僕らとどこかのこと 炎(かぎろ)うふたつの牙(2/6)
(承前)
桐原先生の珍しい表情が見られたのは良いことだが、俺は本来こんな話をしに来たのではなかった。
おほん、と咳払いして、話題を軌道修正する。
「あの、先生、その怪我のことなんですけど……やっぱり、影が関係してるんですかね」
すると相手はベッドの上で居ずまいを正し、そうだと頷く。
やはりと納得する。学校側に伝えられた話は目眩ましだったのだ。
そして俺は、一番訊きたいことを尋ねた。
「やっぱりそれって……俺のせい、ですか」
言葉は自然と歯切れの悪いものになった。答えを聞くのが少し怖かったからだ。
"罪"という組織の人間が俺を襲う可能性がある、という説明は以前受けていた。ヴェルナーは可能性は五分五分だとか言っていたが、自分を狙う奴らが現れ、俺を守ろうとしたとかそんな理由で、先生は巻き込まれたのではないか。そんな予測を立てていた。
俺は教師として桐原先生が好きだし、尊敬もしている。そんな人が自分のせいで大怪我をしたのかと思うとたまらなかった。
桐原先生がベッドの上で背筋を伸ばし、いや、と一言否定する。それだけで俺の両肩からどっと力が抜けた。
「この怪我は、君とは別の件だ」
「そうなんですか……それなら良かったというか、いや怪我してるんだから良くはないけど……」
前にもこんなやり取りがあったなと思い出す。どうも俺は自意識が過剰なのかもしれない。俺の周りに影の大人たちがいる。そんな風につい考えてしまうけれど、大人だって一人一人が中心であり、事情を抱えているのだ。
先生がやや目を細めて俺を見上げる。
「君に話していなかったことがひとつある。私は以前、影に身を置いていたことがあると言ったな。今現在も、また影に籍を置いているんだ。教師としての仕事を優先させてはいるが……。訊かれたら答えるつもりではあったが、黙っていてすまなかった」
言われて、驚きはなかった。俺の護衛が桐原先生の家を拠点に行われていると聞いたときから、ぼんやりと予想していた。
「いや、なんとなくそうかなとは思ってました。あまり色々なことを言って、俺を混乱させないようにしてくれたんじゃないですか?」
「ああ……そうなんだ。さすが察しがいいな」
先生がそこでわずかに唇を笑ませる。尊敬している相手に褒められて嬉しくなった。
しかし、その笑みはすぐに引っ込んでしまう。
「それとだな、この怪我のことだが――君を狙った襲撃ではなく、別の人物を狙った襲撃に巻き込まれたものなんだ」
「え? ってことは、俺以外にも狙われてる人がいるんですか」
これには虚を突かれた。尋ねる声に返ったのは、いたく渋い顔だった。それだけで空気がぴりぴりと張り詰め、どことなくハードボイルド映画を見ているのに似た気持ちになってくる。
「……すまない、それについては詳しく話せないんだ。申し訳ない。いつか話せるときが来たら、君には全て打ち明けると約束する」
「……分かりました。俺、先生のこと信じてるんで」
「信じれば裏切られたときに辛くなるぞ」
諦念を滲ませた目が俺を捉えた。葉の落ちきった晩秋の並木のような、寂しい目だと思った。
ぐっと、無意識的に拳を握る。
「いや、俺は先生がどんな人でも、どんなことを考えててもいいと思ってるんで」
「……君は私より大人だな」
ふっと笑う声には温かみが戻ってきている。
ベッドに備え付けられたテーブルの上に、先生が身を乗り出した。
「……さっきの君の話で、訂正したいことがある」
「なんですか」
「それはな、もし君の護衛をしていて私が怪我をするようなことがあっても、君のせいではまったくないということだ。君の護衛は我々が勝手にやっていることで、君には責任は発生していない。"自分のせいだ"と言えるのは、自分自身が責任を負える時だけだ。だから、私やヴェルナーに何があろうと、君のせいではないんだ。それを分かっていてほしい」
堅苦しいとも言えるが、だからこそ真摯な語り口。
しかし、俺は切なさを感じていた。自分の周りの物事が、自分の手の遥か先で展開していることで感じる、針でちくちく刺されるのに似た、痛み未満の切なさだ。これは俺のことなのに、自分は何も手出しができない。守られることしかできない。俺は無知な子供に過ぎないから、仕方ないのかもしれない。それでも、何かできることはないのだろうか。何かしたいと思うのは罪だろうか。
進路指導調査の用紙を前にして味わった、無力感を抱くのはもう嫌だ。
俺にできること。それは、何だろう。
押し黙っていると、もう遅いから帰りなさい、という声で我に返る。
「ヴェルには私が退院する日を震えて待てと言ってくれ」
「あの、先生」
「ん?」
「先生も影の一員ってことは、戦い方とか……身に付けてるわけですよね」
「それがどうかしたかね」
唐突な問いをぶつける俺に、相手が怪訝な顔をする。
「退院したら護身術とか、教えてもらえませんか。守られてばかりじゃ嫌っていうか……俺も何かしたいんです」
「そうか。それなら了解した」
「あ、まあ、ヴェルさんに頼んでもいいんですけど」
言い訳するように言葉を足すと、先生は存外真剣な目でふるふると頭を振った。
「いや……あいつは悪い奴ではないと以前言ったが、あまり信用しすぎない方がいい。ヴェルは何も考えてないように見えるが、実際は何を考えているのか分からない奴なんだ。道化を演じているんだよ。上から命じられたら私にも平気で銃口を向けるだろう。私はどうなってもいいが、君に心を許しすぎてほしくない」
「……実は怖い人なんですね」
「そうだ」
「でも、先生だってどうなってもよくはないですよ」
「なに?」
「水城先生が悲しみますよ」
先生の喉から、うっ、と息が詰まったみたいな音が漏れる。頬が紅潮するのを隠すように、大きな手で顔が覆われた。こんな姿を見たら水城先生はきっと喜ぶだろう。
「……教師をからかうものじゃない」
「すいません」
数秒後、掌を取り払った先生と目が合って、どちらともなくふふっと笑い合う。
彼の頬はまだ赤くなったままだった。
病院を後にして駅方面へ向かうバスに乗り、駅そばのコンビニに入ったところで、
「茅ヶ崎くん?」
そう声をかけられた。
そちらを見ると、生徒会長の九条悟が好感度マックスのほほえみを湛えて立っている。あまりの聖人オーラぶりにたじろぎつつもどうも、と頭を下げると、今帰り?、と訊かれる。病院に行ってきた帰りだったが、説明するのも面倒でまあ、そんなとこです、と答えると、
「あのさ。ちょっとこれから時間ある?」
と問われて、俺の思考は固まった。どこか意を決したような趣のある目の光にのまれ、思わず頷いてしまう。
自分より広い背についていきながら、俺は戦々恐々としていた。
――俺なんかに何の用だ? カツアゲでもされるのか? やっぱり爽やかな外見の奥には裏の顔があるのか?
九条悟は迷いなく歩き進め、駅構内の一角にあるコーヒーチェーン――呪文を唱えないと注文ができないとまことしやかに囁かれているあれ――へ入っていく。
内心でげ、と思った。
「好きなものを頼んで良かったのに。ご馳走するって」
「いや、自分、甘いの苦手なんで」
「そうか。俺より大人だね」
さっきの桐原先生といい、その台詞を年下に言うのが流行ってでもいるのだろうか。笑う生徒会長の前で、俺はブラックコーヒーを手にしている。
かたやドーム型のプラスチックの中でクリームと半分凍ったドリンクを混ぜながら、先輩が話し出した。
「茅ヶ崎くんはさ、文化祭でミスコン出るんだよね」
「ええ……なんで知ってるんすか……」
「そりゃあ知ってるよ。文化祭実行委員長だもん。楽しみにしてる」
「できれば見てほしくないんすけど……」
なぜ誰も彼も同じようなことを言うのだろうか。俺は嵌められてやることになったようなものなのに。やめてくれ。
そしてこんな下らないことを言うために、俺に声をかけたわけではないはずだ。
「……そんなことを言うために、俺を誘ったわけじゃないでしょう?」
水を向けてみると、先輩の目が不安そうに泳いだ。逡巡するように、一口二口とストローを咥内に含む。
俺は待った。この人が躊躇うなんて、よほどのことだろうから。
やがて決心したように、九条悟は背筋をぴんと伸ばす。
「未咲さんの、ことなんだけど」
「ああ……」
今度は自分の視線が目の前の男からぶれる。この人は未咲の彼氏なんだった。どこまで進展したんだろう、という考えを全力で脳内から追い出しつつ、ぶれた視線を無理に戻す。
大丈夫だ。この彼と一緒なら、あいつも幸せだろう。
「彼女のこと、よろしくね」「あいつのこと、よろしくお願いします」
頭を下げながら言った台詞が被って、二人とも反射的に相手の顔を見た。九条悟はえ?という表情をしているが、俺の顔にもえ?と書いてあるだろう。
数秒、無言の時間が流れる。
「そうか、聞いてないんだね」「よろしくって何ですか?」
また声が重なる。俺はまだ訳が分かっていないが、会長の表情にはもう得心の色が滲み始めていた。
九条悟が泣き笑いみたいな複雑な表情になる。
「俺たち、上手くいかなくてね」
「別れたってことですか? なんで……」
「うん、俺が悪かったっていうか……最初から上手くいくはずがなかったんだ。それで……俺が振られたんだろうな、あれは」
「ええ……何考えてんだ、未咲のやつ……」
未咲が振った? こんな欠点のない相手を? 返す言葉がなく、その隙間を埋めるようにコーヒーを啜る。
会長も手元をくるくると回しながら、どこか潤んだ目で遠くを見ていた。
「俺はね、未咲さんのことが本当に好きだったんだよ。……でも、好きになったのは君の隣にいる未咲さんだった。俺の隣じゃない。俺は君には敵わない」
「え」
「未咲さん、君にはわたしがいないと駄目なんだって言ってた。俺はそれがすごく羨ましかった」
「はあ……」
「知らないかい? 本当は未咲さんは、君を……。いや、これは俺が言っていいことじゃないな。とにかく、俺は彼女の隣にはいられなかった。俺が言えた義理じゃないけど、未咲さんへの気持ちは本当だったから、彼女には笑っていてほしいんだ。だから、茅ヶ崎くん、よろしく頼むよ」
元気が取り柄の幼なじみへの熱い想いを口にする目の前の人が、何を言っているのか全然飲み込めなかった。
なぜこんな完璧な人間が、俺を羨ましがるんだ? 俺が羨ましい? いつもあいつにお節介を焼かれているだけの俺が? 笑っていてほしいからよろしくって、どういうことだ?
九条悟が無理やりほほえむと、縁でぎりぎり耐えていた涙が筋となり、すうっと一直線に流れ落ちた。その様子があまりに綺麗で、慌てるのが遅れた。
――いや待て、もしかして、俺が泣かせたみたいになってないか?
先輩が手の甲で滴を拭う。傷ついたような笑みを浮かべながら。
「ごめん、みっともないよな。後輩相手にこんな姿見せて……」
「これ、どうぞ」
「いや、ハンカチ持ってるはず――」
「使って下さい」
鞄から出したティッシュをずいと押しやる。俺は良かったが、彼の泣き顔を同じ学校の生徒には見られたくないと思った。学校の最寄り駅であるから、どこに学校関係者の目があるか分からない。
九条悟がありがとう、と小さく言って受け取ってくれる。目を押さえる彼に、自分が思ったことを伝えようとした。
「みっともないなんて、別にそんなことないと思いますけど。俺なんかに気を遣わなくてもいいし、誰だって、泣きたいときは泣けばいいんじゃないですか。……さっき言われたこと、あんまりよく分かんなかったけど」
こんなときでさえ、優しい声音を作ることができない俺は、本当に人を慰めるのが下手だ。
それでも生徒会長は――幼なじみの彼氏だった人は、淡く表情を和らげた。
「君は優しいね。男らしくもあるし……。未咲さんが……うん、分かるよ」
そんな状態の彼に更なる説明を求めるのも酷だと感じられ、俺はしばらく先輩の気が済むまでコーヒーをちびちび飲み進めることに徹した。
帰りの電車は先輩の方が先だったから、流れでホームまで見送りに行った。
一回り小さくなったように見える彼を、放っておくのもやや気が引けたからだ。
「誰かに言う? 俺がぼろぼろ泣いてたって」
「言うわけないでしょう」
乗車列の後方で、そんな後ろ向きな発言を食い気味に否定する。
彼が笑うが、もうその目尻から涙がこぼれることはなかった。
「そっか。……ありがとう。なんかすっきりしたよ」
「そうすか」
ありがとうと人に言われるのはまだ慣れず、照れ臭い。思わず視線を落とし、自分の靴先をいじいじと動かしている間に、電車ががやって来た。
じゃあ、また、と電車の内側ぎりぎりで九条悟が片手を上げる。
「今日みたいな方が、人間味があっていいと思いますよ」
相手がびっくりしたように目を丸くしたところで、電車のドアがちょうどよくぷしゅうと閉じた。
遠ざかっていく電車を眺めながら、未咲のことを考える。
――未咲が? 俺をなんだって?
あいつには俺からも、まだ言えていないことがある。間近に迫った文化祭で、二人きりになれる時がチャンスだ。きっと。
自らを奮い立たせるようにしながら、自分の路線のホームを目指して、階段を一段一段降りていく。
* * * *
―ルカの話
ルカたちが過ごすその場所は、トゥオネラと呼ばれていた。
トゥオネラとは、フィンランド神話に登場する、死者が眠る凍てついた国の名である。そこは暗く冷たい冥府で、流れる川には白鳥が泳いでいるという。
トゥオネラの名を冠した闇の底。死者の代わりに蠢くのは、"罪"の名を
モニタから顔を上げたディヴィーネが、美しい顔立ちをにこりとほほえませる。
「数値に問題はなし、だね。どう? 眠らなくてもいい体になった気分は」
「これで自分の時間を全てあなたのために費やすことができます。喜ばしいことです」
「そう。嬉しい?」
主が凪いだ目をして問う。
嬉しいとは、どんな感情だったろうか。ルカは考えてしまう。自分にとって、主のためになることと喜びや嬉しさはイコールで繋がれるものであって、その逆もまた真である。すなわちディヴィーネの益になるから嬉しい、と言うのは、嬉しいから嬉しい、と言うのと微塵も変わらず、それはトートロジーに等しい。
ルカ自身は、感情の波が薄れていっているのは良い兆候だと感じていた。ルカの体の三分の一ほどはもはや、無機物に置き換わっている。喜怒哀楽の薄れが、そのことによるものなのかどうか、当のルカには判断がつかなかったが。
今回も、睡眠を取らずともよい体になるために、幾度目とも知れぬ外科手術を受けた。体にメスを入れた回数など、とうに忘れている。
ややあって、主の問いに応える。
「……はい」
「ふふ。嘘はよくないね。今、君の感情はちっとも動いていないはずだよ」
「私は……」
「いいんだよ。ねえ、ルカ。君はどんどんヒトから遠ざかっていくね」
こちらへ歩み寄りながら、ルカの主たるその人は呟く。
ふいに、利き手の左手が、ディヴィーネの両手にそっと掴まれた。わずかに冷たく、さらりとした、その掌に。
「ねえ、ルカ。もし君が、完全にヒトじゃなくなったら……その時はぼくは……君を……」
主は、その完璧に整った麗貌を、苦しそうにも見える形に歪ませる。眉尻は垂れ下がり、目元に力が入り、目は細められて、泣き出す直前に似ていた。
しかし、薄く色づいた唇は、それ以上何事も紡ぐことなく閉ざされる。
「……ううん、何でもない。忘れて」
「はい」
ふるふると何かを振りきるように頭を振る主に対し、ルカは従順に頷いた。
服を着ていいよ、と告げたディヴィーネは身を翻らせ、居室の壁一面を埋めるスクリーンの前に立つ。スクリーンは数十にも分割され、トゥオネラのほとんどの部屋の様子が映っている。ちらちらと発光し動く映像を背にしたディヴィーネの顔は逆光で見にくいが、ルカの目に埋め込まれたデバイスが自動で光量を調節し、主の口元が動くのをルカに見せてくれる。
「君に頼みたいことがあるんだ」
「どうぞ、なんなりとご命令下さい」
衣服を纏い直したルカは、
ディヴィーネが手元を操作する。瞬間、スクリーンの表示が切り替わり、様々なアングル、様々なシチュエーションで撮られた一人の少年の映像が現れた。同一人物が何十人も平面上で動き始め、顔だけを上げてそれらを見るルカは、しゃがみこんだままで軽い
その少年。目付きが多少鋭い以外に取り立てて特徴のない、拗ねたような表情ばかりの、日本人の高校生。
どこにでもいそうな容姿の彼を、しかしルカは知っていた。
――茅ヶ崎龍介。
彼は、"
主がスクリーンの前で、しずしずと両手を広げ、厳かに告げる。神託のように。啓示のように。
「頼みたいのは、彼のこと」
「何をお望みですか、我が
「彼の全てを」
その声はいっそ密やかであるのに、ルカの耳にははっきりと届いた。
平伏して御意、と答えると、さあルカ、顔を上げて、とディヴィーネの軽やかな言葉が促す。ルカが面を上げると、主がこちらへ歩み寄ってくるところだった。そのまま眼前に達したディヴィーネは、ルカの手をふわりと取って立ち上がらせる。
目の前にある美しい顔には、誰の心をも
「土壌は整った」
なめらかな両手が、ルカの利き手を包む。
ディヴィーネは満面の笑みを浮かべる。
「さあ、ぼくらの
はい、とルカは深く首肯した。
ディヴィーネの居室を退去する間際、ルカは主に呼び止められた。
「ねえ、ルカ。さっきのぼくの話、続きを聞きたい?」
ディヴィーネは、ルカがもはや忘れ果ててしまった、複雑な感情をない
「先ほどの話とは、何のことでしょうか」
「……うん。それでいいよ」
淀みなく答えると、主は満足そうに頷いた。
ディヴィーネの居室の出入口をくぐりつつ、彼の視線を背中に感じながら、ルカは考える。自分は、試されているのだろうと。さながらルカを自身の右腕として使う彼は、それでいて冷ややかな、透徹した目をこちらに注ぎ続ける。主人の言い付けをちゃんと守れる番犬かどうか。美しい双眸はそう推し測っている。
ルカには彼の思考は読めないけれども、彼が求めているものは呼吸をするように分かるから、ディヴィーネが忘れろと言ったらそのとおりにする。それだけだ。悩んだり、理由を問うたり、そんな愚行は断じてしない。
ルカの行動原理はひとつだけ。ディヴィーネこそが、自分の
自らの居室へ向かい、黒い壁に筋状の青い光がいくつも走る廊下を進むと、前方から近づいてくる影があった。身長百九十cm近いルカと目の高さがほぼ同じ。そんな構成員は一人しかいない。女性にしてはかなりの長身のうえ、十cm以上のヒールを履いたポーラだ。
「ごきげんよう」という彼女の挨拶をルカは黙殺し、行き過ぎようとした。彼女とは同じ枢機卿――"罪"の研究者――かつ同じ異端審問官でもあるが、親しくする義理はない。実際ここに来て十年近く経つが、表面上の言葉しか交わしたことがなかった。
だのに、ポーラの方がルカの行く手に立ち塞がった。
「無視なんて非道くはありませんこと、ルカさま?」
眉尻を下げてほほえむ彼女は、廊下の壁に半身をつけて、小首を傾げる格好だ。抑えた照明の下で、狡猾な灰色の瞳と紅い唇とが濡れたように光っている。彼女はいつも通り枢機卿用の黒い上着を素肌に羽織っただけの服装で、毛先だけを朱色に染めたブロンドの髪が一房、半分ほども
「私に何か御用ですか」
迷惑そうな調子を隠さずに尋ねる。
「そんなに嫌そうな顔をなさるものじゃなくってよ。私たち、共に活動する仲間ですもの、挨拶くらい交わしたっていいじゃありませんこと?」
「私には仲間などありません。あるのは主人だけです。用がないのでしたら、あなたと交わす言葉もありません」
「うふふ。相変わらず冷たい人ですわね。でも、私だってあなたのこと、仲間だなんて思ってはいないですわ」
油断ならない微笑を浮かべながら、ポーラは平然と嘯く。自分の眉間の皺がどんどん深くなっているのが分かる。
ルカにとって、ディヴィーネ以外の人間など歯牙にもかけない存在だった。世界にはディヴィーネか、それ以外の人間しかいない。主以外にかける時間など、無駄以外の何物でもない。
「そうですか。私はこれで」
「お待ちになって」
ポーラの脇を通りすぎようとしたところ、不意に視界がぐるりと回転した。静止したタイミングで何かと見れば、ポーラがルカの体に密着し、壁際に押し付けているのだった。
甘ったるい香水と、化粧品の匂いが鼻を突く。真っ赤なマニキュアが施された手が、ルカの逃げ道を塞ぐように、顔の両脇に
こんなに近くで見ても、この女が何歳なのか予想がつかない。外見は二十代半ばから後半だが、ルカがここに来てからの十年弱で、ポーラの容姿は全くと言っていいほど変化していなかった。とはいえ、他人の年齢なんて知らなくても困らない。興味もない。
ポーラの腕を折り、細い首の内部を砕くまでに何秒かかるだろう、とちらと考える。相手が凡人ならばすぐさま行動に移しても良かったが、主にとっては彼女も大事な戦力の一人だろうことはルカも理解していた。加えてポーラには厄介な能力がある。ディヴィーネ以外の人間に触れられるのは不快の一言でしかなく、腹立たしいことこの上ないが、大人しくこの蛇に似た女が去るのを待つことにした。
「何がしたいのですか、あなたは」
「そんなに睨まないで。話をするくらいいいじゃない?」
ふふふ、と笑い声を漏らして、ポーラがさらに体を密着させてくる。柔らかいが弾力のあるふたつの脂肪の塊が、布を一枚しか介していないルカの胸の上でむに、と形を変形させた。内側から空気でぷっくりと膨らませたような双丘は、彼女の上着の袷を両側に引っ張る格好になり、見える肌の面積が一層広がる。薄い肌組織の下に、青い血管が通っているのまで伺えた。
あまりの不快感に、ルカは暴れだしそうになる両腕をぐっとこらえなければならなかった。
ポーラの片手の指がつ、とルカの頬を撫でる。背中がぞわっと粟立った。秘密を打ち明けるような囁きが、ルカの耳朶をくすぐった。
「ねえ、キスしてもいい?」
「……。それは、あの方のご命令ですか」
「ふふ、冗談ですわ。坊やには分からなかったかしら?」
「……」
どこまでも食えない女だ。そう思いつつ、眼前に迫るポーラの双眸を睨みつける。人を揶揄するような瞳の奥に、確かな敵意がちらついていた。眼差しで争うように、数秒間視線を交錯させる。端から見たら、火花が散って見えたかもしれない。
先に目を逸らしたのはポーラだった。もう興味を失ったように、ほほえんだままでするりと体を離す。嫌悪感が波が引いていくごとく遠くなって、やっとルカの思考から熱が引いた。
「坊やが取り乱すところを見たかったのだけれど。つまらないですわね」
「それは残念でしたね」
他人事のように言い返す。ポーラはふふっと笑みを深くして、後ろ手にひらひらと手を振る。
「それでは、ごきげんよう。ルカ様」
「……」
無言で女の後ろ姿を睨めつける。そういえば、こんな場所で人と出会すことは経験上稀だ。ポーラが向かう先には主の居室しかないからだ。彼はむやみに他人に構われるのを嫌う。ルカだって、ディヴィーネに呼び出されない限り部屋を訪れるのは控えている。
それが気になって、遠ざかりつつある背中に問いかけた。
「あの方に御用がおありなのですか」
「あら? 私と交わす言葉はないのではなくって?」
振り返ったポーラは明らかに面白がっていた。ルカが黙りこくっていると、相手は肩を竦めてから妖艶な笑みを浮かべる。どこか勝ち誇った表情にも見えた。
「ディヴィーネ様にお願いしたいことがありますの。今日はそれのお許しを得に、と思いまして」
「お願い……あなたからの、ですか」
「そうよ」
「……良いご身分ですね」
皮肉を刺したつもりだったのに、何がつぼに入ったのか、ポーラはくつくつと忍び笑いを漏らす。
「うふふ……だって、あなたたちより私たちの方がずっと長くここにいるんですのよ。坊や、意外と面白いことを言うのね。――ここは、トゥオネラは、私たちの庭みたいなものなの。……いいえ、庭というより、私たちにとってはここがすべて。トゥオネラが世界のすべてなのですわ」
「……」
ポーラがすいと目を細める。凡人なら震え上がるほどの、凍てついた絶対零度の視線。血の色に染まった指先が、弧を描いた同じ色の唇に触れる。小首を傾げた女が、言葉を続ける。
「ね、ルカ様。あなたたちは外の世界から来たでしょう。でも、私たちにはここ以外に、行ける場所なんてありませんのよ」
――だから私たちは、坊やのことが嫌いなの。
それは、ぞっとするほどの色気を孕んだ囁きだった。
さしものルカも、彼女の害心に飲まれそうになる。じわじわと毒に侵されていくような気がした。その場に釘付けになったように、脚が動かない。
「それをゆめゆめお忘れなきよう。それでは」
ルカを尻目に、ポーラは慇懃に礼をしてみせた。不敵な笑みをこちらの網膜に残し、女は主の元へと足を向ける。
ルカはそれからもしばらくその場に佇んでいた。ハイヒールのたてるカツン、カツンという高い反響音が次第に遠くなっていく。しばしの間でも我が主があの女と二人きりだと思うと、胸のあたりがざわざわして落ち着かない。主の前では感情の起伏が薄くなってきたと自覚していたのに、このどろどろとした、反吐が出そうなほどに黒々しい感情は何なのだろう。
「私だって、ここ以外に居場所などありません」
呟く独り言は、トゥオネラの冷たい空間に霧散していって、跡形もなく消える。
(続く)
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