どこかのこと・回想 月光と瞑目

 少年はその日、月の光が射す部屋で死に、そして生まれました。

 少年が初めて人を殺したのは、十一歳の時でした。



 少年の名は、ルチアーノといいました。

 地中海に面した、南イタリアの小さな町が、少年の知る世界のすべてでした。そこは町のシンボルである、珍しい木造の教会以外には、変わったもののない静かなところです。少年の両親は、彼が幼いうちにやまいで息を引き取っており、いまは縁遠い親戚の家で暮らしておりました。

 少年は、その聡明そうな外見とは裏腹に、みすぼらしいなりをしていました。骨が浮くほどやせっぽちで、錆びかけた鋏で自ら切った黒い髪は、ぼさぼさでぱさぱさ。身に付けているのは、生地が薄くなった洗いざらしのシャツに、当て布だらけのズボン、襤褸ぼろと見紛うほど汚れた靴という格好です。少年は親戚の家で、人間としての尊厳ある扱いを受けていなかったのでした。

 学校へは行かせてもらえず、与えられた屋根裏部屋は年中暗くて黴臭く、眠っていると枕元で鼠が駆け回る音がしました。食事は一日二回で、親戚の家族とテーブルを共にすることは許されませんでした。

 おばさん――といっても血の繋がりは無いに等しいのですが――は食事を運んでくる際に、部屋のドアに付いたベルをチリンと鳴らします。それを聞いたら、たっぷり十秒数えてからドアを開け、食事の乗ったトレイを部屋に引き入れるのです。なぜ十秒数えるかというと、おばさんと鉢合わせするのを防ぐためです。

 おばさんは少年と顔を合わせるやいなや、必ず金切り声をあげました。少年の琥珀色の虹彩を、狼のひとみだと言って忌み嫌っているのです。少年はおばさんを怖がらせないよう、ひっそりと食事を済ませて、用心ぶかくトレイをドアの外に置くのでした。

 少年は、本を読むことをたいそう好いていました。

 もちろん、間借りをしている家の本を手に取ることは禁じられていましたが、家人が寝静まった頃、こっそりとおじさんの書斎に忍び込み、一冊ずつ本を屋根裏部屋に運んでページをめくるのが、毎日の楽しみでした。少年は機転が利きましたので、本を抜き出すとき、跡が残らないよう細工することも忘れませんでした。家には少年より二、三歳年上の息子もおりましたが、少年のほうがその遅鈍な息子よりも、あらゆる分野においてふかい知識を持っていました。

 おじさんの蔵書のジャンルは多岐に渡っていて、少年は狭い屋根裏部屋にいながらにして、いにしえの異国で起こったいくさに思いを馳せ、大気圏外から青くうつくしい地球を眺め、ウィルスや細菌の恐ろしく、それでいて精巧な形に感嘆することができました。

 少年の楽しみはもうひとつあります。

 街のシンボルの教会で行われる日曜礼拝です。

 そこで毎週奏でられる讃美歌の響きが、少年は大好きでした。少年が外出することに、おじさんは良い顔はしていませんでしたが、神さまの手前、踏み込んだ文句は言えないようでした。

 神父さんが弾くオルガンの伴奏へ、合唱隊の面々が複雑に絡み合う旋律を乗せていきます。その音律は教会内によく反響し、芳醇なハーモニーとなります。豊かな音の波にたゆたい、浸り、至福を存分に味わった少年がきびすを返す先はしかし、いつも牢獄のような借り物の家でした。

 少年にとって、音の湯浴みとも言うべき、その時間は喜びでした。毎週の満ち足りた瞬間があればこそ、少年は閉塞感に満ちた生活にも耐えられていたのです。結局、少年が帰る場所はあの家しかないのでした。



 ある日のことです。

 少年が教会の長椅子に腰を落ち着かせ、礼拝が始まるのをいまや遅しと待っていると、見慣れぬ男性が斜め前に座ってきました。こぢんまりとした街ですから、名前は知らなくとも礼拝に来る人とは皆顔なじみです。しかしながら、少年はその男性――少年と青年の境の年ごろでしょうか――に、まったく見覚えがありませんでした。

 彼の髪は珍しい、まばゆいほどの銀白色でした。彼が羽織っている小綺麗なジャケットは、教会の素朴な調度品の中で、場違いなほどつややかな光沢を放っています。その華やかさは、そういう方面には疎い少年の目にも、明らかな高級品と映りました。

 少年がこっそり彼の横顔を盗み見てみると、驚くほど整った面立ちがそこにはあります。まるで、ルネサンスの絵画から抜け出てきたのか、と見紛うほどの人類の理想の極致と思えました。露のきらめく清潔な朝の光景も、水平線に投射される幾すじの天使の梯子も、彼の美の前ではすべて霞んでしまうでしょう。

 少年の心はうち震えました。それは歓喜でした。こんなにも彼がうつくしいのは、神の祝福を受けて生まれてきたからに違いない。大いなる超越者の介入なくしては、この美は誕生し得ない。青年の存在は、神の実在の証のように、少年には思われたのです。

 そこでふと、何の前触れもなしに、その青年が振り返りました。熱い視線を覚っていたのか、少年に向かってほんのりと麗しいほほえみを投げかけてきます。その笑みは、非の打ちどころも、一点の曇りもありません。

 少年は自分の小汚ないなりが急に恥ずかしくなり、どきまぎしながら俯きました。そして一度も顔を上げられないまま、礼拝は終わりを迎えていました。あんなに楽しみにしていた讃美歌も、今日だけは少年の右耳から入って、そっくり左耳から抜けていってしまったようでした。

 神父さんの挨拶のあと、そろそろと頭をもたげると、青年の姿はどこにもありませんでした。うつくしい微笑を少年の記憶に刻みつけて、いずこへと消えてしまっていたのです。

 はて、自分は幻でも見ていたのだろうか、と少年は首を捻りました。



 またある日のことです。

 少年以外の家族が旅行に行くというので、間借りをしている家からは人の気配が消えていました。食事は保存食で済ませ、外出は控えるようにおじさんからはきつく言い渡されていましたが、少年は夜暗に紛れ、こっそりと家を抜け出ました。少年にはしたいことがありました。それは、夜のあいだしかできないことでした。

 夜の街を、少年はほとんど見たことがありませんでした。家々からはあたたかい明かりと食事の匂いが放たれ、そこかしこで人びとががやがやとざわめき、陽気な歌を歌っている者さえいます。大通りから外れた裏路地の奥では、淀んだ暗がりに下着のような格好の女が佇み、下卑た笑みを浮かべた男と、何事か言葉を交わしています。煙草の煙が漂ってくるそこには目もくれず、少年はある場所へと駆けていきました。

 少年の向かう先は教会でした。尖塔のてっぺんにある十字架は夜の闇に沈んで見えず、日中よりも建物が一回り膨れたように、自分の体が一回り縮んだように感じます。教会はいつでも門戸を開いていましたから、夜気に冷やされた扉に手をついて力をこめると、大きな暗がりが少年を迎え、すっぽりと体を包み込んでくれました。

 屋内はひっそりと静まりかえっていました。ここだけ、時の流れから解き放たれたようにも思えます。窓から射し込む月明かりで、おぼろげながら物の形が見えました。目が慣れるのを待ってから、少年は用心ぶかく、しずしずと歩みを進めました。その先には、オルガンがあります。神父さんが讃美歌の伴奏に使う、ちんまりと慎ましいたたずまいの、足吹きのオルガンです。

 少年は礼拝に通ううちにいつしか、一度でいいからこのオルガンに触れてみたい、という願望を胸の内に育てていたのです。

 オルガンの椅子に座ると、ギギッと耳障りな音が講堂いっぱいに響きました。少年はぎくりと身を強ばらせましたが、気を取り直して足を動かし、そっと鍵盤に触れてみました。

 瞬間、少年の指先から、弾けるように音が生まれました。予期していたよりも大きく、金いろになびく麦畑のように、ふくよかな音でした。少年は指を曲げ伸ばししながら、色々な位置の鍵盤に指を乗せていきます。右にいくほど高い音、左にいくほど低い音。

 少年のなかで、何かがぱちんと爆ぜました。それはおそらく、目覚めの合図でした。少年は、この楽器を理解しました。

 すう、と息を吸い込んで、簡素な伴奏と、大好きな讃美歌のメロディーを思い浮かべます。そして、頭のなかで鳴っている響きの旋律を、なめらかに十の指へと乗せていきます。

 少年は完璧でした。完璧に、複雑な讃美歌の旋律を再現できていました。自分の指が奏でる響きに酔いしれながら、少年はいつしか、目を瞑って演奏していました。

 やがてアーメン、の残響の終息とともに、あたりは再び静寂に包まれました。少年はゆっくりとまぶたを持ちあげます。そこで初めて、自分のすぐそばに人影があることに気づきました。少年はびくりと凍りつきました。

 そこには、驚き、呆然とした表情の神父さんが立っていました。

 長いことオルガンを弾いていたのだから当然の成り行きとも言えるのですが、少年はすっかり誰かが教会に入ってくる可能性を失念していました。それくらい、自分の世界に入り込んでいたのです。一瞬拍動を止めた心臓は、今度はばくばくと早鐘を打ちはじめました。


「あ、あの、ごめんなさい――僕、僕……」


 もつれる舌で、少年はなんとか弁明を試みようとしましたが、なかなか言葉が形になりません。そうしているうち、少年は次第に泣きそうになってきました。ぼろぼろのズボンを握りしめながら、歯を食いしばって、目の縁から滴がこぼれるのをこらえます。

 少年の反応をほぐすように、神父さんは優しげな声をかけます。


「君は、いつも日曜礼拝に来てくれている子ですね?」


 少年はびっくりして思わず、神父さんの顔をまじまじと見ました。日曜の午後のような柔和な微笑がそこにはありました。しかし少年の心は、動揺と混乱と焦燥とでいっぱいでした。

 どうしよう。まさか顔を覚えられているなんて。どうしよう。もしも家族に連絡されたら。どうしよう。こんな時間に教会に忍び込んだなんて知られたら、帰る場所がなくなってしまう――。


「僕……ごめんなさい、ごめんなさい……」


 とうとう、少年のひとみから涙があふれだしました。滴はとめどなく流れます。あんな冷たく不快な場所でも、少年にとっては唯一の居場所なのです。少年にはあの家以外、りどころとなるものは何ひとつ無いのです。

 神父さんはちょっと困った顔をして、それでもほほえみながら、少年の頭をそっと撫でました。


「おやおや、泣かなくてもいいのに。とても素晴らしい讃美歌でしたよ。驚きました。あの曲は口伝えで歌い継いできたもので、楽譜もないのです。それをどうして弾けるんですか?」


 少年は困惑しながらも、どうやら神父さんは怒っているわけではなさそうだ、と悟りました。同時に、問いかけに対して首を傾げました。あの讃美歌は、毎週毎週何回も聴いて覚えているのです。それをそのまま鍵盤に移し換えればよいのです。それができない理由などありましょうか。

 少年は自分の思いをなかなか音にすることができず、もごもごと口元を動かし続けました。何しろ、少年は普段ほとんど人と話す機会がないのです。おじさんの家では質問は禁止されていましたし、家族から声をかけられることもまったくと言っていいほどありませんでした。心の声をどう実際の音にすればいいのか、少年には分からなくなりかけていたのです。

 神父さんは、もじもじする少年の様子から、何もかもを察したようでした。己を納得させるようにひとつ深く頷いて、厳かな声でこう言いました。


「君、音楽の教育を正式に受けたくはないですか」



 少年に日々の楽しみがひとつ増えました。

 神父さんの取り計らいで、日曜礼拝のあと、音楽の先生のレッスンを受けられることになったのです。楽器はオルガンではなくピアノに変わりましたが、グランドピアノの鍵盤は、むしろオルガンよりも少年の指にしっくりと馴染みました。少年はすぐにこのつややかでどっしりした楽器が大好きになりました。

 少年の腕は先生がびっくり仰天するくらいにめきめきと上がりました。最初の先生が、もう教えることがないからもっと上手な先生に代えてください、と申し出るまで長くはかかりませんでした。

 少年が教えを受けているあいだ、神父さんは同じ部屋にいてくれ、にこやかに練習風景を眺めていました。レッスンの終わりには、たくさんあるクラシック音楽のCDを、立派なオーディオで自由に聴かせてくれました。お金のことは気にしなくていいんですよ、と神父さんに言われていたので、少年は少しでも早く上達して恩に報いることができるよう、集中してピアノに向き合いました。

 少年のピアノの技術とは反比例して、おじさんとおばさんの機嫌はどんどん悪化していきました。

 ある日とうとう、こんな時間まで何をしているんだ、何か良からぬことをしているんじゃないだろうな、人様に迷惑をかけてみろ、お前のような役立たずの愚図など、海に放りだしても誰も気にも留めないんだぞ、と問い詰められました。が、少年にはうまく答えることができません。押し黙っていると、いきなりおじさんが少年の腹を殴りました。

 暴力を振るわれたのは初めてでした。衝撃で床に倒れこむ少年を、おじさんは今までの鬱憤を晴らすかのように、蹴って蹴って蹴り続けました。少年は動揺と、味わったことのない痛みと、恐怖とで身動きが取れず、背中をできるだけ丸めて、なされるがままに横たわっているしかありませんでした。

 次の日曜日、少年はこれが最後だ、これを最後にレッスンを取り止めてもらおう、と心に決めて教会に出向きました。これ以上は誰かに迷惑がかかる。この幸せなひとときの思い出で、あの屋根裏の生活にもきっと一生耐えられる。少年は自分にそう何度も言い聞かせ、自らを納得させたのです。

 礼拝のあと、神父さんにもうピアノを辞めたい、と伝えると、神父さんはゆったりした声でなぜですか、と問いました。少年は、理由を言うつもりはありませんでしたが、神父さんの強い光のこもった目を前にすると、その決心は緩みました。

 少年はすべてを告白しました。親が死んで、遠い親戚の家で暮らしていること。学校に通っていないこと。満足に食事や服を与えられていないこと。音楽が心の支えだったこと。外出を歓迎されていないこと。昨日おじさんに詰問され、殴られ、嘔吐するまで蹴られたこと。

 少年はいつしか、しゃくりあげるほどに泣きじゃくっていました。神父さんは、少年の骨ばった手を優しく握りながら、かさかさした唇が紡ぐ非道な物語に、じっと耳を傾けていました。

 涙が枯れるほど泣き、すべてを語り終えた少年に、神父さんは安心して下さい、私が話をします、と言いました。

 少年はきょとんとして、神父さんの顔を見つめました。

 神父さんは少年を自分の居室へ導きました。こぢんまりとした、居心地のよい部屋でした。少年から家の電話番号を聞くと、ためらいなくダイヤルをプッシュします。神父さんの挙動を、少年ははらはらしながら見守ります。これから何が起ころうとしているのか、不安で仕方ありません。今日レッスンに使うはずだった楽譜を、無意識にぎゅっと抱きしめていました。


「こんにちは。初めまして。私は教会の神父を務めている者ですが……ええ、ええ、お宅のお子さんはこちらにいらっしゃいますよ。そのことでひとつお願いがあるのですが。……いえ、そうではありません。この子をしばらく、こちらに預けてほしいのです」


 少年は目を見開きました。神父さんはいきなり何を言っているのでしょう。

 慌ててわたわたと無為に手足を動かす少年の前で、神父さんは毅然とした面持ちで、電話に向かっています。


「この子には音楽の才能があるのです。今まで週一回ピアノのレッスンを受けてもらっていましたが、毎日ピアノに触った方が絶対にいいでしょう。もちろん、月謝を払ってほしいなどとは言いません。大切なご家族を預からせていただくのですから、むしろこちらから謝礼をしっかりとさせていただきたく……ええ、はい、そうですか、ご快諾ありがとうございます。それでは、今夜にでも」


 少年は呆然としていました。電話の向こうの声が聞こえなくても、神父さんの話だけで、どんな内容か分かります。けれど、内容が理解できても、自分に訪れたまたとない機会を信じることができません。暗く長いトンネルを抜けたら、そこは天国だったのでしょうか。言葉にならない思いが胸に渦巻きます。

 神父さんは、少年ににっこりと笑いかけました。とてもあたたかい、太陽のような笑顔でした。


「君はこれから私のところで生活なさい。ご家族からも許可をいただきましたし、これで毎日レッスンを受けてもらえます。今夜はご家族と食事をしてくるといいでしょう。最後の挨拶をして、それが済んだらいつでもこちらにおいでなさい」


 少年の体の内側に、熱いものがぶわっと広がります。十一年間生きてきて、こんなに嬉しい瞬間があったでしょうか。

 少年はまさしく天にも昇る心持ちでした。これまでにない大きな声で、ありがとうございますっ、と感謝を述べ、駆け出しました。そんな少年の後ろ姿を、神父さんは柔和な笑みで見送っていました。

 家に戻ると、家族は気持ち悪いほど優しく少年を迎えてくれました。猫なで声で喋る三人の眼は、やたらてらてらと光っています。

 少年は、三人とともに食卓に就きました。少年には名前の分からない料理がずらりと並んでいます。おじさんの蔵書には料理に関する書籍はありませんでした。三人と同じものを食べるのも、三人と食事の時間をともにするのも、何もかも初めての経験でした。


「良かったな、ルチアーノ。これでやっと、私たちの役に立つことができるな」

「本当に、今までどれだけ我慢と世話焼きを強いられてきたことか。私たちにお礼を返すつもりで、頑張りなさいな」

「お前は今の今までただのお荷物で穀潰しだったんだから、これからきっちり金になることをしてもらわなきゃ」


 そう言い合って、おじさんとおばさんと息子は愉快げに笑いさざめきました。少年は最後の晩餐を口に運びながら、彼らの言葉を黙って受け取っていました。少年から語るべきことは何もないようでした。

 夕飯が済んでしまうと、少年はその夜に身ひとつで家を出ました。鋼鉄の檻のようなその家に、少年の持ち物は何一つとしてありませんでした。


「もう帰ってこなくていいからな」


 おじさんからのはなむけの言葉はそんなものでした。

 心地よく冷えた夜気が、少年の頬を滑って流れていきます。少年は鼻歌を歌いながら、教会への道をたどります。旋律は覚えたばかりのベートーヴェンのソナタでした。これからは、大好きな神父さんとともに、大好きなピアノの勉強を毎日できるのです。どんな素敵な語彙を尽くしても足りないほど、自分で自分の境遇が信じられないほど、少年は幸せでした。幸運を与えてくださった神さまに、何度も何度も感謝しました。

 意気揚々と歩みを進める少年の鼻を、ふと、何か嫌な臭いがつんと突きました。なんの臭いでしょう。ものが焼けるような不快さが、鼻腔を埋めます。教会に近づけば近づくほど、その焦げ臭さは徐々に強まっていきます。少年の胸には暗雲が広がっています。

 次の角を曲がったとき、目指す教会の尖塔が姿を現しました。

 なぜかその上空の雲が、赤く染まっています。



 少年が息せききって教会の前に駆けつけると、そこは黒山の人だかりになっていました。 

 火事です。

 あの珍しい木造の教会と、隣接する神父さんの住まいは、天を焼き尽くさんばかりの炎の塊となって、ごうごうと燃え盛っていました。ばちばちと何かが爆ぜる音もします。少年は開いた口を塞げずに、しばらくそこに立ち尽くしていましたが、やがて人混みにやみくもに突っ込んでいき、人の壁からふらふらと教会に近寄りました。

 火は赤々と、見上げるほどに燃え盛り、頬が焦げつきそうな熱さで、まともに目も開けていられないほどです。その目映さは圧倒的な熱量でした。教会は黒い影となり、焔の中で身悶えするように揺らめいています。消防士が水を放射していますが、生き物めいた炎は身をくねらせるだけで、勢いが衰える様子はありません。

 神父さま、と少年は呟いて、熱で陽炎かげろう教会の中へ走りこもうとしました。そんなことをしても、自分が火勢に飲まれるだけだと、少年の頭に声が響きます。それでも、少年はそうしなくてはいられなかったのです。


「坊主、何してる! 近づくな!」


 誰かが叫びますが、少年の耳には届きません。

 行かなきゃ。僕が。

 だって、あそこに、神父さまが。

 少年の体はしかし、がくんと何かに引かれて止まりました。少年がのろのろと後ろを振り向くと、そこにいたのは、いつかの礼拝で見かけた美貌の青年でした。

 青年はまったく落ち着いていました。以前の邂逅でも驚嘆したうつくしさは、何ら変化していませんでした。彼は細腕で少年の肩をしっかりと掴み、どこまでも静かな光を目にたたえています。


「離し、て……。神父さまを……助けなきゃ…………」

「君まで死ぬことはないよ」


 うわ言のように震える声を押し出す少年に、青年は凛とした声で告げました。

 君まで。じゃあ、神父さまは。もう。

 少年の口がわなわなとわななきます。全身から力が抜け、少年はその場にへたりこみました。


「さあ、おうちへお帰り。ここは危ない」

「帰るところなんて、ありません……」


 声は弱々しく、蚊の鳴くようでした。少年は絶望の奈落に突き落とされていました。ついさっきまであんなに幸福だったのに、もはや少年には、本当に何もなくなってしまったのですから。これから始まるはずだった明るく朗らかで豊かな生活は、炎によって灰になり、吹き消え、永遠に失われました。

 青年は少年の様子をじっと観察していましたが、おもむろに少年の手を引くと、薄暗い裏道へと連れていきます。


「何があったんだい。ぼくに話してごらん」


 青年は穏やかな声音で問いました。

 少年は、既に彼は一から百まで承知なのではないか、という不思議な思いを抱きながら、神父さんに話したように、たどたどしくもすべてを伝えました。神父さんの前で嗚咽したのが、まだ今日の夕方の出来事だなんて、少年には信じられませんでした。

 天使にそっくりな容姿の青年が、少年の頭を撫でます。


「君にいいことを教えてあげよう」


 青年は、ほほえんでいるように見えました。


「この世には、神なんていないんだよ」


 そう、神さまに祝福されて生まれてきたはずの青年は言い放ちました。

 少年は口をぱくぱくさせます。ショッキングな台詞に、口の中がからからに乾いていました。


「そん、な……こと……」

「だって、考えてもみてごらん。君には豊かな才能がある。それが神からの贈り物なのだとしたら、どうして君に、こんなむごい仕打ちをするだろう」


 青年の言葉は、ひたひたと打ち寄せる冷たい波のように、少年の心を浸食していきます。

 だったら彼はなぜ、礼拝堂で神父さんの話にじっと耳を傾けていたのでしょう。もう、少年には何もかも分かりません。分かりたくもありません。少年の目は、それ以外に機能を失ったかのように、ぼろぼろと大粒の涙をこぼし続けます。


「帰るところがないなら、ぼくと一緒に来るかい」


 それは、雲間からすうっと差す月の影のような、絹の肌触りのような、なめらかな声でした。少年は青年の顔を見上げました。暗がりにいるのに、青緑の双眸はきらめき、少年の心を吸い寄せます。まるで特別な魔力を持っているようです。

 少年は、こくりと頷きました。まるで、何者かに操られているみたいに、すんなりと。

 青年はその麗貌を崩し、にこりと破顔しました。


「じゃあ、ひとつ条件があるんだ」


 青年は、仕立てのいいジャケットの内側から、何か細長いものを取り出して少年の手に握らせました。懐にあったのにそれは冷たく、ずしりとした手応えがありました。

 少年は手の中にあるものを見ます。刃渡り十五センチメートルほどの、鞘がついた銀いろのナイフでした。

 暗い予感がします。少年の声や体はぶるぶると震えます。


「な、に、これ……」

「これで君の家族を、君にひどいことをした悪魔を、殺してくるんだ。それができたら連れていってあげる」


 その声音にたかぶったところはなく、穏やかに歌うような口調でした。


「ころ、す……? 僕が……?」

「そう。君がやるんだ」


 少年の顔から血の気が引きました。

 殺す。僕が。

 あの人たちを、これで、刺す。

 現実に言われていることとは信じられず、少年の顎が振動し、歯ががちがちと鳴ります。青年はゆったりと淑やかな手を差しのべ、少年の掌ごとナイフを掴みました。


「君は憎いはずだよ、あの人たちが。彼らが、君に何をしてくれた? 彼らは君を痛めつけた。君の才能を食い潰し続けた。君はもっといい生活を送れたはずなのに。生きるのに値する人たちだと思う? 君には何もなくなってしまったのに、彼らは今までと同じように食べ、笑い、生活していくんだ。それが許せる?」


 青年の冴えざえとした言葉たちは、少年の脳髄に、ひたりひたりと冷たく浸透していきました。永い時間心の奥に追いやって、あえて見ないふりをしていた、どろりとした昏い本能が呼び覚まされる、そんな感覚がありました。

 青年の手の内で、少年はナイフをぐっと握り直します。


「復讐するんだよ」


 青年はやはり、微笑していました。



 元の家を訪ねると、訝しげな顔をしたおばさんが玄関に姿を見せました。

 少年は自分の靴の足先に目を落としています。後ろ手には銀いろのナイフを隠し持って。心臓がどくどくと脈打っています。背中に、あの青年の視線を感じます。


「なんだい、まだ何か用があるのかい」

「忘れ、ものを……」

「忘れ物? この家にお前のものなんかないよ! お前にはもうこの家に入る権利はないんだ、ほら、突っ立ってないでさっさとお行き!」


 少年はゆるゆると面を上げました。おばさんが憤怒の形相で、薄汚れた野良猫でも追っ払っているように、手を勢いよく振るっていました。それは同じ人間に対するものではあり得ませんでした。

 これまでは感じることのなかった、熱く煮え返る激情が、少年の喉の奥からこみあがってきました。

 そうだ。僕は。

 この家の人たちが憎い。

 体の熱さとは逆に、頭はひどく冷めきって凪いでいました。おばさんが閉めようとするドアの隙間からするりと室内に入り、体を反転させて相対します。おばさんは怒りで顔を歪めましたが、少年が構えているものを見た途端、表情が凍りつきました。少年はナイフをしっかりと握って、おばさんに息もつかせず肉薄し、長きにわたって自分を飼い殺してきた人間の心臓めがけ、何の逡巡もなく鋭利なそれを突き立てました。

 深く、どこまでも深く。

 おばさんの顔が驚愕に染まります。顎ががくがくと動いています。少年がナイフを引き抜くと、赤くぬめる血潮がどばっとあふれでました。少年は熱い返り血にぐっしょり濡れましたが、全然気になりませんでした。

 倒れ伏したおばさんの体の周りを、どす黒い液体が彩っていきます。呼吸を止めた肉の塊を玄関に残し、少年は二階への階段を昇ります。

 おじさんは書斎の椅子に腰かけていました。階下の騒動に気づく様子もなく、机の前で背中を丸め、パソコンに何事か打ち込んでいます。少年は扉を慎重に開け、背後からそうっと音もなく近づいて、左側の首の頸動脈めがけ、ナイフを降り下ろしました。ひゅっと風を切る音がしました。おじさんの蔵書の、解剖学の分厚く小難しい本を読んでおいて良かったと思いました。

 おばさんの時よりもひどい血しぶきが、びゅう、と吹きでました。おじさんは身悶えして床に倒れこみ、血走った目で、そこにいる少年を見上げました。少年は、妙に白けた気持ちで、自分に手酷い暴力を振るった人の、最期の悪あがきのように痙攣する体を眺めていました。

 息子はいちばん簡単でした。彼はもう自室のベッドですうすう寝ついていましたので、彼の体にただ刃を突き刺すだけで終わりでした。少年の心臓はいつからか、完全に静けさを取り戻していました。三人を手にかけ終えても、何の感情も湧いてはきませんでした。短い人生を終えた息子の全身は、うっすらとした月明かりの中でもはっきり分かるほど、赤黒く濡れていました。

 階下へ降りると、照明を落としたリビングに、凶行を命じた本人がうっそりと佇んでいました。満足そうな表情を浮かべつつ、少年の元へ歩み寄ります。リビングには淡く月光が射していて、仄かな光の筋の向こうから青年が進みいでる様は、どこか幻想的な光景に見えました。

 青年が手を伸ばし、少年の顎をくいと持ち上げます。


「もう終わったかな」

「……はい」

「そう。いいになったね。合格だ」

「……」

「シャワーを浴びておいで。そうしたら出発しよう」


 少年は自分の格好を見やりました。体の前面が、三人の血にべったりまみれていました。少年のそんな姿を見ても、青年は眉ひとつ動かしませんでした。

 少年の着替えが済むと、青年はいつの間にか見つけていた鍵で、玄関をきっちり施錠しました。ねえ知っているかい、君はもう死んだことになっているんだよ、と青年は手を動かしながら呟きました。驚いたことに、おじさんは少年を社会的に抹殺してしまっていたのです。でもこれで、事件が明るみに出ても少年が疑われることはないでしょう。二人は連れ立って、みっつの骸が沈黙する家をあとにしました。

 青年に手を引かれながら、少年は彼と言葉を交わしました。


「そういえば、君の名前を聞いていなかったね」

「……。ルチアーノ……」

「そう。……ルチアーノ。今日までの君は今夜死んだ。君の名前はこれから、ルカだ」

「ルカ……」

「いいかい、ルカ。君の心も体も、今夜からはすべてぼくのものだ。これからはぼくの言うことだけを聞くんだよ。誓えるね」

「……はい。誓います」

「それじゃ、行こう。ぼくのことは、ディヴィーネって呼んでね」

「はい」


 少年は、しっかりと頷きました。

 青年の横を歩きながら、聡い少年には分かっていました。この先には地獄しかないことを。もはや後戻りはできないことを。それでもなお、青年の手を取ったのです。

 少年の中には、青年と交わした呪いめいた誓いの他は、何もありませんでした。青年との誓いだけを空っぽの胸に抱き、他のすべてのものに、目をつぶると決めたのです。

 こうしてルチアーノは死に、ルカは生まれました。

 まだ焦げ臭い空気を縫って、どこからか月光ソナタが聞こえてきていました。

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