彼らのこと・回想 銀の追憶Ⅱ(2/2)

(承前)

 食堂の隅でぼんやりと味気ない朝食をとる。昨晩は最悪といっていい夜だった。木陰で息を乱しているところを、こともあろうに当のルネに見られたのだ。

 泣いてはいなかったのが不幸中の幸いだろうか。ルネは男の下劣な部分を見慣れているのか、頭を真っ白にする私に対し、ああすまん、と言っただけで驚きはしなかった。

 ただそれに続けて、


「君、顔はかわいいのに持ってるものはなかなか立派なんだな」


 と言って寄越したために私の羞恥は臨界点を突破した。あの時真っ赤なマグマが覗く火口が手近な場所にあったなら、私は迷うことなく身を投げていただろう。

 ルネに合わせる顔がない。自制しても長大なため息が出る。


「何かやつれてない? お前」


 私の真ん前に座るヴェルナーが首を傾げる。いつものごとく、悩みのかけらすらなさそうなつるりとした表情だ。

 私の心境が土砂降りと大風なら、こいつは雲ひとつない凪の快晴といったところだろう。羨ましい奴だ。憎々しげにねめつけながら、私はミルクと砂糖で味がだいぶ薄まったコーヒーを啜る。


「ルネと上手くいってないのォ?」


 図ったようなタイミングでのんびりと投げられた言葉に、げほげほと盛大にせこむ。

 慌てて口元を拭きながら、ヴェルナーをもう一度睨んだ。この男は何か知っているとでもいうのだろうか。


「ど、どういう意味だ、それは」

「え、そのままの意味だけど? お前が悩んでるってんなら、ルネ関係くらいしかないかなーって」


 炎の色をした髪と目を持つ若者は、リラックスした様子で椅子にふんぞり返り、後頭部をぼりぼりと掻いている。私たちの秘密を知っている風ではないが、本当に核心を突かれたくない時に限って突いてくる。厄介な奴だ。

 ルネの話を続けていると墓穴を掘りそうなので、仕方なく消極的作戦を採ることにする。つまり、話題を逸らそうというのだ。


「私は別に、特に何もない。むしろ……貴様のことが気がかりなんだ」

「え、俺?」

「前から思っていたんだが、貴様は……シャーロットという女性が好きなのだろう。戦場で恋愛感情を抱くことに躊躇はないのか」

「え、何お前もしかしてルネのこと――」

「今は貴様の話だ」


 つい声を張り上げてしまう。何事か、とそばに座っていた隊員たちがこちらを見た。目配せで彼らを黙らせると、おほんと咳払いして向き直る。話題のずらし方が雑だったのは反省すべきだろう。


「今思いついたことじゃない……常々感じていたんだ。戦士としての本分を、まさか忘れているわけではないだろう?」


 重ねて問う。その言は嘘ではない。女性に声をかけるヴェルナーの姿は、たるみきっているといってもよいものだ。ルネはあまり口うるさく言い聞かせていないが、私の内心は忸怩じくじたるものだった。

 当の好色男は好奇心で輝く目を一旦閉じ、眉尻を下げて肩をすくませる。


「だって恋の神様は時と場所を選んでなんかくれないからね。導かれるまま進むしかないっしょ」

「……神の存在など信じているのか」

「いやァこれっぽっちも」

「……」


 前言を軽々と覆すヴェルナーに絶句する。鳥の羽ほど言動が軽い男はずいと身を乗り出し、そんな私の肩口をぽんぽんと叩く。


「まあ細けえことはいいじゃねえの。恋ってなァ苦しいもんだけど、それを楽しむくらいの気概で行こうや、兄弟」

「誰が兄弟だ。それに今は私の話はしていない」

「強がるなよ。自分の気持ちに素直になった方が、人生うまく運ぶぜ」

「年下のくせによくそんな口が叩けるな」

「そういうのはブラックコーヒーが飲めるようになってから言おうね、錦くん」

「……」


 ひねくれた笑いを浮かべるヴェルナーへ冷たい一瞥いちべつを送るものの、彼が気にする様子はなかった。

 ルネへの思いを、表に出す。冗談にしても笑えない。戦火が灯っていないといえどここは戦場で、ルネは上官なのだ。場違いにも程がある。

 導かれるままに進めとヴェルナーは言うが、そんなことができる道理もない。そもそも彼女と抱き合い、頬を重ねているのは、訓練という名目でしかないのだ。自分の気持ちを殺すことこそ、今の私に求められていることだ。

 本気になってはいけない。そう自らを戒める。



 悩み事など彼の辞書にはないと思われていたヴェルナーにも、意外な一面があると知ったのはその数日後だ。

 何かにつけて祝宴を催すのがここの流儀であるようで、その日は隊員のうち二人の誕生日が重なったという些細な理由で酒が振る舞われていた。

 どんちゃん騒ぎを繰り広げる皆の輪から遠ざかると、小さい焚き火の前で、ヴェルナーがぼんやりと紙片を眺めているのに出くわす。珍しく、やや哀愁漂うセンチメンタルな表情だ。

 私に気づくと、おお、と声を上げるが、片手に持った紙をしまう動作はしない。興味を惹かれて手元を覗き見ると、それは写真だった。幼い少年が身に余るほど大きなウサギのぬいぐるみを抱え、こちらに無邪気に微笑みかけている。炎の具合で色が判別しにくいが、髪の色素はかなり薄い。年は十歳に満たないくらいだろうか、くっきりした二重の目はぱっちりとしていて、ルネサンス期の天使にも似た美少年である。

 思わずほうとため息が漏れた。


「驚いたな。そんなに大きな息子がいたのか」

「馬鹿言えよ、いくつの時の子供だっての。天然かよ、お前は」


 ヴェルナーが嘆息しながら私の顔を見、また写真に目を落とす。こりゃあ弟子だよ、俺の、とぼそっと呟かれた言葉は、意図して感情を抑えているように聞こえた。


「弟子……」

「まあ、俺の弟子っつうか、弟弟子おとうとでしでもあるんだけどな」


 しんみりした調子で言う。

 師匠と弟子、というのは影特有の教育システムだ。影のエージェント養成の仕方は二つある。一つは世界各地に点在する、影の養成所――孤児院や児童養護施設の形をとることが多い――での教育。もう一つは、私やヴェルナーがそうしてきたように、影のエージェントと師弟関係を結んで受ける教育だ。

 エージェントが弟子をとる場合、見込みのある人間――多くは幼く身寄りのない子供――を、予見士からのアドバイスを受け選別し、引き取って養育する。師匠は弟子に、持っている全ての技術を教え込む。ヴェルナーがその歳で既に弟子を持っているのは、驚嘆すべき事柄だった。

 そして、ヴェルナーは彼を本国に一人残し、ここに来ているというわけなのだろう。


「……心配なのか」

「たりめえだろ。まだ十三なのに、一人ででかい家にいるんだぜ。きっと毎日泣いてるよ」


 どこかねたような口ぶりだった。

 もう一度写真を見る。どこまでも澄んだ、濁りのない瞳だった。自分が失って久しい、無邪気な清らかさがそこには宿っていた。けれど、彼もいずれは失うのだろう。影という組織の在り方を知り、自分の手の汚し方を学ぶようになれば。


 弟子は、師匠をその手であやめて初めて一人前になる。


 そのために存在する、"影のエージェント同士においてはどんな法律違反も罰せられない"、という規則。本当に、くそったれだ。

 彼が一人で家にいるということは、ヴェルナーの師匠はもうこの世にいないのだろう。ヴェルナー自身が手を下したから。彼が師に銃口を向ける様子が、なぜだか瞼の裏にはっきり浮かぶようだった。私だって一時も忘れることはない、師の今際いまわの目つき。そして彼が手帳に遺したもの。

 ヴェルナーはどうだか知らないが、私は師匠である養父を憎んでいた。どんなに苦しい鍛練をこなしても、お前は他人より劣っているのだからもっと努力しろと蔑まれ、こそこそと数学を勉強しているのがバレれば、養護施設から譲り受けた大切な教本をずたずたにされゴミ箱に放り込まれ、自身は殴られたり蹴られたりした。十年近く暴力と暴言の嵐を耐え忍んだ私は、物言わぬむくろとなったその人を前にしても、ほとんど何も感じなかった。

 嗚咽するほど泣いたのは、父の遺品を整理する段階に至ってからだ。父の手帳の最後のページに、


"錦へ

お前がこれを見るか分からんが、見るとしたら、私はもうこの世にいないのだろう。お前はちゃんと私を憎めただろうか。手にかける瞬間になって、躊躇せずに済んだだろうか。そうであったなら良いのだが。

自分の最期のために、お前にずっと冷たく当たってきたことを、許せとは言わない。お前は強くなった。私より、ずっと。だから、これからは自分の好きに進むといい。

長い間、苦しめてすまなかった"


 そう走り書きしてあった。

 勝手だと思った。父はわざと私を逆上させるような振る舞いをしていたのだ。何て馬鹿だ、何ていびつで不器用な愛情だ。父の胸を思いっきり叩いて、叩いて、叩いて、泣き崩れたかった。死ぬ前になぜ言ってくれなかったのかと罵倒したかった。

 それをぶつける相手はもういない。私が殺したから。自分は父に認められたかったのだ、とその時初めて気がついた。涙が枯れるほど泣いたその日から、私は本当に独りになった。

 きっと、ヴェルナーの弟弟子である無垢な彼も、やがてはそれを背負うことになるのだろう。


「早く帰ってやりてえよ」


 ヴェルナーの声に、現実へと引き戻される。

 赤髪の軽薄な男は、しかし今は深刻な顔をして、写真の表面を親指で撫ぜる。その双眸には確かに父性めいたものが宿っていた。二歳年下のその男が、今は自分より幾回りか大きく見えた。

 不意に、血色の瞳がこちらを見据え、思わずぎくりとする。


「お前も早く帰りてえだろ?」

「私には――もう帰る場所などない」

「そうかい。そりゃ寂しいこった」


 居場所、見つけられるといいな、といつになく真面目な声音のヴェルナーに、私は何も返す言葉を持たなかった。そんな場所が、見つかるとは思えなかった。

 ルネの隣以外には。



 自分はもう、ルネとの密かな秘め事から、身を引くべきなのだと決意した。このまま練習を続けていれば、取り返しのつかない行為に及んでしまいそうな危惧があった。決心するのが遅すぎたくらいだ。

 今夜も、ルネは花にも似た笑みを浮かべ、無言で私のことを見ている。私が何か口にする前に、相対したルネはつかつかと距離をつめ、ぐいと耳元に顔を寄せてきた。何度も嗅いだ、ルネの匂いがする。私の自我は簡単に吹っ飛びそうになり、衝動的に抱擁の形を取ろうとする両腕をたしなめる。

 背伸びをしたルネの唇が、頬に軽く触れた。

 かっと顔が熱を持つ。思わず、彼女の唇の感触が残るそこを、掌で押さえた。


「な、いきなり、何を――」

「ほら、錦も」


 至近距離から私を見上げるルネは、平然と自身の頬をとんとんと指で叩く。

 自分が彼女に、口づけをする。そう考えただけで、体全体が発熱するようだった。そんなことをしたら、おそらく自分を踏みとどめているたがが外れてしまうと、容易に想像できた。

 もう限界だと思った。

 すぐそこにいる女性を、出し抜けにぐいと抱き寄せる。ルネが息を飲む。きつく抱き締めすぎて、彼女の呼吸が一瞬止まる。


「もう我慢できないんだ」


 耳元で囁く声は上ずり、震えていた。

 ルネが恐れを抱いたように、か細く聞き直してくる。


「錦……?」


 荒くなる呼吸をなだめながら、彼女に下半身をわざと押しつける。ルネの身がびくりと震えた。これで彼女にも、私が今どんな状態か分かっただろう。


「分かるだろう? 限界なんだ。君が好きなんだ……」


 いつしか、ほろりと本音がこぼれ落ちていた。

 ルネの肩を掴み、体を離す。ルネの眉尻は下がり、目元に力が入っていた。口元はわずかに震えている。その表情に浮かぶのは恐怖だろうか。畏怖だろうか。嫌悪だろうか。侮蔑だろうか。

 何にせよ、これで終わりだった。

 これ以上、この関係を続けることはできない。私の愚かさのせいで。


「困ったな」


 ふと、ルネが苦笑した。言葉どおり、心から困ったように。

 この期に及んで、自分の心がしゅんと縮むのを感じた。この気持ちは、彼女を困らせてしまう。当たり前だ。ここは戦場で、ルネは部隊長。この気持ちがこの状況に相応しくないのは明白だ。分かっているのに、少なからずショックを受けている自分が腹立たしく、同時に滑稽だった。 

 目が潤んでくるのを隠したくて、ルネに背を向ける。


「もう辞めよう。もう、ただの隊員と隊長に戻ろう――」


 どう聞いても涙声になっていた。ルネが気づかないはずがないくらいに。間違いなく、その瞬間が人生で一番惨めだった。


「待ってくれ」


 一歩踏み出そうとする私を、しかしルネは引き留めた。右手が、柔らかいルネの手に引かれる。


「違うんだ。私も君と同じ気持ちなんだ」 

「……え」 

「たぶん……私の方が先に君を好きになっていた。しかし、これは訓練だからと自分に言い聞かせていたんだ。最後まで隠そうと思っていたんだよ。でも……君も同じだったなんてな。だから困ったと言ったんだよ」


 信じられない気持ちで、振り返る。

 ルネはほのかに頬を染め、はにかみ笑いをこちらに向けていた。

 その時、私は彼女が自分の上官だということを忘れた。自分たちが戦員だということを忘れた。立場も経歴も忘れて、そこにいる人を、ただ愛おしいと思った。

 

「ルネ!」 


 胸の底から溢れでる喜びに突き動かされるまま、私はルネを抱き締める。頬を寄せても嫌がられなかった。 

 嫌じゃないのか、と訊くと、腕の中でこくりとルネが頷く。 


「ああ……他の男なら恐怖心が湧き出てくるのに、なぜかな――錦なら安心するんだ」


 ルネが脱力して、私の胸に体を預けてきた。鼻腔をルネの髪の香りが満たす。夢を見ているようだった。意中の女性が、今まさに自分の腕の中にいる。

 そう思うと、もう止められなかった。己の中の野性性が、むくむくと鎌首をもたげる。どうにか自分を留めていた理性が、ルネの髪に顔をうずめた瞬間吹っ飛んだ。

 このひとを、今すぐ自分のものにしてしまいたい。 

 ほとんど無我夢中の状態で、ルネをマットの上へ組み敷いていた。彼女の美しい髪が床に広がる。驚いた表情で、ルネが私を見上げてくる。脳みそがだったように、何も考えられない。ただ、そのルネの顔が美しいとだけ、その思いだけが思考回路を埋め尽くす。

 私はこの人が好きだ。


「錦……?」


 震える声で、はっと我に返る。自分が何をしようとしているかを自覚する。馬鹿だ、私は。これでは、彼女を傷つけた輩と同じではないか。

 歯を食いしばる。今すぐにでもルネに己を刻みたい衝動を、必死で押し込める。興奮状態にある体、その全身がわなないた。駄目だ、と自分に言い聞かせる。今は駄目だ、駄目だ、駄目だ――。 

 ルネがそろそろと手を伸ばして、私の頬に触れた。

 

「錦。大丈夫だ。君相手なら、怖くない」 


 初めて聞いたルネの声は少年のようだと思ったのに、今は可愛らしい女性のものだとしか思われなかった。彼女の顔は上気して、眸はわずかに潤んでいる。そんな表情でほほえまれて、己の欲動を抑えることなどできるはずがなかった。

 私は全ての理性を手放し、ルネもそれに応えた。



 私とルネは結ばれた。

 そして、その忘我の日々は、長くは続かなかった。

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