僕らとどこかのこと 炎(かぎろ)うふたつの牙(3/6)

(承前)


――水城麗衣みずきれいの話


 高校の文化祭を一週間後に控えた土曜日の朝。その眠りと覚醒の合間のまどろみにあって、私の脳内では昨日あった最高の出来事が再生されていた。

 思えば昨日、顔を合わせた時から、桐原先生の様子はどこか変だった。

 いつもの通り、仕事終わりにお見舞いに行ったら、私が病室にいるあいだずっと彼がそわそわしている風で、けれど何事も起こらないまま、面会時間が過ぎていく。先生の様子が気になりつつも、私からは上手く切り出せずにいた。

 とうとう刻限がやってきて、じゃあ帰りますね、と声をかけたら、


「待って下さい。……水城先生、お話があります」


 そう、意を決した表情で引き留められたのだ。

 ただならぬ気配に、思わずごくりと唾を飲み、私も立ったままで居ずまいを正す。どこまでもまっすぐで真剣な顔の桐原先生を見つめていると、世界がどんどん縮小していって、この病室に彼と私だけが二人きりで存在しているような、そんな不思議な感覚に襲われた。

 そしてついに、桐原先生が口火を切る。


「水城先生。先日あなたは、私のことを好きだと言って下さいましたね。それに対して、自分の気持ちをはっきりと言葉にしてお伝えしていなかったこと、とても不実な態度だったと反省しています。私は……私も、あなたのことを大切に思っています」


 そこで息を浅く吸い込んでから、


「私と、お付き合いして頂けませんか」


 一瞬も目を逸らさないまま、張り詰めた表情の彼は言い切ったのだ。

 あまりに突然の申し出に、何の反応もできない。投げられた会話のボールをがあまりにも大きすぎ、受け止めるだけで精いっぱいで、私は投げ返せずに呆然と立ち尽くした。このことを言い出そうとしていたから、そわそわしていたのかな。そんな彼のさまを思い返しながら。

 彼は思いの強さを証明するように拳を握りしめ、私をほとんど睨むように見つめていた。まだ理解が追い付いていない私は、「ええと……お付き合いというのは、どこかに同行してほしいとか、そういう意味ではない方の……?」と、小学生でも分かる念押しをしてしまう。呆れられるかとも思ったが、桐原先生はそれどころか、ふふっと優しく破顔して首を振った。張り詰めた空気がやわらいで、彼の言葉がすっと入ってくるようになる。


「ええ。交際して頂けないか、という意味です」


 ああ。そこで膝から崩れ落ちなかった自分を褒め称えてあげたい。こんな幸せってあるものか。桐原先生が私の気持ちを受け入れてくれたときも幸福を感じたけれど、今はそれよりも幸せだ。好きな人から、交際を申し込まれたのだから。

 目頭が熱くなり、そこにいる彼の姿が滲む。私は深く何度も頷いた。


「嬉しいです……よろしくお願いします」


 そして込み上げてくる歓喜の感情に突き動かされるまま、ベッドの上の桐原先生に抱きついた。先生は慌てるのと苦笑するのが半々くらいの様子で、それでも私を抱き止めてくれる。薄い入院着ごしに、確かな体温を感じた。


「良かった……ほっとしました。緊張していたもので」

「断るわけ、ないじゃないですか……。こんなに好きなのに……」


 先生が自分の髪を何度か撫でてくれ、その手が頬の方へと降りてくる。はっとして顔を上げると、眩しいもののを見るみたいに目を細めた彼と目が合った。先生の無骨な手が顎に添えられるのを感じ、そっと目を閉じる。彼の手つきは少したどたどしく、まるで薄いガラスの入れ物を扱うようで。ほほえましい気持ちになりながら、触れてくる彼の唇を受け止めた。

 桐原先生との二度目の口づけ。彼からキスしてもらったのは初めてだ。

 私の胸の内は喜びでいっぱいで、心臓も駆け足でとくとくと脈打っている。優しい口づけの後、顔を見合わせた私たちは、どちらからともなくふふっと笑い合った。

 ――ああ、大好きだ。

 二人の時間が名残惜しく、さっき彼がしてくれたみたいに、先生の髪を二度三度とゆっくり撫でる。彼はなんだかこそばゆいような顔をしていた。

 実を言うと私は髪質フェチというか、桐原先生のさらさらで適度にコシがあり、ふわふわ感もツヤも持ち合わせた黒髪にずっと目をつけていたのだ。個人的な関係になれたら絶対彼の髪を撫でると決心していた。

 桐原先生の髪は想像以上に手触りがよく、思わず気持ちいい……、と口に出して言ってしまう。


「? 撫でてる方が気持ちいいんですか?」

「はい……。私、ずっと先生の髪質に注目してて……触ったら気持ちいいだろうなと思ってたんですけど、予想以上でした……」


 そこまで熱に浮かされたように言ってしまってからはっと我に返る。しまった、変態みたいなことを口走ってしまった。せっかく恋人同士になれた直後なのに、引かせてしまったのでは?

 既に私の顔からは血の気が引いていたのだが、桐原先生は予想に反して口元をふっと綻ばせた。


「あなたは面白い方だ」

「あ……引きませんでした?」


 恐る恐る伺うと、彼は不思議そうに小首を傾げる。


「引く? なぜです? むしろ、あなたと話していると、自分にも良いところがあるような気がしてきて――楽しいですよ」


 しみじみとした言葉とは逆に、私の心臓はきゅっと締め付けられる。なぜそんなに自己評価が低いの? ずっと不思議だった。桐原先生くらい真摯で、気配りができて、まめで、優しくて、可愛らしくて、格好いい人なんてそうそういないくらいなのに。

 たぶん、育った環境とか、これまでの人間関係とかに要因があるんじゃないかと思う。さすがに不躾に聞くことはしないけれど、彼の自己評価を少しでも覆したくて、病院には似つかわしくない強い語気になってしまう。


「良いところがあるなんて、そんなの当たり前じゃないですか! だって私、先生に初めて会ったときにすごく格好いいと思って……一目惚れで、それからずっと好きだったんですよ」


 初対面から好きだった、と初めて伝えた。こんなことを言ったらまた彼は慌ててしまうのでは?、と我に返るが、至近距離にある彼はただただきょとんとしていた。


「え、そうだったんですか? でも……以前、私の顔は変だと仰っていませんでしたか?」

「えっ嘘! 私そんなこと絶対言ってないですよっ」


 ぶんぶんぶんと胸の前で手を高速往復させる。想像だにしていなかった言葉が先生の口から飛び出して、軽くパニックになった。だって、私が冗談でもそんなことを口走るなんて、冬と夏が一緒に来るくらい考えられないことだ。まさか、酒に酔ってそんな心にもない発言を? いやいや、この私が彼をけなすような物言いをするなんて、逆立ちしても脳をどれだけぎゅうぎゅう搾ってもありえない。


「私が言ってたって、それ、いつのことです?」

「うーん、あれは……ああ、春の飲み会の時です。歓迎会の席で」


 腕組みをする先生と同じ格好で、私も必死に記憶を辿る。桐原先生を含む新任の先生の歓迎会か。確か桐原先生とまともに話す機会で、緊張してだいぶ酔っていた覚えがある。主に桐原先生と、私と、社会科の長谷川先生とで会話していた。


「あの時は長谷川先生に『俳優でもやったら』と言われたんですよね、なぜか。それで、私の顔の話になって」

「あ!」


 思わずぽんと手を打った。そうだ、思い出した。その後、桐原先生に「私の顔、普通ではないですか」と尋ねられて、「全然普通じゃないです」と返してしまったのだ。しかも、何のフォローもなく。

 それを彼は、私が「桐原先生の顔は変だ」と言ったと受け取ったに違いない。あまりよく覚えていないが、その時から先生は少し元気がなかった気がする。とんでもない誤解が生じていたんだ! 私はあわあわしながら弁解した。


「あれは変という意味ではまったくなくて……! 普通じゃ全然なくて、すごく格好いいって意味ですよ。それこそ、私にとっては世界で一番です。誰から見ても、先生は格好よく見えると思いますよ! イケメンですよ!」


 語気とともに体にも勢いがついて、いつしか先生に肉薄していた。実に半年もの間、生じていた齟齬が解消したのだ。勢いこみたくもなる。

 容姿を褒められた彼は明らかに戸惑っていた。くっ、困ってる先生も可愛いな。


「そ、うですか……そんな風に言われることがないので……なんと言えばいいか……」


 困惑なのか、照れのせいか、桐原先生は眉根を寄せて語尾を濁す。私はその時決意した。彼はきっとあまり外見を褒められたことがないんだ。じゃあこれからは、私がいっぱい褒めよう、と。そして、いっぱい困らせちゃおう、と。

 そうだ、恋人同士になったのだから、ある程度のことは自由に何でもできるのだ。にへえ、と緩みそうに口元をなんとか押し隠し、先生の頬をそっと撫でる。


「勘違いさせちゃってごめんなさい。先生は出会った最初からずっと格好いいですよ。でも、今は可愛いとも思ってます」

「いや、さすがに可愛くはないと思いますが……」


 掌の中で彼がますます渋面を作る。ああ、その顔こそが可愛いのだと彼は知らないんだろう。なんて可愛いの。しかも格好いいし。大好き。

 さて、ここまでが実際にあったことで、しばらく見つめ合った後に面会時間は終了した。もっと時間があったなら、と私は浅い眠りの底で夢想する。あの雰囲気なら、既成事実を作れたのではないか。夢うつつの私の頭には常識や理性というたがは存在せず、妄想が果てのない想像の彼方へ飛び立っていく。

 あのままベッドに飛び乗って、先生の上に覆い被さって、逞しい体にこの胸を押し付けたら、彼は何らかの反応を見せただろうか。まだ充分には動けない先生の胴にまたがって、慌てる彼を尻目に、薄手の入院着の袷に手を差し込んで、焦らしながら服を脱がせて、それからそれから――。

 せんせ、私にあなたの可愛いところ、もっと見せて。

 今度こそ、にへえ、と口元がにやける。

 と同時に、遠く、それでいて近い場所で、私を呼ぶ声が聞こえる。


「レイ、起きて。レイ――」

「ん、ん……?」

「レイ、起きる時間よ。それとも、お姫様はキスがないと目覚めないのかしら?」


 誰? そう思いながら、瞼の向こうの眩しさに眉をひそめる。ああ、今のは全部夢だったんだ――。桐原先生が格好いいという話までは本当に本当だけど。

 薄く目を開けると、誰かが私をすぐそばから覗きこんでいた。焦点がじわりと合って、輝かしい金髪と澄んだブルーアイとが私の霧深い思考を一発で醒ます。

 シャーロットさん。私の護衛をしてくれているシャーロットさんが、ベッドの横から私の上に身を乗り出しているのだ。そして不可抗力として、彼女の胸が私の胸の上に乗っかっている。互いの小さくないボリュームの胸が押し合う形となり、ふっかりとした圧力が伝わってきていた。こんな状態だったから、あんな不埒な夢を見たのかもしれない。思い返すとなんてとんでもないことをしようとしていたんだろう、夢の中の自分は。


「目が覚めた? レイ」

「ん……おはようございます……。あ、あの……キスって……」

「ふふ、してないわよ。Good morning, princess. さあ、起きて」


 シャーロットさんが優しく起床を促してくれる。いやはや、起き抜けからド迫力美人に至近距離から見つめられるなんて、かなり心臓に悪い。

 流れ作業的に時間を確認した私は、危うく変な声を出しそうになった。もう出かけるはずの時刻までわずかだった。ひきつりそうな顔でシャーロットさんにすみません、と謝ると、曇りのないほほえみでいいのよ、急いでないもの、と返ってくる。

 そう、今日は彼女と、駅近くのショッピングモールに行く約束になっていたのだ。シャーロットさんは三つ揃いのスーツで完璧に準備を整えており、彼女への申し訳なさで押し潰されそうになりながら、私はできる限り急いで準備に取りかかった。

 お出かけの約束に至る事の発端は、シャーロットさんの「日本の服は可愛くて好き」という、初対面の日の一言だった。桐原先生とのデートを見据えて新しい服を見繕いたい私が、その言葉を思い出して彼女を誘ったのだ。シャーロットさんも「あなたが買い物に行くならどっちみち自分も着いていくし、服も見てみたいわね」と返したことで決まりになった。


「でも、もう可愛い服を充分持っているじゃない。新たに買う必要がある?」


 身支度をばたばたと済ませていると、寝室から着替えて戻ってきた私の格好を、リビングで眺めていたシャーロットさんが言う。


「あー、それなんですけど……」


 今の自分の格好は、小花柄のAラインワンピースの上に、ボタンを半分くらい留めた薄手のカーディガンを羽織っている、というものだ。説明するより見てもらう方が早いと、私は羽織のボタンを外し、シャーロットさんの前で開いてみせた。


「私、持ってる私服がこんな感じのばっかりで」


 シャーロットさんが思わずといった様子でオゥ……、と口元に手をやる。ワンピースの襟ぐりは際どいところまでいているデザインで、もはや胸が半分露出しているに等しい。元彼たちは大体こういう趣味の人ばかりだった。デートから部屋に帰るなり胸元をまさぐってくる人さえいた。たぶん私ではなくて、私の胸と付き合っていたのだろう。そそくさとカーディガンのボタンを留め直すと、なんというか、ゴージャスね、とシャーロットさんがしみじみと感想を述べた。

 私は力強く右拳を握り締める。


「私、桐原先生にはふしだらな女だと思われたくないんです、絶対に! 格好だけでも!」

「なるほど、それで新しい服が欲しいというわけね。彼は見た目で他人を判断する人ではないと思うけれど……確かにレイにはもっと上品な服装が似合うと思うわ」


 さりげなく桐原先生をフォローし、私をも持ち上げてくれるシャーロットさんに感動すら覚える。

 外出する準備を終えると、彼女は笑みながら右手を差し出してきた。


「さ、行きましょうか。私のお姫様」


 シャーロットさんの彼氏力すごいな、と思いながら私はその手を取るのだった。



 結果的に言うと、シャーロットさんとのお出かけは至極楽しかった。

 ファッションフロアで互いに似合いそうな服を見繕う、というのが楽しくて、年甲斐もなくはしゃいでしまったのだ。私はともかく、素晴らしいプロポーションを持つシャーロットさんは何でも似合い、彼女が試着するたびに最大限の賛辞を送らずにいられなかった。スーツを着ている時のシャーロットさんはクールな印象だけれど、清楚なワンピースや華やかなブラウス、ふんわりしたスカートなどを身に纏った彼女はそれはもう可愛らしかった。


「これ……私には可愛すぎるんじゃないかしら?」

「そんなことないですよ! すっごく似合ってますよ!」


 私が「可愛い~!」と声を上げるたびに、シャーロットさんは照れからか頬を染め、可憐な少女みたいに恥ずかしそうにしていた。ああ、抱き締めてしまいたい。彼女の普段とのギャップに、自分が男だったら絶対に恋に落ちていたな、とさえ思った。会計へ服を持っていく前に、「武器を隠すところが少ないのがネックね……。太ももにベルトを着ければ隠せるかしら」なんて物騒なことも言っていたけど。

 そして、私は目撃してしまった。シャーロットさんの首に、いつぞやヴェルナーさんの胸元に揺れていたのと同じネックレスが、確かに下がっているのを。

 買い物を終えカフェに移動した我々は、テラス席に陣取った。涼風が深まる秋を知らせ、道行く人々の中には首を竦めて歩いている人もいる。彩度を失っていく街の中で、美しいシャーロットさんの髪と美貌は際立って人目を引いていた。ちらちらと視線を感じ、なぜか私が誇らしい気持ちになる。

 紅茶を優雅に飲んでいる彼女を横目に見つつ、つい私はにやけてしまうのだった。だって、試着室で見たあのシンプルなクロスのネックレスは、絶対にヴェルナーさんとお揃いだったのだから。何だかんだ言ってやっぱり恋人同士なのかなあ、とほほえましく感じてしまう。

 ホットコーヒーをかちゃりとソーサーに戻して、私は口火を切った。


「シャーロットさんのおかげで、今日は楽しかったです。ありがとうございました」

「そんな、私こそ楽しかったわ。キュートな服をたくさん見られて……ちょっと散財しすぎたけれどね」

「ふふ、ぜひ今日買った服をいっぱい着て下さいね! ……それであの、さっき思ったんですけど、それ、ヴェルナーさんのと一緒ですよね。お揃い、なんですね」


 シャーロットさんの首元を指差しながら問いかける。ネックレスは今はシャツの下に隠れていたが、彼女のすらりとした指が金属製のストラップをするりと引き出した。


「ああ、これのこと? お揃いね……まあ、そうね」


 やっぱり、と勢いづく前に、シャーロットさんがどこか空虚な目をしてネックレスを見つめる。


「お揃いといっても、彼とだけお揃いというわけではないのだけれどね。――これは、なの」

「えっ……それは、どういう」


 甘い返答を半分予想していた私は、桃色の唇から紡がれた、おおよそアクセサリーには似つかわしくない単語に虚を突かれる。首輪って? どういう意味だろう。

 シャーロットさんは口の端だけで笑む意味深な表情をしながら、私に向かって軽くウィンクした。


「詳しくは言えないわ。女は秘密が多い方が素敵でしょ?」


 気取った言い方に、私の心は逆にしゅんと沈む。彼女と生活を共にして一緒に服も選んで、だいぶ距離が縮んだ気がしていたけど、所詮私とシャーロットさんは違う世界に生きる人間なんだ。その事実をまざまざと突きつけられ、舞い上がった自分をたしなめられた気がした。

 冷めてきたコーヒーで喉を潤し、気を取り直して明るめの声音で話題を変える。


「あの……そういえば、シャーロットさんってスーツが好きなんですか? いつも決まってて格好いいですよね。似合ってる」


「そう?」シャーロットさんは思いがけないことを言われたとばかりに、大きな目をしばたかせ、


「好きとか嫌いとか……あまりそういう観点で考えたことが無かったわ。そうね――好きか嫌いかで言えば、好きではないわね」

「え? そうなんですか?」


 今度はこちらがきょとんとする番だった。シャーロットさんのスーツ姿はぱりっとしていて一分の隙もなく、どんな場所でもあれ? ここはランウェイかな? と勘違いさせるほどの完璧さなのだから。


「仕事中だから、仕方なく着ている感じかしらね」

「あー、スーツ着用って決まってるんですか」

「いいえ……規定として文言があるわけでもないわ」

「じゃあ、どうして……?」


 そうね、と言葉を探しながら、シャーロットさんは顔をうつむける。華のある表情が陰り、目の下に睫毛の影が落ちる。


「言うなれば、これは武装なの」


 武装、と鸚鵡おうむ返しに呟くと、美しく青い瞳がこちらを見つめ返してきた。


「そう、武装よ。私が身を置いている組織はね、私と数人を除くと全員が男性なの。時代遅れだと思うかもしれないけれど、力と体力勝負の組織ではそれが現実。その中で男性と同じくらいか、それよりもっと大きい責務を果たしていくという覚悟を、私は着ているのよ。男性から舐められないように、という意味もあるわね。……いずれにしろこれは、男社会に身を投じる決意を着ているということなの」


 張り詰めたシャーロットさんの声に圧倒された。そんな強い気持ちを持って、服装を選んでいるなんて。

 でも、と思う。どこか違和感がある。悲壮な志を持った彼女の顔に、さっきの無邪気で素直な彼女の表情が重なる。


「なるほど。……でもそれって、ちょっと変じゃないですか?」


 考えもまとまりきらないまま、口が自分の感覚に従っていた。説明に異議を唱えられたシャーロットさんの眉間に浅く皺が寄る。

 ぐ、と両手でカップを握りながら、一言一言単語を選んでいく。


「服が武装だっていうのは理解できます。私も良い服を着たり、メイクをしたり、ネイルを変えたりすると精神的に強くなる気がする、というか自信が付きますから。でも、シャーロットさんのは……男性と同化しようとしてるってことじゃないですか? スーツが好きで、好んでその格好を選んでるなら変だなんて思わないんです。でも、組織のために好きでもない、決まりでもない格好をしているなんて……それって何というか、勿体なくないですか? あんなに色んな服が似合うのに」


 シャーロットさんはじっと私の言葉を聴いている。もう眉根を寄せてはいない。お互い、真剣だ。


「スーツを着るのが悪い、とは思いません。でも、シャーロットさんは本当は、今日買ったみたいな服がお好きなんでしょう? だったら周りを気にせずにどんどん着たらいいって私は思うんです。組織のこと、全然知らない私が言うのもなんですけど、男性社会のなかで逆風が吹いても、シャーロットさんなら実力ではね退けていけるんじゃないでしょうか」


 勢い込んで拳をぐっと握る。相手の目は丸く見開かれていた。

 綺麗なワンピースを着たシャーロットさんが、スパイ映画のようにひらりひらりと攻撃をかわし、邪魔者に打ち勝っていく様子が目に浮かぶ。それは百%私の妄想だが、彼女の姿はきっととても格好いいだろう。


「それに何より――強くて可愛い女性って、最高じゃないですか?」


 にこりと笑いながら問いかける。怒られるかも、という可能性は考えていた。何も知らないくせに、勝手なことを、と。

 でもシャーロットさんはまなじりを吊り上げるどころか、不意を突かれたとばかりにまじまじと私を見ていた。彼女が何も言わないので、なんだかどきまぎとしてくる。前方に傾けていた体を椅子に戻し、縮こまるように両手を膝に揃えた。


「す、すみません、偉そうなこと言って……」

「いいえ、謝らないで」


 柔らかなシャーロットさんの声にはっとする。見ると、彼女はテーブルの方に顔を向け、こくこくと小刻みに頷いていた。何かを確かめるように。何かを自分に言い聞かせるように。


「あなたの言うとおりかもしれないわ。そうね、男の顔色をうかがう必要なんてないのよ ね。好きな服を着て、他人に何か言われたら実績で突っぱねていけばいいのよね」そこで私に向き直り、飾りではない満面の笑みを浮かべ、「目が覚めたような気がするわ。レイ、気づかせてくれてありがとう」


「い、いえ、そんな大層なことは……」


 日本人のさがとして、こんなとき恐縮せずにはいられない。

 あたふたと体の前で手を振る私を、シャーロットさんは頬杖を突き、首をやや傾けて見る。まるで眩しいものを見るときみたいに、目元を優しげに細めて。


「ふふ。やっぱり私、あなたのこと好き」


 かっと頬が熱を持つ。慌てふためいた私は、せめて熱を持つ頬を隠そうと、コーヒーカップを取り上げた。


 * * * *

――ルカの話


 睡眠が必要ない体になっても、ルカは最後に見た夢の内容を覚えている。



 エコノミークラスの窮屈な座席に長身を押し込めるようにして、今ルカは機内で目を閉じている。日本へ向かうジェット機はほぼ満席だ。安定飛行に入り、乗客たちはそれぞれ思いおもいに過ごしているので、そのざわめきが耳まで届く。

 組織の金ならいくらでもあるが、極力目立つのを避けるため、飛行機はエコノミークラスを選択するのが通例だった。無論、搭乗する際に使ったパスポートは己のものではない。が、偽造というわけでもない。この世には誰にも、何にも顧みられずに消えていった存在が掃いて捨てるほどある。"罪"ペッカートゥムでは彼らの身分を拝借しているというわけだ。

 偽造するのはむしろ、顔の方である。"罪"と、秘密裏に"罪"へ資金を提供する各国の技術力があれば、整形などなしに顔写真そっくりの顔を作るなど造作もないことだ。今ルカは、気の良さそうな三十代の男の顔をしている。ただし、その表情は氷のように凍てついているのだが。

 ルカは瞑目しつつも、眠っているわけではなく思索しているだけだった。瞼の裏側に幻の八十八鍵を思い浮かべ、想像の十指でそれを奏でる。心に浮かぶ曲を思うままに弾いていると、最後の眠りで得た追想が立ち現れていく。

 ――最後の夢は、我が主の思い出ばかりだった。



 我が主と出会ったばかりの頃。

 ろくにものを食べていなかったルカをレストランに連れていき、好きなだけ食べるんだよ、と優しげに促してくれた彼。一緒に召し上がらないのですか、とルカが訊くと、ぼくはおなかが減っていないから、と痩せた手首も隠さずにほほえんでいた。



 たっぷり栄養を摂るようになったからかルカの身長が急激に伸び、小柄なディヴィーネを追い抜いた頃。

 河畔に座り、手帳にびっしりと細かい文字で何かを書き付けていた彼。何を書いているのですか、とルカが尋ねると、一瞬の逡巡のあと、自分が覚えていることを書いているんだよ、と穏やかに答えた彼。


「……そうですか」

「詳しく聞かないのかい」

「ディヴィーネ様が話したくないことなら、僕は聞きません」

「そう……。君は良い子だね。君は……」


 そう言って、どこか寂しげな笑みをたたえながらルカの頭を撫でてくれた。



 それから――。

 あれは宿泊するホテルの部屋が足りず、初めてディヴィーネと同室に泊まった夜のことだ。

 あの頃は放浪の旅とでも言うべき生活を送っていて、いつも小綺麗なホテルに宿泊していたのだが、主と同じ空間で寝泊まりするのはかつてない事態で、ルカは否応なしに緊張した。二人が床に就くまでは何事も起こらなかったものの、深更、ルカは物音で目を覚ますことになる。

 ルカの隣のベッドで、うなされるように呻いていた彼。それまで彼の口から聞いたことのない、切羽詰まった悲痛な叫び。


「違う、ぼくじゃない、ぼくはこんなの望んじゃいない、ぼくじゃない、ぼくじゃない……ッ」


 ルカが呆然と取り乱す主の様子を見ていると、顔を覆う指の間から、不意に両眼がぎょろりとルカを捉える。そのぎらつき。そこに潜む獣じみた警戒感。

 ルカの視線を遮るごとくがばりと手をかざし、脂汗を額に滲ませ、焦燥に染まった叫びを上げる。


「やめろッ、ぼくをそんな目で見るな!」


 ルカはそんな彼の様子を見るのも、いつも抑制的な調子で話す彼の絶叫を聞くのも初めてで、体は驚きで硬直していた。どのくらいの時間が経ったろう、ディヴィーネの瞳からすうっと狂気の色が霧散していく。はっとしたように目を見開き、弱々しくルカに笑いかける彼。


「ごめん、どうやら良くない夢を見ていたみたいだ。外の空気を吸ってくるよ……」


 ふらつく足取りで暗い部屋を出ていく彼を、少年だった頃のルカはただ見送ることしかできなかった。



 そして夢の中の追想は、つい昨日の追想に追いつかれる。

 出立直前のルカは、あるじたるディヴィーネに報告するため、彼の居室を訪れた。


「もう行くんだろう?」

「はい」

「じゃあ、頼んだよ」

「は。我が命に代えましても、任務を遂行して参ります」


 腰を深く折るルカに対し、主はつかつかと歩み寄り、それじゃ困るな、と返した。面を上げて前を見やれば、深長なほほえみを湛えたディヴィーネが、すぐそこに立っている。

 かと思うと、彼の華奢な体がルカの胸の中にとさり、と飛び込んできた。

 そのあまりの軽さと、突然の接触に衝撃を覚え、くらりと視界が揺れる。


「あの――」

「君がいなくなったら、ぼくはどうすればいい?」


 くぐもった囁き声。からかっている調子にも、切実な響きにも聴こえ、ルカの思考は変調をきたす。困惑し当惑し、その場に棒立ちになるばかり。


「……必ずや、帰って参ります」


 やっとそれだけを絞り出す。美貌を上向けた主は、空間すら華やぐ麗しい笑みを浮かべた。


「うん。気をつけてね」


 ディヴィーネの青緑の目を、そんなに近くで見つめた日は、昨日以上にはなかった。



 瞼を引き上げると、様々な思惑を乗せて空を行く機内の現実に引き戻される。

 彼はどんな意図であんなことを口にしたのだろう。ルカがいなくなっても、穴を埋める人員はいくらでもいる。代わりになる人間はすぐにでも見つかるはずなのに。

 ルカは自らが特別な存在だとは微塵も思ったことがない。自分はただの裏社会の歯車であり、組織のナイフであり、主人の犬だ。だからこそ、困ると言った主の考えが分からない。

 そんなルカの思考とは無関係に、飛行機は日本へ向けて着々と近づいていく。


 * * * *

――茅ヶ崎龍介の話


 いよいよ文化祭の朝が来た。

 クラスメイトからのある指令のせいで、なんとなく違和感がある脚をてくてく動かし、俺はいつもよりのんびりと登校した。そして校門に着くなり、普段とは違った学校の雰囲気に目を見張る。

 校門のそばには美術部が作った巨大な看板が立ち、校庭では何人もの生徒が駆け回っている。校内でも人影が慌ただしく行き交っているのが窓から見えた。空気もどこか浮わつき、華やぎ、見慣れたはずの光景が非日常のもののように感じられる。いや、見慣れているからこそ、いつもと違う部分が日常の中の非日常感として、浮き立って見えるのかもしれない。

 一般解放までにはまだ一時間以上ある。浮かれた空気の中、校舎の上を指差しながら、二人でわいわい盛り上がっている女子の後ろを通り過ぎていく。


「ねえねえ、あそこに飛んでるの、ドローンじゃない?」

「あ、ほんとだ! 上から撮影してるのかな?」

「すごいじゃん! 撮ってもらお」


 そちらをちらりと見やると、低くぶうんと音をたてて黒っぽいドローンが校舎の上でホバリングしていた。ポーズを決めている女子の他は、あまりドローンを気に留めていないようだ。というか、みんな忙しすぎるために、そんなものを気にする暇はないようだった。

 生徒たちが最後の追い込み作業をしている廊下を行き過ぎ、開け放されていた自分のクラスのドアをくぐるなり、俺は熱烈な歓迎を受けた。拍手まで巻き起こり、生まれてこのかた経験したことのない歓迎ぶりだ。その理由はひとえに、俺がミスコンの主役の一人だからである。到着次第すぐ、俺は女子たちによって化粧を施される手筈てはずになっていた。遅めに登校したのは、その審判の時をできる限り遅くしたいという後ろ向きな気持ちの表れだった。

 暗幕が引かれ、深海生物の模型やらぬいぐるみやらがそこらじゅうに配置されている教室ではメイクはできないと、着のみ着のままのていで空き教室へと連行される。メイク担当の女子だけでなく、他の女子や男子たちもなぜかぞろぞろと着いてくる。クラスメイトは接客用のメイド服や執事服に既に着替えている者が多く、本来の役割とは逆の出で立ちに身を包んでいる人もちらほら。その中で一番機嫌が良さそうなのは、執事姿の幼なじみ、ひかるだった。

 うわ、こいつ、めちゃくちゃ執事姿似合うな。


「さあ龍介、可愛くしてもらいなよ」

「うっせー。どうせそんな変わんねえよ」

「あ、言ったなー? あたしたちの腕舐めてたら後悔大変するよ?」


 唇を尖らせたところに、脅しめいた高い声が割って入ってくる。メイクポーチを手にしたメイド姿の女子たちが、目を爛々と輝かせていた。どうやら輝への軽口で、彼女たちの闘争心に火を付けてしまったようだ。内心「ひええ……」と恐々きょうきょうとしながら、空き教室の真ん中にしつらえられた椅子に腰を下ろす。

 この状況も心境も、まるで被告人になったみたいだな。そう思った。


(続く)

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