僕らと彼らのこと 暗殺計画(1/4)

―茅ヶ崎龍介の話


 早く大人になる方法を知りたかった。

 今の自分はあまりに無力だから。


 自分の武器――イコール、己にできること――さえ見つければ、思い悩まずに大人になれる、いつからかそんな気がしていた。俺にとって武器探しとは、いつしか大人への通過儀礼イニシエーションの意味合いを持つものになっていたのだ。

 進路調査票を前に唸った夜、そのもっとずっと前から、大人数の授業もまともに受けられない俺は、人と上手く付き合えない俺は、他人と違っている世界を見ている俺は、きっと武器を探してもがいていた。

 自分の中に何かしらあるはずなんて、楽観的にはなれなかった。何かあってほしいと、渇望するように求めていた。迫り来る未来の不安に呑みこまれ、溺れてしまいそうだったから。

 宿命ではなく、使命でもないもの。誰かから与えられるものじゃなく、自分で探して掴み取るもの。

 宿命や使命を薙ぎ払える、俺の武器とは、何だ。

 そこへ投げこまれた千雪の「特別な人間」という言葉は救命用の浮き輪にも似て、武器探しの手がかりに思えた。だから俺はその言葉の意味を、自分に置き換えて考えている。

 俺は彼女ほど超常的な力があるわけじゃない。けれど数学に関しては、ささやかな才能を持っていると言えるのではないか。それが未来という名の、巨大な怪物に向き合うための武器になるのではないか。

 それは暗黒の深海でもがき続けた末に見つけた、一筋の光のように俺の目には映った。



 千雪の不可思議な転入騒動から一週間が経過した。

 一人増えたクラス――厳密には二人なのだが、それを知っているのは俺だけだ――も、それだけ経てば違和感はやわらぐ。千雪は女子の中でも華やかなグループで大半の時間を過ごし、気まぐれのように別のグループに身を置いていた。時には男子の集団に一人で突撃したりもするのだから、すごい度胸ではある。もしかしたらその時は双子の片割れ――千尋の人格になっている可能性もあるが、俺はなるべく彼女/彼に関わらないように過ごしていたのでよくは知らない。確かなことは、学校生活で千雪たちの視線をいちいち意識せねばならなくなったという点だ。

 俺は今までにないストレスを感じていた。なにせ、頼みの綱である桐原先生にも相談ができないのだから。

 好きでもないのに、むしろ嫌いな方なのに、その人間ばかりに思考を割かねばならないのは辛いものがある。憂鬱な気分で教室の移動中に職員室の前を通りかかると、真っ先に耳が反応した。忌々しい彼女の声だ。見ると、職員室の出入口付近で、千雪が他の誰でもない桐原先生に話しかけているではないか。周りに他の生徒はいない。得体の知れない転入生は何か、桐原先生相手にも企んでいることがあるのでは? 背筋がひやりとし、胸の内に焦燥感が渦巻く。


「っ、速見!」


 焦って発した声は不必要に大きく、桐原先生と千雪の顔が揃ってこちらを向く。茅ヶ崎? と少し驚いた表情の先生に対し、ファッション誌のモデルのようにほほえんだ千雪は少しも表情を崩さない。


「どうしたんだ、そんな大きい声を出して」

「いや……別に。速見、行くぞ。次の授業まで時間ないんだから」

「はーい」


 強引に話を切ったのに眉ひとつ動かさず、千雪は素直に踵を返す。意味深な含み笑いを、俺は見なかったことにした。「もうそんな時間だったか?」と後ろで不思議そうに腕に目をやる先生にも、気づかないふりをする。千雪は意気揚々と俺の隣を歩き始めた。


「茅ヶ崎くん、わざわざ迎えに来てくれたの? 優しいんだね」

「違うに決まってんだろ。絡んでくんなよ」

「どうして? 話しかけてきたのは茅ヶ崎くんなのに」

「分かってるくせに。俺がお前相手に何も……」

「楽しそうだね、二人とも」


 刺々しい言葉を投げ返していると、まったく楽しそうじゃない声が俺たちを追い抜いていく。冷たい視線を横目で送ってきたのは誰あろう、幼なじみの未咲だった。ぐっと喉の奥が詰まる。

 彼女だけでなく、クラスメイトはどうも俺と千雪の仲を誤解している節があり、まことしやかな噂さえ囁かれていた。曰く、千雪は昔遠くに転校していった俺の同級生で、偶然の再会を果たした二人は急接近し、付き合っているとかいないとか、云々。そんな一ミリも正確でない噂は発生源が千雪の可能性もあり、俺は見えないところで頭を抱えていた。ここ二、三日はしくしくと胃が痛み始めてすらいる。

 速見千雪。そして影だけの存在、速見千尋。

 初対面のはずの俺に、一体何の恨みがある? 彼らの立場と目的が分からない以上、俺にはどうするこたもできなかった。



 針のむしろのような学校生活は過ぎるのが遅い。やっと昼休み後の掃除の時間を終え、クラスに戻ろうとすると、放課後教室に残るように千雪から言われていたことを思い出し、一気に気分が塞ぎこむ。一体何の用なのか。無視して帰ってしまいたいが、報復が怖すぎる。

 どんよりしながら歩いていると、聞き覚えのある声に呼び止められた。


「茅ヶ崎くん」


 そちらを見ると、生徒会長――先日未咲が推薦した同級生がめでたく会長に就任したので元・生徒会長か――の九条悟が正面から歩いてきているのだった。

 九条は前髪をワックスか何かで上げていて、ネクタイをわずかに緩め、片手をポケットに無造作に突っこんでいた。初めて見る姿だ。別人に見間違えはしないが、雰囲気が以前とまるで変わっている。


「どうも……先輩、なんか雰囲気変わりましたね」

「あはは、よく言われる」


 直截的すぎる俺の物言いにも、九条は屈託なく笑う。どこか吹っ切れたような、快活な笑い方だった。


「もう生徒会長じゃなくなったからね。制服も、正直言うと少し窮屈だったんだ。ちゃんと仕事はまっとうしたんだし、少し着崩してたって、今さら文句言われる筋合いはないだろ?」


 さばけた口調で冗談めかし、肩を竦める。元・生徒会長はそのまま廊下の壁に半身を預けて寄りかかった。ラフで男前な仕草にはわざとらしさはまったくなく、それが彼の自然体なのだろうと思わせた。


「茅ヶ崎くんは、最近どう?」


 どう、と言われても。まさか超絶甘党の同級生の女子に超常的な力で脅されてて怖くて困ってます、とは口が裂けても言えない。


「まあ、ぼちぼちです」

「そっか。何か困ったことがあったら言ってよ。俺にできることは何でもやるから」


 そういえば連絡先交換してなかったよね、と促され、なぜか日向ひなた成分満載の先輩と日陰者の俺が携帯電話を突き合わせることになった。今の悩みは誰にも相談できないが、気持ちはもちろんありがたい。ただ、九条がなぜ俺をそこまで気にかけるのかは謎だ。まだバスケ部に勧誘することを諦めていないのだろうか。

 九条が目元を緩めて俺を見る。


「俺さ、茅ヶ崎くんと篠村しのむらさんにはすごく感謝してるんだ。友達に肩の力抜けって言われて、その言葉を受け入れられたのは二人のおかげだし。自分の素を出してたら何割かの人には嫌われるかもしれないけど、それでもいいかって今は思ってる。息するのが楽になったよ。変わるきっかけをくれてありがとう」


 九条はとびきり優しく微笑して、その眩しさに目がやられそうになった。本人は嫌われるかもと言うが、優等生然としていた時よりもモテそうな気がした。気取らない彼は男ぶりが上がっており、同性の自分が唸るほど魅力的に見える。それはさておき、なぜ今の文脈で俺と未咲の名前が出てくるのか咄嗟には思い及ばず、曖昧に頷いておく。その疑問も、


「おいおい九条、俺たち友達じゃないだろ。親友だろ~?」


 死角から出現した人影によって途端に四散した。

 突然現れた爬虫類似の影は先輩にぺたりと張りつき、そう主張しながらにやにやと笑う。影もとい爬虫類もとい男子生徒はたぶん会ったことがなく、ネクタイの色から察するに九条と同じ二年生だ。バスケ部副キャプテンの元生徒会長よりなお身長が高く、親の敵のように髪の毛先をぴんぴん逆立てている。


「なんだよ、ジン。聞いてたのか」

「そんなにモテなくたっていいだろ、元生徒会長さん? どうせ全員と付き合えるわけじゃねーんだからさ」


 そういうのやめろよ、と笑いながら九条が爬虫類男を振り解く。

 闖入者に俺は目を白黒させていたが、不意にジンと呼ばれた彼の細い目がぎろりとこちらを捉えた。


「で、誰?」

「ほら、篠村さんの……」


 九条が囁くと他称ジンはああ、と訳知り顔で得心する。それから何秒か、じろじろ見られた。とても決まり悪い。そして。


「ふーん。頼りなさそう」

「おい、失礼だろ。初対面なのに」


 初対面じゃなくても面と向かって頼りなさそうはどうかと思うが、実際言葉どおりなので口をつぐむしかない。

 九条はばつが悪そうな顔で微笑した。


「ごめんな、茅ヶ崎くん、邪魔しちゃって。それじゃ、一言お礼を言いたかっただけだから」

「あ、はい。あの、お礼って――」


 何のですか、と訊く前に、ジンとやらが先輩の肩を抱き、くるりと方向転換させてしまう。


「九条ー、今日は早めに部活終わらせるぞお。楽しい楽しい合コンが俺たちを待っている」

「おおっぴらに職権濫用するなよ。それに合コンって……ファミレスでメシ食うだけだろ」

「男女同数で食事したらどこでだって合コンになんだよ」


 会話は丸聞こえで、そうなのかなあ? と苦笑する九条は困りながらも楽しそうだった。彼はメシ食う、なんて言い方をするのか。新鮮で、なおかつ輝いて見えた。俺があんな風に心底から笑ったのはいつが最後だったろう。

 俺に感謝の言葉を伝えてきた先輩が、今は無性に羨ましく思われた。



 放課後。俺と千雪のほかに誰もいなくなった教室に、晩秋の寂しげな夕陽が入りこむ。

 俺は言われたとおり、クラスに残って自分の席に座っていた。何もかもがオレンジがかった教室を、長い髪をゆらめかせてゆっくりと歩き回る千雪はどこか人外めいている。逢魔が時とはよく言ったものだ。


「能力がある人間は、それを生かすべきである。この命題は真か、偽か」

「無理に命題とか言わなくていいんだよ」


 不機嫌を隠さずに言い返す。ぐるぐると俺の周囲を回り続ける千雪に既に辟易し始めていたのだ。放課後残れと言われて何の用かと思えば、先日の喫茶店を彷彿とさせるご高説が始まった。そんなのいいから、早く帰って気を休めたい。おそらく家でも千尋の監視下なのだろうが、実際に千雪と顔を合わせているよりは百倍マシだ。


「ノリが悪いなあ、茅ヶ崎くんは。……私は最大限に生かしてるよ。人のために、自分の能力を」


 歌うような言い分は、彼女の背後に何者かの存在を匂わせていた。千雪はきっと、何者かの指示に従って俺と接触している。それは間違いない。だからといって、何か対策ができるわけでもない。

 千雪の遊歩は続く。


「一方で茅ヶ崎くんはどう? 能力はあるのに、それを全然生かしていない。生かそうともしていない。それって損失なんじゃないかな」

「は……? 損失?」

「そう、損失。君にとっても、世界にとっても」

「世界って……スケールがでかすぎるだろ」


 話が胡乱うろんな方向に転がっている気配がした。顔をしかめる俺を一顧だにせず、千雪の弁舌はいや増して滑らかになる。


「そんなことないよ。所詮人間世界や社会なんて、個人がより集まってでき上がってるものでしょう。個人が能力を発揮しただけで、世界全体の潮流や趨勢が変わっても全然不思議じゃない。バタフライ・エフェクトの例えもある」

「……荒唐無稽だ」

「そうかな? 一人の人間が世界を変えることは歴史上、往々にしてあった。アインシュタインが存在したこの世界と、彼が存在しなかった世界はまるきり様相が違うはず。アインシュタインをエジソンや、ベートーヴェンと言い換えてもいい。もしかしたら君だって、それくらいのポテンシャルを秘めているかも」

「適当なことを言うな」

「どうして? 分からないじゃない。君の能力の全貌が見えない限り、どんな可能性だって存在する。磨く努力をしなければ、茅ヶ崎くんはいつまでも原石のままだと思うけどね」

「……結局、何が言いたいんだよ? 意見を言うなら結論から言え」

「結論もなにも、私は茅ヶ崎くんと楽しいお喋りがしたいだけだよ。世間話に結論なんてないでしょう? そんなに喧嘩腰にならなくたって、取って食べたりしないって」


 千雪は悪戯っぽくほほえむが、これが世間話のはずがなかった。まるで掌からぬるぬると抜け出る鰻を相手にするようだ。真意を聞き出そうと追いこんだつもりでも、するりと器用にかわされてしまう。こいつと会話するときに、ペースに飲まれずにいられた試しがない。

 千雪は不意に立ち止まって、こくりと可憐に小首を傾げる。


「でもそうだなあ。そんなに君がかたくななら、話題を変えようか?」


 ぜひそうしてくれ。肩の力を抜いて若干息をいたのも束の間、千雪がぐんぐん歩み寄ってきて、整った顔がずいと近づけられた。

 正体不明の美少女は脈絡をぶったぎって言う。


「未咲さんのことが好き?」


 なぜ急に、未咲の名前が。自分でもびっくりするくらい動揺した。速見兄妹がこの地へ来てから、未咲とはほとんどまともに話せていない。それでもお見通しということなのか。

 揺さぶられて木の実を落とす樹木のように、本人にさえ伝えたことのない本音が、ほろりと口を突いて出る。


「好き、だと思う。……たぶん」


 そっか、という千雪の短い相槌の言葉尻を、ドアのスライド音が奪う。はっとして振り返る俺の視線と、何も気づかずに入ってこようとする未咲の視線がかち合った。

 一瞬が引き伸ばされて、色々な思いが交錯したかのように感じられた。未咲は教室に俺たち二人しかいないのを見て取ると、焦ったようにくるりと体を反転させる。俺は鞄をひっ掴んでから、じろりと千雪を振り返り見た。もう話は済んだのかと目線で問う。どうぞ、という風に片手が差し出される。

 俺の一連の行動は、おそらく今までの人生で一番素早かった。

 さすが陸上短距離のエースというべきか、未咲は既に廊下のだいぶ先を行っている。辺りに人影はなく、全力疾走しながら思い切り声を張り上げた。


「未咲! 待て、待ってくれ!」


 瞬間、ためらったように先行く体が揺れる。スカートがふわりと広がって、未咲の横顔が覗いた。鞄をかなぐり捨て、無我夢中で彼女に肉薄する。掌が面に当たった痛みで、我に返る。

 未咲が腕の中にいた。突き当たりのドアに背中を預け、至近距離から俺を見上げている。彼女の逃げ道を、俺の両腕が塞ぐ格好になっていた。

 もしかしなくてもこれはいわゆる、壁ドンというやつなのでは。

 人生初の大それた行為に頓着する余裕もなく、ほとんど口に任せるように言葉を継いでいく。


「未咲……今週末、時間をくれ。お前と話がしたい。できれば、お前の家で」


 未咲の唇が二、三度、震えるように動く。か細い声が絞り出される。


「……土曜は、夕方まで部活だから」

「じゃあ、日曜日。お前の家に行く」


 自分の声は自身で驚くほど切羽詰まっていた。実際、一世一代の正念場くらいの心積りだった。頼む。うんと言ってくれ。

 返事を待つ時間が永遠に思われた。気がはやる。祈りにも似た気持ちが胸に生じる。

 未咲は唖然としていたが、結局は毒気が抜かれたような顔で、こくりと頷いてくれた。



「龍ちゃん、顔色が悪いみたいだけど、大丈夫? 何かあった?」


 母親の気遣わしげな声ではっとする。夕飯を食べている最中に、考え事にふけってしまっていたらしい。心に浮かんでいたのは未咲の顔であり、速見兄妹の存在であり、その他もやもやしたあれこれであった。

 テーブルの上には栄養のバランスが取れた色とりどりの料理が並んでいる。今夜のメニューは中華で揃えられていた。あまりにも健全で、灰色に塗り潰されたような俺の思考には眩しすぎる。

 茶碗と箸を持ったまま母親と父親の顔を見やる。二人とも、心配を表情に滲ませて俺を見つめていた。何かあった、か。それをここでぶちまけてしまえたらどんなに楽だろう。助けてと言えたらどんなにいいだろう。

 平静を装いながら、ふるふると首を横に振る。


「……いや、別に」

「そう? 何かあったら遠慮なく言ってね」

「龍介、何か困り事があったら相談するんだぞ。お父さんでも、お母さんでもいいから」

「うん……分かってる」


 分かっていても、どうにもならないことだってある。

 そそくさと夕飯を終え、今日の課題に取り組んで、入浴を済ませた。寝支度をしてから寝間着でベッドに横たわり、自室の天井を何ともなしに見上げる。

 そこには幼い頃の俺が貼った、星形の蓄光シールがちりばめられて光を放っていた。

 困り事、か。俺はきっと恵まれているのだろうと思う。優しく穏やかな両親のもとに生まれた人間ばかりじゃないのだから。うまく甘えられたら良かったのにと感じることもある。

 思い返せばあのとき――進路調査票を前に呻いた夜、俺はなぜ両親に相談するという発想に至らなかったのだろう。今の俺なら答えられる。数ヶ月前の俺は、両親にさえ心を開いていなかったのだ。

 俺は人と違っているから。変わっているから。だからそのことで、両親に迷惑や心配をかけてはいけない。そんな観念が芽生えたのはきっと、共感覚のことを口に出してからだ。小学生になりたての頃、周囲に共感覚について知っている人はおらず、幼い語彙ではうまく説明もできなくて、俺は嘘吐き扱いされた。その話を担任教師から聞かされたときの、両親の困惑した顔は、未だに記憶に深く刻まれている。

 俺は子供ながらに悟った。ああ、余計なことを言って、親を困らせてはいけないのだ、と。

 今ならそんな考えは鼻で笑ってしまえる。親に迷惑をかけなくては子は生きていけない。それに、太田をはじめとしたクラスメイトとの付き合いで、他人は意外とどんな話でも受け止めてくれるのだ、と今の俺は知っている。二人目の父親のような存在の桐原先生だっている。

 けれど――悩みが誰にも相談できないのなら、どうすればいいのだろう?

 遠くから眠気がやってくる気配がする。毛布を引っ張り上げて、鼻のあたりまでうずめた。相談できない悩みなら、答えはひとつだ。

 全部一人で解決するほかにない。


 * * * *

―桐原錦の話


 手の中の携帯端末が、ツー、ツー、と通話終了を無情に告げる。

 無意識に腕が脱力し、重りのようにだらりと下がった。部屋のソファに身を預けているヴェルナーを力なく振り返り見る。血色の双眸が、挑むような色を帯びてこちらを見返していた。



 最悪の事態が起こる前に、予兆があったらどんなにいいだろう。

 ほとんどの場合、事態の急変は突然訪れる。人の都合などお構いなしに。その日の一本の電話は、まさに晴天の霹靂だった。

 木曜日の夜、午後十時。夕飯後の後片付けを終えて一息つく、一日の終わり。退院後の日常もやっとリズムを取り戻してきた。数学の専門誌を流し読む私の背後、ドアの向こうでヴェルナーが通話をしているのが切れ切れに聞こえる。

 何か、ただならぬ気配を感じた。最初は軽薄な調子で応対していた彼の声が、次第に低く真剣味を帯びてくるのが伝わってくる。通話を終えてリビングに戻ってきたヴェルナーはひやりとするほど深刻な顔で、今まで見た彼のうち、一番冷酷な表情を貼りつけていた。

 事態が動いている。きっと悪い方向に。


「どうかしたか?」

「……ああ。いや……、じきにお前にも連絡が来る。そうすりゃ分かるさ」


 不穏な気配。いつになく言葉少ななヴェルナーがソファの対面に座る。

 間を置かず、組織から貸し出されている携帯端末が振動した。聞きたくない。耳を塞ぎたい。拒む気持ちを押し込め、通話のマークをスライドさせる。

 私はたぶん、聞き間違えたのだろうと思った。自分の聞き違いだと思いこみたかったのかもしれない。スピーカーから流れてくる組織のメンバーの声は平坦で、淡々としていて、そんな重大な指令を口にしているとは信じられなかった。時間が静止したような感覚に陥り、できることなら永遠に時間が止まればいいのにと願った。私は喘鳴ぜんめいに近い己の呼吸音を感じた。肋骨を内から激しく叩く拍動が、速まっていくのを感じた。

 通話相手はこう告げていた。

 茅ヶ崎龍介を暗殺せよ、と。



 相手の言い分を要約するとこうだ。

 茅ヶ崎龍介は今や、影にとって非常に危険な人物となりつつある。現にルカとの接触の際には、人的被害は無かったものの民間人が大勢巻き込まれた。今後ルカクラスの"罪"メンバーが、再び彼に接触を図る可能性も否定できない。影側の危険因子となった以上、組織としては看過することは得策ではないとの結論を得た。

 期限は二日後。日本時間で土曜日の二三時五九分。手段は定めない。可能な限り茅ヶ崎龍介以外の民間人を巻き込まないこと。

 それが影からの命令だった。抗議するいとまもなく通話は一方的に切られ、直後は激しい脱力感に襲われた。一転、次第に胃の腑からふつふつと、全身の血が沸騰するかのような怒りが湧き上がる。


「こんな……こんな、馬鹿げた話があるか!」


 居ても立ってもいられず、リビングを歩き回りながら怒気をぶちまける。そんな私をソファにもたれたままで見る、ヴェルナーの目は冷ややかだ。

 腹が立つ。茅ヶ崎に目をかけておきながら、平然と無情な決定ができる上層部にも。そんな理不尽な指令を受けておいて、冷静でいられるヴェルナーにも。

 私の非難の声は止まらない。


「大体、ルカの接触を予見できなかった理由も上層部の落ち度だし、彼の言った蕾やら歓迎するといった言葉の意味だって、まだ分かっていないんだぞ! なのに、それを棚に上げて――」

「だからだろ」


 ヴェルナーはにべもなく、ぴしゃりと言い放つ。

 優雅に脚を組み替えて、まるで読んでいた本の内容に言及するかのように、他人事めいた調子で言う。


「坊っちゃん絡みで色んなことが起こって、組織の人間も考えるのが面倒になったのかもな。難しい問題が書かれた紙があったとして、馬鹿正直に頭を悩ましてやる義理なんざねえんだ。その紙を綺麗さっぱり燃やしちまえば、問題を解決できなくとも、問題を考える必要はなくなる。簡単な話さ」

「茅ヶ崎は一般人だぞ……私たちとは訳が違う。こちらの事情に巻き込むなんて、非人道的だろう」

「何言ってる? 坊っちゃんは元々、当事者だろ」


 ヴェルナーの冷然とした態度を前に、ある想像に至って私は不意にぞっとした。背中に冷水をぶち撒けられたように、総身がぶるりと震える。


「ヴェル、まさかとは思うが……影の指令に、従うつもりなのか?」

「まさか、って何? 命令されたらやる。それが俺の仕事だよ。そのためにここにいる」


 ヴェルナーは流れる水みたいにさらりと答えた。それが当然で、まるで常識だとでも言うようのうに。目の前にいるはずの赤毛の男との距離が、急速に開いていく心地がした。

 くずおれそうになる膝を叱り、気を奮い立たせ、精神的に離れた距離を跳び越えてヴェルナーに詰め寄る。いつかの喧嘩の再現のように、相手の胸ぐらを激しく掴み上げていた。


「貴様……正気か」

「正気も正気、大真面目だよ」


 ヴェルナーは小さく肩を竦め、検分するようにこちらをじっと見返す。まるで顕微鏡のレンズだ、と思う。こちらを試す、無機的な冷たい光。しかし私にだって譲れないものはある。


「茅ヶ崎に手出しするのなら、私が許さない」

「威勢がいいな、錦くん。さて、ここで俺を殺してみるかい?」

「……それは……」

「いいぜ、やるときゃあんまり苦しまないようにしてくれよ。でもな、俺が死んだって何の解決にもなりゃしないことくらい、お前は分かってるだろ。お前こそ、反逆者になるつもりなのか?」


「反逆者だと?」私の心は急激に冷えてきていた。ヴェルナーへの冷たく理性的な敵意がむくむくと膨らんでくる。こいつに反対するということはつまり、組織全体に反旗をひるがえすということだ。それが意味する恐ろしさは、茅ヶ崎を裏切る恐ろしさよりは遥かに小さい。


「ヴェルナー。私は影に戻るときに言ったはずだ。組織のエージェントとしての立場より、教師としての立場を優先すると。その時が来たというだけだ。私には組織の命令より、先立せるものがある」

「そうかよ。だったら今から、俺とお前は敵同士だ」


 ヴェルナーは犬歯を剥き出しにして笑った。それは笑みというより、野生の獣がする威嚇そのものだった。私は勢いよく突き放され、緊迫した空気が互いのあいだに漂う。


「お前ができないなら俺がやってやるよ。お前は坊っちゃんに入れ込みすぎた。お前は何もかも、聞かなかったふりをしてりゃいい。知らなかったふりで自分さえ騙しゃいいのさ。そしたらこれから先も、俺だけに憎しみを持って生きていける。簡単だろ?」

「待て、ヴェルナー。私の話を聞け。組織の言いなりになって人の道を踏み外すつもりか?」


 私の言い終わりを待たず、相手は火が着いたみたいにけらけらと笑いだした。たがが外れたような壮絶な笑い方だ。


「こんなときに慣れないジョークかい、錦くん。聞いてどうなるよ? お前と交わすべき言葉なんてもう何もない。挑発したって無駄だぜ。こちとら人間の道なんてとっくに踏み外してんだよ、お前だってそうだろうが」

「……」

「なあ、余計な気は回すなよ? 俺だってお前を殺したいわけじゃない。水城ちゃんを悲しませたくはねえからな」


 ヴェルナーの固めた意思の頑なさに、無意識に拳を握りしめていた。目の前の男はソファから立ち上がり、まるで「分かってるだろ?」とでも言うように、こちらの肩をとんとんと叩く。シャワー借りるから、と背中越しに伝えてくる男の後ろ姿を、私はなすすべもなく見送っていた。


(続く)

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