第三部

僕らのこと トリック・スノウの来臨(1/2)

 は指命を帯びて、あまね市へやってきた。

 夕日が街並みを朱く染め上げるなか、河川敷からターゲットの住まいの方角を眺める彼らは、密やかに軽やかに、会話をする。


「茅ヶ崎龍介くん、か。どんな子だろうね」

「さあね。僕たちを少しでも楽しませてくれればいいんだけど」

「そうだね、楽しみだ。下調べもしてあるし」

「じゃあ、月曜日の誘導は頼む。上手くやってくれよ。も期待しているし」

「分かってるよ。見ててね」

「見てるよ、一番近くでね」


 彼らのうちの一人は涼風に長い髪をなびかせ、その足元には短い髪の影が伸びている。


* * * * *

―茅ヶ崎龍介の話


 桐原先生の退院も明日に迫った土曜日、俺は彼の病室に呼び出された。先週にルカの襲来があったばかりだから、これはただ事ではないと気を引き締めて病院へ赴く。

 消毒液と人の生活の匂いが混じった、拒絶と親しさが同居する独特な空気を感じながら、白っぽい病室の白っぽい扉をノックする。引き戸の向こうでは、先生が窓辺に置いた丸椅子に腰かけ、数枚重ねた紙を何やら難しい顔で睨んでいるところだった。

 顔を上げた彼と俺の目が合い、先生の表情がやんわりと緩む。彼の髪は約一ヶ月に及ぶ入院生活で目に見えて伸びており、襟足や目元にかかった毛先には癖も出てきている。それがどこか気だるげな雰囲気を醸し出していて新鮮だった。


「よく来てくれたな、茅ヶ崎」

「こんにちは。横になってなくて大丈夫なんですか」

「ああ、もう怪我自体は治ったからな。むしろずっと体を動かしていたいくらいだ。入院中にだいぶ鈍ってしまったから」


 そう言いつつ、入院着の上にカーディガンを着た先生が、俺のためにベッドの傍らから椅子を運んでくる。勧められて、その丸椅子にちょこんと座る。


「それよりも、すまないな。休日に呼び立てしてしまって」

「いや、全然大丈夫です。予定もなかったし」

「そうなの? 若いのに寂しいねえ、坊っちゃんは」


 割り込んできた声にびくりと肩が跳ねた。いつからそこにいたのだろう、カーテンの裏側から仰々しく登場してきたのはヴェルナーだ。鮮やかなブルーのハイネックニットにブラックデニムを合わせ、ジャージ地のジャケットを羽織っている。


「なんでヴェルさんもいるんだよ」

「ちょっとォ、なんか錦と態度違くなーい? お兄さんけちゃうな~。こんな密室に二人きりで何しようとしてたのかな?」

「何って……話だよ」

「それだけ~?」

「ヴェル、ちょっと黙ってろ。そうでなければ私が貴様を永遠に黙らせる」

「やだー、怖ーい」


 桐原先生に凄まれても、ヴェルナーは一切悪びれる様子はなく、けらけらと笑っている。体育館での一件の際に見せた引き締まった横顔はどこへやら、なんとも気の抜けた緊張感のない表情だ。

 桐原先生がおほんと咳払いし、空気を改める。腰かけて静かに話し始める先生の話を、俺は椅子の上でやや前傾姿勢になりながら、ヴェルナーはベッドに腰かけ、股のあいだで手を組みながら、聞いている。


「文化祭当日の一件については、ヴェルナーからすべて聞いた」


 そう切り出され、やはりそれ関係か、と内心で得心する。体育館にいたたくさんの生徒たちが眠らされた、あの十数分の出来事。未知の闇との邂逅。あの時の複雑な心情が下から湧き上がってきて、膝の上で無意識にぐっと両拳を握る。

 先生の視線がすい、とこちらに向けられた。


「その上で君に尋ねたいんだが――"蕾"という言葉に、心当たりはあるのか?」

「いや……それが、全然」


 返答はどうしても歯切れが悪くなった。俺自身、寝る前に天井を見つめながら何度も何度も考えたけれど、一向に分からなかったからだ。

 桐原先生はそこで立ち上がり、思索するように病室の中をゆっくりと歩き回り始める。


「そうか。では質問を変えよう。君と"罪"ペッカートゥムとの関わりについてだ。君は昔、誘拐されたことがあるんだったね?」


 誘拐事件の顛末てんまつを先生に伝えたことはないはずだが、きっと影のつてで聞いているのだろう。それしきのことではもう驚かないし、何とも思わなくなった自分がいて苦笑する。


「そうです。山羊の被り物をした人たちに……」

「なるほど。おそらく彼らが"罪"のメンバーか、組織の息がかかった人間であったのは間違いないだろう。その時彼らに、何かされなかったか? 思い出すのが嫌なら、無理に答えなくて大丈夫だ」


 立ち止まった先生が俺を真っ直ぐ見つめてくる。そこには気遣わしげな色があった。確かに俺にとって、あの夜の記憶は恐怖そのものでしかなかったけれど、今はルカのような現実の存在の方がはるかに怖いし、物理的に差し迫っている肌触りもある。眉間を押さえ、記憶の中の細い糸を懸命に手繰り寄せた。


「そういえば、その人たちに……何か飲まされました。たぶん小さい粒みたいな、薬くらいの大きさのやつを――」


 言いかけて、俺の口を無理やり開かせる手の感触が驚くほど鮮明に甦った。フラッシュバックが引き起こした悪寒が、胃の中のものをせり上がらせる。慌てて口元を押さえると、先生がそばに来て背中をさすってくれた。大きな掌の感覚に、胃のむかつきはすうっと治まっていく。


「すまないな、思い出させてしまって。大丈夫か?」

「はい……」

「それで坊っちゃん、そのあとは? ブツを飲まされてから、何ともなかったのか?」


 前のめりになったヴェルナーが訊いてくる。俺の心情は彼にとってはどうでもいいらしい。何も、とぶっきらぼうに答えると、閃いたとばかりに尋ね主がぱちんと指を鳴らした。


「分かったぜ、そいつだ。その飲まされたのがカプセルか何かで、中に珍しい植物の種でも入ってたんじゃねえか? 年月が経って、坊っちゃんの体の中で、芽生えが今や蕾に成長したって筋書きよ」

「"蕾"は文字通り蕾だというわけか? しかしな……」


 ヴェルナーの推理を受け、桐原先生は渋い表情で眉をひそめる。


「人体の内部で何年も種子が排出されずに、しかも花が咲く手前まで成長するなんて……現実的じゃないだろう。当時、わざわざ茅ヶ崎を選んだ必然性も感じない。"蕾"はもっと婉曲的な表現だと考えるべきではないか? それに、こう言っては悪いが……」

「そうさな。その蕾が欲しけりゃ、坊っちゃんの生死は問わねえはずだ。わざわざあれほどの大物が日本まで来て、あんな大それたパフォーマンスめいたことをやる必要も、言葉を交わす必要もないだろうな。ちぇっ、割といい線いったと思ったんだが」


 つらつらと論理を述べたヴェルナーは、すべてを投げ出すようにしてベッドにごろりと横たわる。本人がいる前で"生死を問わない"発言をした男を、憤慨の形相で桐原先生が睨む。


「ヴェル、貴様は本当に……気遣いという言葉を知らんな……」

「先生、いいですよ。もう慣れたし、気にしてないんで」


 今にも掴みかかりそうな先生の腕を慌てて引いた。


「そうか? 君は寛大なんだな……。まったく、辞書の『無神経』の欄にヴェルナー・シェーンヴォルフの名が載る日も近いだろうよ」

「何それー、格好いいね」


 皮肉の真意に気づいているのかいないのか、赤毛の色男は寝転がったまま、あっけらかんと邪気なく笑う。


「んまあ……正直謎だらけだが、分かったこともあったな。まず坊っちゃんは"罪"にとって、我々が思ってたようなただの脅威じゃないってこと。そして相手の狙いが、坊っちゃんの命を奪うことではないこと。最後に坊っちゃんが生きてるのが重要らしいこと。この三点だ」


 ここまでの話をヴェルナーがまとめ、そうだな、と桐原先生も納得する。その先生が続けざまに、くるりと振り向いて俺の目を見つめてきた。


「飲まされた物の正体は上の見解を待つとして……もうひとつ本題があるんだ。私とヴェルナーから君に、話しておきたいことがある」


 さしものヴェルナーも、名指しされてベッドの上でもそもそと起き上がった。二対の鋭い目に視線を注がれ、思わず背筋が伸びる。


「それって、何ですか」

「影と"罪"についての話だ。私たちに上から連絡があってな。君には、我々と敵方についての知識を、もっと持っていてもらいたい。これは上の意向だ」

「え? それって……」


 どういうことだ、と思う。影も"罪"も、世間からは秘匿されている組織だとは聞いている。だからこそ、それ以上の詳しいことはあまり教えられてこなかったと思っていたのに。

 こちらの表情を読んだのか、赤毛の男が低くふしをつけて言葉を紡いだ。


「"君はいずれ知ることになる"。思うに、とうとうその時が来たってことだろうな」

「あ……」


 ヴェルナーと初めて顔を合わせた日の光景が、ぶわりと甦って脳裏を埋め尽くす。その意味深長な一言が、記憶の鍵穴にぴったり嵌まったかのように。そういえばそんな台詞を彼がそらんじていたっけ。あの夜から半年も経っていないのが不思議なくらいに、自分の身には色々あった。いくつも、たくさん、数えきれないほど、だ。

 知識を持っていてほしいという言葉。それは、ただ守られていれば良かった存在から、もっと仲間に近しいところへ引き入れてくれる、そういった意味を持つのだろうか。漫画なんかでよく見る、特別な能力を開花させた少年のところに、秘密組織の人間がスカウトしに来るような、そんなドラマチックな展開。連想した情景に心のどこかが浮き立つが、桐原先生の両目に見つめられ、浅はかな気持ちを諌められた気になる。その目は、油断を許さない鷹のように厳しかったからだ。

 彼はその決定を歓迎していない。そう、はっきり分かった。

 ヴェルナーは肩をすくめ、桐原先生はじっと俺の様子を見る。


「事態はより深刻になってきたってこった。何が起こるか予想がつかねえ。こっちの予見が形無しじゃあ、打つ手も限られるってね」

「これからは君自身が、自分で考えて行動せざるを得なくなる可能性がある、ということだ。その意味が分かるかね」


 腿の上で握った掌が、じっとりと濡れてきていた。俺自身が行動する。それは影側にとって、より不測の事態が起こりうるということだろう。ルカの襲来のように、また日常が翻弄されるかもしれない。俺や、周囲の人たちの命が、危険に晒されるかもしれない。それに少しでも備え、心構えをして、振る舞いを決めねばならない。

 そう、俺自身が。当事者として。

 桐原先生の問いに、頷いて真っ向から答える。


「……分かります」

「そうか。聞いたら後戻りはできなくなる。本当にいいか?」

「……俺に、拒否権はないんでしょう?」


 先生は優しいから、そう聞いてくれるけれど。

 冗談めかして尋ね返すと、相手もふっと息をついて、口の端を持ち上げた。


「そうだな。忌々しいことに」



「でも、こんなところでそんな重要な話をして、大丈夫なんですか?」


 先生が椅子に座り直したところで、ふと浮かんできた疑問をぶつける。ここは開業医の決して大きくはない病院だ。もし誰かが盗み聞きでもしていたら、大問題になるのではないだろうか。

 素人の俺の質問にも、相手の二人に動揺はなかった。


「その点は心配しなくていい。ここは見た目に反して、セキュリティは割合しっかりしているんだ。意外だろう?」

「へえ……」


 もしかしてここも何かしら影に関係した施設なのだろうか。ついぐるりと病室を見渡す。何の変哲もない、普通の個室だ。でもこれ以上突っ込んでも、詳しくは教えてもらえないだろう。黙って先生が話し始めるのを待つ。

 ヴェルナーはベッドの上で、長い脚を投げ出すように組んでいる。どうやら説明は桐原先生に全面的に任せているらしかった。


「まずは君に、影の情報には階級があることを話さねばならない」

「階級……ですか」

「そうだ。我々は機密レベルと呼んでいるが、情報は五つの階級に分けられる。先の連絡で、君はレベル三までの機密情報を知っても構わないことになった」

「それは、どれくらいの……?」

「階級は一が一般的な情報に近く、数字が大きくなるほど扱いが厳しくなる。今までに君に話した事実はすべて機密レベル一のもので、レベル五になると影のメンバーさえ知らない情報も多い。私もヴェルナーも許可されているのはレベル四までだ。ちなみに、機密レベル自体の話もレベル三に含まれているな」

「なるほど……」


 彼の話は整理されていて分かりやすかった。俺は目線で先を促す。


「以前、"罪"が国際的なテロリスト集団ということは伝えたが、彼らの目的は話していなかったな。奴らの目的。それは」


 地球上から人類を殲滅させることだ。

 一段低く囁かれた言葉を理解するのに、たっぷり五秒を要した。人類を。殲滅させる。現実感が薄く、途方もない響きだ。今までそんな目的のテロリズムなど聞いたことがあっただろうか?


「……ヒトを全滅させようとしてる、ってことですか? 自分たちも人間なのに」

「そうだ。ホモ・サピエンスを絶滅させること。それが彼らの最大の命題であり、目的だ。だから"罪"では、ヒトに特異的に作用するバイオテロ兵器が主に開発されている。他の動植物を巻き込んで広範囲を攻撃するような、戦略的兵器の開発・製造は確認されていない。今までのケースでは、離島に住む人間だけが消え、犬や猫などの動物は被害を受けていなかった、という例もある」

「そこは律儀というかなんというか……厳格なんですね」


 無意識に詰めていた息をふっと吐く。彼らが人類の殲滅を目的に掲げるまでに、どういった経緯があったのだろう。そんな荒唐無稽とも思える目標に大真面目(というのもおかしいが)に取り組んで世界の脅威となるのだから、尋常ではない動機があるのでは。先生の話は俺にそう思わせた。

 そして、"罪"の目的を聞いて、つい考えてしまうことは。


「そんな組織に――どうして歓迎するって言われたんだろう、俺は……」


 ぽつりと漏らすと、先生の表情が少しだけ曇り、こわばる。ヴェルナーも脇で目をす、と尖らせた。


「ヴェルからも聞いたが、その話は――確かなんだね?」

「……はい」

「つまり君が……必ずしもすぐというわけではないが、"罪"の目的を達成するための実益にかなう存在だ、と目されている。……そういう連想ができてしまうのだな」


 空気がにわかにずんと重くなる。それって、俺が人殺しに加担しかねない、という将来を示唆しているのだろうか。自分の中の、自分でも知らない自分。空恐ろしくはあるけれど、同時に光を当ててよく観察してみたいとも思った。未知のものは怖い。でも知れば対処法も見えてくる、かもしれないから。

 病室には重い沈黙が訪れる。重苦しい空気を払ったのはやはり、ヴェルナーだった。


「そうかもしれんけどよ、ここでうだうだ話してても仕方ねえし、展望もないだろ? その件は一旦保留にしとこうぜ。坊っちゃんは引き続き自分の身を守ることを最優先に考えてくれ。議論しても埒が明かねえことで悩むもんじゃない、な?」


 そうだな、と桐原先生が肯定する。俺もこくりと首を縦に振る。この場で現状を一番俯瞰的に見ているのはヴェルナーなのかもしれなかった。

 桐原先生が話を切り替える。


「では……話の続きをしよう。君に接触してきた男、ルカと言ったな。彼はボスの右腕に当たる立ち位置にいて、組織内ではかなりの重要人物だ。ヴェル」

「はいよ」


 声掛けを待ち受けていたように、ヴェルナーがなめらかな動作で重ねた紙片を渡してくる。それは二枚の写真用紙で、一枚目の写真に写った人物には見覚えがあった。かなりピンボケしているが、別の生き物みたいなぎらつく双眸は見間違えようがない。印刷物なのに、あの日に見下ろしてきた目を思い出してしまい、背筋がぞっと粟立つ。


「な、間違いなくそいつだろ?」

「そんなにヤバい人だったんだ……」

「そうよ。顔見た瞬間に腰が抜けるかと思ったぜ、俺ぁ」


 微塵もそんな様子を見せていなかったくせに、ヴェルナーは平然と己をけなすような発言をする。それも、今無事でいるからこそできる芸当だろう。


「茅ヶ崎、二枚目の写真も見てくれ。そこに、今の"罪"の首領が写っている」


 桐原先生に水を向けられ、え、と思わず声が漏れた。写真を持つ指に無駄な力が入り、ごくりと唾を飲みこむ。人類の殲滅を目論み、ルカのような危険人物を意のままに操る人間。どれだけ恐ろしい姿をしているのだろう、と薄目になりながら俺は下に重ねられた写真を見た。


「うわ……」


 半目にしていた両目を見開く。視界に飛びこんできたのは予想外の人間であった。とても綺麗な人。それが率直な第一印象だった。

 ルカとは違い、ポートレイトのようにくっきりした写真。線が細く、肩まで銀髪を伸ばした中性的な容貌の人物が、こちらをじっと見つめ返している。背筋が冷えるほどに、その顔立ちは恐ろしく整っていた。まるで作り物のように。

 テロリストの首領とあまりにも結びつかない人物像に、俺は少なからず動揺した。


「本当に? この人が……?」

「ああ。名はディヴィーネ。まだ25、6の男だ。まあ、名前は偽名だろうけどね」

「ディ、ヴィーネ……」


 馴染みのない発音を舌の上で反芻する。もう一度写真の顔をじっと見た。この先、もしかしたら人生が交差するかもしれない人間。その顔かたちを、料理の工程で材料を裏ごしするように、脳に丁寧に刷りこませていく。

 そろそろいいかい、とヴェルナーに声をかけられはっとするまで、俺は彼の写真にじっと見入っていた。


「ほどほどにしといた方がいいよ。そいつには人を惹きつける魔力があるみたいだから」

「魔力、って」

「ああ、ただの比喩表現だよ。でも、あながち冗談でもないかもな。こいつのために、若者がたくさん命を投げ出してるのは確かだから」


 俺から写真を受け取りながら、ヴェルナーはさらりとそんなことを口にする。世界の日常風景が描かれた薄い書割かきわり、その裏に広がっている、想像したこともない広大な暗闇。俺はそちらへ、一歩一歩近づいているような気がした。

 目の前の大人二人は目配せをして、浅く頷き合う。


「とまあ、君に授けたい知識はひとまずこんなところかな。今後に活かしてくれ、坊っちゃん。活かす機会が来ない方がいいかもしれんけどな」

「どうやら君は、奴らにとって特別な存在のようだ。こういう言い回しは個人的にはしたくないが……そのことを十分自覚して、行動してほしい。お偉方からの伝言だ」

「……分かりました」


 これから俺は、身の振り方をどうしていけばいいのだろう。戸惑いもあったが、しっかりと顎を深く引く。

 全身に力が入る俺を見て、ヴェルナーがふっと破顔した。


「そこまで深刻に捉えることもあるまいよ。明日になればこいつも退院するし、護衛は手厚くなる。ま、病み上がりでどれだけ戦力になるのか、個人的には正直疑問だけどな」

「見くびるなよ、ヴェルナー。すぐに万全の状態に戻してみせるさ」

「言ったな? 俺は忘れねえぞ」

「ああ、脳に百回刻んでおけ」


 桐原先生は挑発的に台詞を返すと、俺の入室時に持っていた数枚の紙を持って、バルコニーへの扉をおもむろに開ける。あれらの紙にはおそらく、俺に授けられた情報たちが書き込まれているのだろう。

 晩秋の乾いた寒風が室内に吹きこんでくる。先生はちらと曇天を見上げたあと、手に持った銀色のライターで紙に火を点けた。赤く燃え上がった炎が一瞬で紙を舐め尽くして、風が灰を彼方へと運んでいく。



 少しだけ先生と世間話をし、暗くならないうちに辞去することにした。二人に挨拶を告げ、病室を出ようとドアに手を伸ばした、ちょうどそのとき。

 扉の向こうがノックされ、虚空を掴む自分の指越しに、ドアがするするとスライドしていく。おや?、と思っていると、目線の下の方に知った顔が現れた。

「あ」と驚きの声を上げ、ぱっちりした目をさらに丸くしているのは水城先生である。いつものスーツ姿ではなく、頭にはもこもこのニット帽を被り、全体的にふんわりとした可愛らしい私服姿だ。学校ではシンプルな髪型やアクセサリーも凝っている。

 俺と視線が合うと、水城先生はあせあせした様子で笑みを作った。漫画なら頭の周辺に汗が描かれるところだ。


「こ、こんにちは! 茅ヶ崎くんも桐原先生のお見舞いに来てたの?」

「お見舞い……まあ、そんな感じです」

「そそ、そっか、偉いね! 私と一緒だねっ」


 彼女の様子はどことなく何かを誤魔化しているような雰囲気で、うきうきした気持ちが隠しきれず滲み出ている全身から、色々と察するものがあった。

 水城先生と入れ替わりに廊下に出た俺は、好奇心からちらりと室内を振り返ってみた。二人の先生は眩しいものを見るみたいに、互いが目を細めて見つめ合っている。水城先生が桐原先生を見る眼差しは優しさそのもので、教室で見るそれとはまったくの別物だった。彼女がヴェルナーとも顔見知りらしいのが俺には驚きだったが、あちらにも事情があるのだろう。

 病室から遠ざかりつつ、あれが仲睦まじいということなんだろうなと、胸に広がるじんわりした温かさを感じながら考えた。



 月曜日。待ちに待った桐原先生の復職日である。

 HRホームルームが始まる五分前に教室に入ると、いつもと違うささやかな熱気がそこには満ちていた。そわそわと落ち着かないクラスメイトたちが、抑えきれない興奮を低く囁き合っている。担任が戻ってくるからか、と見当をつけて席に座るが、どうもそれだけではないらしい。耳を澄ますと、色んな会話が次々に飛び込んでくる。


「桐原先生、やっと戻ってきてくれるの嬉しいわ~」

「分かる。なんか別の先生だと全然理解できないよな」

「それ。俺自分が数学得意じゃないんだなって思った」

「ねえねえ、今日から転校生が来るってほんとかな。机増えてるよね?」

「こんな時期に? それに転校生じゃなくて転入生だから」

「細けえー! なんか、"みちひろ"って名前らしいよ」

「じゃあ男子じゃん、格好いいといいな~」

「夢を見るな、夢を」


 転入生? 噂が本当ならすごいタイミングで来るものだ。桐原先生も復帰後すぐにそんな仕事があるとは想像していなかっただろう。

 自分の席に着き、ぼんやりと未咲の席を見やる。席の主は背中を丸め、机にかじりつきそうな勢いで紙に何かを書きつけている。もう一人の幼なじみであるひかるが机の横に腰を屈め、何やら未咲に進言しているようだ。おそらく応援演説のための原稿だろうな、と俺は考える。

 生徒会長の代替りのための選挙が近づいていた。生徒会長に立候補する生徒など例年は一人か二人らしいが、現会長の九条の精力的な活動の影響か、今回の選挙には何人もの一年生が名乗りを上げている。そのうちの一人の、俺たちと同じ中学出身の女子生徒に、未咲が応援演説を頼まれたと輝から聞いた。文章を書くのも苦手な未咲のことだ、文才がある輝の手を借りているのだろう。

 文化祭が終わってから、未咲とほとんどまともに話せていない。誰かが意図的に俺たちの邪魔をしているのか? そう疑いたくなるほどの絶妙な間の悪さである。

 桐原先生が教室にゆっくり入ってきたのは、HRのチャイムが鳴るまでまだ間がある時刻だった。伸びていた髪も日曜のうちに切り揃えてきたらしく、入院する前と同じさっぱりとしたシルエットになっている。皆がその姿を認め始めると、ざわめきが不思議なほどぴたりとやみ、教室中から自然と拍手が巻き起こる。彼を毛嫌いしている未咲すら、ペンを置いてぱちぱちとまばらに手を打った。あちこちからの「お帰りなさい!」 「お帰りなさい!」のコールに、当の桐原先生はだいぶ戸惑っているようだった。


「あー……私の不注意でしばらく穴を空けてしまってすまなかったな。今後はこのようなことがないように気をつけるから、またよろしく頼む」


 先生が小さく頭を下げる。クラスメイトの中で本当の入院理由を知っているのは俺だけだ。生徒に対する彼の律儀すぎる様子に、なんだかほほえましくなる。

 彼は自分の復帰は些細な事柄だと言わんばかりに、話題を次へと進めた。


「今日は出席を取る前に、君たちに伝えることがある。今日からこのクラスに転入生が一名、加わることになった。朝礼の前に紹介しよう」


 その言葉に、ひそひそ、ざわざわ、と場がさんざめく。本当だったんだ、という軽い驚きの声と、期待の雰囲気が広がっていく。

 高揚する空気とは裏腹に、転入生というのは大変だよな、と俺はひねくれたことを考えていた。迎える方はどんな生徒なのかと少なからずわくわくするものだし、自分が転入生だったら教室中のがっかりする気配に耐えられないだろう。

 先生が一旦ドアまで戻り、そこに待機していた転入生を迎え入れる。うちの制服を着たすらりと背が高く姿勢の良い生徒は、教壇に着くと教室を見渡して、垂れ気味の眉と目を緩ませてほほえんだ。


「初めまして、速見千雪はやみちゆきといいます。よかったら仲良くして下さいね! よろしくお願いします」


 そう自己紹介して長い黒髪を揺らし、千雪と名乗ったがぺこりと会釈した。

 てっきり男子が来ると思い込んでいたらしいクラスメイトたちが、色めき立っているのを感じる。千雪が都会的な空気を纏い、見目も整った女子だからなおさらなのだろう。あまり興味のない俺でも思わず注目してしまうほどに彼女は色白で、くりくり動く黒目がちのまなこも印象的だった。


「それじゃあ、速見にも席に座ってもらって――」


 先生が空いている机を指すと、速見は優雅な動作で壇上から降り、腰まである髪をなびかせる。クラスの大多数がほうっとその様子に見入っていたが、俺が転入生について興味があるのはただ一点、この桐原先生の復職日というタイミングでこのクラスに転入してきた彼女が、"裏の世界"に関わっている人間なのかどうかについてだ。偶然だけで片づけるにはあまりに出来すぎている気がした。速見が影や"罪"の関係者――例えば俺のように"罪"に目を付けられた人間――であるなら、桐原先生から何らかのサインがあるに違いない。

 先生の一挙手一投足をじっと注視していたものの、目配せや手振りなどの合図と思われるものは何もなかった。そういうわけで、俺は転入生に対する興味をそこで完全に失う。華々しい空気をまとった彼女は、明らかに俺とは違う層の人間だった。

 その後、一人増えた教室での放送朝礼や授業はつつがなく進んでいく。休み時間になると速見はクラスメイトの女子に囲まれ、さっそく盛り上がっていた。「速見さん、モデルさんみたいだよね!」「そうかな? 街のスナップに何回か載ったくらいだけど」「それって東京でってこと? すごーい! 原宿? 渋谷?」そんなきゃいきゃいとした会話が漏れ聞こえてくる。何人かの男子が女子の集団を羨ましげに盗み見ていた。

 俺は転入生よりも、久しぶりに桐原先生と学校で話したかったのだが、彼も彼とて常に数人の生徒に囲まれており、戦略的撤退を選ばざるを得なかった。まあいざとなれば影を口実にして家で会えるし、と自分を強いて納得させる。先生の方は明日になれば多少は落ち着くだろう。今日のところは諦めて時間割を消化することにする。

 俺の人生における大事件――ともすればルカの来襲以上の――が起こったのは、その日の最後の授業が終わった直後だった。

 自分の席で鞄に必要なものを入れ直しているとき、ふとそばに人が近づく気配がある。未咲かなと見当をつけ、原稿はできたのか、という問いを舌の先に乗せてから顔を上げた。

 そこに立っていたのは果たして未咲ではなかった。決して交わらない存在であるはずの転入生・速見千雪が至近距離にいて、思わず体がりそうになる。


「こんにちは。君が茅ヶ崎龍介くん?」


 それは問いではなく確認だった。朗らかに笑んだ速見の声はフルートを思わせる優美さで、なんだか甘く芳しい匂いが漂ってきて気後れする。そわそわとこの場から早く逃げ出したい気分になった。なんで俺なんかに話しかけてくるのだ。

 冷や汗をかくような心持ちで、そうだけど、となんとか肯定するや否や、相手がずいと身を乗り出してきて、俺の机に両手をつく。


「ね。このあと、放課後の予定は何かある?」

「いや……」


 目一杯椅子の背もたれに体を押しつける。ぐいぐい来る人間は女子であれ男子であれ苦手だった。そのうえ、教室中の視線がこちらに集まっているのを感じる。みんななぜ転入生がいきなり問題児である俺に話しかけるのか、不思議に思っているのだろう。俺だって不思議だ。この場から一刻も早く可及的速やかにいなくなりたかった。このときほど透明人間になりたいと願ったことはない。

 それなのに、相手はさらなる特大の爆弾を放り込んできた。


「それなら、これから私とデートしよう」

「は……?」


 ざわっ、という音にならないざわめきの気配。

 目尻を下げてほほえむ速見の前で、俺は蛇に睨まれた蛙のごとく萎縮し、たじたじになっていた。このシチュエーションを切り抜ける方法が分からない。悪夢なら醒めてくれ。


「いや、なんで……」

「駄目な理由なんてないでしょう? 君は彼女もいないし、部活もやっていない。予定がないなら、今くらい私に付き合ってもいいんじゃない?」

「ええ……と」


 なんでそんなに詳しいんだ、と胃の底あたりが寒気に襲われる。初対面のはずの人間にデートを申し込まれるなんて恐怖でしかなかった。しかも相手は何故かこちらの事情に異様に詳しいときている。どう考えてもおかしいし怪しい。「速見さんと茅ヶ崎くんって知り合いなの?」という周囲からのひそひそ声が耳に届く。いいや、そんなわけはない。俺はこんな奴は知らない。

 浴びせかけられた矢みたいに、四方八方からの視線が突き刺さる。腋の下あたりを嫌な汗が伝う。前方にいる得体の知れない転入生は微笑してはいるが、目の奥に少々剣呑けんのんな光を灯している。逃げ出すタイミングは既に逸していた。

 ごく小さい声で渋々、分かったよ、と速見の申し出を了承するほかなかった。

 相手はぱあっと笑みを深くし、やにわに俺の袖を掴む。そのまま引っ張られてほぼ連行される形の俺を、まだ教室に残っていた未咲がじっとりと睨んでいて、衝動的に死にたくなる。

(続く)

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