僕らのこと トリック・スノウの来臨(2/2)

(承前)

 長いストレートヘアをさらさらなびかせ、アーケードの下を進む速見。その後ろを、不承不承の重い足取りで着いていく自分。タイツに包まれた彼女の脚のリズムは軽やかで、訳は知らないが楽しそうですらある。

 速見に対する俺の感情には、今のところ不信感しかなかった。着いていった先に屈強な男が三、四人いて、一も二もなく拘束される、なんてことはないよな。あちこち見渡して警戒しながら、速見に疑問をぶつける。


「なあ、俺たち初対面なんだよな?」

「そうだよ? あ、どこかで会ったことないかって、これからナンパするつもりだった?」

「そんなわけないだろ! 大体どこまで行くつもりだよ」

「そんな遠くないよ。あともうちょっと」


 返る声は取りつく島もない。

 教室から引っ張り出されたところで腕を解放された、まではまだ良かった。折を見て途中で逃げてしまおうと隙をうかがう俺を、速見は絶妙のタイミングで振り返ってきて、そのたびに威圧感のある笑みを浮かべてきたのだ。その表情は確かに柔らかいのに有無を言わさない迫力があり、俺は次第に戦意を喪失した。こうなれば早く用事を済ませる方向に集中するしかない。

 速見は商店街の横路へ入り、迷いなく裏路地を進んでいく。こんなところ、俺でも来たことがない。転校してきたばかりだというのが信じられないほど、その足取りは躊躇がなかった。

 やがて辿り着いたのは、個人が経営するしっとりした雰囲気の喫茶店であった。


「ここね、フルーツサンドが美味しいお店らしいんだ。引っ越す前から来てみたかったんだよね。さ、入ろ」


 歌うような速見の言葉が、俺にはなぜか判決文のように聞こえた。

 店内にお客はまばらで、低くクラシックだかジャズだかが流れている。速見は観葉植物がたくさん置かれた店内の奥へと進み、一番隅のテーブル席に陣取った。そのままメニュー表を見ながら楽しげに品定めを始める。今から一体何が始まるのか内心戦々恐々としながら、俺はホットコーヒーを頼むことにした。

 メニューを訊きに来た女性に注文を告げる。速見はここの名物らしいフルーツサンドを頼むのだろうな、とぼんやり思っていると、


「私はイチゴサンドと、バナナサンドとキウイサンドとオレンジサンド、マスカットとグレープサンドに、あとモンブランとチーズケーキと……」


 怒涛のオーダーが始まって俺も店員も呆気に取られた。速見は凍りつく空気を意に介さず、延々と注文を続ける。一人で食べる量じゃあ全然ない。一体どういうつもりなんだ。そんなに食えるのか?

 やっとオーダーがストップし、青い顔をした店員が注文を繰り返す。もはや帰りたい気持ちが最高に高まっていたが、せっかく注文したコーヒーを飲まないのも癪だ。「以上でよろしいですか?」との確認に頷く速見の笑顔には、憎らしくなるほど一点の曇りもない。

 どこかほっとした様子できびすを返そうとする店員の女性を、なぜか速見は呼び止めた。ああ、さすがに品数を減らすのか、食べられるわけないもんな、と胸を撫で下ろす俺と店員の思いは、


「やっぱりメロンサンドと抹茶パフェとプリンアラモードも下さい!」


 無邪気な速見の声に打ち砕かれる。店員の顔は完全に引きつっていた。



 ずらりと甘いものが並ぶ広い木のテーブルは壮観ではあったが、食の細い自分にはある意味でグロ画像に近いものでもある。

 速見は到着した甘味から次々に手を付けていった。すらりとした体躯のどこに入っていくのか、彼女は幸せそうな表情を浮かべながら、ぱくぱくと恐ろしいスピードで綺麗に皿を空にしていく。俺は目の前の光景にぞっとしつつ、これは何の時間なんだと思いながらコーヒーを啜っていた。

 注文の半分ほどを平らげたところで、初めて速見がこちらの存在に気づいたような顔をした。


「どうしたの? 他人ひとの顔をじろじろ見て。そんなに私が可愛い?」

「いや」

「ふふ、茅ヶ崎くんはあれだ。嘘がつけなくて損をするタイプの人」


 コーヒーカップを持とうとする手が止まる。

 本当にこいつは何なんだ? 初対面でこんなにずけずけと、人間性にまで踏み込んでくる人間とは会話した経験がない。ヴェルさんだって初めて会った日はここまでではなかったし、正直本気で不快な気分にさせられたことは今まで一度もない。俺は何かを試されているのか? なにがしかの面接でも受けているのだろうか。色々言い返したいのをこらえる。

 俺の沸騰直前の感情を察しているのかいないのか、速見は楽しげに言葉を続ける。


「茅ヶ崎くんもコーヒーだけじゃなくて、好きに頼めば良かったのに。どうせ私が奢るんだし。どのスイーツも美味しいよ?」

「自分の分は自分で払う。貸しを作りたくないし」

「なるほど。そこで"自分が奢る"とは言わない人なんだ、茅ヶ崎くんは。ふふうん」

「それだけバカ食いしておいて言うことじゃないだろ」

「冗談だって、冗談」


 相手がころころ笑うのが妙に気に障る。他人を勝手に分析するな、という抗議が喉元まで出かかった。努めて冷たく「で、本題は?」と尋ねる。


「本題? デートに本題なんてあるんだ?」

「俺に訊くなよ。そもそもデートじゃないんだろ」

「そう思う根拠は何?」

「何って……」


 目の前に座る相手をじっと見る。彼女も影の関係者なのではないか、という俺の予想は当たっているのだろうか。転入したてにしてはこちらの事情に詳しすぎ、なおかつ二人きりで俺を連れ出す理由のある人間。そんなのひとつしか思いつかない。

 でも、もしそうでないとしたら? その可能性を考慮するなら、軽々しく影の名を出すのははばかられる。現に桐原先生からは何らのサインもなかったのだ。確信か誤解か、俺はふたつを天秤にかけ続けている。天秤はどっちつかずに揺れていた。

 黙考する俺に構わず、速見は食べる手と口を再開する。


「そういえばさ、担任の桐原先生だっけ? あの先生格好いいよねー。きっと頼り甲斐がいもあるんだろうね?」

「……何が言いたい?」

「別に? そう思ったから言ってみただけだよ」


 そんな食えないことを言う。

 まさか俺の思考を読んだわけではないだろうが、ここで桐原先生の名が出て、自分の中の天秤は大きく確信の方へと傾いた。速見が影の関係者でないなら、ここで桐原先生の名前を出して「頼り甲斐がある」なんて発言をする理由がないからだ。

 もしかすると桐原先生もヴェルナーも知らない、"罪"に狙われている人間がいるのかもしれない。それがこの速見千雪で、それこそ彼女の存在自体が機密レベル五に相当するとか。

 そこまで連想して、考えすぎではないか、と脳の冷静な部分が意見を述べてくる。速見は俺と同い年の女子で、その華奢な体格に大いなる秘密を背負っていると想像するのは難しい。何にせよ、相手の目的も正体も分からない以上、用心するに越したことはない。冷めてきたコーヒーを口に含むと、苦さが頭をすっきりさせたように思えた。

 その後は当たり障りのないやり取りが続き、楽しんでいるのは速見だけだったが、本当に高校生同士のデートめいた様相を呈した。早く帰りたいのに、何が悲しくて初対面の人間が大量の甘味を食べるのを見届けねばならないのだろう。徐々に虚無感に襲われてくる。

 驚くべきことに、速見はそう時間をかけずに甘味をぺろりと完食した。本人も至って普通の様子で、けろっと涼しい顔をしている。甘党にも程があるというか、好物の範疇を遥かに越えていて怖い。やがて運ばれてきた食後の紅茶にも、彼女は性懲しょうこりもなく角砂糖をどっさり投入したため、うげえ、と声が漏れそうになった。

 こいつは本当にただ喫茶店に来て甘味を食べ、会話をしたかっただけなのだろうか? そんな思いも湧き始めた頃、速見が紅茶を掻き回しながら不意に唇を動かした。


「茅ヶ崎くん。君はさ、自分が選ばれた人間だ、って思ったことはない?」


 その言葉が唐突すぎて、すぐには意味を図りかねる。


「選ばれた人間って、どういう……誰にだよ」

「それは、うーん。神さま、とかかな?」

「……」


 小動物に似た丸い瞳が、こちらの反応を注意深く探っている。速見のにこにこ顔は先ほどまでと変わらない。が、俺には彼女の笑みが不審なものに見えてきて仕方なかった。もしかして、これから聞いたこともない宗教の勧誘話でも始まるのか?

 速見はカップを一旦脇に追いやり、テーブルに肘をついて両手を重ね、そこに細い顎を乗せる。やや色素の薄い両目の奥が、いたずらっぽい光をきらりと反射するのが分かった。まるで何か不謹慎な企みをしているかのように。


「茅ヶ崎くん。僕はね、自分は選ばれた人間だって、そっち側の人間だって、そう思ってるよ。だって、他の人にはない能力があるから。茅ヶ崎くんもそうじゃないの? 君はそう思わない?」


 ――僕?

 いつの間にか変化した一人称が、いやにざらりと耳に残る。もう帰った方がいい、今すぐ立ち上がって、コーヒーの代金だけ置いて速見から即刻離れるべきだ、と頭のどこかで誰かが囁く。なのになぜか、最後まで聞きたい、聞かなければいけない、という暗い好奇心と義務感が胸のうちでせめぎ合う。


「……新手の宗教勧誘なら、俺は帰る」

「待って待って、違うって。……影に関係すること、って言ったら分かるでしょ?」

「……! お前……」


 やはりそうだったかと、相手を食い入るように見つめる。こうなるともう、相手が女子だとか男子だとかは関係なくなる。店内のしゃれたBGMに声をまぎれこませるように、声量を抑えて低く尋ねた。


「お前も……そうなのか?」

「それは、僕が"罪"に狙われてるのかってこと? それとも、僕が影の一員なのかってこと?」


 速見が小首を傾げると、つややかな黒髪がさやさやと肩を流れ落ちていく。ふたつの可能性を提示されて俺は押し黙った。速見が影の一員かもしれない、という発想は自分の中にはなかったのだ。

 俺と同じ学年の高校生が、影の一員。そんな可能性もあるっていうのか? まごついていると、速見はゆっくりと人差し指を立て、弧を描いた口元にその細い指先を当てる。


「さあ、どうかな? 本当のことはまだ内緒」

「まだって……どういうことだよ」


 声が上ずりそうになってひやりとした。速見の背後に、何か大きな存在みたいなものを感じ、肌がぴりぴりする。同学年の女子と対面しているだけなのに、その事実が信じられないくらいに雰囲気に飲み込まれ、自分が緊張しているのが分かる。

 速見は退けていたカップをぐいっと呷り、やおら立ち上がった。こちらに、小さな掌をすっと差し出してくる。


「そろそろ出ようか。君にの力を見せてあげる。外の方が都合がいいから」

 俺は当然、その手を取らなかった。



 もう日暮れが近い。この時期、陽が傾くと足元から急速に冷えてくる。

 速見は駅前から遠ざかるように、人気のない方へない方へとずんずん進んでいく。彼女は本当に何者なのだろう。さっきの喫茶店での会計の際も、財布にぎっしりと紙幣が詰まっているのが目に入ってしまった。清廉な第一印象とは異なり、もしかしたらだいぶヤバい人間なのかもしれない。


「ここらへんでいいかな」


 立ち止まったのは、窓ガラスが無残に割れた空き家のあいだにある、立ち入り禁止のロープが張られた寂れた売り地だった。草がまばらに生えてはいるが、全体的には地面は平坦で、ならされてからそう時間は経っていなさそうだ。速見はためらいなく、そのロープをひょいとジャンプして越えていく。


「お、おい……! それはまずいって」

「何? スカートの中でも見えた?」

「いや、そうじゃねーだろ……!」

「茅ヶ崎くんもおいでよ。ちょっといけないことは好きでしょ?」


 速見は赤々とした夕焼けを背負って意味深にほほえむ。別に好きじゃねえよ、とぼやきながら、でも彼女の謎めいた部分は知りたくもあるので、及び腰になりながらロープを跨ぐ。

 空き地に完全に立ち入ってしまった俺の前で、速見は愉快げに大きく手を広げた。


「さあ、ここで茅ヶ崎龍介くんに問題です! 私は一体誰でしょう?」

「誰って……速見だろ」

「下の名前は?」

「……千雪」

「初めて名前で呼んでくれたね、嬉しい」


 突然芝居がかった動作を見せた速見が、一転して満面の笑みを浮かべる。その表情は真に邪気のない、純粋なものに見えて。俺は思わず、頬に斜陽が射すその顔を、まじまじと見つめる。

 そのとき、ざわ、と空気自体が蠢いたように感じた。

 何とも言えない、嫌な感覚が襲ってくる。もう食べてしまった料理に実は芋虫が入っていました、と後から聞かされるような、微妙にぞわぞわする感じ。

 私の影を見ていて、と速見が呟く。

 俺の目の前で、長く引き伸ばされた彼女の影、その髪の部分が、確かにしゅるしゅると縮んでいく。眼前で進行する事実を、信じられない気持ちで凝視した。

 影の変化はそれだけではなかった。スカートがひらめいていた部分は明らかに男物のシルエットになり、肩幅も幾分広がったように感じる。極めつけに、


「初めまして、茅ヶ崎くん。僕は速見千尋。千雪の兄だよ」


 どこからか、男の声がした。

 木管楽器に似た千雪の澄んだ声色とは明確に違う、ずっと低い大型の弦楽器みたいな声だ。声、といってしまっていいのかも分からない。空気ではなく直接脳が振動していると言えばいいのか、それは今までにない妙な体験だった。理屈に合わない状況に、目の前がくらくらした。


「ねえ茅ヶ崎くん、聞こえるでしょう? 私はずっと、一人じゃなかったんだ。兄といっても、双子なんだけれどね」

「僕はユキと一緒に、君を見てたよ。僕たちは一人で二人、そして」

「二人で一人なんだ」


 フルートめいた声と、チェロめいた声の二重奏が畳みかけてくる。こんなのおかしい、こんなのあり得ない。耳を塞ぎたかったけれど、塞いだところで千尋と名乗る声をシャットアウトすることはできないだろう、という諦念に近い確信があった。

 意を決して、謎の声の主と対話する踏ん切りをつける。


「速見……千尋……? お前は、一体何なんだ。人間、なのか」

「そうだな、説明が難しいけれど……一応人間だという自意識はあるよ。僕という存在を一言で言うなら、実体を持たない意識、かな」

「そんなの……あるはずないだろ。物質から意識が生まれるのであって、その逆はない」

「そう? じゃあ君が今、見たり聞いたりしているものは何かな? それとも、自分自身を疑ってみるかい?」


 男の声は歌うような抑揚を帯びていて、人を食った言葉遣いが、千雪の話し方によく似ていた。

 その問いに答えず、俺はもっと論理的な推測を口に出す。


「お前は……どこかで俺たちを見ていて、影を操作している、とかじゃないのか」

「あはは、茅ヶ崎くんは疑り深いんだねえ。影を操作って、どうやって? 僕の実体は影そのものだよ。もっと正確に言うなら、ユキの意識の中に存在する"速見千尋"という人格が、周囲の人間の五感に干渉して、僕のシルエットという形で実世界空間に表出している、という説明になるのかな」

「私は脳の中にもう一人人間が暮らしているようなものなの。だからたくさん糖分が必要なんだ。さっきのあれも、ただのものすごい甘党ってわけじゃないんだよ?」

「ユキのは半分好みだろ」

「えへへ、バレちゃった」


 千雪が自分の影に笑いかける。実体と影との会話は兄妹というより恋人同士のものに近く、いささか居心地が悪い。

 それよりも、千尋が影として見える理屈だ。彼の説明は難解だったが、一応の筋は通っているように感じられた。多分にけむに巻かれた感触もあったが、千尋の影が見えるのは事実なのだ。

 百聞は一見に如かず。見てしまったら最後、信じるほかない。


「つまり――お前は速見千雪の別人格、ということか?」

「いや……実際に僕は生身の体を持っていたこともあったよ。けれど、それはもう何年も昔のことだ。僕は一度死んでいるから」

「は……」


 さらりと告げられた言葉をすぐには受け止められず、絶句する。その後を千雪が引き継いだ。


「交通事故でね。飲酒運転と信号無視の酷い事故だった。ヒロくんと両親はそのとき死んじゃって、私は――私だけは生き残ったんだ」

「ユキ。その話はもうやめておこう。僕らは別に、同情してほしいわけじゃないんだから。……僕らは茅ヶ崎くんに、挨拶と忠告をしに来たんだよ」


 忠告、という硬い響きにより、双子の痛ましい境遇に引っ張られていた意識が、急に現実へと引き戻される。


「そうだったね。……ね、茅ヶ崎くん。これで私たちのこと、少しは分かったでしょう? 挨拶は済ませられたんじゃないかと思う」

「忠告というのはね、僕らのことを――特に僕、速見千尋のことを、誰にも話さないように、ってことだ。これはお願いじゃない。命令だ」

「命令って……お前らに何の権利があってそんなこと言うんだよ。もし破ったら何かあるってのか?」


 俺は困惑半分、憤り半分で反駁する。彼女らがどの立場でものを言っているかも分からない。初対面の人間におかしな現象を見せられて、それを他人に口外するなと指図されたら、抵抗感が湧くのも当然だろう。

 生身の方の速見が、ぺろりと小さく舌を出した。


「ごめんごめん、命令っていうのも正しくはなかったよ。正確に言うなら」


 ――これはおどしだ。

 千雪が囁くのと同時に空気がびりっと震え、またあの嫌な感じが肌を覆っていく。今度はそれだけでは終わらず、身体の知覚機能が末端から砂のように零れ落ちていって、体感したことのないその感覚にぞっとした。全身が動かせなくなり、このこわばりは絶対に精神的なものではなかった。

 固定されてしまった視界に、自分の影が伸びている。


「ヒロくんはね、他人の影にも潜りこめるんだ。ほら、見て」


 俺の影――棒立ちになっている俺の影が、物理的に俺のものであるはずの影が、ひとりでに動き出した。その動きはなめらかで、とても自然だった。両手もろてを挙げ、遠いところにいる友人に合図を送るごとく、右に左に大きく腕を振る。あろうことか俺の腕も意思に反し、影を正確になぞるみたいに、振り遅れて往復運動をしてしまう。

 すごいでしょう、と千雪が誇らしげに言った。年端のいかない子供が紙の金メダルを自慢するような、どこまでも無邪気な調子で。

 今の俺には、その邪気のなさが何より恐ろしい。

 己の影の動きが止まり、また金縛り状態になる。軽やかな二重奏が脳と鼓膜を揺さぶってくる。


「分かったね? 僕たちのことは誰にも言わないこと。君のことは影に潜っていつでも監視できるから。約束を破ったらすぐに分かるよ」

「そうしたらヒロくんに頼んで、今みたいに身動きを取れなくしてもらうかも? そしたら――ふふ、何でもできるねえ」


 千雪はにっこりと、十人男子がいたら十人をとりこにしてしまえそうな可憐な笑顔で、こちらに歩み寄ってくる。俺にできるのは来るな、と念じることくらいで、その祈りが届くわけもない。

 だらりと下ろしたまま固まっている両の手に、千雪のひんやりとした指がつ、と触れた。


「酷いことはしないよ。私、茅ヶ崎くんのこと嫌いじゃないし。そのときは、そうだな……いっぱい可愛がってあげちゃおうかな?」


 千雪が俺の耳に口を寄せてくる。さまざまな果物の、生クリームの、甘味の残り香が薫った。匂いと響きに甘さを含んだ声が耳に直接吹き込まれ、背中を寒気が駆け昇っていく。

 身動きが取れないまま、これはとんでもないことになった、と俺の心は戦(おのの)いていた。常に監視を受けるということはつまり、この敵か味方かも判然としない双子のことを、桐原先生にもヴェルナーにも相談することができないのだ。速見兄妹のことは、俺が何とか一人で処理しなければならない。

 一人で? 俺が? そんなことできるのか? 自身についても分からないことだらけのこの自分に。

 ふと体が弛緩して、そのまま地に倒れ伏しそうになる。俺の影から千尋が抜けたのだろう。俺はもうその現象を、現実のものととして受け入れてしまっていた。尻餅をつく寸前でこらえるも、掌にざらっとした土の感触がある。

 千雪をきっと睨み上げた。


「……俺は、お前らと約束した覚えはない」

「そんなに怖い顔しないで。大丈夫、君は言いつけを破ったりしないって分かってる。だって、今の君にはそれだけの力がないもの」


 彼女の口調はどこまでも優しく、柔らかく、慈悲深く、非力な俺を慰めるようで。それでいて指摘は鋭利で、心の弱いところまで深く届き、情け容赦なく俺を傷つけた。

 うう、と漏れそうになる呻きを必死に奥歯で噛み殺す。初めて会う人間にすべてを把握され、見透かされていることへの恥の気持ち。今まで生きてきて一番惨めな瞬間。速見の言葉は一字一句正しい。反逆なんて、俺には起こせるはずもない。


「じゃあ、私たちの家はこの近くだから。茅ヶ崎くんも、暗くなる前に帰った方がいいよ?」


 にべもなく言い放ち、この場から去ろうとする千雪に、最後にひとつ問いかける。


「……これから、何が起こるんだ?」

「楽しいこと」


 毒のない表情で笑う少女の前で、俺はブラックコーヒーよりなお苦い敗北感を舐めさせられていた。



 その空き地から駅に着くまでのことはほとんど覚えていない。無心、というか放心状態で駅まで向かい、我に返るといつしか電車に揺られていた。

 いつもと変わらぬ学生や社会人の様子を眺めているうち、さっきのは夢だったのではないかと思えてくる。一切合切現実なのだ、と突きつけてくるのは、掌に残った土汚れだけだった。

 目を閉じ、規則的な揺れに身を任せると、どっと疲れが降ってくるようだった。俺には力がない。それは腕力という意味でも、速見たちのような特別な能力という意味でも、どちらも当てはまる。悔しかった。一言も反論できない、自分自身が情けなかった。

 俺に力があれば。"蕾"という謎の単語の意味が掴めれば、もしかしたら俺にも。

 おそらく俺は、自分でも気づかないうちに、千雪が囁いた"選ばれた人間"という言葉を、脳のどこかに刷り込んでいたのだろう。

 ルカとの邂逅で芽生えたヴェルナーたちへの反抗心を、その言葉が育てていくのも知らず。

 それはまさに植物の芽に水をやり、蕾を育むのに似ている。


* * * * *


 時刻は少し遡り、茅ヶ崎龍介と速見兄妹が別れた直後。

 覚束ない足取りで去っていく同級生を見送ってから、千雪は鞄から取り出した携帯電話を耳に当てる。長い呼出音のあと、いつものように合言葉を求める声が続いた。


「トリックスターは」

「二人いる」


 千雪は淀みなく答える。彼女はその、映画や漫画のキャッチコピーを想起させる合言葉を、いたく気に入っていた。この電話は定例の進捗報告ではあったが、少女の口調は弾み、喜びと興奮をあらわにしていた。


「ねえ先生、手はずどおりにいったよ! 茅ヶ崎くんに会って、"自己紹介"したの」

「まあ、落ち着け。これで終わりじゃない。まだ二人にはたくさん仕事をしてもらわねばならないのだから。これはまだ、ほんの序の口だ」


 対して、先生と呼ばれた電話の向こうの声は淡々として、感情の起伏がない。少女は口早に、先ほどの茅ヶ崎龍介との顛末を説明した。


「了解した。その調子で今後も頼む」

「うん! 頑張るから、見ててね。先生」

「ああ。くれぐれも油断はするなよ。――それと」

「なあに?」

「今日は良くやった」


 電話はそれきりぶつりと切れたようだった。少女は空き地のロープを越えながら、ひらりと一回転する。その動作には如実に幸福感が表れていた。

 先生と呼ぶ人物から、速見兄妹は常々「お前たちはトリックスターになるんだ」と言葉をかけられてきた。二人はその短い言葉から、先生の期待をひしひしと感じていた。今日この日の茅ヶ崎龍介との出会いは、彼女らが立派なトリックスターとなる、記念すべき初めの一歩として刻まれるだろう。

 しかし、千雪の軽やかな動きは、建物の陰から人影が現れたことでぴたりと止まる。一眼レフカメラを胸あたりに構えながら歩み出てきたのは、龍介の幼なじみの上宮輝かみやひかるであった。

 千雪は内心の驚きを顔には出さない。千雪も輝もお互いに、腹を探り合うような不敵なほほえみを唇に乗せる。


「君、同じクラスの上宮くんだっけ? びっくりしたよ。ずっと近くにいたの? 全然気づかなかった」

「気づかれないようにしていたからね。新聞部の取材の一環だよ」

「ふうん。今からパパラッチの練習ってこと?」

「そうとも言えるかもね。それで――君は龍介に何をした?」


 ざざ、と冷たさを持った風が対峙する二人のあいだを通り抜けていく。

 千尋の声は輝には届いていなかったはずだ。けれどこの優等生の外見をした要注意人物は、尋常ならざる雰囲気を敏感に嗅ぎつけたらしい。

 千雪は答えない。輝もじっと、微動だにしない。たっぷり十秒ほど沈黙を置いて、


「君は、何者?」


 そう問うふたつの声がぴったり重なった。二人は隙のない笑みを深くする。


「ただ者じゃなさそうだね」


 声はまたも、シンクロした。


* * * * *

―シューニャの話


 ツー、ツーと鳴く受話器をフックに置いて、シューニャは古風なダイヤル式電話を見下ろす。

 ビターチョコレートに似た色の筐体きょうたいに、輝きが鈍くなった金属の部品。外見はレトロだが、中身はとてつもなく高性能。まるで自分とは真逆だ、と思う。この体は少年のまま成長を止めたが、中身は老いぼれかかっている。まだ矍鑠かくしゃくとありたいとは思うが、その思考もまた、老人ならではのものかもしれない。

 ここ最近、ずっと心が晴れない。地下のこの居室から一階へ上がっていって、朝靄の立ち込めた一面の木立を眺めてもそれは変わらないだろう。シューニャは今、さるユーロ加盟国の森の奥、そこに建てられたログハウス風のセーフハウスにいる。一見ただのこぢんまりとした別荘だが、その地下には広い秘密の部屋がいくつも続いている。一定期間隠遁いんとん生活を送るには不便しないが、気持ちの面で快適かどうかは別問題だ。

 けれど心が曇っているのは、窓のない地下でずっと過ごしているからではなかった。近いうちに、長い人生でも経験してこなかった事態が起ころうとしている、そんな予感で胸がざわついているからだ。シューニャの予見能力を使うまでもない、川の流れがいずれは必ず大海に注ぐような、それは当然の帰結に近い未来予想である。

 住まいを転々とする中でも必ず持ち歩いている、机上の写真立てを見つめる。セピア色がやや褪色した古い写真の中では、アカデミックドレス姿で帽子を被った若者がつどい、笑みを浮かべていた。過ぎ去った懐かしい青春の象徴。群衆の中央で、外見はそのままだが中身は若いシューニャと、後に"罪"の初代首領となり、シューニャを巻添えに自爆を試みる男とが、肩を組んで屈託なく笑っている。

 シューニャとその男は、かつて医大で机を並べた親友であった。

 部屋のドアがノックされる。木材のへだたりの向こうの声が、控えめに入室の許可を乞う。

 シューニャはゆっくりとした動作で写真立てを倒してから、その声に応えた。

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