どこかのこと ヴァイオリンとピアノⅡ

―マシューの話


 円形の防音室に、ヴァイオリンとピアノの音色が絡んでたゆたう。

 ルカが日本での任務を一旦終えて、"罪"ペッカートゥムの本部であるトゥオネラに戻ってきて早々、マシューは暇を見つけては彼を捕まえ、二重奏デュエットの練習を繰り返していた。ルカの方は数ヶ月前の「一緒に演奏しよう」というマシューの誘いを真に受けていなかったらしいが、こちらは真面目も真面目、心からの本音である。ルカがあからさまに嫌な顔をするのにも構わず、マシューは半ば強引にピアノがある部屋へ彼を押し込め続けた。

 とはいえ渋面を作りながらも、練習を始めれば最後まで付き合ってくれるのだから、つくづくルカというのは妙な男ではある、とマシューは思う。

 その日、共奏の課題曲に選んだのはドルドラ作曲の「思い出」だった。甘く郷愁を誘う美しいメロディーが印象的な小品である。難度は高くない曲なので、すぐにでも通しで演奏できるかとマシューは見通しを立てていた。ところが。


「あーちょっと、待った待った」


 ルカの弾きぶりにストップの合図を出さざるを得ず、ヴァイオリンの弓を緩く振るう。

 ルカは感情を塵ほども乗せていない顔でマシューを振り仰ぐ。この男と並んだら仮面でさえもっと表情豊かに見えそうだ。

 無論、彼の演奏に技術的な問題はない。しかしルカの演奏ときたら、後悔ばかりしてきた死期間近の老人が、暖炉端で過去を追想しているような、そんな印象なのである。この曲をそんなに寂しく弾けるなんて、むしろ才能だとすら思える。


「なあルカ。もっとこう、軽やかに弾けないもんかね? まだ若いんだからさ」

「具体的に、どう弾けというのですか」

「楽しい思い出とか嬉しかった記憶とか、あんたにもあるだろ? そういうのを思い出して、懐かしむ気持ちで弾いたらいいんじゃないか」


 そうアドバイスをすると、二十一歳にしては老成しすぎている青年はわずかに小首を傾げる。


「……そのような感情はもう、忘れました」

「忘れた、ってなあ……そういうのは忘れるもんとは違うんじゃないのか?」


 マシューにはルカの言い方が冗談に聞こえたため、肩をすくめて笑ってみたものの、ルカはいたって真剣な顔でこちらを見返している。ああそうだな、こいつは冗談なんて言う奴じゃないよな、とマシューは嘆息を漏らしそうになりながら笑いを引っこめた。


「楽しいとか嬉しいとか懐かしいとか、そういう気持ちを忘れるくらいに辛い過去ばっかり。そういうことかい?」

「あなたという人は――本当に無遠慮ですね。あなた自身は気にしていなくても、周りはよく思っていませんよ、きっと」


 マシューの指摘に、ルカが先ほどとは表情を変え、目を鋭くして敵意を滲ませる。常人ならその眼光に震え上がるところだろうが、マシューにはそんなルカの反応が興味深くもあり、もっと露骨に言うと面白くもあった。初対面の頃はそんな皮肉を返されるなんて想像もできなかったのだ。

 彼の人間らしいところを垣間かいま見て、マシューは息子が初めて言葉を喋るのを聞くような、妙な感慨を覚えていた。息子なんてまだ持っていないけれど。

 そういうわけで、思わずルカに笑みを向ける。


「ほうほう、あんたも嫌味を言うようになったのか。これは感慨深いなあ」

「なぜそんなに楽しそうなんです」


 得体の知れない珍妙な形状の深海生物を見るような、いぶかしげな目がこちらに向けられる。


「いやいや、こっちの話だよ。それで? 本当に辛いことばかりの人生だったのか?」

「……辛かったかどうか、それももう忘れました」


 ルカは鍵盤に視線を落としながら、独り言のように呟いた。それが予期していたのより何倍もシリアスな声音だったので、マシューは反応に窮する。

 マシューは知らない。ルカがどんな人生を歩んで今ここにいて、自分と出会ったのか。けれどその選択が、彼の自由意思によるものであったらいいな、と思う。マシュー自身がこの道を選んだのが、まったくの自由意思であったように。

 不意にルカがこちらを見た。敵意も警戒もない、驚くほどにただ澄んだ瞳で。


「そう言うあなたは……どうだったのですか。あなたにも子供時代があったのでしょう。どういった人生でしたか」

「珍しいな。あんたが俺に個人的な質問をするなんて」

「……差し支えるのであれば、撤回します」

「いやいや、質問が駄目なんて言ってないだろ。むしろ嬉しいよ」


 純粋な好奇心の芽生えが奥にちらついていたルカの目が、にわかに厳しくなる。今度の表情は地球外生命体をめつけるようで、眉間の皺が深くなった。

 まあそうだな、特別面白い話はできないだろうけど、と前置きしてから、マシューはヴァイオリンを椅子の上に置いて話し始めた。己の半生について。

 アメリカはワシントン州の裕福な家庭に生まれ、豊富な知識に浴しながら成長したこと。

 勉学もスポーツも音楽も甲乙つけがたいほど好きだったこと。

 若くして博士号を取得し、ポスドクとして研究を始めた頃まではすべてが順風満帆であったこと。

 進めていた研究が学会により凍結の決定を受け、研究室そのものを解体せざるを得なくなったこと。

 路頭に迷う寸前、凍結された研究を続けられると"罪"のスカウトマンに聞かされ、ふたつ返事でこの組織に来たこと。

 そしてアメリカを発つ前、母親が作る好物のクラムチャウダーを食べ損ねたことなどを話した。途中、ルカは相槌も打つことなくマシューの話にじっと耳を傾けていた。


「とまあ、ざっとこんなもんかな。聞いてもそんなに楽しくはなかったろ?」

「……あなたは、恵まれた人生を歩んでこられたのですね」


 ぼそりとルカが感想めいたことを漏らす。それが"持てる者"への恨み節に近いものなのか、平坦な声からは判断ができなかった。

 しかしながら、周囲の人々がぶつけてくるその手の嫌味には慣れていた。幸運な生まれであることを感謝するべきだとか、もっと周りに気を遣って謙虚になるべきだとか。マシューには自覚こそなかったが、普通に生活しているだけで周囲の人間を落ち込ませてしまう人種らしく、かつてガールフレンドだった女性にも「あなたの隣にいると自分が惨めになる」と言われたことがあった。

 彼女は別れの際、何と言っていたっけ。ああそうだ、「私のことなんて、"ガールフレンド"というお飾りの記号としか思っていないんでしょう」と言われたのだった。マシューにしてみればそんな風には微塵も考えたことがなかったから、そうか、そう捉える人もいるのだなと真新しい気持ちになったものだ。

 今思い返せば、彼女のそしりはあながち間違っていなかったのかもしれない。破局した直後、確かに愛情を持っていたはずの女性が自分の元から去ったというのに、マシューの精神はちっとも陰らず、健全そのものだったからだ。

 自分の恵まれた境遇を最大限利用し、無自覚に薄情で、いつの間にか人を傷つけ、傷つくのはその人の責任と割り切っている。そういう点も含め、自分は嫌な人間なのだろう。自覚を持ったとて、直そうとも思わないが。

 そんな思考がルカとの会話の合間で発火し、飛び去っていく。ここでも謙遜することはしない。


「そうだな……今の状況を恵まれてると言えるか自信がないが、何でも自由にやりたいことをやってきたし、現状も俺自身が選択したことだからな。大学の先生も家族も結果的に裏切っちまったけど、俺がそうしたいと望んだことの結果だから後悔はしてない。ただ、最後に好物が食べられなかったのは心残りだけどな」

「……唯一の後悔がそれなのですか」


 ルカの問いには、今度は微妙に非難の響きが混じっているのが聞き取れた。他人なら気づかず聞き流すだろうが、マシューは彼と同じ時間を過ごしてきて、その程度の感情の滲みなら判別できるようになっていた。

 苦笑いしながら首を竦める。


「おかしいかい? まあ、普通に考えたらおかしいだろうな。頭のネジが何本か飛んでると自分でも思うよ」

「いえ……少々意外だっただけです。あなたは良心や、善良さを持ち合わせているように感じていたので」

「だから言ったろ? 俺はマッドな方の科学者だって。それに、こっちこそ意外だよ。あんたが俺に対して個別の印象を持ってたなんてさ。あのあるじさまにしか興味がないんじゃなかったのか?」


 組織のボスを茶化して言い、相手の反応をうかがいながらも、マシューは内心驚いていた。ルカが良心や、善良さを感じ取れる感性を持ち合わせていたことにではない。いや、それもひとつだが、この冷徹で機械仕掛けのような青年が、自分への個人的なイメージを持っていたこと。そこに驚愕していた。

「……。私は……」とルカは失言を取り繕うように、また鍵盤に目線を移す。

 彼は押し黙ってしまって、その後はいくら待っても言葉が続くことはなかった。その様子を見るに、ルカも己の内面の揺れ動きに戸惑っているのかもしれない、と感じられた。彼くらいの年齢であれば、そのような悩める青年という在り様の方が健全であろう。ルカの人間くさい部分をくすぐって、もっと外に引き出してみたい、と思う。それは良心からというより、好奇心や悪戯心いたずらごころから来るものであったけれど。

 彼と付き合いを持って、マシューには分かってきていた。"罪"の人間が当然のようにルカに下している、主に唯々諾々と従うだけの血も涙も自分も持たないサイボーグのような男、という評価が、あまりに短絡的なラベル付けであると。

 ルカ本人が人間性を捨てたがっているのも知っているが、その営みや苦悩は、逆説的に非常に人間らしいプロセスとも言えるのだ。姿形だけ人間を模したロボットには、捨てる人間性すらないのだから。

 このミステリアスで恐ろしく見える青年のことを、もっとよく知りたい。マシューは先ほどのルカと同じ質問を彼にも返した。


「さて、俺の過去の話は終わったぜ。それで、あんたはどうなんだ? 辛いかどうかすら忘れるような人生がどんな感じなのか、教えてくれないか」

「……聞きたいのですか」

「ああ、とってもな。俺はあんたに興味があるんでね」

「ずいぶんな物好きですね、あなたは」


 放られた冷たい皮肉。マシューは感銘を受けすぎて、危うく存在もしない息子にするような、熱い抱擁をルカにするところだった。彼の人間性の発露をもっと刺激したい。それは研究者としての単なる知的好奇心なのか否か、マシューには自分でも判断がつかない。

 白黒の八十八鍵を見つめながら、ルカはぼそぼそと語り始める。朴訥な話しぶりから、自らの境遇を説明するのに慣れていないことが、ひしひしと伝わってくる。

 ルカは語る。不遇な幼少期から少年期のこと。後に主となるディヴィーネとの出会い。一縷いちるの希望を授けてくれた神父とのひととき。そしてすべてを――住まいや新生活や恩師や名前すらを――失った夜のこと。

 彼の話が進んでいくうちにマシューは、床が広大な毒沼に変わり、足元がずぶずぶと侵されていくような感覚を覚えた。背中に氷水を入れられたみたいに身震いがしてくる。急に部屋の温度がぐんと下がり、冷気が下から伝い上ってきているのでは、と思われた。

 ルカは彫刻作品のような横顔をこちらに見せながら、訥々と言葉を紡いでいく。その前でマシューは愕然と立ち尽くす。先ほど「この組織にいるのがルカの自由意思であったらいい」という淡い思いは、あっけなく打ち砕かれていた。


「私がすべてを失った夜に、あの方は道をお示しになって下さったのです。ですから今の私の身も心も、もはや自分のものではありません。すべてあの方のものなのです」


 ルカは話をそう締めくくる。彼の語り口は素朴で淡々としたものだったが、不思議と光景が目の前に浮かぶようだった。赤々と燃え上がる教会を眼前に捉えたとき、少年だったルカはどれだけ絶望したことだろう。信仰を否定され、どれだけ心がずたずたに傷ついただろう。だからこそ――拓けていたはずの未来を彼から奪った者を看過できない、と感じた。

 見て見ぬ振りはできない。マシューの脳内では黒幕のシルエットがくっきりと浮かび上っている。胃の腑から灼熱のように湧き起こる瞋恚しんいに突き動かされ、無意識にピアノの前に座る彼へと詰め寄っていた。赤熱する怒りに肩と拳を震わせながら。


「あんたそれ……本気で言ってんのか?」

「と言いますと」


 ルカが表情のない顔でこちらを見上げる。許せなかった。無論ルカがではない。今までに感じたことのない憤りの炎が、この組織のボスであるディヴィーネに対して燃え上がっていた。

 ともすればまくしたてそうになるのを、理性で抑えこみ努めて冷静に語りかける。


「ルカ――落ち着いて聞けよ。あんたが神父に引き取られる直前、建物が燃えて神父が亡くなったって言ったな。それは……本当に偶然だと思うか? そんな狙ったようなタイミングで、火事が自然に起こるなんてありうるか? あんたの話を聞く限り、俺にはそうは思えない。その教会は……あんたを手に入れるために、ディヴィーネが火を点けたんじゃないのか」

「何を……言うのかと思えば……」


 マシューが推論をぶつけると、ルカの目の色が変わった。刺々しく、冷酷な獣の目に変じる。もちろんこの空間において、牙を持った狩る側の存在はルカであり、箱入りで育ってきたマシューは草食動物よろしく狩られるほかにない。

 しかしここで臆してはいられない。状況とディヴィーネの性格からかんがみるに、ルカが嵌められたのは確実だと思えた。腹が立つ。腸が煮えくり返る。ルカは現在まで、ディヴィーネが己を救ってくれたと信じて疑っていない。白紙タブラ・ラサのようにまっさらだったルカの精神は、あの虫をも殺さぬ笑みですべてを踏みにじる男に、ぐちゃぐちゃにけがされたのだ。こんな純粋な青年を騙したぶらかしておいて、よくもあんなに平然としていられるものだ。

 マシューの声にはどんどん熱がこもっていく。


「なあ、目を覚ませよ、ルカ。あんたは頭がいい、俺が言うんだから間違いない。だから本当は分かってるんだろ? あいつはあんたの救済主メシアなんかじゃない、一生関わらなくてもいい世界に、あんたを引きこんだ張本人なんだぞ!」


 悔しかった。こんなに聡明で音楽の才能もあり、未来もある青年が、卑怯な男の召し使いみたいに言いなりになっているなんて。

 マシューの必死の説得は、しかしルカには届かない。


「よくも、私の前でそんな――ずけずけと物が言えたものですね」


 低く冷淡な声には怒気が混じっている。長身で黒尽くめの青年がゆらりと立ち上がる様は、まるで幽鬼か死神のように見えた。

 言葉を継ごうとしたマシューの喉に、目にも止まらぬ速さでルカの長い指が絡む。その勢いで背中から倒れこみ、したたかに全身を打ち付け、視界が痛みでちかちかと明滅した。なぜこんなことを俺に、という問いかけを抱きながら馬乗りになってくるルカを見据える。こちらを見下ろす珍しい色の瞳は、冷たい敵意で静かに燃え盛っていた。

 苦しくてじたばたと全身がもがきたがるが、がっちりホールドしたルカの長い脚がそれをさせない。喉に食いこむ両手を引き剥がそうとするも、先刻までピアノを弾いていたしなやかな十指は、太い鉄と化したかのように頑として動かない。マシューは脳が酸素を求め始めるのを知覚しながら、なんとかルカを落ち着かせようと、咳き込みそうになるのをこらえて必死で言葉を絞り出す。


「おい、ルカ……こんなことをしたら、飼い主に怒られるぜ。俺がいなきゃ、……頓挫しちまう研究がいくつもあるんだ……」

「その責はすべて私が受けます。あなたは、自分がいなくなったあとの心配はなさらずともよろしい」

「なあ、ルカ。俺はあんたの味方だぜ……だから……」


 首の骨がみし、と嫌な音を立てて軋む。もはやこれは人間の手の力ではなかった。マシューの説得がルカの殺意でかき消されていく――そうだ、ルカの両目には確かに殺意がこもっていた。

 殺される。

 その一文が脳裏に閃いた途端に、意識が細くなって気が遠のきかける。今意識を手放してしまったら、二度と現世には戻ってこられないだろう。砂粒のように縮小していく身体感覚のさなか、マシューは蜘蛛の糸のごとくすぼまっていく意識を必死に手繰り寄せ、取りすがる。

 不意に、この場には最も似つかわしくない、涼やかな声が凛と部屋に響いた。


「ルカ、そのくらいにしてあげたら? 彼、本当に死んじゃうよ」


 言葉が切れるなり、喉をいましめていた指の拘束がほどける。仰向けだった体を跳ねさせるように反転させ、激しく咳き込みながら肺に空気を取り込んだ。ひゅーっと喉が鳴り、脳に酸素が染み渡るのが分かる。

「げほっ! ごほっ!」と悶絶しつつ澄んだ声の方を見るとやはり、生理的な涙で滲んだ視界に、"罪"を統べるディヴィーネが映った。いつから会話を聞いていたのだろう、とちらと考えるものの、彼はすべての部屋をモニタと自動生成字幕で監視しているのだから、それは無駄な問いだと思い直す。元よりディヴィーネの行為への糾弾は、彼に知られていると覚悟してのことだ。

 ルカは既にマシューから離れ、主の前に平伏している。


「見苦しいところをお見せし、申し訳ございません」

「謝ることはないよ。君はぼくのために怒ってくれたんでしょう?」


 なだめる声は柔和そのものだ。ディヴィーネはコツコツと靴音を立てながら、未だ起き上がれずにいるマシューへと近づいてくる。

 口元にはほほえみがあるが、こちらを見下ろす瞳には何の色もない。彼が怒っているのか憐れんでいるのか嗤っているのか、マシューには判断ができない。


「マシューくんは酷い人だね。根拠もないのに犯人呼ばわりされるのは心外だな。教会に火を点けるだなんて、ぼくはそんなことしていないよ?」


 軽やかに言葉を紡ぐディヴィーネを、這いつくばったままきっと睨む。マシューと同い年のボスはそんな視線を意にも介さないように、膝をついてマシューの耳に口を寄せる。朝露に濡れて咲く清廉な花の香りが漂って、あまりにもこの場にそぐわない匂いに、吐き気がこみ上がる。

 そしてディヴィーネは、マシューにだけ聞こえる声量で決定的な台詞を囁いた。


「ただ、教会の近くで遊んでいた子供に、これで遊んだら楽しいよって、花火と火種を渡すことはしたかも知れないけどね?」

「……! お前……」


 どくどくと心臓が脈打つ。頭に血が上り、沸騰しそうになる。

 そうだった。こいつはそういう男だ。決して自らの手は汚さず、他人を転がして地獄が生まれるのを薄笑いしながら眺めている。そんな彼をマシューはずっと前から気に入らなかったが。

 ――俺はこいつが嫌いだ。大嫌いだ。

 今、そうはっきり自覚した。


「お前は……人間のクズだな」


 憎悪と侮蔑をこめてディヴィーネを睨み付ける。それなのに相手はぷっと噴き出し、あはは!、とさも可笑おかしそうに笑った。ぞっとするほど朗らかで快活な笑い声だった。


「何が可笑しい」

「可笑しいよ。だって人間なんて、みんなクズでしょう?」

「は……?」


 口元を押さえたディヴィーネはにこやかに、しかし空虚な目をして、当然のことのようにそう言い切る。

 彼は立ちあがり、その場でひらりと一回転してみせた。身につけた布地の多い服の裾がひらめく。


「ぼくがクズなら、君もクズだよ。この組織にいる時点で、ぼくらは同類でしょう。そう思わない? 君だってさっき言ってたじゃない、恩師も家族も裏切ったことを後悔していないって。テロリズムのために公にできない研究をしている君に、ぼくをなじる権利なんてあるかな?」


 "罪"のボスの言葉は、静かに満ちてくる潮のようだった。それらはかすかに潮騒しおさいをたてながら、いつの間にかこちらの心にひたひたと浸透してくる。それらを跳ねけ押し返すには、やはり言葉を使うしかない。

 マシューはやっと半身を起こして、ボスの顔を真っ向から睨む。


「確かに俺は褒められた人間じゃないがな、今の研究を続けてるのはお前や、テロリズムに協力するためじゃない。自分の目的は研究のための研究なんだよ。俺はこの組織をむしろ利用して、踏み台にしてる。それに、俺が決めたのは自分の進む道だけだ。お前みたいに、薄汚いやり方で他人の人生を歪ませる人間と一緒にするな」

「目的がどうあれ、それがテロに使われるのなら、君の気持ちなんて砂漠の砂の一粒みたいに、あってないようなものじゃないかな?」


 ディヴィーネは口元を笑ませながら小首を傾げる。確かに、彼の言うとおりかもしれない。しかしそもそも、マシューがここに来たのは先代の首領が健在だった頃で、自分はディヴィーネやルカより古株なのだ。先代には特別気にかけてもらった恩があるが、マシューにしてみればディヴィーネなど、後からやって来て研究の方針を指図してくる鬱陶しい存在でしかなかった。

 それに、先代が"パシフィスの火"のさなかで命を散らすことになったのには、ディヴィーネが一枚噛んでいるのではないか。マシューは密かにそう考えていた。

 ディヴィーネの青緑の視線と、マシューの緑色の視線が交錯する。その間ルカは、主のやや後方に従者のように控えていた。


「それにさ。こんな組織の中で正義感を振りかざすことに、何の意味があるの? ぼくには分からないな」

「正義感?」思わずはっ、と鼻で笑ってしまう。「俺はそんな高尚なもの持ち合わせてなんかないさ。ただ気に入らないだけだ。ムカつくんだよ、お前のやり方は。反吐が出る」


 まだ体に残る痛みを押して、にやりと笑ってみせる。完全な虚勢ではあったけれど、意図的に汚い語句を使い、無理やりにでも笑うことで、自分の気が大きくなるように思えた。

 相手がふっと視線を外し、肩を小さく竦める。


「"罪"の中で、ぼくに噛みついてくるのは君だけだよ。その点では褒めてあげたいくらい。でも、不思議だな。ルカが怒るならともかく、どうして君が怒るの?」

「……それは」


 もっともな疑問だ。マシュー自身、他人のためにこれほど怒りがこみ上げてくるとは思っていなかった。それはおそらく、ルカと言葉を交わして、演奏も共にして、人間性の一端を知って。彼に搾取されていてほしくない、彼の意思で彼自身の人生を歩んでいてほしい、そう思うからだ。そしてそんな気持ちになる理由は、きっと。


「ルカは――俺の友達だからだ」


 主の後ろに控えているルカが、わずかに目を見開く。

 ディヴィーネも珍しく面食らったらしく、一瞬だけ顔から表情が抜け落ちた。


「友達が不当な扱いを受けてたら……怒るのも当然だろ? 正義感とかじゃない、これは俺の個人的な感情だ。ああでも、あんたにゃ分からないかな? 友達いそうにないもんな」


 挑発を舌に乗せ、ボスの顔色をうかがう。ディヴィーネは既に取り戻した無情な笑みを深くして、マシューではなくルカに向き直った。


「へえ、そうなんだ? お友達ができて良かったね、ルカ?」


 柔らかい言葉と口調に反し、その声色は北極圏の氷のごとく冷たく凍てついている。ディヴィーネの細い指先が、高いところにある頬をつうっと撫でた。

「……っ」ルカは戦(おのの)いたように、表情筋と全身をびくりとこわばらせる。

 二人の様子を見て、マシューはひやりとする。ディヴィーネは明らかにひどく憤っていた。彼の怒りが自分に向いているうちはいい。しかしその矛先がルカに向くとなると、彼を友達と表現したのは失言だったかもしれない。けれど先ほどの心情では、どうしたって言わずにいられなかった。


「……私には、友人はおりません」


 ルカは硬い声音で否定する。そして、尻餅をついたままの格好のマシューを見下ろし、互いの視線が絡んだ。


「あなたと二人で会うことは、この先ありません」


 ルカがきっぱりと言い切る。そう主の前で宣言することで、彼なりのけじめとするつもりなのかもしれない。

 ディヴィーネは満足したように頷くと、再びマシューの傍らにしゃがみこむ。


「君って変わってるよね。殺されかけたのに、その相手を友達だなんて言うなんて。実は相当なお人好しなのかな? そんなんじゃ、この組織では生きていけないよ?」


 ディヴィーネが手を伸ばし、マシューの黒いリング状のピアスを弄ぶ。その行為は、言外に"服従しなければ手酷い仕打ちがあるぞ"とほのめかしていた。

 "罪"の人間が皆着けているピアスは、見た目こそ違えど機能は同じ。犬のマズルにめられた口輪のようなものだから。

 マシューの上司であるはずの男は、こちらの耳元に薄桃色の唇を寄せる。


「実験の腕があるから身の安全が担保されてる、って思ってるみたいだけど、君の意識を奪って操り人形みたいにすることだって、簡単にできるんだからね?」


 その言葉はなぜかぞくりとするくらい甘美で、おぞましいほどの陶酔の響きを帯びていた。

 マシューにはそれが安い脅しではないことが分かっている。自分がもはや組織に益する存在ではないと判断が下れば、彼は人間一人を廃人にし切り捨てることなど欠片も躊躇わないだろう。

 だからこそマシューは、ここで動揺して畏縮するわけにはいかなった。


「やっぱりお前、友達いないだろ」


 微笑するボスの至近距離で、こちらもにやりと笑ってみせる。ディヴィーネはもうマシューに興味を失ったように、部屋の出入口へと足先を向けた。


「ルカ、おいで」

「は」


 長身の青年は身を翻し、主にしずしずと追従する。今このタイミングを逃せば、ルカに言葉を届けられる機会は永遠になくなるかもしれない。最後の足掻きとばかり、マシューは痛む喉を酷使して声を張り上げた。


「ルカ! 待てよ、そいつに従う理由なんかもうないだろ? あんたの人生なんだぞ、一回きりしかない! あんたの――自分自身の人生を生きなくてどうするんだ? 自分で何も決めないままで、今のままでいいのかよ!」


 最後はほぼ絶叫となった。ルカがぴたりと歩みを止める。黒衣をひらめかせ、ゆらりと振り返る。

 二十歩ほどの距離を置いて、琥珀色の瞳が真っ直ぐマシューを射抜いた。


「誰が何を言おうが、私の誓いが揺らぐことはありません」


 その双眸にはあまりにも濁りや淀みがなく、透徹そのもので。マシューは無意識のうちに息を飲む。

 彼の目の光は、余計なことを口に出すなと釘を刺すようでもあった。もしかしたら、と空恐ろしい想像がもたげる。ひょっとするとルカは、マシューの指摘した事実さえ元より領解した上で、ディヴィーネの命に従っているのではないか。それこそ、清濁を併せ呑む覚悟で。

 ――どうしてそこまでする? 自分を欺いた人間のために。

 マシューには分からなかった。それだけのことをする価値が、あの人でなしのボスにあるとも思えなかった。


「ルカ、なんでだよ……くそっ」


 その場にうずくまり、悔しさを拳にこめて、床を思いきり叩く。人を一回たりとも殴ったことのない手が、びりびりと虚しく痛んだ。



 翌日から、マシューが率いる研究チームのメンバーからルカが外されていた。それどころか、どこのチームにも所属していないらしい。自分のせいで彼が不当な扱いをされていなければいいが、と身を案じずにはいられない。

 それから数日後のこと。マシューはディヴィーネ本人から、直々に呼び出しを受けた。まさかこんな早々に、マシューの処遇が決まったのだろうか? 最悪、異端審問の日取りが決まったと知らされることもありうる。悲壮な心構えをして、最高指導者の部屋へと赴いた。

 掌を翳して認証を済ませ、天井近くまで数多あまたのモニタが並ぶ部屋へと踏み入る。そこには三つの人影があった。ひとつは部屋の主、ディヴィーネのもの。ひとつはルカのもの。ルカはマシューが見えていないかのように、まったくこちらに目線を寄越さない。

 そして残りのひとつの人影は。

 手首をバンドで拘束され、所在なさげに佇んでいた恰幅のいい老人が、物音に引き寄せられるようにこちらを振り向く。その顔かたちをの当たりにして、マシューは絶句した。相手も驚愕に表情を染める。


教授プロフェッサー……」


 その単語をなんとか喉から絞り出す。

 かつてマシューが所属していた、研究凍結の処分が下された研究室のボス。彼が今、目の前にいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る