僕らとどこかのこと 炎う(かぎろ)ふたつの牙(6/6)

(承前)


 その後のことはもう、俺には把握不能だった。

 唯一見えたのは、ヴェルナーが勢いよくルカへ突っこんでいったこと。それきりどんなに顔を巡らしても、二人の姿を切れ切れにしか捉えられなかった。特に俺を歓迎するとか言った"罪"の男の方は、明らかに人の動きの域を凌駕している。例えば、普通に立っていると思った次の瞬間に、予備動作なしで体育館の天井近くまで跳躍しているだとか。

 本能的で根元的な恐怖に、いつしか鳥肌が立っていた。もし人間じゃないとしたら、あれは何なんだ? 青年の得体の知れなさに、未咲を抱く指先がすうっと冷えていく。

「ごめんなさいね」腕時計を見つめたまま、金髪の女性がぽつりと呟いて、すっと現実に引き戻された。

 突然の謝罪にどう対応するのが正解か戸惑い、反応はぎこちないものとなる。


「なんで、あなたが謝る……んですか」

「君も含めて、この学校にいる人たちを危険な目に遭わせてしまった。それは私たちの落ち度だから」

「落ち度? どうして」

「君は、予見士という存在のことは聞いているのよね。私たちは予見士の出す未来予見に従って行動を決めているの。でも今日、影の予見士は"罪"の襲撃可能性をゼロとしていた。ヴェルナーや私が学校に潜入していたから良かったようなものの――これは重大な失態よ」

「予期できなかったのは、なぜ」


 シャーロットは首を横に振る。


「分からないの。私たちは予見の結果しか聞かされていないから。こういう時、戦うことしかできないのが悔しいわ」

「……身近に、ヴェルさん以外の影の人がいるとは思わなかったです」

「あらそう? 意外とすぐそばにいるものよ。ミスター桐原……あなたの桐原先生だって、影の一員でしょう?」

「先生を知ってる……?」

「ええ、まあ……昔の、ちょっとした知り合いよ」


 ほほえみ混じりの答えを返され、相手のシャープな横顔の輪郭をまじまじと見てしまう。桐原先生とこんなモデルか女優みたいな人が知り合い? なかなか想像できなくて、呆気に取られた。

 シャーロットが再び、時計に視線を落とす。


「そろそろ、タイムリミットね」


 彼女と話して若干ほぐれた緊張がぶり返した。このままルカが逃げ切れば彼の勝ちだ。あの体の動きを見たら、ちょっとヴェルナーが捕まえられるとは思えない。五、四、三、と残り時間がみるみる小さくなっていって、勝負は刻限ぎりぎりに決した。

 二つの影が静止して、ルカの手首を、ヴェルナーががっしりと掴んでいる。

 俺たちのいる地点から十メートルと離れていなかった。思いがけない結末に目を見張る。勝利を宣言するようなヴェルナーの低い声が、こちらまで聞こえてくる。


「……捕まえたぜ」


 対して敗者であるはずのルカは、虫けらでも睨めつけるような冷めきった瞳で、手首にまとわりつく手を見下ろしている。


「あなたの身体能力は非常に素晴らしい。生身の人間で、それは特筆すべきことです。……が、所詮はそれまででしかない。あなたの国の言葉で言うところの、"Übermensch"である私たちの相手ではない」

「負け惜しみかい?」

「……。ご質問は」


 俺の耳には、"罪"の青年の冷然としたそれらの見解が、負け惜しみであるようには聞こえなかった。不敵に笑うヴェルナーがわずかながら息を乱しているのに反し、ルカは先ほどまで激しく動き回っていたのが嘘のように、完璧に整った呼吸と冷ややかな表情をしているからだ。端から見ると、勝敗は逆のようにも見える。

 ――ともすれば、ルカがわざと捕まったようにも。

 しかし、勝負に勝ったのがヴェルナーであるのは事実だ。彼はぴりつく空気を纏いながら、


「なあ、あの龍の坊っちゃんは……何者だ?」


 そう、相手に顔を肉薄させて囁く。

 自分の話をしている。俺のことが訊きたくて、ヴェルナーは勝負を持ちかけたのか。喉の奥がぐっ、と詰まるような感覚があった。

 茅ヶ崎龍介は何者か。それは今の俺が、最も知りたいことと一致していた。自分が一体誰なのか、固唾を飲んでルカの答えを待つ。

 体育館の広い空間に染み渡っていくような返答は、ほとんど間を置かず返ってきた。


「彼は我々の、貴重なブルジョン――"蕾"です」


 ブルジョン、という不思議な響きだけ、訳されずにそのまま伝わってくる。誰も、咄嗟には何も言わない。

 意味が全く掴めない答えに、俺も混乱を来した。我々。貴重。蕾。それは一体、この場面でどういう文脈を持つのだろう。

 混乱しているのは俺だけではないらしく、ヴェルナーも気圧されたのか、上体を起こし気味にして眉をひそめる。


「蕾? そいつぁどういう――」

「質問はひとつだけとあなたが仰いました。お離し下さい」

「今のが答えになるとでも? もっとちゃんと理解できるような……」


 ルカの反応はにべもない。ヴェルナーへの興味を完全に失っているように見えた。俺の方へ体を向けようとするルカの手首を、ヴェルナーがさらにぐっと強く引く。

 ルカは一旦ヴェルナーに向き直ると、手首にかかるヴェルナーの人差し指を、すっと自然な動作で軽く摘まんだ。かと思うと、時を置かずしてヴェルナーの顔に歪みが生じ、顔面全体が鬱血して赤くなる。背筋を丸め、歯を食い縛り、酷い痛みにこらえているような様子で、顔色はそのうちに蒼白へと転じていった。ルカはただ二本の指で触れているだけ、そう見えるのに。当人たち以外に、誰も何が起きているのか把握できない。

 不意に、死神のような男がヴェルナーの耳元に口を寄せ、宣告でもする調子で囁く。


「離しなさい。でないとこのまま指を引きちぎります」


 さっと場に動揺の空気が流れる。俺も危うく声をあげそうになった。だって、ルカの様子ときたら、全く力を入れているようには見えないのだ。まるで、スナック菓子でも摘まむほどの気軽さだ。

 それでもヴェルナーは手を離さず、ルカはなおも口撃の手を緩めない。淡々とした語り口はむしろ恐怖を煽るのだと知る。いつの間にか、俺まで全身が震えてきている。


「利き腕で触れるなんて、迂闊でしたね。いくらあなたでも、慣れた指で引き金を引けなくなるのはこたえるでしょう。一本指の少ないご自分を想像してみて下さい。いかがですか……」


 人の搦手からめてをぐりぐりと無遠慮にまさぐっていくような声音に、ぞっとした。大きな魚に骨まで刃を入れ、ためらいなくざくざくと捌いていくのにも似た、的確な言葉のナイフ。恐怖感と嫌悪感とがぶわっと湧いてきて、毛細血管の隅々まで侵食していくようだ。

 この人は嫌だ。どうしてこんな人が、俺を歓迎するだなんて言う? 俺が知らないことって何なんだ? 頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。

 ヴェルさん。気持ちをこの場に繋ぎ止めようと、心の中だけで呼びかける。どうしてそこまでする? 俺が死のうが生きようが、あんたには関係ないはずだろ。あんたも、何か知っているのか?

 ルカの絶対零度の言葉をダイレクトに浴びているはずのヴェルナーはなんと、脂汗を額から流しつつも、にやりと剛毅に笑んでみせた。


「ったく、仕方ねえな。男相手にも被虐趣味を開花させられてたら、この状況でもよろこべたのによ」


 それが強がりだと、俺にだって分かった。ヴェルナーが浅く呼吸をひゅっと吸うと、どちらともなく手が離れる。離ればなれになった赤髪と黒髪の男の双方が、床を蹴って距離を取る。

 また、睨み合いになるのだろうか。ごくりと唾を飲み込むも、ルカが不意にひらりと身を翻して、面食らう。完全にヴェルナーにその背を見せたのだ。長い脚が体育館の側面の扉へと向けられる中、顔だけがこちらを振り向いて、俺はじっと見つめられる。


「余計な横入りがありましたので、興が冷めました。今回はこれにて失礼させて頂きます」

「ほう。逃げるのかい」


 やや顔を青ざめさせたままのヴェルナーが煽り立てるが、ルカは一顧だにしない。代わりに、俺への更なる挨拶が重ねられた。


「茅ヶ崎龍介。我があるじはあなたの力を待ち望んでおられます。我々ならば、あなたの能力を十全に活かすことができるでしょう」

「能力、って……」

「いずれ、再びお話しすることもあるでしょう。それでは、またいつか」


 背の高い影が左手を挙げ、押し黙っていた山羊頭たちが彼に追従していく。俺の中には焦りがあった。俺の知らない俺の情報を持つ存在が、今まさに去ろうとしている。それは影の面子すら、知り得ないことかもしれないのだ。

 それを知りたい。この衝動は、許されないものだろうか? 罰されるべき感情だろうか?

 俺は咄嗟に未咲をシャーロットに預けた。空っぽになった両手が急に心許なくなる。立ち上がった瞬間にスカートがひらめいてひやりとするが、もう形振なりふり構っていられない。

 ルカのことは怖い。かつて誘拐された夜に味わったすべての恐怖感を、彼一人で上塗りしてしまったくらいに。けれどその瞬間だけは、恐怖心を知識欲が上回っていた。もしかしたらもう来ないかもしれない、知る機会をここで失いたくない。立ち去ろうとする黒い背を、俺は必死に呼び止めていた。


「待てよ! 話って何なんだよ」

「坊っちゃん、止せ! 話が通じる相手じゃあないぞ」


 焦燥をあらわにしてヴェルナーが制止する。こんな行動に出るとは思わなかったのだろう。構うもんか。これは俺個人の問題だ。その時の俺は、教えてくれるなら誰でもいい、という死に物狂いに近い心境になっていた。だって、"罪"の人間の方が、俺の欲求を満たしてくれる可能性だってあるのだから。そうしてくれるなら、組織の名前なんて関係ない。俺は元々、どっちに属してもいないのだ。

 ルカがゆらりと体を反転させる。ぎらつく目からは生命の温かみは感じ取れない。男は薄い唇をゆっくりと開く。


「主はあなたをずっと見ておられます。これまでも、これからも、ずっと。それではまた、ゆっくりお話し致しましょう。近いうちに、ね」


 熱の一切こもらない、会話にならない言葉をこちらに投げかけ、それきりルカは踵を返して遠ざかっていく。俺はその言葉をどう受け止めるべきなのだろう。渾身の問いは空振りに終わったのか、それとも血も涙もなさそうな彼の中に届いたのか。邂逅がこれっきりでないことを憂うべきなのか、喜ぶべきなのか。何にせよ、誰も致命的な怪我を負わなかったことは、手放しで喜ぶべきなのだろう。

 シャーロットの腕から、未咲の体を抱き渡してもらう。その穏やかな寝顔を見つめる。影の女性はぱたぱたとヴェルナーの元へ走っていって、背後で鋭い声が上がった。


「ヴェルナー! 指を診せて」

「いやあ、もう何ともないよ。大丈夫」

「いいから診せなさい。無茶するんだから、もう……」

「君の前でいいとこ見せたくてさ」

「本当に……あなたって馬鹿ね」

「うん、ありがとう」

「褒めてないから……」


 そんな会話をぼんやりと聞いているうち、遠くの空から、バラバラバラとものすごい音をたてて何かが近づいてきた。乾いた校庭の砂が強い風圧で吹き飛ばされ、体育館に吹き込んできて、思わず手で顔を覆う。風が止んだ頃には、校庭に大きなヘリコプターが着陸しているのだった。一般的に見る形のそれではない。ごてごてとした、自衛隊が持っているような、いわゆる軍用ヘリだ。

 ルカと山羊頭と、未咲たちを眠らせたドローンが次々にヘリの中へ吸い込まれていく。ヴェルナーとシャーロットも、その一部始終を黙って眺めているようだった。全員をしまい込んだヘリは、またも轟音を響き渡らせながら、あっという間に空のどこかへ点となって消えていく。

 そこに至ってようやく、俺はほっと胸を撫で下ろした。ふうっと息を吐いてから大きく深呼吸すると、酸素不足で枯れていた全身が生き返るような感覚があり、ずいぶんと緊張していたのだと遅れて理解する。感情の中の昂りも波が引くごとく消えていく。これで危機は去ったのだろう。ドローンも消えたことだし、寝入ってる皆もじきに目を覚ますはずだ。

 関係者以外の目に留まらないよう、また身を隠そうとしているらしいヴェルナーが、去り様にぽんと俺の肩を叩いた。


「なあ坊っちゃん。君がああいう勝手なことをすると、俺らの方でも守りきれなくなるぜ。火傷したくなかったら大人しくしててくれ。な?」

「……」


 ヴェルナーは彼にしては珍しく、ごくごく真面目な語調で諭してくる。が、彼にかけられた言葉をすんなりと受け入れられなくて、何秒か黙りこくる。結局、小さく頷き返すのがやっとだった。

 やがて生徒たちが一斉に起きだして、時計の針がいつの間にか進んでいることに少々ざわつきが起こったけれど、思ったより大きな混乱には繋がらなかった。

 なぜなら、ルカたちが襲来した一連の出来事は、ほんの十数分に過ぎなかったからだ。

 皆首をしきりに捻り、口々に不思議だと囁きあったけれど、特に害は無かったことが幸いして、その件はうやむやになった。どちらにしろ、それ以上掘り下げることはできないのだ。学校関係者に真実を知る者はいないのだから――俺自身を除いては。

 皆の時計の針がまた動きだしても、個人的にはルカの言葉の意味について考えていたかったのだが、急に訪れた騒乱によってそんな落ち着ける時間はなくなってしまった。群衆が目覚めた際に、未咲を抱き抱えた格好のままだったのが原因で、そのあとしばらく逆ヒーローだの何だのと囃し立てられ、校内で一躍有名人になってしまったのだ。

 けれど、人生で一番と言える騒がしい日々に身を置いていても、心の隅の石炭みたいな燻った感情は、片時も消えることがなかった。体感としては信じられないが、ルカと相対したわずかな十数分。それが俺の内面をわずかに、しかし決定的に変えた。

 彼の言う、俺の能力とは何なのだろう。俺にも分からない何が、自分にできるというのだろう。進路調査票を手に、鬱々と無力感に苛まれた夜を思い出す。あの夜の俺と今の俺は、己にできることが分からないという意味では、本質的には変わっていない。ただ、"罪"との関わりによって、そこに小さな可能性の光を見たような気がした。俺自身の何かが、変わりそうな予感がしていた。

 もちろん、彼らは国際的なテロリストで、そんな危険思想を持とうなんて気持ちは毛頭ない。情報を仕入れるために何でもするとか、そんな捨て鉢な気持ちになっているのでもない。

 ただ、俺は知りたいだけだ。自分自身が一体何者で、何ができるのか。それくらいの願望を持っても、咎められるわけじゃないだろう?

 俺の心に、今まで一度も感じたことのない、内面をじりじりと焦がす反骨心めいたものが芽生えてきていた。

 

* * * * *

―ルカの話


 ルカと茅ヶ崎龍介が相見えたその日の翌日。

 日本の山中の地下に作られた"罪"の通信基地にて、ルカは主がいる本部――トゥオネラとの交信を行っていた。こんな極東の国にも"罪"の根がしっかりと下ろされているとは、大方の人間は露ほども考えていないだろう。

 セキュリティレベルの最も高い部屋は一辺が五メートルほどの箱形で、モニタの前にたくさんのスイッチが並び、そこかしこのライトがちかちかと点滅していた。見慣れた本部の青白い光とは異なり、人を忙しなくさせる赤やオレンジの光が大半で、どこか居心地が悪い。部屋にはルカ以外の人間はいない。機器に所定の操作を加えていくと、モニタにディヴィーネの居室の様子が映し出された。

 それを見るなり、ルカは自分の顔が歪むのを自覚した。広い部屋の中央に座し、常のようにほほえみをたたえた主は、傍らにポーラをはべらせていたのだ。妖艶さを常に振り撒く女は、豊かな胸の谷間を画面越しに見せつけるように椅子へしなだれかかっていて、肩と主の肩は触れ合う寸前だ。ポーラは挑発と誘惑がない交ぜになった笑顔でルカをじっと見つめている。

 彼女がディヴィーネのそばにいること自体が、ルカの神経を逆撫でした。おそらく、彼女は分かっていてあえてやっている。視界からポーラを追い出し、無視を決め込むことで、なんとか憤りそうになるのを堪えた。


「やあ、ルカ。調子はどうかな」

「問題ありません」


 ややざらざらした音声に、頭を垂れて答える。

 面を上げたルカは、素早く主の様子をうかがった。自分がそばを離れているあいだに、声の張りは変調していないか、顔色は悪くなっていないか、やつれてはいないか、また痩せていないかどうか、つい頭の中のそんな項目にチェックを入れていってしまう。自分が心配していると言ったら、あれで気の強いディヴィーネはきっと突っぱねるだろう。密かに観察を終了して、ルカはひとまず胸を撫で下ろした。

 その後、茅ヶ崎龍介と彼の所属する高校で接触したことを報告する。、ほぼ事前の予定通りと言っていいだろう。ルカの淡々とした報告内容を、主は時折頷きながら満足げに聞いていた。


「茅ヶ崎龍介は、どんな子だった?」

「どんな、と仰いますと……外見の特徴ですか。それとも、言動などの内容でしょうか」

「君はどんな印象を持った? 君自身の個人的な所感を聞きたいな」


 個人的。それは、ルカにとっては非常に難しい注文だ。外界から受け取る情報のほとんどすべてを――組織のこと以外は――俯瞰的な客観視とも言える脳内のシークエンスで処理しているのだから。

 ルカは己の人生の主体ではない。客体なのだ。

 それでも、ディヴィーネの問いを無下にすることはしない。舌の上で言葉を吟味しながら、ぽつぽつと答える。


「いたって普通の……アジア圏ではよく見かけるような少年でした。非力で、危機対応能力も持たない、やや無謀なだけのただの少年です。私が会ったときは、なぜか女子学生の格好をしていましたが」


 そこまで言うと、モニタの向こうのディヴィーネが、数秒の時間差をもって吹き出した。


「何か……」

「彼がそんな格好をしていたのに、普通の少年だと思ったの? 君って面白いね」


 くすくす笑い転げる主に、ルカはちょっとまごついた。服とはただ体を覆い、いくつかの機能を担うだけのもので、それ以上でも以下でもないという認識を持っていたから。ゆえに、ファッションの個性というものがルカには理解できない。同じ黒いシャツとネクタイ、スラックスばかり持っていることをマシューに笑われても、彼がなぜそんなに可笑しそうにしているのかが心底不可解だった。主に対してもどう反応すべきか判断できず、結局、ディヴィーネの笑いが引っ込むまでただ沈黙を保つことでやり過ごす。

 ルカからの報告がひととおり終わると、それまで笑みを深めながら様子を見ていたポーラが、蠱惑的に首を傾けながら初めて口を開いた。


「ルカ様。以前にお願いしたこと、よろしく頼みますわね」


 彼女はのたまう。平然と、ルカが従うのが当然であるかのように。

 トゥオネラを出立する前、ポーラが打診してきた依頼を思い出す。勿論忘れてはいなかった。それは主も了承した事柄であるから、ルカの心に否やはない。ただ、ポーラの指図を諾々と受け入れるのが気に入らないだけで。

 ポーラの依頼。それは、8年前に死んだはずの人間の最期を今さら調査するという、不可解なものだった。

 八年前と言えば、"罪"と影の全面闘争・パシフィスの火がおこった年である。その炎に呑み込まれ、焼け焦げて歴史の黒い染みとなっていった人々。ルカ自身はそれらの小さな死を実感として捉えられていない。ディヴィーネに連れられ"罪"に来たばかりだったし、あの頃はまだ幼気が残る不足だらけの人間だった。

 打診を受けたとき、ルカはポーラの瞳をじっと見つめ、冷たくあしらおうとした。


「私に話とは何でしょう。内容によっては、受け入れかねますが」

「ひとつ頼まれてほしいのですわ。あの子の手がかりが外の世界にないか、調べてきてほしいの」

「あの子とは……」


 ルカには薄々見当がついていたが、確認のために聞き返した。ポーラは途端に眉根を寄せて、忌々しげにその名を口にする。ルカの予想通りの名前ではあった。


「お分かりになって? その子の死に不審な点がないか、それから人間関係について、詳しく調べてきてほしいの」

「……そうは仰いますが、その方は亡くなったはずでしょう。"罪"のデータベースでも状態は死亡となっていました。八年も経った今蒸し返すことに、何らの意味も見出だせないのですが」

「亡くなった、なんてお上品な言葉を使いますのね。ええ、死んだはずよ、表向きはね。でも、死体を直接確認した人は誰もいないのだもの」

「直接とは……DNAも一致しているはず」

「顔よ。私は死に顔を見ていませんの」


 執念深い表情だ。ルカは得心した。この考えの読めない苛烈な女は、憎しみを抱いた対象の死に顔を真に求めているのだと。冷ややかに辛辣な台詞を吐くポーラの灰色の双眸には、確かに憎しみの業火が音もなく燃え盛って見えた。

 そして同時に、不可解だったことに理解が及んだ。主の居室の前で邂逅したあの夜、ポーラはディヴィーネにその旨を相談していたのだ。主の忠実な犬に、彼女から依頼をしてもいいか。

 今モニタ越しにポーラの冷え冷えとした目を見て、頬に這う指の冷たい感覚を思い起こし、首のあたりがぞわりと粟立った。

 調査の件を念押しされ、ルカは不承不承頷く。


「時間が許す範囲で、これから探ってはみます。過度な期待はしないで頂きたいですが」

「ルカ。できる限りのことはしてあげてね」


 主がすかさず、柔和な声で諭してくる。ルカは反射的に腰を深く折っていた。


「は。最大限の努力を致します」

「ほんと、いけすかない男ね……」


 ぼそりとポーラが呟いたのが耳朶まで届いたが、ルカはそれを完全に黙殺する。


「君は一度、トゥオネラに戻ってくるんだろう? もっと詳しい話を聞けるかな」

「はい。後の活動はしばらく、日本に同行した方に任せます。その方の様子見のこともありますので」

「そうだね。どれくらいの働きをしてくれるのか、そもそも本当に僕らのために働いてくれるのか……じっくり見てあげないとね」


 主は油断なくほほえむ。それは明らかに虫をも殺さない優しい人の笑みなのに、どこか背筋を冷えさせる、酷薄さを孕んでも見えるのはなぜだろう。


「それじゃあ、ルカ。話を聞けるのを楽しみにしているよ。その時はまたピアノを聴かせてね」

「は、無論です。ありがとうございます」


 ルカは一礼して、通信を切る。まだ主と言葉を交し足りない気がして名残惜しいのと、唇を弧に描いたポーラの顔を早く消し去りたいのとが半々の感情だった。

 ルカは真っ暗になったモニタを背にし、通信室を後にする。

 茅ヶ崎龍介。彼に会ったことで得られた詳細なデータをディヴィーネに渡したら、主はどんな反応を見せるのだろう。あの少年がどんな花に化けるのか、ルカにはまったく予測がつかない。そもそもそんな壮大な可能性を本当に秘めているのか、まだ蕾にすら見えない貧弱な芽生えが、そこまで成長して花開くものなのか、判断をつけることにも躊躇いを覚える。

 ただ、ルカ個人の心情などどうでもよい些事に過ぎない。あの少年を主が希望するならば、彼を手に入れるために全力を傾ける。それだけだ。

 ルカが持つすべての時間はルカのものではない。

 ルチアーノという名を捨てルカとなってから、この身も心もすべて、ディヴィーネのものなのだから。

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