彼らのこと・回想 銀の追憶Ⅲ(2/2)

(承前)

 爆薬を纏って特攻をしかけてきた人物が、罪のトップ――通称教皇であることが、深更になって確かめられた。証言をしたのはシューニャだったらしい。

 私も他の隊員も、彼の顔を知るものはほとんどいなかった。もっとも、シューニャには見た瞬間に分かっていたようだったが。あの唖然とした表情は、彼がそこにいると認めたために生まれたもののようだった。

 納得できない話ではある。なぜ組織のボスが、自爆同然の形式で攻撃をしかけてきたのか。そもそもなぜ影と"罪"の衝突の最前線であるあの場にいたのか。

 遺骸を解剖したシューニャによると、彼の全身には金属が埋め込まれ――もっと正しく言うなら、多くの体のパーツが金属に置き換わっていたらしい。つまり彼は既に人間ではなかったことになる。言うならば、サイボーグ。そのために爆死をまぬがれた、との見解をシューニャは出した。それは教皇自身の方針だったのか、他者の意思の介入があったのか、もはや知るすべはない。

 奇妙な事実ではあったが、私にとってはどうでもよかった。

 シューニャ以外の予見士は、精神的なショックが原因とみられる錯乱状態に陥り、互いに傷つけ合った挙げ句に全員死亡していたそうだが、それもどうでもよかった。

 第一部隊以外は勝利の歓喜に包まれているらしかったが、それすらもどうでもよかった。



 ルネの体は蘇生を試みられたものの、彼女が永遠の眠りから醒めることはなかった。

 ルネは死んだ。

 ルネが死んだ。

 私は夜通し、一人にしてくれとテントに籠って、彼女と過ごした一日いちにちに想いを馳せた。深い喪失感と、冷たい絶望と、心臓を刺し貫く悲しみが、その時の自分の全部だった。あらゆるものが書き割りのようにぺらぺらに思えた。それなのにどうしても涙は出てきてはくれず、自分はどうしようもない薄情者なのだろうか、という疑問が胸を突いた。動揺にうちひしがれ、哀悼に身を浸し、彼女なしでも否応なく進む時間を呪った。

 ふつふつと湧き起こったのは、いっそ自分も死のうか、という思い。

 後追いは日本人のお家芸だ。死ねば楽になれる。死ねば彼女に会えるかもしれない。しかし、その安楽に至るまでの過程に、途方もない恐怖を感じるのも事実だった。文字通りの死ぬほどの苦しみの中で、ルネのように笑っていられる自信など、私にはない。死ぬ勇気すら持てない自分に落胆を覚えた。

 ヴェルナーが私のもとを訪ねてきたのは、朝日が容赦なしに清々しい空気を引き連れてきた頃だった。


「俺とお前に召集がかかった。行けるか」


 ヴェルナーは双眸を真っ赤に腫れ上がらせていた。ずっと泣いていたのだろう。私はぼんやりと頷き、半日ぶりに腰を上げた。

 召集先は、自分には縁がないと信じていたシューニャの神殿だった。


「貴様も眠れなかったようだな」


 その殺風景な廊下を進む道すがら、つっけんどんに口を開く。ヴェルナーは驚きも、笑いもしなかった。


「ああ、夜じゅう泣いてたからな。……お前も眠れなかったんだろ」

「私は泣けなかった」


 ぶっきらぼうに返すと、ヴェルナーはまじまじとこちらの顔を見た。軽蔑されたのだろうか。


「薄情者だと思うかね」

「今のお前のツラ見てそんなこと言えるやつァ、人間じゃねえよ」


 尖った犬歯を剥き出しにして、怒ったように言う。その声が涙まじりに感じたのは、私の錯覚だったろうか。

 シューニャの部屋はどこかの大学教授の部屋を彷彿とさせた。壁面には本棚がずらっと並び、執務机にはデスクトップや書面が無造作に置いてある。伏せて置かれているのは写真立てだろうか。

 そこに一人でいたシューニャは、我々がノックして入室すると、椅子から降りて歩み寄ってきた。上背のある私たちが、小柄なボスを見下ろす形になる。


「ご足労かけたのう」


 労いの言葉をかけるシューニャの顔面には、何の表情も浮かんでいなかった。まっさらな、蝋人形のような顔のつくり。

 不意に、その無の中から、苦悩じみた表情が滲み出る。


「お主らに、謝っておかねばならんことがある」


 けれどその発声は、深い森のざわめきのように静かだった。ぞわり、と心が波だつ。聞きたくない。何も聞きたくない。あの時この人が外に出てこなければ、もしかしたらルネは死ななくてすんだかもしれないのだ。私の胸はもうルネの死で塞がっている。これ以上、何も抱えこめない。決壊してしまう。そう思った。

 シューニャは次に、決定的な言葉を口にした。


「ルネ・ダランベールを殺したのはわしじゃ」


 辺りの気温がすっと下がったように感じられた。ぶれのないシューニャのまっすぐな瞳とは逆に、私の心は大きく揺さぶられる。負の感情がない交ぜになって、心の容器のふちを大きく乗り越え、溢れ、渦を作り、自分を飲み込んで圧倒していく。そこで膝をつかなかったのが、不思議なくらいだ。

 隣に立つヴェルナーは正反対で、にわかに殺気立つのが分かる。


「……おいおい、そりゃあどういうことだよ。返答如何いかんによっちゃあ、いくらあんたでもただじゃおかねえぞ」


 ヴェルナーは怒っていた。いつも飄々としている彼とはかけ離れた、正真正銘の、純然たる冷たい怒りだ。

 シューニャは後ろ手に手を組んで、長い睫毛を伏せる。


「お主らは、シュレーディンガーの猫は知っておろうな」


 静かな問いに、わずかに苛立ちを覚える。それが何だというのだ。自分の代わりにヴェルナーが、それが何なんだよ、と嫌悪もあらわに問い返す。

 シュレーディンガーの猫。おそらくは最も有名な、量子力学の分野の思考実験。生きてもいるし、死んでもいる状態の猫。

 シューニャはぽつぽつと語り始める。


「予見士が見る未来についての話じゃ。未来とはシュレーディンガーの猫と似て、起こるか起きないか、ふたつの状態が重ね合わさっているものじゃ。観測するまでは、どちらの状態になっているかは分からん。しかし、わしのような特級の予見士が観測すれば、状態はただひとつに定まってしまう」

「この期に及んで、何の講釈なんだ、それは?」


 ヴェルナーが語気を強める。

 私にはなんとなく、この話の行き着く先が分かるような気がした。だから、聞きたくなかった。やめてくれ。そう叫びたかった。


「……一級までの予見士が見る未来は、いくら確率が高くとも、可変なものじゃ。我々の努力によっては変えることができる。ただ、わしは違う。見た未来はくつがえせない。――人が未来を知りたがるのは、未来が、望む通りになってほしいからじゃ。じゃから不都合な予見はそこに至る条件を取り除き、避けようとする。変えられない未来を見ることに、何の意味があろう? ……しかし昨日、わしはあの戦闘の行く末をどうしても知りたかった。自分が死ぬのなら、極力こちら側の消耗は避けたかったからの。わしはその欲求に負け、未来を見た……」


 耳を塞ぎたい衝動に駆られた。わめき声をあげて、ここから飛び出していきたかった。同時に、聞かなければいけない、という義務感が私をその場に縫い付けた。


「わしが見たのは、ルネが死ぬ未来じゃった――。ルネはまたとない逸材じゃ。うしなうわけにいかんと思った。焦ったわしは、右も左も考えずに飛び出してしもうた。そのことが、ルネの死に直結したんじゃ。わしが未来を予見しなければ、彼女の死は確定されなんだ。わしは未来を観測することで、その未来を――ルネが死ぬ未来を、不動のものにしてしまったんじゃ……わしの行為と能力が、彼女を死に追いやった。申し訳ないと思うておる」


 シューニャは出し抜けに、深々と頭を下げた。

 体の内に、冴えざえとした感情が急速に広がっていく。謝罪など聞き入れたくなかった。見たくもなかった。謝られて、だからどうしろと言うんだ? 喉がからからになって、言葉がうまく出てこない。


「謝られたって、どうしようもねぇだろうが……ッ」


 焼きつくような怒気を放ったのはヴェルナーだ。激昂の勢いのまま、一歩シューニャへとにじりよる。


「あんたはそれを言って、俺らにどうしろってんだよ? 許せってのか? 人一人死なせておいて、ずいぶんと虫がいい話じゃねえか、あぁ?」

「許せなどとは言わぬ。ただ……謝らせてほしいだけじゃ」


 ゆっくりと面を上げたシューニャの灰色の瞳は、ひどく静かだった。その奥に悲しみの色が浮いているのかどうか、私には判断がつかなかった。

 近くで安全装置を外す音がする。赤髪の青年が、服のどこに隠していたのか、黒光りする拳銃を己のボスに突きつけていた。もう、引き金に指がかかっている。


「なら、あんたも死んで詫びろよ」

「よせ、ヴェルナー」


 力をこめ、憤りに燃える彼の右腕を無理やり下ろした。途端に、ヴェルナーがきっと睨んでくる。


「おい、なんでお前が止めるんだよッ、こいつが何もしなけりゃ、ルネは……ッ」

「そんなことをしても何にもならない」


 ヴェルナーの憤怒に対し、自分の口から出たのは、驚くほど平坦な声だった。同僚の青年はぐっと言葉を詰まらせる。

 シューニャの視線が、すい、とこちらに向いた。

 やめてくれ。私を見ないでくれ。あなたなんかに、見られなくない。


「錦、お主は……ルネと深い間柄だったのじゃろう。すまなかった」

「謝る相手が違うのではありませんか」


 ぴしゃりと言葉を叩きつける。何も聞きたくなかった。謝るくらいなら、最初からしなければよかったのに。こちらに向かうシューニャの目線を拒否するように、冷徹な調子を取り繕う。


「あなたも同じです。私に謝っても、何にもなりませんよ。貴方が謝ったところで、死者が目を覚ますことはありません。あなたが謝るべきは彼女――ルネだけだ。ルネにはもう、あなたの言葉は届かない。あなたの過ちのせいです」


 私はシューニャを傷つけたかったのだろうか。彼が取り乱して、泣いて懇願するのを望んでいたのだろうか。しかし私を見返していたのは、どこまでものっぺりとした、能面めいた顔でしかなかった。

 私は我がボスに背を向けた。シューニャは引き留めようとはしなかった。おい錦、と呼びかけつつ、ヴェルナーが着いてくる。もう、シューニャと顔を合わせることはないだろうと考えた。

 扉を閉める前、謝ることすら許されぬのか、とシューニャが誰ともなく呟くのを、無感動に耳にした。



 私は影を辞めることに決めた。もはやここに留まれないのは明白だった。

 何人もの戦友が死んだ。ほとんど全員のむくろは国に帰されるか土中に埋葬されるかしたが、ルネの遺体だけは水葬に付された。本人の希望だったそうだ。

 死に化粧を施されたルネは美しかった。

 隊員の葬儀にあたり、膨大な数の遺書が開封された。ルネから隊員全員へ宛てられた遺書はあったものの、彼女は個人個人に向けての言葉は遺さなかった。おそらく死後に、自分の存在が特定の人間の心に強く残るのを避けようとしたのだろう。

 理性ではその配慮に納得できたが、私はどうしようもなく寂しかった。彼女の証となるものが何かしら欲しかった。忘れてくれというルネの今際いまわの約束を、私はいつまでも守れる気がしなかった。

 私は人の外見を辛うじて保っているだけの脱け殻と化した。彼女が死んで自分が生きている、それに一体何の意味があろう。

 絶望すらかさかさに乾いて風化していた。心に巣食うもの、それは絶対的な空虚だった。養父を喪った時、私は何もかも失くしたと思ったけれど、そんなものはまだまだ生ぬるい空虚でしかなかった。心臓にぽっかりと穴が空いた、という例えでは到底及ばない。自分自身がおおきな穴になってしまったような感覚。その穴をどうやったら埋められるのか、私に分かる日はきっと来ないだろう。

 影を去る自分に、これからの身分が用意された。日本に戻り、地方大学の理学部数学科に三年次編入生として編入し、二年後に数学教師としての勤務が始まる。異論はなかった。もとより数学と戦う術しか知らない身だ。

 "錦は教えるのが上手いな。"

 "教師にでもなったらどうだ。"

 あのルネの言葉が励ましとなるのか、呪いとなるのか、現時点では分からなかった。監視対象となる"茅ヶ崎龍介"という名前だけを胸に刻み、荷造りに取りかかる。荷物は小ぶりな旅行鞄ひとつに収まった。これまでの自分の人生の、取るに足らなさが現れているようで、心の中で小さくわらいがこみ上げた。

 影での最後の望みは、自分が教皇を討った人間だと口外しないでくれ、というものだった。

 島を去る日は穏やかに晴れ、微風が吹いていた。誰も見送りに出なくていいと言ったのに、ヴェルナーは頑として頼みを聞き入れなかった。

 潮の匂いが鼻を突いた。小型機の発着のため、その場しのぎでならされた円形の地面、その端にヴェルナーが立っている。どこか達観したような眼を、私に向けていた。折ふし一段強く風が吹いて、互いの髪をなびかせる。


「見送りは要らないと、伝えたはずだが」

「馬鹿言え、そんな我が儘が通じるかよ。……なあ、本当に行っちまうのか」

「この期に及んで撤回はしない。自分はもうここにはいられない」

「……いつでも戻ってこいよ。お前の場所は空けておくから」

「無用だ。私はもう影には戻らない」

「お前さ……自分を責めてるんだろ。ルネのことは、お前には何の――」

「やめてくれ。そのことはもう、聞きたくない」


 かぶりを振り、ハッチに足をかける。

 ヴェルナーが駆け寄ってきて、やけに深刻な目で私を見た。


「なあ、錦。……死ぬなよ」


 もう二度と見ないだろうその顔を、まじまじと見つめる。血の色の瞳の底には、計り知れぬ深淵が湛えられていた。

 彼の言う意味がよく分からない。彼はここに残り、私は去る。ヴェルナーの方が、これから負う危険は大きいはずだった。私は逃げるのだ。あつらえられた、安穏とした生活へと。


「……貴様もな」

「馬鹿が。そういうことじゃねえよ」


 じゃあどういうことなんだ、という問いが、小型機のドアが閉められる音で遮られる。


「出発します」


 操縦士が言う。椅子に座るや否や、ふわりと機体が浮く。感傷に浸る間もなく、あらゆる感情を味わった地が、いともたやすく遠ざかっていく。

 ガタガタと小刻みに揺れる機内で、日本での生活を思い描こうとする。死ぬ前でもないのに、もはや死んでいるも同然なのに、これまでの第一部隊での日々が、走馬灯のように脳内を駆け巡る。すべてが始まり、そしてすべてが終わった島が、どんどん小さくなっていく。それに合わせて何もかもが、輪郭を無くして色彩を失い、過去という二次元平面の上へ、茫洋ぼうようと霧散していくように思われた。

 あらゆるものが、一瞬で吹き消えるほど儚い、一夜の夢だったのではないか。そんなむなしい幻想が胸を満たした。

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