く。
「親御さんにはどれくらい話してきた?」
「学校の用事で、ってくらいです」
「そうか。……出発するぞ」
どこへ行くのか、何のためか、そもそもこの状況は何なのか、何も分からないままに車体が震え、すうっと体が前方へ動き出す。心だけを出発地点に取り残していくように。
あの、昨日のメールって、と仔細を訊こうとすると、相手はこちらを見ずに手で制してきた。
「訊きたいことはたくさんあると思う。……私は口が上手くないし、どう説明するのが適切なのか分からないんだが――」
彼が歯切れ悪くなるのは言いにくいことがあるからだ。出会ってからの半年でそれくらいは俺にも分かるようになっていた。桐原先生は「いや、この期に及んでうだうだ言っていられないな」と呟いてから深く息を吐く。
赤信号で停車した車内で、彼の目が真っ直ぐ俺を捉える。
「これを言わないと何も話ができないからストレートに言う。君に暗殺命令が出ている」
「え……」
暗殺、命令。俺を殺せという命令。つまり、予見が今現実問題となって、この車は"罪"の連中に追われているということなのか。
ルカと邂逅した日のことが、恐怖を伴って鮮明に思い出される。
「それって、俺を
「いや……そういうことではない」
先生の表情には少し疲れが滲んでいて、まるで俺の言葉のとおりであったら良かった、と語るような渋いものだ。
そして、俺は決定的な言葉を聞くことになる。
「命令を下したのは……影の上層部だ。ヴェルナーと私が、一昨日その指令を受け取った。……君を、今日中に殺せと言われている」
驚愕してそこにある顔を凝視する。
影が、殺せと。影は、桐原先生は、ヴェルナーは、俺を守ってくれるんじゃなかったのか? ルカから俺を守ってくれたのもあの軽薄な赤毛の男だ。もしかして、今から向かう先にヴェルナーもいて――。頭が疑問でいっぱいになって、呼吸を忘れた喉が空気を求めて喘ぐ。
信号が青に変わる。先生は視線を前方に戻す。
「どうして、なんですか」
「文化祭で"罪"の襲撃を受けただろう。次同じようなことが起これば、一般人に被害が出ないとも限らない。だから脅威の芽は育つ前に摘み取っておく。そういう方針なんだよ、影は。考え方は"罪"と変わらない。一を切り捨てて十を助ける。外道のやることだ」
吐き捨てるような物言いは、多分に怒気を含んでいた。そのことに違和感を覚える。
「じゃあ、先生は……」
「私は君をどうこうするつもりはない。当然だ。私は君の身の安全を確保するためにここにいる」
きっぱりとした否定に、やっと浅く息を吸う。けれど、私"は"ということは、もしかして。
俺の考えを呼んだかのように、桐原先生が硬い声音で続ける。
「ただ、ヴェルは上からの命令に従うつもりらしい。奴とはもう決別してきた。今は、あいつとは敵同士だ」
「そんな……だってヴェルさん、あんなに親しげに話しかけたりしてくれたのに……」
嘘だ、と喚いてしまいたかった。全てを否定的して、理性を失ってしまいたかった。徐々に状況を理解し始めた体が小刻みに震えだす。あの赤い目が敵意に満ちて、こちらを冷たく見据える様が目の前にちらつく。
「私が以前、ヴェルについて話したことを覚えているかね」
桐原先生は静かに、否、無理に感情を抑えた調子で問うてくる。
「あいつは私と違って、命令されれば誰にでも銃口を向ける。そのようなことを言ったことを」
――私に銃口を向けることすら厭わないだろう。
記憶の中の先生の声が再生される。覚えていた。ぶるり、と全身が震える。
「
「それは」
先生の責任じゃ絶対ないですよ、と言いたかったのに、口の中がからからに乾いてうまく言葉にならなかった。
感情も、思考も、ついていかない。状況という濁流に呑まれる俺に、桐原先生の言葉がさらなる追い打ちをかけてくる。
「ヴェルには何も言わずに出てきたが、おそらくあいつはそのうち我々を追いかけてくるはずだ。見つかってどうにもならなくなったら、私は君を守るためにヴェルと戦う。私たちが死ぬか、あいつが死ぬか、ふたつにひとつだ」
極限の選択肢に絶句する。
それまでの日常が終わったことを、ヴェルナーと会った夜に、俺は理解したはずだった。あるいは俺の日常なんて、幼い頃に誘拐された日に終わっていたのかもしれないが。いずれにしても、俺の覚悟は全然足りていなかった。何もかもが起こりうると、俺の想定を遥かに超えた事態に見舞われるかもしれないのだと、正しく認識できていなかったのだ。
「つまりこれは逃避行というわけだ」とぽつりと漏らされた桐原先生の言葉は、場を緩ませるための冗談なのか、独り言だったのか。しかしその響きはどこまでも張り詰めている。
「……全然ロマンチックじゃないですね」
「まったくだ」
なんとか絞り出した言葉に、先生はぴくりとも表情を動かさずに頷く。
その時不意に理解した。彼でさえ、冗談めいたことを口に出さねば、参ってしまいそうなほどの状況なのだと。
車は海沿いの国道を南下していく。水平線の彼方まで広がる海は、曇天の下で濁った泥水みたいな色に見える。土曜日の朝方は両車線とも空いていた。
「そういえば、どこに向かうかは決まってるんですか。あ、空港から外国に逃げるとか?」
「いや、それはできないな」先生は今日初めて、口の端でわずかに笑った。「国外の方が、話の通じない影の奴らがたくさんいる。ヴェルナーの方がまだマシだ。一応、目指している場所はある」
「じゃあ、そもそも逃げるんじゃなくて、どこかに匿ってもらうわけにはいかないんですか。警察とか」
「警察? 彼らは何もしてはくれんよ。いつだって影の味方だからな」
「……そうですか」
「つまり、我々は世界の誰にも頼れず、国家権力をも敵に回しているということだ。恐ろしいことに」
その顔はもう真顔に戻っている。座っているのに、立ち眩みのように視界がぐらぐら揺れた。先生と俺の二人だけで、世界を相手に逃げ惑っているなんて。
名前も忘れたたくさんの歌手が、記憶の中で歌っている。世界が敵になっても、僕だけは君を守る。そのような意味の歌詞を。
ありがちな歌の状況が現実に身に降りかかるなんて、想像できる人がどれだけいるだろう? 実際身を置いてみて分かる。そこに詩情のかけらもへったくれもないってことが。
桐原先生が隣にいてくれなかったら、俺はとっくに駄目になっていたかもしれない。どころか、もうヴェルナーに撃たれて死んでいたかもしれないのだ。
「あの……どうして、そこまでしてくれるんですか」
「うん?」
ぼそりと呟いた疑問を、運転中の先生は聞き漏らさないでくれた。
自分の身も危険に晒してまで、俺を守ろうとしてくれる理由。それが気にかかったのだ。
「ありがたいことですけど、何も命を賭けて俺を守ろうとしなくたって……。死ぬ、かもしれないんですよ」
「理解している。その上で君と共にいるんだ」
「それが、どうしてなんですか」
「私が情や憐れみでこんなことをしていると思うかね」
相手の口調がそれまでになく強く、はっきりしたものになる。はっとして精悍な横顔を見つめた。彫りの深い顔は努めて冷静を保っているようだったけれど、今まで見たことのない激情が滲み出ているのが俺には分かった。
「そんなものじゃない。私は怒っているんだよ。影に対して、震えるほど腹が立っている。大声でふざけるな、と叫びたいくらい憤っている。今の私の行動原理は、怒りだ。結局は自分の気持ちに従っているわけで、言わば、これは私のエゴなんだよ」
「それは」
そんなものをエゴと言ってしまっていいのだろうか。そんな、純粋な義憤の発露を。
ありがたくて、こんな状況なのに嬉しくて、俺は少し泣きそうになった。そして、
「何が影だ。たかが運命に、唯々諾々と従ってたまるか」
低く呟かれた反抗的な言葉が、俺の中に巣くっていた諦念を底の方へ押しやっていく。彼はこんなに強い意思をあらわにする人だったろうか。エネルギーの籠った声が俺の中の深いところに刺さり、心の大切なところに火を点けたように感じた。
「茅ヶ崎。君ももっと、わがままになっていいんだ」
こちらに訴えかける先生の声が、切々と胸に迫ってくる。
「君はさっき、何も守ろうとしなくたって、と言っただろう。なぜそんなに聞き分けがいい? もっと感情的になってもいいんだ。感情を曝け出して、取り乱してもいいんだよ。――他人のことなんて今は考えなくていい。私は、君に生きることだけ考えてほしい」
「先生……」
「茅ヶ崎。手を伸ばしてくれ。そうしたら、私は君の手を取ることができる。……君は、死にたくないだろう?」
前方の信号が変わり、車体が緩やかに前のめる。自分と桐原先生の視線がかち合った。睨むほどに強くぶれのない双眸は、きっと俺の写し鏡でもあるのだろう。
手を伸ばせ、というのが物理的な意味でないことくらい、俺にも分かった。相手の感情がストレートに突き刺さってきて、腹の底から揺さぶられる。全身を巡る血が沸き、ふつふつと熱い感情が湧いてきた。
俺はどうしたい。次々に身の回りの人の顔が、俺に笑いかけている皆の顔が、目の前に浮かんでくる。両親。輝。九条先輩。太田。太田の兄たち。クラスメイト。この時ばかりは速見千雪の顔が思い浮かんでも憎たらしいとは思わなかった。これだけ距離が離れれば、千尋とて手出しできないような予感があったからだ。
そして、未咲。
彼女とつい昨日、約束した。明日、未咲の家へ行って、彼女と話をすると。
約束を守りたい。こんなところで、自分の人生を終えたくない。こんなところで、死んでたまるか。
「死にたくなんか、ありません。力を貸して下さい」
おなかにぐっと力を溜めて宣言する。桐原先生は俺の思いを受け止めるように、よし、と重く深く頷く。唇に優しい笑みが浮かび上がるのが、とても頼もしく見えた。
「腹が決まれば体の準備もせねばならんな。朝、何か食べてきたか?」
「……少しだけ」
「そうか」
青信号を確認するや否や、車は交差点の対岸にあるコンビニの駐車場へ、するりと吸い込まれていった。
ほんの数十分前は吐きそうなほど体調が悪かったけれど、桐原先生と話した今、それなりに食欲は戻ってきていた。
先生は惣菜パンと温かいカフェオレを買い、俺はピザまんを彼に買ってもらって車に戻る。先生に言われて座る場所を助手席から後部座席に変えた。走行音で意思疎通が難しくなるが、何か意図があるのだろう。先生はピザまんに苦い思い出でもあるのか、チーズが糸引くそれをはふはふと食べる俺を、どこか渋い顔でヘッドレスト越しに見やっていた。
車は最寄りのインターチェンジから高速道路に乗り、さらに南へ向かう。右手にはずっと日本海があり、雲が多い空の下、冬の荒海の片鱗を見せ始めていた。
トンネルと寂れた集落が交互に現れるのを車窓から何度か眺めて、一時間ほど経っただろうか。
桐原先生がルームミラーにちらりと目をやり、「……来たな」と低く呟いた。
やにわに空気がぴりっと緊張する。後部座席で身を屈めていると、先生に「後ろを確認してくれないか。慎重にな」と促され、そろりと座席から顔の半分だけを出す。
三秒分くらいの車間を空けて、白い普通車――たぶんセダンというやつだろう――が着いてきている。車種までは詳しくないので分からないが、国産車であることは確かだ。レンタカーなのかもしれない。そして、運転しているのはヴェルさんではないらしかった。遠目からでも目立つ赤髪は、助手席の背もたれ部分にある。
それらを先生に伝えると、ありがとう、と硬い声が返る。ミラーを通して表情を確認すると、さすがに表情が強ばっていた。
ヴェルナーが助手席にいるということはつまり、両手を空けておきたいという意図があるのだろう。彼と初めて会ったとき、懐から取り出された拳銃の重々しく鈍い光を思い出し、寒気を感じて無意識に体を抱く。
「ヴェルさん……撃ってきますかね?」
「可能性は低いと思う。奴の拳銃は威力はさほどないし、周りに他の車両もいる。警察が向こうの味方とはいえ、大騒ぎになるのは避けたいはずだ。ガラスとか、狙えばタイヤをパンクさせることはできるだろうが……こちらの車がスピンでもしたら向こうも巻き込まれる可能性もあるからな」
「そう、ですか」
冷静な分析を聞いてふっと小さく息を吐く。そのタイミングで車内のどこかから着信音が流れ始めた。俺の携帯電話の音ではないから、先生のだろう。彼は忌々しそうに舌打ちし、シャツのポケットにあった端末を二、三操作してからダッシュボードに立てかけた。
スピーカーホンにした端末から、やや割れたヴェルナーの声が流れてくる。
『よぉう。二人きりでドライブを楽しんでるとこ、失礼するぜぇ』
この状況を揶揄するような、わざとらしく間延びした口調は常と変わらないものだ。のんびりしているとも言えるほどの、あまりにいつも通りの調子が、かえって恐ろしさを際立たせていて総毛立った。何度も親しく言葉を交わした相手をその手で葬ることも、彼にとっては日々の延長、単なる影の仕事の一環でしかないのだろう。それが態度に如実に現れているようでぞっとする。
端末の持ち主の対応は冷ややかだ。
「何の用だ。やっと私に協力する気になったのか?」
『
「そう思うなら力を貸せ。貴様こそなぜ愚かな選択をしていると気づかない? 上層部の訳の分からない決定に言いなりになって、貴様に矜持や誇りはないのか」
『あは、日本人は精神論が好きだなあ。心の底から納得できる上の決定なんて、これまでに一度でもあったか? 俺ァ大人になったんだよ、お前と違ってな』
二人のやり取りは凍てつくほどの温度で、剣呑で、冷淡だ。まるで抜き身の刀身が鍔迫り合いをしているような殺気と
俺の体は知らず小刻みに震えていた。ヴェルナーの様子が怖かったというのもあるけれど、二人が完全に袂を分かってしまったのを目前にして、人間関係の儚さに茫然としてしまったのだ。桐原先生の入院中、病室での二人の漫才にも似た丁々発止を思い出す。表面上は鋭い言葉をぶつけ合っていたけれど、その奥には確かに信頼や彼らが重ねてきた年月が垣間見え、形容のできない唯一無二の間柄であるとひしひしと伝わってきた。それなのに。
二人の関係を完膚なきまでに壊してしまったのは、俺なのだ。俺の存在が、長い時間をかけて築いてきたものを台無しにしてしまった。先生はきっと、それは君のせいじゃない、とはっきり言ってくれるだろう。けれど、こんな場面をまざまざと見せつけられて、平常心でいろという方が無理だった。
桐原先生が鼻を鳴らし、なあヴェルナー、とスピーカーの向こうへ静かに呼びかける。
「今日になってふと疑問に思ったことがあるんだ。不思議だと思わないか? 暗殺指令になぜ期限が付いているのか」
『……何の話だ?』
ヴェルナーは急に言葉少なになり、訝しむ様子を見せる。
「"罪"の都合で期日が決まっている作戦ならともかく、暗殺指令だけなら期限など設ける必要性がないだろう。ターゲットが素人なら、司令が下されてすぐ担当者が動けばそれで事足りる。この言わば猶予は、一体何のためにある? どういう意味があるんだ? 期限を超えたら命令はどうなる?」
畳み掛けるような疑問に、軽薄なはずの男が押し黙る。
そういえば、先生は"一昨日司令を受けて""今日中に殺せと言われた"と説明していた。確かに気にかかることではあるけれど――この状況を打開するのに効力がある問いかけ、とは思えなかった。
俺の懸念通り、調子を取り戻したヴェルナーがははあ、と鼻で笑うのを端末が拾う。
『なるほどな、お前の考えが読めたぜ。そうやって考えさせて、時間稼ぎしようって魂胆なんだろ? 見え透いたこった』
「ヴェルナー、私は――」
『お前がそういう考えなら、もう話すことはねェよ。せいぜい天国に行けるように祈っとけ』
通話が一方的にぶつりと切られ、一定の走行音だけが耳に戻ってくる。桐原先生は先ほどより強く舌打ちして、祈ってもお互い地獄行きは決まっているだろう、と憤然とぼやいた。
振り返って後ろの様子を見てみると、相手方の車はぐんぐんと大きくなってきている。ついに始まってしまう。物理的な対立が。
先生が「座席に伏せて隠れていてくれ」と鋭く叫ぶ。
慌てて座席にうつ伏せになると、心音が座面に反響して、鼓動がより大きく感じられた。それは緊張を反映してどくどくと激しく波打ち、車外の音をかき消すほどだ。
外の様子が分からないことが、想像以上に不安を掻き立てる。今にもこの車に横付けした向こうの車体が、思い切り体当たりしてくるのではないか。接近した車窓からヴェルナーがこちらを覗いていて、拳銃の真っ黒い深淵がこちらに向けられるのではないか。
どっと湧いてきた恐怖が、胸の内側を濁った鼠色に塗り潰していく。
「すまん、運転が荒れるぞ」
切羽詰まった声はほぼ怒鳴るようだった。その宣告どおり、そこから加速と減速が激しく切り替わり始める。同時に車体が右に左に間断なく蛇行し、車に酔ったことのない俺でも気分が悪くなってきた。
何回目かの急ブレーキで勢い余って座席から落下する。脇腹を強打するが、慣性の法則を呪う余裕もなかった。先生も俺の体勢など気にしていられなさそうだ。
腹のすぐ下でごおーっとタイヤが地面を噛む音が響く。今、この車はふたつの運命を乗せて時速百キロ超で走っている。その行く末を思う心の暇もない。
スピードに翻弄されるのがしばらく続いて、どのくらい経ったろう。数分だったのかもしれないし、一時間にも感じられた。
突然、前触れのない急加速が全身を揺さぶる。危険を感じるほどハンドルが鋭く切られ、危うく舌を噛みかけた。何が起こったのかと混乱に見舞われている間に、ジェットコースターの落下に似た浮遊感が胃に襲いかかる。
声を出さなくて済んだのは、あまりの事態に言葉を失っていたからで、全身は冷や汗をかき、内心ではみっともなく叫び続けていた。
車の速度が緩やかに落ち、一度速度をやや上げてからやがて停車する。おそるおそる上体を起こして外を見やると、インターチェンジ周辺特有の、道路と街路樹が織り成す景色が見えた。いつの間にか、高速を降りていたのだ。
桐原先生がふーっと息を吐き、「大丈夫か?」と訊いてくる。
「……はい。あの、ヴェルさんたちは」
「振り切るために減速せずインターチェンジを降りたから、一旦は撒いたよ。あのまま通りすぎていったから、さすがに逆走はしない……と思いたいな」
彼の声には、精神的ではない疲労感が見え隠れしていた。
高速道路上での攻防を俺は全く目の当たりにしていないけれど、先生がそれと覚らせずにものすごいスピードで車線を変更するのが、目に見えるような気がした。一度速度が落ちたタイミングでETCを抜けていたのだろう。彼のテクニックに感謝しなければいけない。
目前の信号に従い、またゆるゆると車が発進する。
その後は会話らしい会話もなく――お互いその気力も持っていかれていた――真剣な顔で車を操る先生を、斜め後ろからぼんやり眺めていた。これで終わりではない、という当然の事実が気を重くさせる。
俺たちは最終決戦の場へ着々と近づきつつある。その実感が肌をひりつかせた。
高速道路を離れて二十分ほど経った。そのあいだに、車は勾配の緩い坂をずっと登っていくような道を進み、辺りが林がちになり、コテージや別荘らしき建物がぽつぽつと散見されるようになってきた。それらのいずれもがどこかくたびれていて、全盛の時代はとうに過ぎ去ったことを教えてくれる。
やがて我々が到着したのは、打ち捨てられたという形容詞がぴったりの、林間にあるうらぶれた廃ホテルだった。
長年人の手が加わっていないと目に分かる、薄汚れたクリーム色の外壁。一昔前には持て
時の無情な流れに取り残された雰囲気の建物はそれでも、訪問者を迎え入れるように
全身をぞわりと震えが駆けていく。
「ここが、目的地ですか?」
「そうだ。これからは籠城戦になる。……行こう」
桐原先生は車のトランクから角ばった鞄を取り出して、それを手に迷いなく先導していく。
地面を踏みしめると、ぱり、と積もった枯れ葉が音を立て、それがいやに耳の奥にこびりついた。
(続く)
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