僕らとどこかのこと 炎(かぎろ)うふたつの牙(4/6)

(承前)


 何人ものメイド姿の女子に囲まれながら、衆人環視のもとで化粧をされる。訳が分からない。公開処刑だろこれ。


「ねー、BBクリーム要ると思う?」「もはやパウダーだけで良さげじゃね? 茅ヶ崎くんめっちゃ肌綺麗だし~」「ほんと羨ましいわあ。ねえ、アイシャドウ何系がいいかな?」「リップはどうする? 自分的には薄づきがいいと思うんだけど~」


 きゃいきゃいと近くで交わされる会話が微塵も理解できない。化粧品は少し甘い良い匂いのするものが多かった。顔の上で柔らかいものが行ったり来たりするのがくすぐったく、まるで自分が絵の具を塗りたくられるキャンバスになった気分だ。

 いつもメイクの濃いクラスメイトには近づきがたい印象を持っていたが、こうしているとそんなに怖い感じは受けない。おそらく俺もそのような印象を持たれていたのだろう、群衆の空気が「茅ヶ崎にあんなことして大丈夫なの?」から「なんだ、茅ヶ崎もけっこう普通の人じゃん」へと軟化していくのを肌で感じた。考え事をしつつぼんやり身を任せていると、「マスカラ塗るね~。目閉じないで、あと動かないでね。目に刺さったら超痛いから」との声かけに「ひいぃ」と思いながら目を見開く。気づけば、どうしてだか教室の人口密度がますます増していた。うちのクラス以外の生徒も見物しに来ているらしい。くそ、見世物じゃねえぞ。

 衆人の中に、いつか一緒にテスト勉強した弓道部の女子二人を見つける。その後ろから、同じクラスでこれまた弓道部の太田がしげしげと俺を見つめていた。もしかして呼んだのか。わざわざ別のクラスから。これは恨み言のひとつやふたつ、ぶつけたって構わないだろう。


「太田……何見てんだよ……」

「あ、ごめんごめん。なんか新しい扉が開く人がいそうだなーって思いながら見てた」

「やめろ……」


 新しい扉って何だよ。

 もうこの場から逃げ出したい気持ちになっていたが、眼前にマスカラのげじげじした房が迫っている今、目を閉じることすらできはしない。俺の顔面はどんな仕上がりになっているんだ、と不安に駆られながら拳を握り、この羞恥の時間を耐える。

 ようやくメイクも終わり、ロングのウィッグを被せられたところで、おそらく文化祭実行委員会の仕事で駆けずり回っていた未咲が空き教室にやってきた。俺は首筋や頬にかかる自分のものではない髪の感触にぞわぞわしていたのだが、未咲の顔を見て、そんな違和感が吹っ飛ぶほどぎょっとなる。未咲の髪が、昨日より十cmほど短くなっていたからだ。元々肩口くらいだったのに、今は耳から下の輪郭がすべて露になるほどのショート丈になっている。そのシャープな輪郭を見て、意図せず心臓がどきりと跳ねた。


「お前、それ……」

「え、すご! 龍介めっちゃ可愛くなってるじゃん!」


 俺の言葉尻を奪い、未咲が逆に勢い込んでくる。でしょー?、と得意げなメイク担当の女子たちに、激しく頷く未咲の目は、きらきらを通り越してぎらぎらと輝いていた。なんでそんなに嬉しそうなんだ? 俺の顔面は一体どんな仕上がりになっているんだ。


「いやそれより、お前の髪……今日だけのために切ったのかよ」

「えーこれ? これもウィッグだよ?」


 未咲が不思議そうに髪の毛先をいじる。へえ……、と相槌を打ちながら、自前の髪より短く見せることもできるのか、と妙に感心してしまう。

 そのうちにつかつかとこちらまで近づいてきた未咲は、俺の腕を取って立ち上がらせ、いきなり体を密着させてきた。おい? 公衆の面前なんだが? 周りがわっと沸く。

 緊急アラートが鳴り響く脳内。対してあまりの非常事態に硬直する体。

 そんな俺の傍らで未咲は、自身の携帯電話を取り出して上方からかざす。


「せっかくだから写真撮っておこ!」


 ああ、そういうことね、と安心――はしなかった。

 インカメラ越しに自分の今の顔が目に飛び込んできて、反射的に肩が跳ねる。誰だこの、自分にそこそこ似てはいるが見覚えのない女子は。はっきりしていてかつ濃くはないアイメイクに、頬はうっすら色づき、唇はつやつやと桃色に光っている。ああ、女子だ――完全に女子に見える。化粧ってすげえな。

 クオリティの高さに思考停止する俺に構わず、未咲はますます密着度を高めてシャッターをバシャバシャ切っている。おい、やめろ。そんなにくっつくな。胸のあたりを腕に押し付けるな。中身は今までと変わらないただの男だぞ。


「写真ならもっとちゃんとしたので撮ってあげるよ」


 と要らん提案をしてきたのは写真部兼新聞部の輝である。既に立派なデジタル一眼レフを構えており、こちらの返答など求めていないのは火を見るより明らかだ。

 同学年の大勢の生徒がほほえましげに見守る中心で、未咲はポーズを決めまくり、俺は棒立ちになっている。何なんだこれは?

 十枚くらい連写され、輝がカメラの液晶を見せにくる。まあ細かくは分からないが、顔回りだったり足元まで写っていたりバリエーション豊かだ。さすが本業……と思ったところで未咲があーっ! と高く叫ぶ。こいつは何回俺を驚かせたら気が済むんだ。


「な、何だよ」

「制服! このままじゃ駄目じゃん! 龍介とわたしでウエスト合うかな」


 と言い終わらないうちに、未咲はスカートのファスナーを下ろし、いそいそと脱ぎ始める。おいおいおいおいおい。


「ここで脱ぐなよ!」

「なんで? 下にスパッツ穿いてるもん」

「そういう問題じゃ……そういう問題なのか?」


 混乱の連続で正常な思考がどこかに行ってしまっている。未咲は大胆に太ももを晒し、脱いだばかりのスカートをずいと押し付けてくる。こいつの素足は目に毒だ。視線を微妙に逸らし続けている俺に、未咲は最後通牒のように言い渡す。


「龍介も脱いで」


 いやいやいやいや。


「ほら、早く」

「いや、おかしいだろ! こんなに人が見てんのに……」

「スカート穿いてから脱げばいいじゃん。わたしも寒いんだけど?」

「寒いのは勝手にお前が脱いだからだろ! ああもう、分かったよ……」


 スカートをひったくるように受け取り、体温の残るそれをごくりと見つめる。皆が期待の目で見ているのが分かる。化粧をしてくれた女子の一人が、にっこりと笑いながら訊いてくる。


「茅ヶ崎くん。脚、剃ってきた?」


 自分の口元が引きつった。

 クラスメイトからの指令とはそれだ。当日に脚をつるつるに剃ってこいというもの。当然俺は脚の毛など剃ったことはなく、ドラッグストアで体用の剃刀(女性用)を買い、風呂場で黙々と処理をする一連の行動のあいだ、謎の羞恥と敗北感とにさいなまれていた。脚を剃ると、スラックスを穿いた際に、布がまとわりついてくるような違和感があることも知った。別に知りたくもなかった。

 俺は顔を引きつらせながら無理に笑ってみせる。虚勢というやつだ。


「あー、剃ってきた、よ……」

「えー! 早く見せて!」


 なぜお前のテンションが上がっているのだ、未咲よ。

 もう四の五の言ってもいられない。まごまごしていたら恥の時間が伸びるだけだ。俺は意を決してスカートに足を突っ込み、ウエストのホックが掛けられることに自分で若干引きながら、下のズボンを引き抜いた。

 おおーっと観衆からよく分からない歓声が上がる。

「いよっ! 男前!」とおじさんみたいにはやし立てたのは太田だったろうか。この格好で男も何もあったもんじゃない、絶対皮肉だろ。未咲はわざわざ腰を屈めて俺の脚を観察している。もうやめてくれ、全部。


「龍介脚ほっそ! シルエットもめっちゃ綺麗だし! いいな~羨ましいな~」

「男に羨ましいっておかしいだろ……」


 人生初のスカートは人生一恥ずかしかった。下から入ってきた風がそのまま通り過ぎていき、その過剰な風通しの良さに不安になる。無防備すぎるだろこれ。スカートやばいな。


「よしっ! もう1回記念撮影会! みんなも入って入って!」


 スラックスを穿き終えた未咲にまたも引っ付かれ、まあでもミスコンは午後からだからそれまでは教室のバックヤードでひっそりしてよう、と現実逃避気味に考えているところに、無情な指令が再び下る。


「茅ヶ崎くん思った以上に可愛いから、校内回ってうちの深海カフェの宣伝してきて! プラカードはこれね」


 差し出されたプラカードを見、ずいぶん気合いが入った出来だなあ、と遠いところで思いながら、もはや笑う他なくそれを受け取るのだった。

 これが青春ってやつなら、俺は全力で逃亡したい。


 * * * *

――水城麗衣の話


 午前十時に一般の開場が始まり、近隣の高校生や保護者と思われる人たちが続々と集まってくる。人々のざわめきは波となり、校舎のそこここへと広がっていく。

 私は十時半から劇を披露する生徒たちの担任として、成功を祈りながらステージの前に座っていた。ここ第二体育館は、うちのクラスの貸し切り状態となっている。私の受け持つ生徒たちが、劇とダンスを組み合わせた演目をあの舞台で披露するまで、あと十分もない。

 練習はちょこちょこ見かけていたが、先生を驚かせたいという生徒たちの意向で、内容は今でも詳しくは知らなかった。生徒や教師へ向けての詳細な公開もされていない。それでも、外部講師を呼んで本格的な練習をしたという噂と、生徒の地道な宣伝が実を結び、あまね高校内の関係者を中心に、相当数の観客を集めていた。演目のタイトルは『静かな海の真ん中で』。

 今はまだ、月面の様子を描いた書き割りだけが、聴衆の視線と喧騒とを受け止めている。

 上演を待つ私の肩を、とんとんと叩く人があった。振り返れば、ザ・好い人代表みたいな男性の顔がある。


「水城さん、生徒さんたちの演技をしっかり見てて大丈夫ですからね。俺がちゃんとカメラ回しときますんで」


 録画用のカメラを片手に、そう言ってぐっと親指を立てるのは、隣のクラス担任の長谷川先生だ。

 彼は桐原先生の赴任当初から、私と桐原先生の仲を応援してくれていた。最初に二人きりで話すきっかけを作ってくれたのは彼である。その後、主にヴェルナーさんの計らいで、私たちはくっつくことになったわけだが、長谷川先生が我々の仲を進展させる契機を作ってくれたことは確かなので、感謝しないといけないだろう。

 ありがたい申し出に、ぺこりと頭を下げる。


「ありがとうございます。じゃあ、お任せしちゃいますね」

「任せて下さいって! 後で桐原さんと一緒に見て下さいよ。それにしてもびっくりしました、いつの間に水城さん――」

「はせっちー、水城ちゃんに気に入られようとしてんのー?」


 長谷川先生が言いかけたところに、彼のクラスの生徒が割り込んでくる。受け持ちの生徒を十人ほど連れてきてくれたのだ。長谷川先生を囲む生徒たちは、含み笑いのように一様ににまにまと笑っている。


「だめだってー、水城ちゃんはもう桐原先生のものなんだから。ねっ」

「はせっちのスペックじゃ桐原先生とは勝負になんないよー」

「あのなあ、そんな下心はありません! もうすぐ始まるから静かにしてなさい」

「あ、はは……」


 相変わらず長谷川先生と生徒は友達みたいに喋る。それだけ彼が愛されていることの証左だろう。

 それより、私はなぜ我々の関係を学校のみんなが知っているのかがずっと気になっていた。自分の想いを桐原先生に告げた直後から曖昧な噂は立っていたけれど、彼から交際を申し込まれたのとほぼ同時期に、いよいよあの二人はくっついたらしいとの話が生徒を中心に急速に広まったようなのだ。あまりにタイミングが良すぎる。

 知られて困るわけでもないけれど、相手が入院もしていることだし、私はしばらく秘密にするつもりだった。桐原先生だって無闇に他人に言いふらすとは考えられないし、私たちの関係を知っているのはシャーロットさんとヴェルナーさんくらい。ただ、ヴェルナーさんなら、桐原先生の携帯電話やパソコンを使って、噂を広めるくらいはできそうだ。根拠もなしに他人を疑いたくはないけど。

 実は、私たちが恋仲になったと知られたことで、ちょっとした影響があった。あまり接点のない同年代の女性の先生から、棘のある視線を送られることが何回かあったのだ。こっそり桐原先生を狙っていたらしい。噂話は彼女たちへの牽制になっているとも考えられ、ヴェルナーさんはそこまで考慮していたのかもしれない。うん、根拠はないけどあり得そう。

 生徒たちの私への言及はいつの間にか止み、今度は話の中心は長谷川先生に移っている。


「まっ、桐原先生みたいなイケメンよりはせっちみたいな普通フッツーの顔が好きな人もいるって! わかんないけど」

「そうそう! はせっちにも絶対いい人見つかるってー、わかんないけど」

「うるせー、未成年からの気休め言われたって慰めになんねえよ」

「え、慰めてないし。茶化してるだけ」

「よりたちが悪いわ! ほら、もう前向いてろ。時間になるぞ」

「はーい」


 長谷川先生たちの会話にくすくす笑いながら、自分も前に向き直る。思えば、文化祭の出し物について初めて桐原先生と話をしたときから、自分を取りまく状況は劇的に変化した。体育館の明かりが落とされていくのを見ながら、感慨深く感じてしまう。

 劇場でよくある、ビーッと長く響くベルの音がどこかから鳴った。とうとう舞台が始まるのだ。


 * * * *

――茅ヶ崎龍介の話


「1年D組、教室で深海カフェやってまーす。来てね」


 人混みの中を歩きながら、傍らの輝が声を張り上げる。執事姿の彼の首にはリュウグウノツカイなる深海魚のぬいぐるみが巻き付いていた。俺はプラカードを掲げつつ、その影に隠れるようにしてこそこそ歩いている。が、やはり視線が気になる。周囲の人間が全員こちらを指差してひそひそ話しているのでは、そんな気分だ。大部分は被害妄想だろうが、実際じろじろ見られているのは確かだった。


「龍介、堂々としてなよ。恥ずかしがってると余計目立つよ」

「そんなこと言ったってなあ……」


 輝が小声でアドバイスをくれるが、そもそも自分は人前に立つのがとても苦手だ。普通の格好でもそんななのに、ましてやこんな姿では……。


「だって午後には全校生徒の前に立つんでしょ? 少しでも慣れといた方がいいよ。堂々としてれば完全に女の子に見えるんだし」

「それは褒めてんの? けなしてんの?」

「事実を言っただけ」


 にこやかだが何を考えているのか今一つ分からない輝に付き添われ、二年生の教室が並ぶ二階の廊下を進んでいく。どこもかしこも大盛況だ。窓から屋上の方を見ると、相変わらず黒いドローンが行ったり来たりしている。誰が操縦しているんだろう? ドローンは一機でなく、いつの間にか四、五機に増えていた。


「あれ? 上宮かみや?」


 歩みを進めていると、教室から出てきた二年生に輝が声をかけられる。先輩は輝に出し物を見ていけと言う。輝が手早く説明してきたところによれば、彼は部活の先輩であるらしい。つまり彼も生徒の秘密を嗅ぎ回っているやばい人だというわけだ。

 輝は俺にも展示を見ていこうと誘ってくれたが、生憎服装も相まってそんな気分になれそうもない。首を横に振り、教室の外でしばらく待つことにした。

 人の流れから一歩離れ、案内の冊子を手に行き交う人々をぼんやり眺める。プラカードをひっくり返して足元に下ろすと、こちらに注目してくる人は驚くほどいなくなった。今は客寄せパンダとしての役割をしばし放棄してもいいだろう。気疲れを感じ、無意識のうちに瞼が重くなってくる。

 その時だった。


「初めまして」


 そう、耳元で小さく囁かれた気がした。

 男の声だっただろうか。はっとして周囲を見渡すが、先ほどとは面々が違う変わらぬ人の流れがあるだけ。気のせいかな、と思って息をつくと、こちらをじいっと見ている人の存在に気がついた。

 距離にして五メートルほど。人の流れのただ中で立ち止まっている人影は目についた。明るい髪色の、私服の若い女性。大学生だろうか。彼女はこちらにおずおずと近寄り、あのう、と声をかけてくる。なんだろう、相手に強烈な既視感がある。


「すみません、一緒に写真って撮ってもらえませんか?」


 その声を聞いて、一気に思い出が甦ってくる。夏休みの合宿のとき、やたらぐいぐい距離を詰めてきていたあの大学生だ。下手に出ている彼女を見て、思わずふっと笑ってしまう。


「久しぶりですね。来てたんですか」

「えっ……男の子……?」

「いやいや、俺ですよ。茅ヶ崎龍介。夏休みの時に会った……」

「あ、ええ! 龍くん?」


 女子だと思っていたのか。自分の顔を示して苦笑すると、相手の目が真ん丸になり、なんだか可笑しい気持ちになった。すごーい、と言いながら、彼女が前から横からしげしげと見つめてくる。うう、それはかなり恥ずかしい。


「いやもう、モデルみたいに綺麗な美少女がいるから一緒に写真撮っておかなきゃ! と思ってさー。すごいねえ、龍くん。めっちゃ美人~、あ、てことはミスコン出るの?」

「ああ、まあ、はい」

「そうなんだ! じゃあ、しっかり見とかなきゃね~」

「別に見なくてもいいんですけど……」


 楽しげな彼女と相対していると、用件を済ませた輝がちょうど姿を現す。二人は「あ、輝くんだー。おひさー」「あれ? お久しぶりですね」などと朗らかに挨拶を交わしているが、輝の方はなぜか目が笑っていない。ように見える。


「今ね、すごい美少女がいると思って、一緒に写真撮ってもらおうと思って。そしたら龍くんだったんだー」

「それなら、僕が写真撮りますよ、このカメラで」


 輝は首に提げっぱなしの一眼レフを掲げてみせる。それを見て女子大生の顔がぱあっと明るくなる。どうしてこいつはそんなにサービス精神旺盛なんだ。中身は鬼畜のくせに。

 人通りが少ない場所に移動し、二人で被写体となる。隣からほのかに香水の匂いが漂ってくるのが落ち着かなかった。加えて相手が腕を絡ませてきたり、頭を肩に預けてきたりするのだからたまらない。なんで女子の格好をすると女性はガードが緩くなるのだろう。不思議だった。


「じゃあ、写真が出来上がったら太田くんに渡しますね。そうすれば太田くんのお兄さんから届けられますよね?」

「うん! ありがとう~」


 女子大生は上機嫌で去っていった。ふー、と息をつきながらふと輝の顔に視線をやると、反射的にびくりと肩が跳ねる。輝が暗い笑みを浮かべ、それが悪の親玉のように見えたからだ。え、何、こわ。

 ほほえみながら、その目元は全く笑っていない。


「良かったね、龍介。これはチャンスだよ」

「チャンスって、何の――」

「君もさっきの彼女に目を付けられてるって気づいてるだろう? 彼女にミスコンの場で、君には未咲しかいないって見せつけるんだよ。すっぱり諦めがつくくらい、圧倒的な密着ぶりでね」


 輝の圧に思わずたじろぐ。圧倒的な密着ぶりとは何だ。いつの間にか廊下の壁際にじりじりと追い詰められていて、幼なじみの豹変ぶりに、口の端がひくりと引きつる。


「いいかい? 龍介、これは君のためでもあるんだよ」

「俺のためって――」

「彼女に言い寄られたら困るだろ? まさか、彼女と付き合いたいとか、心があっちに傾いてるとか、そんなことはないよね?」

「そ、れはない」

「なら」

「わ……分かったよ……」


 元々彼女に知り合い以上の感情を抱いてはいなかったが、気迫に負けて頷く形になる。もしかしてこいつ、あの女子大生を諦めさせるという口実に、俺に積極的になれと焚き付けてるだけじゃないのか? ずっと俺と未咲をくっつけようと画策してきて、痺れが切れたのか。

 俺が受け入れると、即座に輝の態度が軟化する。僕もますます楽しみになってきたよ、とにこにこ顔の輝の傍らで、こいつは一体どこまで計算ずくなんだ、と空恐ろしくなった。



 午後のミスコンは最も大きい体育館、第一体育館で行われる。下見のために輝と二人で訪れたそこは今、人々の熱気とバンドの爆音で満たされていた。

 思わず体を動かしてしまいたくなる、テンポの速いリズムをベースとドラムが刻み、そこに高くむせぶようなギターが重なる。脳が直接揺さぶられそうだ。曲は有名なJ-POPのロックアレンジであるらしい。軽音楽部か、学生バンドだろうか。見たこともない色とりどりのライトがステージ上の彼らを照らしていて、まるで別世界の住人に見える。演奏自体は拙い部分もあるのだろうが、生音の肌感覚は凄まじかった。

 輝と体育館の後ろの壁際に陣取り、拳を突き上げている聴衆を横目に、ミスコンでは入り口から赤いカーペットがどう敷かれるだの、最初は俺が一人で会場に入っていくだのとこそこそ最終的な打ち合わせをする。未咲とは昨日、会場の準備をする段階で相談は終わっているそうだ。

 一通り流れを確認したところで、ステージでは一般的なライブよろしく、出番の終盤にバンドメンバーの紹介が始まった。ボーカルの顔は汗びっしょりだが、とても良い笑顔を浮かべているのがここからでも分かる。


「僕たち『ELEGEIA』の演奏はどうでしたかー! 最後にあと一曲、僕らが作った曲をやります!」


 沸き起こる大歓声。体育館全体が揺れるほどの。


「聴いて下さい、『ストラトスフィアを越えて』!」


 小刻みなビートのイントロが流れる。抑えた音量だが何かこれからすごいことが起こる、そんな予感に満ちていた。体全体でリズムを取る彼らは本当に生き生きとしていて、楽しそうで、きっとてらいなく自分を物語の主人公だと思っているのだろう。それを距離以上に遠くに感じながら、つい青春だなあ……、と呟いてしまう。


「僕としては、龍介も十分に青春の真っ只中にいるように見えるけど?」

「いや、俺は――」


 微笑しながら問うてくる輝に、肯定を返すことはできない。

 なあ輝。俺はそれよりも、考えてしまうことがたくさんあるんだ。みんなが知らないはずの世界の姿とか。よく知っているはずの人のもう一つの顔とか。何年も前から他人の手で定められていた、俺の人生とか。運命だとか、思惑だとか、陰謀だとか。そういうことを、たくさん。

 そんなことは口に出せるはずもなく、胸に渦巻く言葉を全て飲み込む。

 すると輝は、何もかもを見透かすような柔和な表情で言った。


「龍介。君には、何か僕にも言えないことがあるのかい」

「あ……」


 まずい。今の、もしかして口に出てたのか? 慌てて取り繕うとすると、ふっと輝が寂しげに笑う。


「君の考えてることは分からないけれど――でも、ずっとそばにいた僕としては、隠し事があることすら隠されるのはちょっと悲しいな」

「輝……」

「幼なじみの僕にも言えないことを、君が黙っているのは全然構わないんだ。秘密は誰にでもあるしね。でも、『隠し事をしてます』って隠さないで堂々と言ってもらえたら、安心できるんだよ。僕も、未咲も」

「……」


 俺は輝の目をじっと見た。その両目をこんなに真剣に見つめたのは初めてかもしれなかった。ぐっと拳を握り、切々と歌い上げられるマイナーコードに負けないよう、腹に力をこめる。


「ごめん、俺、隠し事をしてる。お前にも、未咲にも。でも、いつか話せる時が来たら、二人にはちゃんと俺の口で言うから、それまで待っててほしい」


 輝は数拍間を置いて、「うん」と朗らかに頷いた。


「その時を待つことにするよ。確かに聞いたからね。……そろそろ教室に戻ろうか。きっとみんな首を長くして龍介を待ってる」

「ああ……行くか」


 教室へ向かおうときびすを返したところで、輝はちらりとこちらを見やった。

 会場を包む音楽が、短調から長調に軽やかに変わる。


「それにしても、僕が女子だったら龍介の真剣さに惚れてたかもね。君がそんな格好じゃなければ」


 掴みどころのない幼なじみは、そこでさりげなくぱちりとウインクを飛ばす。

 言われてみれば、とひらひらするスカートと肩の下で揺れる髪を見下ろす。これ以上格好のつかない格好もそうないだろう。


「それは褒めてないだろ? 馬鹿にしてるんだよな?」

「事実を言っただけだよ」


 輝は肩を竦め、もう俺は苦笑いするしかなかった。



 今日という日の、今という時が刻々と過ぎていく。俺は未咲と共に、体育館の入り口のすぐそばで、ミスコンの順番を今や遅しと待っていた。永遠に出番が来なくていいような、もう本番を早く済ませてしまいたいような、相反する気持ちが心臓をどくどくとき立てている。入り口の金属製の扉は固く閉ざされていたが、会場のボルテージが高まっているのが伝わってくる。率直に言って、ものすごく緊張していた。

 出番は一年からの組順なので、俺たちは四番目となる。この扉が開いたら最後、パフォーマンスは三年生の終わりまでノンストップで続く。ごくりと唾を飲み、汗ばんだ拳を無理やり開く。

「緊張してるの?」と傍らにいる未咲が訊いてくる。


「してるよ……目立つのは慣れてねえんだから。お前はしてないのかよ」

「してるよ。でも、楽しみ。グランプリ獲ろうね」


 ショートカットの下の表情はきりりと引き締まっていた。遥か彼方を真っ直ぐ見据えている、澄みきった瞳だ。ちょっとうちのクラスの男子では太刀打ちできないほどのイケメンに見えた。

 この文化祭では来場者投票があり、グランプリはクラス部門とミスコン部門それぞれに与えられる。クラス部門は水城先生のところの劇が圧倒的なクオリティで、ぶっちぎりの一位ではないかと既に噂されていた。グランプリを狙えるのはもうここだけなのだ。自然と代表全員の意気込みも変わってくる。


「でかいとこ出たな。ま……ここまで来たらやるしかないしな」

「うん。頑張ろ」


 未咲と頷き交わし、二人して一年C組の代表の背中を見た。前方にいる生徒たちはみんなそわそわしている。大丈夫だ、緊張しているのはみんな同じだ。

 俺は今、すべてのしがらみをかなぐり捨ててここに立っている。ただの未咲のパートナーとして。十数年にわたる幼なじみとの関係も、半年間の桐原先生との関わりも、長年人生を見つめてきた影との関わりも、今の俺には全部関係ない。こんなすっぱりした気持ちはいつぶりだろう。

 これが終わったら、俺は未咲や輝と対峙しなければならない。九条悟くじょうさとるがいるから、未咲は文化祭の準備で忙しいから、なんて自分に対する言い訳は通用しなくなる。ここを全力でやり遂げて、わだかまりのない心の状態で二人と向き合うんだ。

 決意を強く念じていると、とうとう俺たちへのコールがかかる。


「じゃあ、行ってらっしゃい!」


 未咲に背中をぱんと押される。振り向かずにそのまま数段の階段を昇り、会場へぐっと一歩を踏み出した。

 眩しかった。スポットライトが当てられ、一瞬何もかもが白飛びする。怯まずに歩みを進めると、こちらを見る人、人、人の姿が目に入る。可愛いー、という黄色い声を鼓膜が辛うじて拾う。体育館のライトは真ん中の列だけが点灯し、空間の真ん中にある円形のステージをぼんやりと浮かび上がらせていた。

 俺たちのパフォーマンスの筋書きはこうだ。俺は悪意を持った男どもに追われ、体育館に逃げ込んでいく。そしてピンチに陥ったところを未咲が颯爽と助けるのだ。体育館の後方にスタンバイしていた柔道部員の男子が、筋書きどおり三人がかりで掴みかかってきた。俺はステージ目指して慌てて逃げる。大きな掌が伸びてくると、真に迫って見えたのか、群衆からざわざわと声が漏れる。


めろ!」


 鋭い声を放ったのは、扉付近に仁王立ちした未咲だ。ライトが彼女を照らすと、かっと黒い影が浮かび上がる。腰に手を当てた勇ましい姿は、本当にヒーローそのものだった。俺は思わず息を飲んだ。現実のものとは思えないほど、頼もしさに満ちていたからだ。

 悪漢たちは未咲に向き直り、突如登場した正義面の優男に掴みかかる。しかしながら優男は手練で、悪漢より数段上手うわてなのだ。悪者の手はヒーローには届かず、BGMとして流れる音楽のリズムに乗り、逆に未咲が素早い突きや回し蹴りで華麗に撃退していく。実際には柔道部の連中が自分で倒れて受け身を取っているのだが、さすが運動神経が抜群な未咲との連携だ、かなりの迫真ぶりだった。会場のそこかしこから歓声が飛び、場がさらに盛り上がる。

 悪漢たちを全員すと、ヒーローは包容力のある笑みを浮かべて、うずくまっている俺に手を差しのべる。少女の格好をした俺がその手を取ると、群衆はどっと囃し立ててきた。ああ、もう、完璧だ。未咲が俺をぎゅっと抱擁し、ライトがしぼんで消えたら、我々のパフォーマンスは幕切れとなる。

 しかし、ここで想定外が起こった。

 抱擁の直前で、突然がっくりと倒れ込んでくる未咲。俺を引っ張りあげようとした体から、ふっつりと力が抜けたように見えた。

 熱を持っていた全身が一瞬で冷える。反射的に華奢な体を抱き止めながら、ぶわっと焦りが湧いてきた。なんだ? 緊張しすぎて失神したのか? でもそうは思えなかった。聴衆も大騒ぎになったら俺はどうすればいい?

 一瞬のうちにそこまで考える。けれど、恐れていた事態は起こらなかった。

 ざわめくかと思った聴衆が、声を上げるいとまもなく、次々に未咲のように倒れ伏していったのだ。ばたばたという音は次第に大きくなり、やがて尻すぼみにやむ。ガンガンにかけられていたアップテンポの音楽だけが、人間をせせら笑うかのように流れ続ける。未咲は眠っているようだった。息も脈もあり、おそらく倒れた皆も同じだろう。でも、なぜ? 群衆が一斉に眠りに落ちるなんて、どうしてこんな奇妙な現象が?

 ぐるりと見渡しても、誰も彼も身動みじろぎをせず、目覚めているのは俺独りのようだった。体育館の外からも誰も来る様子がない。内心混迷を極めていると、不意に背筋に悪寒が走った。目の端に信じがたいものが映る。

 山羊頭。俺の忌まわしいトラウマだ。

 体育館の側面にある扉をこじあけ、山羊の被り物を身につけた人間が、ぞろぞろと中に入ってくる。十人はいない程度だろうか。ハイテンションの音楽が頭に刺さるように響いて、過去の記憶が否応なしにフラッシュバックし、頭痛がぎりぎりと脳を締めあげる。あいつらは、敵だ。影の予見とやら通りに、俺を殺しに来たのか? 生徒や先生も巻添えにするつもりで。でも、未咲だけは。未咲だけは守らなければ。

 激しい頭痛と吐き気で視界が明滅してくる。俺は未咲を抱きかかえ、地べたに座り込みながら、ぎりぎりと山羊頭たちを睨み付けた。

 すぐにでも躍りかかってくるかと思われた彼らは、そうはしなかった。何故か床に敷かれたカーペットに沿って二列に並び立ち、恭しく山羊の頭を垂れる。

 あたかも悪魔の降臨を待つ召喚者のように。王族の御成りを待つ従者のように。

 嫌な予感が、視界の端を黒く塗り潰していく。冷や汗を垂らしながら、俺は見た。自分も通ってきた金属の扉をくぐって、おそろしく背の高い一人の人間が、つかつかと歩み寄ってくるのを。

 山羊頭の数倍、背筋がぞっと冷えた。背中に冷や水をぶちまけられたよう。得体の知れない、でも確実な恐怖。恐怖の塊が、こちらに近づいてくる。怖くて歯ががちがち鳴るのに、目が離せなかった。

 その人は、縦に細長くて、全身真っ黒だった。たぶんヨーロッパ系の外国人で、まだ若い男性だ――彼が死神でないのなら。顔だけが異様に白く青ざめていて、表情という表情が抜け落ち、一対の目だけが金色にぎらぎら光って見えた。彼の周りの空気だけ、数度低いのではないかと思わせる、凍てついたオーラ。山羊頭たちは、静かにその青年が行き過ぎるのを見送っている。俺の体の中心から、嫌悪感と無力感と恐怖心が吹き出していく。全身ががたがたと震える。来るな。来るな。こっちに、近づくな。

 そんな思いも空しく、真っ黒な青年が俺のすぐ前を塞ぐように立った。気力を振り絞り、下からきっとめつける。俺の格好に眉ひとつ動かすことなく、相手は冷酷にこちらを見下ろしていた。金属光沢のような、冷たい光が宿った目だ。その色に近い目を、猫のものでなら見たことがある。けれど、無機質な目だ。

 暗闇の化身のような相手が身を屈め、俺に右手を伸ばす。体がびくりと凍りつく。殺される。こんなところで。ヴェルさんは近くにいないのか? 未咲に手出しはさせない。ぎゅうと幼なじみをかき抱き、息を詰める。涙が滲んだけれど、顔を逸らすことはしなかった。

 俺の喉元にでも絡み付くかと思った指先は、上に向けられた掌から、音もなくすうっと外に開かれる。

 まるで、そちらへいざなうように。そちら側へと、優しく迎え入れるように。

 黒い青年が初めて口を開いた。


「お初にお目にかかります。私はルカと申します」

「……ッ……」


 全身に怖気おぞけが走り、総毛立つ。相手の口調は至って平坦であるのに。

 青年はなおも続ける。


「茅ヶ崎龍介。我々は、あなたを歓迎致します」

「――は……?」


 状況に思考が追い付かない。かんげい。それはどんな意味だっただろう。やっと絞り出した声は、ひどくかすれていた。

 いつの間にか音楽は止んでいる。急に訪れた静寂の向こうから、虫の羽音のようなドローンの飛行音が、低く聞こえてきていた。


(続く)

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