彼らのこと・回想 銀の追憶Ⅲ(1/2)
―桐原錦の話
思い出はいつだって優しく、心を傷つける。
やわらかい陽射しの下で、ルネはいつも笑っていた。
あれはいつのことだったろう。彼女がそこらに生えているシロツメクサを器用に編んで、花冠を作っていたのは。私の頭に完成した花冠を被せたルネは、いたずらっ子のようにほほえみ、
「お姫様みたいだぞ、錦」
褒められているのか
あの時のルネのいきいきとしたまなざし。名も知らぬ草花に向けられる優しげな視線。私はそのすべてを好もしく思っていた。
またある時。いつも同じ味の食べ物ばかりで飽きる、と嘆く隊員に対し、私がベリーソースを作ってやったことがあった。
茂みに分け入り、自生している木イチゴを探す。それを少々の砂糖とともに鍋で煮詰めれば、簡易的なソースのできあがりだ。ベリー系は意外に肉と相性がいい。缶詰の肉に飽き飽きしてしていた隊員たちに、それは思いの外好評だった。
ルネが私に笑いかける。
「君は料理が得意なんだな」
「こんなもの、料理とも呼べんだろう。ただ潰して煮詰めただけだ」
「私にしてみれば、立派な料理さ。美味かったよ、ありがとう」
礼を言われるのに慣れていなかった私は、そのこそばゆさに狼狽した。あの時、朗らかに笑む彼女から逸らした自分の顔は、明らかに朱に染まっていたに違いない。
そして今。
冷たい石造りの部屋の中央、置かれた大きな木箱の中に、彼女は静かに横たわっている。その身を、詰められた小さな野草の花々に、半ば埋もれさせるようにして。
何の物音もしなかった。私も、傍らに立つヴェルナーも、一様に
ルネと、私と、ヴェルナー。
この部屋には三人きりだ。
「ヴェル。……少し二人にしてくれないか」
「……ああ。気が利かなくて悪かったな」
鼻をすすりながら、赤髪の青年が部屋を出ていく。
硬い靴音が遠ざかっていくのを聞きながら、私はルネの横に
静寂が辺りを包んでいた。透明な何者かが息を詰めてこちらを見つめているような、張りつめた静けさだった。
輝かしい銀髪を二、三度手で
彼女との最後の口づけは、寒々しい死の味がした。
終焉の日の朝のことはよく思い出せない。きっと何の変哲もない、いつも通りの穏やかな幕開けだったのではないかと思う。
それは
なぜあのような事態が起こったのか、幾年かの時間を経ても経緯は謎に包まれたままだ。シューニャが起居する白亜の御殿には、一級予見士が何人も常駐していた。彼彼女らは異変を察知していなかったというが、真相はもはや分からない。すべては彼岸という手の届きようがない地平へ、葬り去られてしまったから。
唯一の証人である影のボス――シューニャも、分からないとだけ述べ、あとは口を閉ざした。"パシフィスの火"最大の事件はいまだに未解決のまま、海底に眠る沈没船のように、皆の心に
私はルネとの永遠を夢見ていた。人目を忍んで結び続けた男女の関係。思えば儚い逢瀬の日々。あの短い期間、私は確かに幸せだった。どこまでもあたたかな花畑が広がっているようで、何をも恐れる必要などないと思えた。なまじ幸福を味わうことが、後にどれだけの後悔を生むことになるのかなど、微塵も考えていなかったのだ。あの生活がいつまでも続くと、ちらと疑うことすらしなかった。
それこそが慢心だった。
いつもと変わらぬ夕暮れ、淡いまどろみに割って入ったビーッという甲高い警報が、すべてを一変させた。
一瞬で目が覚めた。肝が冷えるとはああいう心持ちをいうのだろう。非番の私は宿舎で仮眠をとっていたが、その音を聞くなり飛び起きて、何人かとともに外に躍り出た。その瞬間、地鳴りのような重低音が響く。空に何本もの亀裂が走る。
天蓋が崩れ落ちてきた。
――ように見えたのは、島を覆う人工プレートが、無惨に砕け散る姿だった。
プレートの外側での爆発。それが頭をよぎる前に、厚さ一メートルはあろうかという破片が地表へと降り注ぐ。咄嗟に反応できなかったが、どちらにせよ避ける場所などなかった。瓦礫片によるものすごい衝撃が体を、ともすれば島全体を揺さぶる。轟音で耳がめちゃくちゃになりそうだった。しかし私は、瓦礫と瓦礫が頭上で屋根のように合わさったため、奇跡的に生き延びた。
渾身の力を振り絞り、埃っぽい瓦礫をよける。その上に顔を出す。一面に惨禍が広がっていた。見知った光景はもはやそこにはない。おそらくプレートの下敷きになって死んだ隊員も多いだろうと思えた。
夜の
"罪"の人間に攻撃を受けている。絶句した。まるで悪夢だった。醒めないぶん、悪夢よりもたちの悪い、地獄だった。
どうしてこんな事態が起きているのか分からなかった。予見士の見立てでは襲撃可能性は限りなくゼロだったはずなのに。第一部隊に配属された夜のヴェルナーの言葉が甦る。
"一日何も起こらないか、もしくは最終決戦かどっちかだ。"
この目の前で展開されている戦闘が、それだ。自分はその戦場の真っ只中にいるのだ。伝達ミスか、予見に誤りがあったのか、いずれにせよ、このぎりぎりの瀬戸際で食い止めなければ、我々は負ける。
それでも、私はパニックには陥らなかった。
白亜の御殿の方を見やる。私がここにいる理由はただひとつ、シューニャだ。建物の外観は少し崩れているが、中は無事だろう。"罪"の人間たちに応戦し、得物で彼らの戦力を奪いつつ、そちらへ懸命に向かう。瓦礫で身を隠す場所があるのは敵も味方も同条件だ。装備は特殊繊維を編み込んだ制服だけで、インカムもヘルメットもないのが心もとないが、頭部に被弾さえしなければ、銃弾程度は問題ないはずだ。
シューニャのもとへ
「お前、無事だったか!」
横目で見ると、怒鳴り声をあげながら、ヴェルナーが駆け寄ってくる。彼は迫りくる敵たちをアサルトライフルの点射で打ち倒していた。私は頷くと、ヴェルナーの背後に迫る人影を、肩越しすれすれに
ヘリは弾を装填していないのか何なのか、上から機銃で狙われなかったのだけは好都合だった。二人してできうる限りの全速力で神殿へ近づく。その入り口付近に人影が見えた。大音声を張り上げながら、雄々しく日本刀を切り結ぶ姿。ルネだ。彼女の姿を目にした途端、私の心に安堵が広がり、同時に自分が影の隊員であることを忘れた。ただひたすら、彼女のもとに駆けつけたい、その欲求で胸が満たされた。
彼女が振るう日本刀の刀身は、淡く発光して見える。錯覚ではなく、本当に光を放っているのだ。ルネの得物は、光エネルギーを吸収して力学的エネルギーに変換する――簡単に言うと、斬撃を現実化した刀なのだ。
あと少し。あとほんの百メートルで、彼女に届く。
そのとき、信じられないことが起きた。あってはいけないことが。目を疑う事態が。
神殿の入り口に、小さな影が現れる。我々が守るべき唯一の存在。拝殿の深奥に籠っているべき存在。
影の冠たる者、シューニャ。
どうして出てくるのだ、と声にならない叫びを上げる。気配を認めたルネが振り返り、顔を蒼白にしたシューニャが何事か言いかける。その時。空気がわっと沸いたように感じた。
「あれ!」
誰かが叫んだ。誰かが上を指した。私は足を動かしたまま、何かに操られるように、悪夢を下賜する悪魔の
ぷっくりとしたシルエットを持つ人間が、そこから飛び降りてくる。その姿は置物の狸のように、どこか滑稽ではあったけれど、私にはそれが体表に取り付けた爆薬のせいだと分かった。爆発物を
――自爆するつもりか。
眼前で展開するそれらすべてが、スローモーションのように見えた。
巻き込まれたら十中八九助からない。私は叫んでいた。逃げろ、と。
シューニャは唖然と空を仰いだまま、凍りついたように動かない。お願いだ。ルネだけでも逃げてくれ。叶わないと知りつつ願わずにいられない。あと少しで自分もそこにたどり着くのに。
ルネが奮然とシューニャの前に仁王立ちし、刀を構え、
そして間近で、
咄嗟に耳を塞いで地面に伏せた。閃光からわずかに遅れて腹に響く爆発音が轟き、衝撃波と爆風が体を
それが行き過ぎてから、がばりと体を起こす。シューニャは、ルネは。私が見たものは、信じがたい光景だった。
シューニャが呆然と立ち尽くしている。服に点々と血を飛び散らせて。そのそばに、ルネが倒れ伏していた。彼女の周りは血溜まりになっていた。
そして二人へ、爆薬を仕込んでいたはずの男が、じりじりとにじりよっていく。
あり得ないと思った。あの爆発の中心で、生身の人間が生きていられるはずがなかった。四肢がばらばらにちぎれ飛んでもおかしくないのに。
私は怒声を上げながら、駆けた。急に戦場に静けさが戻ってきていた。敵の生き残りが撤退を始めていたからだと後で知ったが、その時は知る由もなかった。シューニャに手を伸ばす侵入者に向けて放った得物は、風を切って長鳴りし、あやまたずその喉笛を貫いた。
ならず者の末路などどうでもよかった。私の頭にはルネのことだけがあった。彼女はぴくりとも動かない。血溜まりの中心で横たわる体を抱き起こし、名を呼んだ。何回も、何回も。その愛しい響きを。
唇が震えた。
「にし、き……?」
ルネの薄い瞼がうっすらと開き、血とともに囁きが口の端から漏れる。あんなに美しく光を反射していた髪は、鮮血を吸って
意識があるのが不思議なくらいの、致命傷だった。
血液とともに、彼女の命がどんどん零れていく。かけがえのない人の意識が、吹き消えんとする。私は傷口の周りを必死で押さえた。そうすることで、衰弱していく生命を押し
いつの間にかヴェルナーが傍らに立っていた。視界の隅に映る握り拳はぶるぶると震え、関節が白く浮き出している。
私は熱を失いつつある想い人の体に、恥も外聞もなく取りすがった。嫌だ、行かないで。私を置いていかないでくれ。自分の声はか細く、みっともないほどに震えた。
「良かった……」
蚊の鳴くような声を、ルネが絞り出す。見ると、彼女は淡くほほえんでいた。青ざめた顔に浮かんだ笑みは、例えようがなく壮絶だった。
良いわけがない。私の奥歯はがちがちと鳴っていた。
「何を……」
「死ぬのが君たちじゃなく、私で良かった……。なあ、そんな顔をするなよ。最期なんだ、笑って送ってくれよ……」
「嫌だ……行かないでくれ……私は、君ともっと……」
「錦。私のことは忘れてくれ。忘れて、幸せになってくれ……」
弱々しく伸ばされた掌が、私の頬にかすかに触れる。
笑えるはずがなかった。忘れるなんて、約束できるはずがなかった。君が言ったことを何も叶えられないから、行かないでほしかった。まだ私の隣にいてほしかった。
糸が切れた人形のように、ルネの手がぱたりと地に落ちる。微笑したまま、彼女の意識がすうっと遠のいていく。
「嘘だろ……?」
わななく声は、ヴェルナーのものだったろうか。波が引くように、軍用ヘリのローター音が遠ざかっていく。そうだ、誰か嘘だと言ってくれ。これはただの悪夢だと言って、私を夢から目覚めさせてくれ。躊躇なく進行する現実を受け入れるのを、自分のすべてが拒絶していた。
私はまだ温かいルネの全身をかき抱いて、夜の闇が迫ってくるのにまかせ、長いあいだ悲嘆にくれた。
そのあいだずっと、涙は出なかった。
こうして我々は勝利を手にした。多大なる犠牲を払った上で。
(続く)
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