僕らとどこかのこと 炎(かぎろ)うふたつの牙(1/6)

 以下の会話の録音は、セルジュ・アントネスクとドミトリー・ウリヤノフのものである。


「やあミーチャ。仕事の首尾はどうだい」

「目覚ましい成果を得ているわけではありませんが、瑕疵かしもありません」

「そうか、よし……。その後あの件はどうなっているかな、"英雄"の件は? 向こうさんはどの程度把握しているんだろう」

「まだ部下が探っている段階ですが、上層部まで情報が伝わっている前提で、引き続き行動した方がよいでしょう」

「そうだな。密告者の存在はないと考えていいな?」

「ええ、報告書にあったように、影の元隊員への場当たり的な接触から判明したものかと」

「うむ、それでは今後も頼むぞ。じいさんからもよろしくと言われている」

「分かっていますよ。ただ苦言を言わせてもらいますが、僕自身が知らない対象を部下に探らせるというのは、なかなか厳しいものがありますよ」

「そう言うな。機密事項だからな」

「こういう綱渡りのような仕事は骨が折れます。またヴェルナー君が余計なことをしなければいいのですが。以前も我々の仕事を台無しにしてくれたことがありましたから」

「ははは、同年代の友人が恋しいか?」

「……ご冗談を。手綱はちゃんと持っておいてもらわないと困ります。いい機会だから言わせて頂きますけど、あなたがなぜ彼を信頼しているのか、理解に苦しみますね。彼を自由にさせておくなんて、組織の和を乱すだけです。僕ならばすみやかに取り除きます。ハンス君だって、兄弟子あにでしというだけで何もあんな男の下についていることもないでしょうに。僕のところに来てくれたら、もっと能力を活かすことができる」

「ミーチャ、お前の言うことも分からんではないがな。組織ってのは、一枚岩なら良いってわけじゃないんだ。色んな考えの奴がいることが、不測の事態への対応に繋がっている。ま、ここは執行部と諜報部の考え方の違いかな。ハンス君のことだって、我々としても意図があってああしている。考えなしじゃあない」

「……あなたが個人的にヴェルナー君を気に入っているから、という理由もあるんじゃないですか」

「はは、まあ、それも確かにある。ああいう利かん坊が手柄を立てると、暴れ犬が難しい芸当を覚えたみたいで嬉しくなるからな」

「……犬に例えられることに関しては、彼に少し同情しますよ」

「どうして? 俺は犬は好きだぞ?」

「はあ……」

「おっと、そろそろタイムリミットだ。これからじいさんのところにご機嫌伺いに行かにゃならん。また連絡するよ」

「ええ。奥さんともいい時間が過ごせますよう」

「ああ、ありがとう。それじゃ、また」

「それでは」


 以上の録音はオフラインでなされ、録音終了から六時間後、二人の会話は設定通り端末から完全に削除された。


* * * * *

――九条悟くじょうさとるの話


 いつもは自分が寝起きしているベッドの上に、今は衣服を乱れさせた未咲さんが、仰向けに寝転んでいる。両の目はもう潤んでいて、頬は紅潮し、表情が緊張でひどく強張っているのが、電気を消した部屋の中でも分かってしまう。

 そんな彼女を愛おしいと思いながら――短いスカートの中に手を差し入れる。スカートというのは大事なところを隠すには防御力が不足しすぎているように思え、そのあっけなさにいつもどきりとしてしまう。布から漏れ出る未咲さんの太腿の肌はすべすべしていて、はっとするほど白い。未咲さんは身動ぎをするが、嫌がるそぶりは見せない。スパッツと可愛いデザインの下着をするすると取り払ってしまえば、もう彼女と俺のあいだに遮るものは何もない。

 何度も何度も何度も思い描いた手順通りに、未咲さんの体を開いていく。その中心には熱くれた部分があって、未咲さんの一番柔らかいところが、俺の固くなったところを深く飲み込んでいく。その快楽と、その陶酔に、脳がスパークしそうになる。

 未咲さんは、痛がるだろうか。きっとそうだろう。おそらく初めてだろうから。

 未咲さんは、泣くだろうか。そうなるかもしれない。でもたぶん、俺はやめない。

 ――俺はどうしようもない人間だから。

 未咲さんの熱にしばらく浸っていると、やがて絶頂の気配が迫り、頭の中が真っ白に弾けて呻き声が漏れた。自分の手で白濁を受け止める。


 そう、何のことはない、俺は一人で自分を慰めていただけだ。


 うまくいかなかった相手を想いながら自慰に耽るなんて、とんでもなく下衆いことをしていると自覚はしている。心底好きだったのだ、なんて言い訳にもならないだろう。他人に知られたら屑だとそしられて当然だ。学校では意識して優等生の皮を被っているけれど、生身の俺はこんなろくでなしなのだ。憧れのような、きらきらした視線は自分には全然相応しくない。むしろ、そんなに駄目な男だったのねと、呆れられたい。痛烈な言葉を浴びせかけてほしい。

 本当は違うんだ、と教室の真ん中で叫びたい。でも、これまで積み上げてきた自己像が、それを許さない。自分で作り出したイメージに苦しむなんて、滑稽もいいところだ。

 達した直後特有の虚脱に身を沈ませながら、惨めな気分で後始末に取りかかる。



 未咲さんへの想いを吹っ切るように、俺は生徒会長として、文化祭実行委員長として、泡のごとく膨れ上がる諸々の仕事に忙殺されていた。必要な資材の手配から、当日の段取りの打ち合わせ、個々のクラスの準備状況の確認、周辺地域への文化祭ポスターの掲示のお願いまで、よくこんなに仕事が湧いてくるなと呆然とするほどの量を、委員のみんなの力を借りてひとつひとつこなしていく。女子には会長すごいですね、と熱い視線と共に言われるけれど、この立場になった以上やるしかない。それは誰が会長でも同じだと思う。

 打ち合わせで大半が潰れた昼休みの終盤、自販機の列に並んでいると、出し抜けに冷気が頬を襲った。びくりと肩を震わすと、聞き慣れた笑い声がすぐ後ろから響く。振り向くと、コーラの缶を差し出した仁志田にしだが、爬虫類に似た目を細めて佇んでいた。我がバスケ部の主将は相変わらず、親の仇のように髪の毛を逆立たせている。


「これやるよ。みんなのために頑張ってる生徒会長さまに差し入れだ」

「……ありがとう」

「百二十円のところ、まけて百三十円でいいぜ」

「まけてないだろそれ。金取るのかよ」

「冗談だよ冗談」

「はあ……」


 苦笑しつつ、素行のよくない友人から、汗をかいた缶を受け取る。

 優等生じゃない自分を知る唯一の相手が、俺の顔を覗きこんで首を傾げた。


「なんか元気なくね?」

「そう見えるか」

「いつもならもっとスパッと突っ込んでくるだろ」

「……あのさ、今ちょっと話せるか?」


 脈絡なくそう切り出したのに、仁志田は間髪入れずにおう、とからっとした声で答えた。



 教室から続くベランダに出る。少し肌寒い秋風も、ぷしゅうというコーラの開封音も、喉を流れ落ちていく炭酸の感触も、みんな心地よかった。

 他に誰もいないベランダの足元には枯れ葉が散らばり、秋の深まりを感じる。仁志田と二人、教室の窓枠に寄りかかった。ベランダは同じ階を繋いでいるから、違うクラスの仁志田とも昼休みぎりぎりまで話せて都合がいい。


「コーラって久しぶりに飲んだけど、美味いな」

「だろ? 俺のチョイスはいつでも正解なんだよ」


 仁志田は調子のいいことを言って笑っている。さてどう口火を切ったものか、と思案していると、


「で、話って何よ。別れた相手のこと?」


 向こうがいきなり核心を突くものだから、返答に詰まった。

 未咲さんと俺が上手くいっていなかったことは直接は伝えていないが、仁志田くらいいつも側にいれば嫌でも気づくだろう。しかし話がしたいと言っただけでそれを察してくるとは。当の仁志田は俺の反応などどこ吹く風で、どこか遠いところを見ながらサイダーをぐびりと一口呷る。


「ま、俺は最初から思ってたけどな。あの子とお前じゃ釣り合わないって」


 彼の口から放たれた言葉が、俺の胃の底をかっと熱くさせた。逆に、頭はすうっと冷めていくのを感じた。仁志田は未咲さんと一度会ったことがあるとはいえ、顔を合わせたあのショッピングモールの数分間で何が分かるというのか。

 ジン、と傍らの友を呼ぶ声は、自分でも驚くほど低かった。


「未咲さんの――篠村しのむらさんを悪く言うなら、お前でも許さない」


 冷たくいい放つと、仁志田がこちらを向いた。きょとん、という描写がぴったりな顔をして。そして一瞬ののちに腰を折り曲げて笑い出す。


「……なんだよ」

「ばあか、ちっげーよ、逆だよ。お前じゃあの子に釣り合わないってんだよ、自惚うぬぼれんな」


 含み笑いを漏らしながら、仁志田は俺の上腕あたりを拳でどしっと叩いてきた。彼の言い分に拍子抜けして、肩から力が抜ける。


「なんだ、そっちか。それなら分かるよ。俺に未咲さんみたいな良い子は勿体ない」

「そうだなあ、お前みたいな奴には勿体ないなあ。どうせお前のことだから、別れた女の子で抜いたりしてんだろ」


 何気なく紡ぎ出された仁志田の言葉に、二言を失う。

 昨晩の苦々しい虚無感が胸に甦る。そうだ、俺は下着すら見たことのない相手の妄想が止められないような、そんなろくでもない男なのだ。

 図星を突かれ、絶句した俺を見て、仁志田が今度は体を仰け反らせて笑い声を上げた。


「え、マジなの? やべーな。クッソ変態じゃん、お前。ま、分かってたけど」


 彼の笑い方があまりに愉快そうなので、自分としてもさほど嫌な気分はしなかった。俺が変態なのは否定できない事実であるし。

 俺にこういう話題を振ってくるのは仁志田だけだ。自分の趣味嗜好がアブノーマル寄りだと自覚していなかった時代に、「お前それは変態だよ」と暴かれてから、彼の中で九条悟は変態で通っている。仁志田に言わせれば、俺は惨めな気持ちになるのを好むミゼラブルラバーらしい。言い得て妙だと思う。

 爬虫類めいた細い目元から、流し目がこちらを捉える。


「女子が知ったらどんだけ萎えるだろうな。文武両道、才色兼備の生徒会長さまがそんな男だったなんてさ」

「自分が一番よく分かってる。なあジン、俺さ……ずっとこのまま一人なのかなあ」


 気持ちよく晴れた秋空を見上げ、心の内を吐露する。それは偽らざる自分の本心だった。霞みたいな薄い秋の雲のように、声は弱々しく響いた。


「それが話したかったこと?」


 問うてくる仁志田に、頷きで答える。

 俺は、本音も弱音も、こいつの前でしか曝け出すことができない。自分の汚い部分を直視してもなお、友人として付き合ってくれる相手は仁志田しかいない。

 仁志田はへらへら笑いながら、ばあか、とちゃんと言ってほしかった言葉で叱咤してくれる。


「今からそんな深刻に考えてどうすんだよ。まだ俺たち、高校生だぞ? もっとライトに考えようぜ。遊びでいいじゃん、遊びで。相手がそれで良けりゃあな」

「……まあ、分からないでもないよ」


 仁志田がサイダーの缶を持ったまま、うーんと天に向かって伸びをする。


「頭ん中がエロいことでいっぱいなのに変なところで真面目だからなー、お前は」

「そういう言い方されるとけっこう傷つくんだけど」

「事実だろ。お前のその爽やかさとかさあ、もはや短所だよな、逆に。むしろエロさ全開で売り出してった方が上手くいくんじゃん?」

「できねえよ」


 好き勝手言い募る仁志田に苦笑しつつ、今度は俺の方から拳をお見舞いするふりをする。

 仁志田は暴力生徒会長はんたーい、などと軽口を叩いて身をよじった。


「とにかく、一回ぱーっと遊んでみることだな。深く考えずに、自分のやりたいようにしてさ。合コンやろうぜ、人数集めてやるからお前も来いよ」

「無理だよ、それは。……とりあえず、会長であるあいだは」


 強引な提案に笑うしかない。でも、そんな仁志田に救われているのも事実だ。ウザがられるに決まっているから、口には出さない。

 仁志田の案に乗ってみるのも一興かとも感じたが、今は生徒会長という立場が許さない。生徒会長は言わば学校の代表だから、変な噂を立てられれば校名を傷つけることにもなりかねない。文化祭を終えると生徒会選挙が始まり、次の会長へとバトンを渡せば晴れて任期満了となる。

 じゃあさ、と言いながら仁志田が肩に手を回してくる。


「それが終わったら女の子と遊ぼうぜ。俺が責任を持って後腐れのない子を紹介してやるから」

「……頼むよ」

「ようし、もっとお前の変態ぶり、前面に出してこうぜ」

「はは……まあ、それはちょっと自重するよ……」


 話があらかたまとまったところで、計ったようなタイミングで外から九条くーん!、と甲高い呼び声が飛び込んできた。

 下方を見ると、同学年の女子が三人、校舎の前庭付近から二階のこちらを見上げて手を振っている。手を振り返すと、きゃーという悲鳴めいた黄色い声が上がり、彼女らが見ている九条悟という像がここには存在しないことが申し訳なくなる。肩を回したままの仁志田がふんと鼻を鳴らした。


「女子うっせえぞー」

「うっさい仁志田!」

「九条くんを独り占めするな!」

「離れろ! 今すぐ!」


 先ほどは甲高い声を出していた彼女らが、口々に迫力のある声音と口調で仁志田に命令する。そんな光景が俺は羨ましくなる。どうして俺は仁志田じゃないのだろうと思ってしまう。

 彼はなかなかの天邪鬼なので、文句を言われたのとは逆にもっと俺の肩を抱き寄せた。恋人にするそれと同じように。

 女子たちから一斉に悲鳴が上がる。


「おうおう、羨ましかろう」

「やめろー! 九条くんを汚すなー!」

「仁志田ー! 覚えてろよ!」

「ははは……」


 苦笑しているあいだに、彼女らはベランダの下側へと吸い込まれるように消えていった。

 そこでチャイムが鳴り始める。じゃ、行くわと腕を解いた仁志田を、なあジン、と呼び止める。


「お前がいて良かったよ」


 去りしなの大きい背に言うと、振り返った彼は盛大に顔をしかめていた。


「は? んだそれ。気持ち悪い通り越して怖ぇわ」

「ごめん、でも本当に感謝してるから」

「はあ……重いんだよなあ、お前は。俺以外にも本音言える相手早く見つけろよ」


 言葉は拒絶みたいだったが、口調は冗談めかしているのが俺には分かる。


「ああ。頑張るよ」

「頑張る頑張るって、お前は頑張りすぎなんだよ。頑張るのやめて建前捨てて、それを受け入れてくれる人を探せっつってんだよ、ばあか」


 優しい捨て台詞を残し、仁志田は去っていく。



 放課後、文化祭実行委員の仕事を終えると、時刻は十八時半近くになっていた。駅へ歩いているとさすがに空腹を感じ、手近なコンビニに寄ると、菓子パンコーナーに見知った横顔を見つける。

 鋭い目付きで棚を見回しパンを見定めている男子生徒。茅ヶ崎龍介だ。

 茅ヶ崎くん、と呼びかけると、男子にしてはかなり薄い肩がぴくりと震える。こちらを振り向くと、むっつりした顔の中で目が見開かれる。彼はぺこりと軽く会釈した。


「あ……どうも」

「今帰り?」

「まあ……そんなとこです」


 仁志田と未咲さんのことを話した日に、偶然未咲さんの幼なじみの茅ヶ崎くんに会うなんて。

 乗りかかった舟だ。目を少し細めて、少し窺うように切り出した。


「あのさ。ちょっとこれから、時間あるかな?」

「え……はい」


 目に戸惑いを浮かべつつも、茅ヶ崎くんは頷いてくれた。


* * * * *

――茅ヶ崎龍介の話


 桐原先生の代わりに来た担任がクラスに馴染み始めた頃、俺は初めて先生の見舞いに病院を訪れた。

 入院病棟はうっすらと消毒液の匂いが漂い、また独特の時間が止まったような空気に満ちている。祖父母の見舞いに別の病院へ行ったことはあるが、正直この雰囲気はあまり得意ではなかった。

 当初、桐原先生が入院することになった旨と入院期間だけが生徒に知らされ、どこの病院に入院したのかは通達がなかった。ヴェルナーから病院名を告げられたのは昨日のことで、先生からではなく彼からの連絡であることが、ただの怪我ではないことを窺わせた。影と"ペッカートゥム"という二つの名前が頭をかすめる。

 病室の扉をノックすると、どうぞ、と懐かしさを覚える声が返ってくる。

 桐原先生はベッドの上で本を読んでいたようで、テーブルに本を置いてこちらを見上げた彼と、ちょうど視線がかち合った。先生はトレードマークとも言える黒縁眼鏡をかけておらず、きりりとした眉とやや切れ長の目が丸々見えるようになっていた。眼鏡があろうがなかろうが男前は男前だ。非常に羨ましい。

 先生は少し眉根を寄せ、久しぶりだな、と発声した。


「体、大丈夫ですか」

「もう大したことはない。わざわざ見舞いになど来なくとも良かったのに」

「いやあ、ヴェルさんが行ってくれってしつこかったんで……」

「まったく、あいつは……今度会ったら言ってやらねば」


 顔をしかめる先生の様子は、入院前と変わりない。いつもの彼が健在であることに、俺は内心ほっとしていた。やつれた先生の姿は見たくなかったからだ。

 学校についてのとりとめもない会話を交わす。


「文化祭の準備は順調かね」

「ああ、はい。でも先生が来られなくて残念です」

「そうだな、君のコンテストの姿も見てみたかった」

「いや、それは見なくていいです……」


 相手が冗談めかして言うのへ、がくりと肩を落として答える。自業自得といえばそうだが、俺は嵌められて出場するようなものだ。当日のことを考えると壮絶に気が重い。ランウェイ(と言っていいのかどうか)を一緒に歩く相手が、お盆の一件以来関係がぎくしゃくしたままの未咲であることも、憂鬱な気持ちを加速させた。


「それよりも、クラスのみんなが残念がってますよ、先生が来られないからって」

「それは……そんなことはないだろう」


 目の前の端正な顔に、若干の戸惑いが生まれる。俺は小首を傾げた。


「もしかして知らないですか? 先生がけっこう生徒に人気あるの」

「なに……?」


 面食らった丸い目で見返され、自分の方がびっくりする。どうも、受け持ちの生徒たちにどう思われているか、先生は知らないようだ。

 俺は手持ち袋から、真四角の硬い紙を取り出す。今日病院に来たのは、これを先生に渡すためでもあるのだ。


「これ見てみて下さい。クラスのみんなの寄せ書き」

「寄せ書きだと? 皆書くこともないだろうに……」


 困惑しながらも、骨張った大きい手がそれを受け取る。

 この色紙は、先生の入院早々に輝が呼びかけて皆で書いたものだが、入院場所が分からなくて今まで行き先無沙汰になっていた色紙だ。

 思い思いの場所に、色とりどりのペンでメッセージが書き込まれており、俺も全部読んだわけではないが、「早くケガが治ることを祈っています。お大事にして下さいね。」というごく真摯なものから、「桐原先生の授業じゃないと分かりにくくて困ってます!! 早く帰ってきて下さい!!」というユーモア混じりのものまで内容は様々だ。クラスメイトは特段悩むこともなくすらすらと書き込んでいた――未咲以外は。

 当の桐原先生は、それをやや硬直した顔つきで読んでいる。

 しばらくしてふと目線を上げると、ふっと表情を和らげた。


「まさかこんなものを受け取ることになるとは思いもしなかった。みんな私がいなくなってせいせいしているかと思っていたからな」

「いや、そんなことないです。先生の授業は分かりやすいってみんな言ってるし」


 桐原先生が病室の窓の方へ視線をやり、どこか遠い目をする。釣られて外に目をやると、まだ色づくには早い、しかし水分を失い始めている葉を繁らせたイチョウの木があった。先生と出会って、もう半年になる。

 先生の次の一言は、独り言のようだった。


「……私は、結局……いや、こういうのも悪くないかもしれないな。私も、焼きが回ったということかな」

「……?」

「前の学校にいたときまでは確かに嫌われ役に徹していたと思うんだが――君や水城先生に会って、私は変わったのかもしれない」


 桐原先生が不意にこちらを見た。

 内省的なその言葉。

 今の文脈で自分が出てきたことには嬉しい気持ちが湧いてきたが、もう一人の名前の方が気にかかった。水城先生といえば、俺がしばしば授業をサボるのに、妙ににこにこしながら話しかけてくる人だ。また、直接的な表現をしてしまうと、少なくない数の男子生徒を、その胸のラインで日々悶々とさせている先生でもある。彼女については生徒のあいだで囁かれている話があるが――。


「水城先生といえば、桐原先生と水城先生が付き合ってるって噂はほんとなんですか」


 我ながらもっと気の利いた言い方はできないものかと思いながらストレートに尋ねる。と、いつもクールな桐原先生の頬にうっすらと朱が差した。瞳が揺れ、視線が逸らされ、おや、と思う。


「いや、それは……どこで噂を聞いたんだ」

「うーん、学校中で、ですかね」

「なんだそれは……あいつか? ヴェルの仕業なのか? くそ、やはりあいつは後でこってり搾ってやらねばならん」


 ぶつぶつと呟く先生がいつもとうって変わって可笑しくて、密かに笑いを堪える。


「つき……交際しているのかと訊いたな。それは……まだ、そういう段階にはない。それ以上噂を広めんでくれ」

「まだ……?」

「ああ、まだというのは、その、だな……」


 狼狽する先生に追い打ちをかけるような返しをしてしまったことを反省しつつも、俺は彼の反応に目を離せないでいた。普段は落ち着いた大人の男性といった雰囲気なのに、今目の前にいる彼は自分とそう年齢の変わらない、まだ物事に動じやすい年頃の青年に見えたからだ。

 もはやあからさまに頬を染めた先生が、ぱたぱたと手で顔を扇いでいる。


「すまん、こういう話題はあまり得意でなくてな……。深く突っ込まないでくれると助かるんだが」

「ああ、はい。俺もそんな、得意な方じゃないのにすみません」

「いや、不甲斐ないところを見せてしまって申し訳ない」

「そんなことないです。桐原先生って」


 けっこう可愛いですね、ととち狂ったことを口走りそうになり、口をつぐむ。自分の二倍近く長く生きている立派な男性に向かってそれはないだろう。

 空気を切り替えるように、先生が真剣な目をする。


「彼女は――水城先生は気に病んだりしていないか? 私との噂が立ったりして……」

「いやあ、水城先生が桐原先生を好きだってことは、ずっと前からみんな知ってますし」

「何だと?」

「だいぶ分かりやすかったと思うんですけど……」

「そうなのか?」


 水城先生から桐原先生好き好きオーラが放たれていたことは、おそらくあまね高校の一年なら前から誰でも知っている。俺でも分かるくらいだから本当に誰でもだ。みんな分かっていて知らないふりをしているのだ。公然の秘密というやつだ。

 桐原先生は今までに見たこともない驚愕の表情を浮かべ、絶句してしまった。


(続く)

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