彼らのこと スプレーマムの告白(3/3)

(承前)


 はち切れそうになった感情をこらえて病室を後にすると、廊下の角の先からヴェルナーさんとシャーロットさんが英語で話しているのが聞こえてきた。二人とも抑制的な声音だ。


「いつも君に頼ってばかりでごめんね」

「依頼を受けてから謝られるのは好きじゃないわ。大体、可愛い女の子が相手だって言われたら断れないでしょ。急いで他の仕事を片付けてきたわよ」

「そこは相変わらずだね。……君も俺に頼ってくれていいのに。もっと甘えてくれていいんだよ。俺は君のものなんだから」

「……そういうのは、もっと頼り甲斐を身に付けてから言うものじゃない?」

「はは。なかなか手厳しいね」


 なんだかただごとではない気配を感じ、思わず足が止まる。会話の内容だけ聞くと、シャーロットさんがヴェルナーさんの好意を突っぱねている構図だ。なのに、抱えた痛みを我慢しているような苦しい響きが、お互いの声色に感じられるのは気のせいだろうか。


「ロッティちゃん。俺の気持ちはずっと変わってないよ」

「そう言われても、私にはどうすることもできないのよ。分かるでしょう」

「うん。それでも、言いたいんだ。君を本当に好きな人間が、一人はいるって分かっててほしいから」

「あ、あのう……」


 充満するオトナな空気にいたたまれなくなって、角からそっと頭を覗かせる。二人は驚くでもなく、ふいとこちらを振り向いた。今しがたの非礼を正直に口にする。


「すみません、ちょっと会話が聞こえちゃって……」

「いいのよ。聞かれて困ることは話してないから」

「うん。気にしないで」


 二人とも、人が変わったように柔和にほほえむのが、逆に私の胸をざわつかせた。

 シャーロットさんの荷物が積まれたままの、彼女が病院まで乗ってきた車の助手席に乗り込む。ヴェルナーさんはここまで私を送った車で、桐原先生の家へ向かうと言っていた。彼が桐原先生の家に間借りして生活していると聞いたときは心底羨ま――驚いてしまった。

 どんな人が来るのかけっこう不安だったけれど、言葉を交わしてみるとシャーロットさんは優しくて話しやすい人だった。日本語も殆ど訛りがなくてとても綺麗だ。

 ヴェルナーさんの仲間と共に生活することになるという話をされていたから、自分の家の片付けは済ませていた。シャーロットさんを着いた部屋に案内し、とりあえず座ってもらう。


「ええと、何かお飲み物でも飲まれますか」

「お気遣いなく。私は客ではないし、むしろあなたが依頼主なのよ。私に命令するくらいのつもりでいて大丈夫。これからできればいつもあなたの傍にいたいのだけど、問題はない?」

「はい。部屋はちょっと狭いかもしれないですけど」

「私はどこでも寝られるように訓練を受けているから平気よ。たとえ床でもね」

「いえいえ、そんな……」


 冗談っぽくウインクするシャーロットさんに、思わず笑みが漏れる。たぶん、彼女は緊張気味の私をリラックスさせようとしてくれているのだろう。飛行機に乗ってきて疲れているはずなのに、すごい人だ。

 私はちょっと喉が渇いたので、もし良ければ一緒にお茶でも飲みませんか、と誘うと、シャーロットさんは快諾してくれた。

 煎茶とトレイに載せて出した煎餅で人心地つきながら、映画の中から抜け出てきたような美人と世間話をする。ふと現状を顧みると、すごいシチュエーションだ。


「これ、苦いし渋いわね。砂糖は入れないの?」

「うーん、こういうものなんです」

「そう。これが日本文化なのね。日本の文化には詳しくないけれど、日本のファッションは好きだわ。妖精みたいに可愛くて」

「じゃあ、もし良ければ今度ショッピングモールとか行ってみませんか? シャーロットさん美人だしスタイル良いし、絶対似合いますよ」


 その話題に食いつくと、逆にシャーロットさんは身を引いた体勢になり、終始涼やかだった頬にほんのり朱が差した。クールな大人の女性から、可憐な少女の表情になる。あれ、すごく可愛い。


「……似合う、かしら。でもやっぱり、見るのが好きなものと、着るのとでは違いがあるし――」

「そんなことないですよ! 私が保証します! ヴェルナーさんも気に入るんじゃないですかね」

「ヴェルナー?」


 シャーロットさんは虚を突かれたように、目をぱちくりさせる。透き通った青がまたたく。


「まあ……あの人は日本の文化が好きらしいけど――どうしてここで彼の名前が出てくるのかしら」

「えっ、と……お二人はその、恋人同士とかではない?」


 問いかけは探るような響きを孕んだ。

 病院での、あの深みのある会話。何もない関係では、あの空気は生まれないと思ったのだ。

 口の端には笑みを残したまま、シャーロットさんの目つきがふと、遠くを見るものに変わる。


「恋人、ね。違うわ。私たちはね、そういうのじゃないの」


 どこか悟ったような、諦念の滲む言い方だった。

 長い睫毛が伏せられ、目元に影が落ちる。憂いを含んだその表情に、とくりと胸が高鳴った。同性なのに、彼女の謎めいたつやっぽさに目を奪われる。


「そう、なんですか」

「ええ。そうよ」


 再度おもてを上げたシャーロットさんはにこりと笑んだけれど、そこにはこれ以上の詮索は寄せ付けない、という厚い壁を感じた。何か事情があるのだろう。私はどうこう言える立場にはない。だから、ぐっと拳を握って思ったことを伝えた。


「私はお二人はお似合いだと思います。美男美女で、になる二人っていうか!」

「ふふっ。……あなた、いい子ね」


 シャーロットさんは、今回は素の笑顔を見せてくれた。

 お似合いと言えば、と逆にシャーロットさんの方から話題が振られる。


「あなたとミスター桐原はご夫婦なの?」

「ご、ごふっ……!」


 斜め上からの唐突な晴天の霹靂へきれき

 お茶を口に含んでいた私はごふごふと盛大に噎せた。


「あらごめんなさい、違ったかしら」

「あの、いや、夫婦ではなくて……ええと、私は好きだし気持ちも伝えて受け入れてもらえたんですけど……付き合ってるかと言われたらそうではないような……」


 関係を説明するうち、語尾がごにょごにょと小さくなってしまう。そうだ。どうして今日、付き合って下さいとか恋人になって下さいとかまで言わなかったんだ。私は内心で頭を抱える。

 そんな煩悶を見透かしたみたいに、シャーロットさんは包み込むような笑みをつくる。


「仲睦まじい様子だったから、そう思ったの。あなたたちこそお似合いだと思うわ。頑張ってね」

「お似合い、ですか……。ありがとうございます」

「ええ。ちょっと年が離れている気がするけど」

「え? 離れてますかね? 三歳差ですけど――」


 今度は私が目をぱちくりする番だった。シャーロットさんはきょとんとしている。


「三歳差……失礼だけど、あなたおいくつ?」

「今年で二十七です」


 答えると、シャーロットさんがOH MY GODと呟きながら手で顔を覆ったので、だいぶびっくりしてしまう。


「ど、どうかしました?」

「私は二十六よ……信じられない、年上だったのね……」

「えっ……。なんだか、すみません……」

「謝ることじゃないわ……。でも二十歳はたちそこそこだと思ったから、びっくりして……」

「そんなに幼く見えます……?」


 天を仰いだままのシャーロットさんを前にあせあせしていると、やがて覆った指の下から愉快げな表情が現れた。


「……ふふ。なんだかあなたといると、楽しいわ。こんなに色々な感情を味わったのは久しぶり。こう言ったら緊張感がないけれど、あなたと過ごすのが楽しみになってきたわ」

「そうですか? 私もなんだか、シャーロットさんとは気が合いそうな予感がします」

「よろしくね、レイ」

「よろしくお願いします、シャーロットさん」


 私たちは改めて握手を交わした。シャーロットさんの指はすらりと長くて綺麗で、少しひんやりとした感触にちょっとどきどきした。


* * * *

―桐原錦の話


 ヴェルナーと水城先生の来訪の翌日、ハンス君が病室を訪れた。リハビリと食事を摂る以外に何もすることがなく、時間を持て余していため、私の家から本を探して取ってきてもらったのだ。

 大学生のような格好の金髪の青年は相変わらず、人は好さそうではあるが本心の読めないほほえみを湛えている。


「使い走りのようなことをさせてすまんな」

「これくらいお安い御用ですよ」

「茅ヶ崎の様子はどうだ」

「特に異状はなし、ですね」


 数冊の本を受け取りながら会話をする。気がかりなのは学校と、茅ヶ崎のことだ。文化祭前なのに担任がこんなことになって、受け持ちの生徒は皆鼻白んでいるかもしれない。それか毛ほども気に留められていないか、そのどちらかだ。

 ぱらぱらと本をあらためていると、手元に注がれる突き刺さるほどの視線が嫌でも気になった。

 ベッドの傍らに立ったままのハンス君を振り仰ぐ。案の定、彼は目を細めて冷たく私を見下ろしていた。


「……何か、言いたいことがあるんじゃないのかね」

「"英雄"のことです」


 私が切り出すのを待っていたのだろう、淀みない返答は簡潔だった。


「……言ってみなさい」

「あなたはあんなことがなければ、最後まで僕に正体を教えるつもりはなかった……そうですよね?」

「……。そうだ」

「"英雄"は、尊敬を集めるのは好まないと?」

「大切な人一人守れない人間が、英雄であるはずがない」


 ひとつ息を吐く。めくっていたページを閉じ、サイドテーブルに本を重ねる。

 ハンス君も知ったのだろう。己が尊敬していると豪語していた人物の正体が、目の前にいる男だと。

 私自身は、自分が英雄だなどと、一度も思ったことはない。大切な人と引き換えに集めた称賛など、塵芥ちりあくたひとつの価値さえないだろうから。さらに言えば、英雄という呼び方には皮肉の意味合いしか感じられなかった。ハンス君と初めて顔を合わせた夜、英雄を尊敬している、との話を聞き、胸中に生まれたのはただただ苦々しい思いのみだった。

 しかしながら、今は若干の心境の変化がある。

 英雄であるはずがない、という台詞を吐きつつも、心はあまり波立ってはいない。少し前までは、英雄とルネの話題がちらつく度に、激情がほとばしってしまっていたのに。現在はそれどころか、凪いだように落ち着いた気持ちの状態なのだ。

 彼女に、きちんとお別れできたからだろうか。背にラベルの付いた本を書架から取り出してくるように、ルネのことを、自分とは切り離したものとして考えられていることに自分で驚く。それが忘却でないことを信じたい。

 今ここに至り、ひしひしと感じるのは水城先生への恩の感情だ。彼女が心を砕いてくれなければ、自分の心をこの状態まで持ってこられることはなかっただろう。そして、ほんの零コンマ何パーセントかだが、ヴェルナーの力添えも無視はできない。本当に、ほんの零コンマ何パーセントにせよ。

 正体を知って幻滅したかね、と問うと、自分でもよく分かりません、との答えが返る。

 ヴェルナーさんも人が悪いんですよ、とカーゴパンツのポケットに手を突っ込んだハンス君が続けた。唇は弓形ゆみなりになっているが、双眸はまったく笑っていない。


「全部知っていたくせに、桐原さんに接触するのが決まった段階になってからですよ、あの人が英雄の名前を持ち出してきたのは。その時なんて言ったと思います? "英雄のことは錦が知っているから、会ったら訊いてみろ"ですよ。それまで何年も、英雄の見聞を匂わせることすらなかったのに。笑っちゃいますよね」

「それは、おそらく――」

「分かってますよ。桐原さんの心情をおもんぱかってのことでしょう。英雄のことを訊かれてあなたがどう出るか、その態度と対応を窺おうとしてたんでしょうね。勝手に自分の口から話すことはせず」


 そう言われて、今さらながらはた、と思い当たる。奴が――ヴェルナーが全てを知っていてなお、ハンス君に問いかけをさせた理由を。


 ――桐原さんは、"英雄"のことをご存じなんですよね。

 ――ヴェルナーさんから、桐原さんが"英雄"について知っていると伺って。


 あれは、ルネとの別れから八年を経た私の気持ちがどういう状態にあるのかを知るための、ヴェルナーなりの手探りだったのではなかろうか。ヴェルナー自身の口からルネと英雄についてどう思ってる、などと問われれば、私は素直な答えなど返してやらなかったに違いない。だからあれは私を苦しめるための行為というわけではなく、本音を引き出すために選択した行動だった――そんな可能性も考えられないだろうか。

 だとしたら、奴のあの言葉は。


 ――お前は目を背けてるだけだ。ただ逃げたいだけだろ。生きることから。

 ――俺ァ軽蔑するね。死ねないから生きてるってだけの奴をよ。


 私をおとしめるのが目的ではなく、発破をかけるのが目的だったとしたら。

 そこまで考えて、頭を振る。あいつが私に対して、そこまで殊勝な振る舞いをするとは思えない。

 思考の渦の中から、ハンス君の声が私を現実に引き戻す。


「ヴェルナーさんね、今、ちょっと寂しそうなんですよ。あなたがいないから」

「あいつが? まさか」

「本当ですよ。あの人のあんなねた子供みたいな顔、初めて見ました。桐原さんが年上だから、ヴェルナーさんも甘える気持ちがあるんでしょうね」

「ヴェルに甘えられても嬉しくないな」


 そうでしょうね、と笑いが返ってくるかと思いきや、ハンス君はそうですか?、と冷ややかな声音で疑問を露にする。


「僕は羨ましいですけどね。だってヴェルナーさんと十年以上一緒にいるのに、僕はそんな顔見たことないんですよ。あなたが彼と一緒にいた時間なんて、僕のたかだか何分の一か、何十分の一かじゃないですか。それなのに僕はあなたに敵わない。どうしてですかね?」


 冷めた口ぶりの中に、ただごとではない高ぶりの気配が漂い始める。不穏なものを感じて青年の碧眼を見つめると、その奥にうっすらとした敵意さえ宿っているようにも思えた。


「ハンス君……? どうしたんだ。少し落ち着け」

「僕? はは、やだなあ、僕は落ち着いてますよ。ねえ、どうしてだと思います? 僕が悪いんでしょうか? 僕の何が悪かったんでしょうね? 僕は悶々としているのに、あなたはそれが当然のような顔をしている。その違いは何なんです? 教えて下さいよ、桐原さん」


 いつの間にか、ハンス君の声はぞっとするほどの冷酷さを帯びていた。

 反して、目には気がれたような尋常ではない熱量が――しかも黒々とした熱がこもっている。室温は快適なはずなのに、こめかみに冷や汗が浮く。彼は一歩も動いていないのに、彼が放つ異様な雰囲気がこちらまで迫ってきて、圧迫感を覚えた。これが彼の本性なのではないか、という気がするとともに、この負の気に飲まれてはいけない、と自分を強く保とうとする。


「あなたが羨ましいと言ったのは本当ですよ。日本に来て、一日交代で茅ヶ崎くんを見張っているから、ヴェルナーさんの顔をめっきり見なくなってしまった。それでもあの人は別に普通だった。何ともなかった。それなのに、あなたが入院したら途端に機嫌が悪くなる。ねえ、どうしてです? 僕に何が足りないんです? 僕はどうすれば良かったんですか。ねえ、桐原さん、教えて下さいよ」


 つう、と背筋を汗が伝うのが分かった。

 私はこの、本音の読めない青年に対し、恐怖心を抱いている。ポケットに突っ込まれた手にナイフが握られているのを、脳が勝手に想像している。

 私は視線を固定したまま、視界の端にある病室の扉に意識を集めた。この怪我だらけの体では、あそこに辿り着くまでに何秒もかかるだろう。ここは個室だ。私がずたずたにされ、物言わぬ肉塊となっても、看護師の悲鳴が凶行を明らかにするまでには、何時間もかかるに違いない。

 ハンス君はずっと、唇に形だけの笑みを貼りつけている。


「どうしたんですか、桐原さん。具合でも悪いんですか」

「……いや。大丈夫だ」


 顎の冷や汗を拭い、青年の冷静さを呼び戻そうと、言葉を選びながら呼びかける。


「ハンス君。どうして、教えてくれと言われても、私には答えようがない。ヴェルはともかく、私は君のことをまだよく知らないんだ。適切な解を得るためには、適切な条件付けと適切な問いが必要だ。それは、分かるね」

「……」


 ハンス君の形式だけの笑みが引っ込み、一瞬うつろな表情が現れる。誤ったか、とひやりとしたが、数秒後には眉や目元に穏やかさが戻ってきた。カーゴパンツから両手が引き抜かれ、もちろんそこには何も握られてはいない。ばつが悪そうに頬を掻きながら笑う様子は、年頃の普通の青年だった。私は胸を撫で下ろす。


「すみません。取り乱したみたいで」

「いや、謝ることでもない。それより、君たちは……君とヴェルナーはただの師匠と弟子ではないだろう。何かあいだに複雑な事情がありそうだが」


 この二人が初めて私の部屋に来た日に、別々の部署に所属しているという話は聞いた。そのことからして、ワケありな関係であることは自明だ。問題は、そのの部分がハンス君にとっては不服なのではないか、と察せられるところだ。

 金髪の青年が物憂げに目を伏せる。


「そうですね。それについてはお話しする日も来る……かもしれませんね。今日のところはちょっと、おいとましてもいいですか。頭を冷やしてきた方がいいみたいなので」

「ああ……」


 私が頷くと、穏和な顔に意味深な笑みを浮かべつつ、ハンス君は足早に病室を出ていった。

 あのドイツ人の二人には何やら確執があるのだろう。ハンス君はどうも危うい。私には仔細は分からないが、彼の胸の内に抱えられた闇について、ヴェルナーは知っているのだろうか。二人の気持ちと考えに齟齬が生じていないことを願うばかりだ。

 いまだにぐっと握ったままだった拳を無理やり開くと、そこはじっとりと手汗で濡れていた。

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