彼らのこと The Hero is Here.Ⅱ

 英雄はどこにいる、という問いかけが脳内で反響する。

 英雄。八年前の影対"罪"ペッカートゥムの抗争"パシフィスの火"において、罪のトップを討つことで闘いを鎮火させた存在。なぜ今さら、"罪"の人間がそれを追っているのだろう。数秒思案するも、理由に何の心当たりもなかった。

 鸚鵡オウム返しに問い返す。


「英雄だと……」

「ああ。あんたの調べはついてるよ、桐原錦さん。八年前まで影の執行部に所属。最後にいた場所はシューニャボスがいた第一部隊。当然、英雄の正体も知ってるだろ。行方にだって見当がつくんじゃないのか」

「英雄を捜してどうするつもりだ。今から先代の復讐でもする気か」


 質問に質問を投げかけると、優位に立っている者の余裕なのか、特に気を害した風でもなく、相手は肩を軽く竦めた。


「さてねえ、俺たち末端の者には教えられてないな。見つけても殺すんじゃなく、生け捕りにするようには言われてるから、敵討かたきうちってわけじゃないのは確かだ」


 その答えに、わずかに目を見張る。言葉の内容に虚を突かれたのではない、訊いてもいないことをぺらぺらと喋りだす、その軽率な態度が想定外だった。そして確信した。ここにいる彼らはおそらく、犯罪者としての程度はそれほど高くない。

 おそらく日本人である彼らは、人を監禁して暴力を振るうのに慣れてはいないのだろう。この状況にある種の高揚感や陶酔を覚え、判断力を何割か喪失している可能性は十二分にある。

 だが、殺すのが目的でないとの言に、英雄を捜す意図がますます分からなくなった。

 自分はどうするべきか、コンマ数秒のあいだに選択肢を浮かべ、そのうち一つを選び取る。

 挑発するように、ゆっくりと尋ねた。


「知らないと言ったら?」

「なら、吐いてもらうまでさ」


 またも金属の棒が振るわれる。今度は頭へ、横薙ぎに。こめかみからみしり、と嫌な音がしたから、骨にひびでも入ったかもしれない。衝撃でそのまま椅子ごと倒れ込んだ。無様に身じろぐ私の腹へ、続け様にブーツの爪先が何発も入る。

 胃から内容物がせり上がり、こらえきれず私はその場で吐いた。

 まだ未消化の、肉まんの残骸が胃液とともに広がる。その吐瀉物の海へ頭を押し付けられると、強酸性の消化液が顔の傷に染みた。臭いでえずきそうになるが、もう吐くものもない。流れ出る血と胃の内容物だったものが混じり合う。


「さあ、吐く気になったか」


 威圧的な声が降ってくる。私はおかしな体勢で無理に首をひねり、彼を見上げる。

 その山羊の被り物の中で、相手は私がさぞ惨めな表情をしていると思っただろう。ただそれは見通しが甘すぎるというものだ。

 感情は当然何一つ読めないが、男がひるむのが感じられた。


「……何笑ってやがる」


 私は思わず笑っていた。

 こんな程度の低い奴らに、捕らえられたのが可笑おかしかった。こんな猿真似の拷問もどきで、優越感に浸っている彼らが憐れですらあった。彼らは拷問のやり方というのを全く分かっていない。ただひたすらに痛みを与え、傷つけるのが拷問ではないのに。本当の拷問の作法を教えてやりたいくらいだった。

 拷問に必要なものは、暴力ではない。絶望だ。


「お前らのやっていることは拷問ではない、ただのお遊びだ。本当のやり方を教えてやろうか? 私の本業は教師だ、教えるのは慣れているぞ」

「この……ッ」


 わざと心情を逆撫でするような単語を選ぶと、逆上した相手は踵で肋骨のあたりを踏みつけてきた。

 肋が何本か折れたようだ。それはともかく、肺に刺さっていないといいのだが。

 さっき抱いていた淡い焦燥はいつしか消え、今度はむしろ失望している己に気がつく。

 ――せいぜいもっと楽しませてくれ。私を落胆させないでくれ。

 そんな、戦闘狂めいたことを考えていた。自分は結局、こういう世界でしか生き場所がないのだという思いが、きりきりと胸をえぐる。


「吐く気になったかよ……」

「全くならんな。何度がっかりさせれば気が済むんだ、お前らは」

「こいつ……もう骨の何本かはイってるはずなのに……!」


 私の受け答えがあまりにも変化しないのを見てか、山羊頭たちのあいだに動揺が広がるのを感じ取る。焦った方が不利になるのに。それも分かっていないようだ。


「"罪"も堕ちたものだな。今の"罪"は拷問すらろくにできない凡骨ポンコツの集まりなのか?」

「っこいつ……! 次は片目を潰す。心を入れ替えるなら今のうちだぞ」


 浅い脅し文句を吐き、一人が懐からサバイバルナイフを取り出す。

 弱い光源でもぎらつく刃が鞘から抜かれても、心の表面は完全に凪いでいた。今の私に絶望はない。

 なぜならば、自分は今、ここで死ぬつもりだからだ。

 飛行機や自動車で、自爆テロに踏み切る人間を思い浮かべてほしい。死を恐れない人間ほど、恐るべき存在はない。そういう人間にはもはや、絶望はないからだ。自己の消滅を受け入れた人間を、死をちらつかせることにより絶望させることなど不可能だ。

 。英雄の居場所を。それを胸に仕舞ったまま、私はここで死ぬ。そうして英雄の居場所は完全に闇へと葬り去られる。事後処理はヴェルナーやハンス君が滞りなくやってくれるだろう。"罪"の人間の途方に暮れる顔が容易に想像できた。

 

「勝手にしろ。お前らが英雄の居場所を聞き出す前に、私が死ぬのが先だろうがな」

「てめえ、何なんだよ……ッ」


 唇に薄ら笑いを貼りつかせてやると、投げつけられる声は震えていた。まるで泣く直前のように。

 ナイフを持った山羊が私の体を乱暴に仰向かせる。胸の上に馬乗りになられると、さすがに折れた箇所が軋んで顔が歪んだ。男は急いていた。しゃにむに、闇雲にナイフは振り上げられ、鮮血とともに私の片目からは光が失われる。



 ――はずだった。

 男の動作は、か細い女性の悲鳴によって中断された。

 山羊頭たちがはっとして入り口の方を見る。徐々に、必死な声がこちらへ近づいてきている。恐怖が如実に表れている声色。すっ、と自分の体温が下がった。

 その声。私はそれに聞き覚えがある。今日の日中も、そばで聞いていた声。

 私が好きなその響き。

 心臓が早鐘を打つ。そんな、嘘だと言ってくれ。これはただの悪夢に過ぎないのだと――。


「やだっ、離して下さい! 何するんですかっ、離してッ」


 図抜けて立端たっぱのある山羊頭に手首をひねられ連れてこられたのは。

 懸命に束縛から脱しようと手足を動かしているのは。

 金切り声を上げて抵抗しているのは。

 恐怖を顔全体にあらわにしているのは。

 私たちの目の前に表れた小柄な女性は、水城先生だった。


「な……」


 喉が酸素を求め、喘ぐ。冷や水を浴びせられたよりも深刻な、深い谷へ突き落とされた心持ち。精神への衝撃に打ちのめされ、先ほどまでの余裕など吹き飛んだ。

 なぜ、彼女がそこにいる。

 水城先生の傍らに立つ男は、もがき続ける彼女を泰然と片手でいなしていた。


「こそこそ中を探ってる女がいた。どうやら影の連中ではなさそうだが……」


 そこで、水城先生の顔がこちらに向いた。みるみるうちに、表情が驚愕の色に塗り変えられる。昼間まで隣の席に何事もなく座っていた同僚が、縛られて無理やり座らされ、かつ血まみれで転がっているのだから当然だ。


「桐原先生ッ? どうしてこんな…大丈夫ですかッ」

「水城先生……どうしてここに……」


 一瞬、視線が交錯する。

 涙で潤んだ目、わななく唇、蒼白な顔。

 彼女はじたばたと足掻きながら、涙声で事由を訴える。


「学校で、クラスの子達がここに来ようって話してて、いても立ってもいられなくて、だから……あっ」


 その声は途切れる。元から部屋にいた三人のうち一人が、先生に歩み寄って髪を鷲掴みにしたのだ。


「おいおい何だよ、知り合いか?」


 もてあそぶのに丁度よい玩具おもちゃを見つけたと言わんばかりに、その声は愉悦で歪んでいる。

 形勢は完全に逆転していた。彼女に手出しさせるわけにはいかない。彼女は私とは違う、一般人なのだ。だが体は動かない。

 髪を掴んだままの山羊頭が、私の方に顎をしゃくる。


「愉しいことを思いついたぜ。この女を有効利用してやろう。目の前でこの女をなぶれば、重たいこいつの口も滑らかになるだろうからな」

「待て……ッ」


 一人の男が水城先生を羽交い締めにし、一人が服に手を伸ばす。残りの二人も緩慢な動作で彼女へ近づく。

 これから何をされるか悟った水城先生の頬が、かっと赤くなる。目の縁からぼろぼろと涙がこぼれ落ちていた。


「な……、嫌! やめて……!」


 叫び声を背景にして、私は自由の身になれぬものかとがむしゃらにもがいた。全身を巡る血が、憤りの炎でふつふつと煮える。心の中心は反対にぞっとするほど冷え、凍てついていく。

 許さない。絶対に。怒声を張った。


「待て、彼女を巻き込むな! 彼女は関係ないッ」

「関係ないなら、口出しせず見殺しにすれば良いだけの話だろ。さっきまでとは違って必死だなあ、もしかしてお前のオンナ?」

「何を……ッ」


 あれよあれよという間に、彼女の上着とシャツが剥ぎ取られた。こちらに見せつけるように、先刻は私の目を貫こうとしていたナイフで、焦らすようにじわじわと肌着を裂く。自分の中の嫌悪感が爆発する。

 下着に包まれた胸が露になった。

 その豊かな張りを目の当たりにした山羊頭たちが、口笛でも吹かんばかりに感嘆を漏らす。


「見ろよこの女、すげえぞ」

「顔はロリっぽいのにいい体だな」

「俺こういう女好きだわー」

「や、やだ……やめて……もう…………」


 男の指がスカートの下から侵入し、這い上る。おぞましい手つき。けだものの呼吸。


「大人しくしてれば悪いようにはしねえよ」

「そうそう、いつもあの男の下でどんな風に啼いてるのか教えてくれればいいだけ」

「いやっ、私そんなことしてな……っ」


 水城先生はいやいやをする。泣きじゃくっている。

 自分の感情のプールから、焦りすらもはや消えていた。内にあるのは怒り、ただそれのみ。オセロの白が一気に黒にひっくり返るように、すべての感情が怒りに塗りつぶされてゆく。

 こんな激情が、まだ己の内に眠っていたことに驚いていた。

 立ったまま、金属棒を持っていた男が彼女の華奢な脚を割った。続いてかちゃかちゃとベルトを緩める。


「俺たち、ちょうど溜まってるんだよねえ」

「毎晩あの男のをどうやって咥えてるのか教えてほしいなー?」


 水城先生が青ざめた顔をこちらへ向ける。がくがく震える唇から、絶え絶えに紡がれた言葉は、救いを求める単語ではなく。


「いや……。だめ、先生……見ないでぇ……っ」


 それで、自分の中の何かがぶつんと切れた。

 ――大切な人を、もう二度と、目の前で傷つけさせてたまるか。

 沸騰していた憤怒が急速に冷えていく。絶対零度へ。すべてを凍てつかせる不動の温度まで。 

 次に口を突いたのは、信じられないほど冷淡な声だった。


「……おい。薄汚い手で彼女に触れるなよ。微塵子ミジンコ未満の低脳な屑共」


 それが自分で放った声だと、後からどこか遠くでぼんやりと感知する。自分が自分でなくなったような感覚だった。

 男たちが、ぴくりと肩を震わせて振り返る。


「おいおい、状況分かってんのかお前……」


 ふん、と鼻を鳴らす。自分でも信じがたいことに、私はまたも笑っていた。三十年間生きてきて、これほど不敵に、これほど歪んだ笑みを浮かべたことは、きっとない。


「状況を分かっていないのはお前らの方だろう。英雄の居場所を知りたいんじゃないのか? 教えてほしいのなら彼女から即刻離れろ」

「や……っと吐く気になったのかよ」

「そうだな。ただし、お前らの対応次第だがな。さあ、早く彼女を解放しろ」


 人が変わったような私の様子に気圧けおされたのか、男どもがじりっ、と後退りする。一人が意を決して、ぶるぶると頭を振りながら答えた。


「……いや、その手には乗らない。お前が居場所を吐くのが先だ」

「そうか」


 私は頷いて、億劫そうな身のこなしで、ゆっくりとその場で立ち上がってみせた。

 全員が唖然としてこちらを見る。

 特別な縄抜けの術を使ったのでもない。腕の力だけで縄を引きちぎったのだ。無論、縄の持つ高い摩擦係数のおかげで、手首の皮膚はずだずだになっている。血が染みだして指を伝い、汚い床へぼたぼた垂れるが、そんなことはどうでもよかった。痛みなど、そんな些末なものは意識の外に追い出している。

 呆然としている男どもの前で、床に無造作に落ちているスーツの上着を拾い、内ポケットからハンカチを取り出す。こんな汚物にまみれた顔を水城先生に見せるのはいたたまれない。顔面を拭い、ハンカチを放る。

 そして、出し抜けに言った。


「私が英雄だ」


 数秒間、誰も言葉を発しなかった。

 静寂。沈黙。


「…………何だと」

「聞こえなかったのか? "罪"の、先代の教皇を殺した"英雄"は――パシフィスの火に終止符を打ったエージェントは、この私だと言っているんだ」


 英雄はここにいる。最初から。

 山羊頭たちが全員、動きを止めた。

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