彼らのこと・回想 銀の追憶Ⅱ(1/2)

―桐原錦の話


 男が苦手だ、というルネの告白。

 それについて、心当たりがないでもなかった。



 第一部隊には、半月に1回ほど、食糧や備品の補充のために配給がある。支援部隊の運び屋クーリエたちが、海底通路を通ってえっちらおっちらと人力で荷台を牽いてくるのだ。いったい何世紀の光景だと呆れたくもなるが、しち面倒な入島手段のためにそうする他にないのである。支援部隊の中には運び屋のみならず治療屋ドクもいて、第一部隊にも軍医はいるにはいるのだが、隊員に話せない心理面での微妙な相談を抱えている者は、ここぞとばかりにその時を狙い、彼および彼女に内面を吐露しているようだった。

 その支援部隊員の中に、ルネが一際親しくしている女性がいる。

 まばゆいほどの金髪に、こぼれ落ちそうに大きな青い瞳。名を、シャーロット・エディントンという。

 成人するかしないかほどの若さで、隊員たちは配給よりも、彼女に会えるのを楽しみにしている節があった。シャーロットは控えめな性格で、一人ひとりに要り用なものがないか聞いて回る。支援部隊のエージェントたちが逗留している二、三日のあいだ、彼女は右へ左へ引っ張りだこだった。私はそんな彼女の様子を、あんな人気者ではさぞかし気苦労が多いのだろうな、と遠巻きに眺めていた。

 彼女が最も多くの時間を共に過ごしているのがルネだった。シャーロットが島に訪れる度、ルネは男装した舞台俳優ばりの大げさな仕草で彼女を迎えた。

 曰く、


「君が来るのを待ちわびていたよ。君のいない日々はまるで羽根をもがれた鳥のような気分だった……」

「ああ驚いた! 君の周りの空気が宝石のように輝いて見えて、そこに天使が舞い降りたのかと思ったよ」

「シャーロット。かわいいかわいい私の子猫……」


 等々。聞いている男の方が恥ずかしくなって赤面するほどの台詞を、ルネは顔色も変えず滔々と並べてみせる。シャーロットは呆れるどころか、ぽっと頬を染めて、ルネに肩を抱かれるままになっていた。二人のその姿はまるで仲睦まじい美男美女で、私たち男どもを何とも例えがたい妙な気分にさせるのだった。

 そのシャーロットを一番熱心に口説いていたのはヴェルナーだ。

 彼はどうも女性には誰でも(ただしルネを除き)優しくする癖を持っているようで、支援部隊が来る日のはしゃぎようといったらなかった。

 その中でも、おっとりとした気質で拒否の言葉をなかなか口にしないシャーロットは、格好の標的だった。ヴェルナーが彼女を人気のないところに連れ込み、嫌がっているのに無理やり男女の関係に持ち込もうとするのを、ルネと二人で阻止したこともある。私が力づくでヴェルナーを引き剥がし、シャーロットはルネに優しく抱き締められて震えていた。どうやらルネは、女性相手には肌を触れ合わせるのを厭わないようだった。

 ヴェルナーは何度邪魔をされても、シャーロットに関わるのをやめようとはしなかった。女性関係にだけは変に粘り強く、我々の手を焼かせた。ある時などは、生憎ルネがシューニャに呼び出されて留守にしており、私一人でヴェルナーをぼこぼこに叩きのめす羽目になったこともあった。

 私に引きずられながら、ヴェルナーはシャーロットに向かってウィンクとサムズアップを飛ばす。どこまでも懲りない男に、脇腹へ膝を入れてやると、やっと大人しくなった。


「あの、先ほどはありがとうございました」


 振り回されて疲労感を覚えた私が、木陰で一息吐いていると、シャーロットは律儀に礼を言い、ぺこりと頭を下げてきた。その姿を見上げ、目を合わせると、彼女の身に緊張が走るのが分かる。

 男との会話に慣れていないのだろうか。そんな調子で男だらけの場所に来ているのだから、きっと精神的な負荷が大きいのだろうなと思われた。


「礼には及ばない」

「いえ、そういうわけにはいきません。あの……新しく入隊した方ですよね。何か足りないものがあったら、お気軽に言ってくださいね」

「特にないし、今後も不足する予定はない。私のことは気にしなくていい」

「え、えっと……」

「それよりも、君は自分の身を守ることを覚えた方がいい。ルネや私がいつも目を光らせていられるわけではないんでな。君もエージェントの一員なら、自衛の手段を身につけるべきだ」

「あ……そ、そうですね。そうします……」


 シャーロットは肩を落とし、しょんぼりした様子で私の前から去っていった。異性との付き合い方が上手くないのは私も同じだな、とその時考えた。 

 ルネとシャーロットはよく、二人きりで長々と話し込んでいた。詳しい内容は知らない。しかし風の噂で流れてくる話から察するに、どうもシャーロットは支援部隊から執行部隊への異動を望んでいたらしい。それについての助言をルネに求めていたようだ。

 ルネがシャーロットに向ける視線は慈愛を含み、優しかった。時には愛おしげに目を細めながら、シャーロットの耳下で切り揃えられた金髪を梳くように撫でていた。愛撫を受けるシャーロットの方でも、恥じらいつつも目元や口元をほころばせ、その熱い瞳はただルネだけに注がれていた。誰も近づけない、二人の世界がそこにはあった。

 恋愛感情の存在すら疑える、彼女らの雰囲気に私は嫉妬を覚え、そしてまた、そんな自分が腹立たしかった。女性に羨望を抱いてしまうなど、お門違いもいいところだ。

 もしかしたら、ルネは男が嫌いなだけでなく、女性を好いているのかもしれない、と思うようになっていた。

 その疑惑はその後すぐ、打ち砕かれることになるのだが。



 ルネの提案により開始の運びとなった、彼女の男性への恐怖を和らげるための特訓。それは、夜の静寂の中、互いの呼吸の音だけを聞きながら始まった。

 週に二、三回程度、私たちはこっそり隊長室で落ち合うこととした。秘密の共有は結果として、どことなく甘美な罪悪感を、双方の胸中にもたらした。


「それじゃあ、始めるか」


 初回、ぎこちない動作で私が隊長室に入るなり、書き物をしていたルネはそう言う。おもむろに立ち上がった彼女と、部屋の真ん中で向かい合う。

 私は緊張していた。たとえ練習という名目でも、誰かと男と女の関係になったことなど無かったし、ルネから何をするのかも詳しく聞いていなかったからだ。

 ルネがよし、と自らを鼓舞するように呟く。 


「まずはハグからだな」


 そして、さあ来いという風に、両手を広げて待ち構える。

 思わず、後退りしそうになった。じわっと変な汗をかく。


「いきなりか。わ、私から行くのか……?」


 弱々しく問うと、ルネは深々と首肯する。

 どんな厳しい戦況を前にしてもおののいた試しなどないのに、その時の私の両手は情けなく震えていた。ルネは言い換えれば未知だった。その下に何が隠されているのかも分からない、一面真っ白の雪原だった。

 私はその歳まで、他人にほとんど触れた経験がなかった。養父に暴力を受けたのを除けば、皆無と言ってもいいくらいに。自分が女性と抱きあうなんて、人生にそんな甘いイベントが起ころうとは露ほども考えていなかった。血と泥にまみれて、そうしていつか野垂れ死ぬのだと思い込んでいた。

 ルネの視線はぶれずに私に注がれている。おずおずと彼女に近寄り、黎明期のロボットさながらの覚束おぼつかなさで手を伸ばす。背中に腕を回すと、ルネの体はぴくんと小さく跳ねた。一瞬呼吸が荒くなるが、ルネはそれを無理に抑え込む。


「大丈夫か?」

「いい。続けてくれ」


 その声音には余裕はなかったけれど、ルネはそれに抗うように手を伸ばし、私の胸に体を預けてきた。髪からほんのりと甘やかな香りがする。温かい。柔らかい。どこか懐かしいその匂いに、視界が一瞬くらりと揺れる。足を踏ん張って、どうにか姿勢を維持する。

 彼女のしなやかながら細い体躯は、私の腕の中にすっぽりと収まった。幅も狭く、そして何より薄い肩だった。力を込めたらすぐにでも折れてしまいそうな。

 そうしていると、理由は分からないが気持ちが満たされた。心臓が肋骨の内側を激しく叩いているけれど、嫌な緊張ではなかった。まさにここが、自分の居場所だったのだと分かった。

 抱擁する腕にぐっと力を入れると、私の胴に回されたルネの手がばしばしと体を叩く。


「おい錦、力入れすぎだ。痛いぞ」

「あっ、ああ、すまない……」


 どうやら加減を誤ったらしい。慌てて両腕を解くと、抱き締められていたせいか頬をわずかに上気させたルネが、私を見上げて苦笑いしていた。


「君、童貞か」 

「え」


 さらりと放たれたルネの言葉にたじろぐ。

  

「いや、まあ、その、確かにど……女性と睦まじい仲になったことはないが……」


 しどろもどろになりながら、なんとかそれだけ返す。

 これまでの人生で、私は女性に縁がなかっただけでなく、特定の誰かと親しくなること自体を初めから諦めていた。幼い頃、施設から養父に引き取られてからというもの、彼について国内を転々としていたためだ。学校のクラスメイトの顔を覚える頃には、もう次の場所へ移動する日が決まっていた。 

 影のエージェントであった養父の死と、"パシフィスの火"の勃発はほぼ同時期で、私は後ろ楯をうしなった代わりに、どこへでも赴くことができた。何も守るものを持たない身というのは楽だった。それに、各国の特殊部隊員とともに作戦に身を投じていれば、余計なこと――主に養父の最期――について考えずに済んだ。 仲間のうちにはそんな状況下で女性の肌に飢え、現地の風俗などを利用していた者も多かったが、私はそういう方面には興味が薄かった。自分にとって、戦いだけが生活の全てだった。

 そのような理由から、私はその時まで、人と肌を触れ合わせたことがなかったのだ。

 

「信じられんなあ。君、背も高いし顔もいいんだからモテるだろう?」

「? それは、何の皮肉だ?」

「皮肉ってなあ、君……」


 ルネが心底面白そうに笑う。その表情を直視できなくて、火照った顔を反射的に逸らした。ルネの訓練のはずなのに、これでは立場が逆転しているではないか。


「錦はかわいいな」


 ぼそっとルネが漏らす。いつもより少し低いその声に、なぜだか背筋がぞくりと震えた。


「私を見ろ、錦」


 彼女の両手が私の頬を捕らえ、強制的に前を向かせる。ルネは優しくほほえんでいた。なのに、足の着かない海で鮫に出会ってしまったように、体が固まって指一本たりとも動かせない。

 私の目にはルネの唇が拡大されたかに見える。戦地でも艶を失わないそこに、全ての意識が集中する。感じてはいけない唇のなまめかしさを、熱に浮かされた思考がスキャンする。自分の獰猛な部分が目覚めはじめるのを自覚する。

 不意にルネが全身を強く押し付けてきて、私はバランスを崩した。彼女の体と自分の体が絡んだまま、床の上のマットに仰向けに倒れる。痛くはなかったが、急に体勢が変わって頭がぐらぐらした。

 ルネは私の上に馬乗りになっていた。

 いつぞやの夜のような殺気は、今の彼女にはない。代わりに、少々意地悪な、小悪魔的な笑みが口の端に貼りついている。

 何がどうなっているか混乱し、半身を起こした私の唇を、手袋をしたままのルネの指先がゆっくりとなぞってゆく。ぞくぞくして言葉がでない。ルネの長く美しい銀髪の半分ほどが私の体の上に垂れ、自分の視界の大部分は、湾曲した幕のようになっているそれに閉ざされていた。

 ばくばくという心臓の音がうるさい。

 するり、とルネの指がコートのあわせの中に入ってきて動揺した。体がびくりと過剰に跳ねる。 


「ルネ、待ってくれ……」


 久しぶりに発声してみると、自分のものとは思えないくらい声がか細く、上ずっていた。

 どういうことなのだ、これは。男は苦手なのではなかったか。もしかして、自分が優位ならば問題ないとでもいうのか?

 ルネが目元を緩ませる。


「大人しくしていれば悪いようにはしないさ」

「駄目だ、こんなところで――」


 私に見えている景色は、いつからかぼやけていた。こんな顔を見られたくないのに、彼女の華奢な体を振り払うことすらできない。

 彼女の指の腹がつつ、と脇腹を撫でる。感覚が鋭敏になりすぎてくすぐったい。


「ひ……っ」

「初めてなんだろう? 君は何もしなくていい。そのまま、寝ていればいい」

「ル、ネ」

「あんまりかわいい声を出すなよ。煽ってるのか?」

「ちが……」


 熱病に侵されたように、頭がぼーっと熱い。

 ルネが耳元まで顔を近づけて、低く囁いた。


「私が君の純潔を奪ってやろう」


 体の先端から先端まで電流が走った。ルネの声はまるで麻酔だった。脳が麻痺して、まともに考えられない。ルネの指が私の服をあばき、肌に指先が触れるのまで想像が展開する。

 もうどうにでもなれと、私は目を閉じた。

 しかし、覚悟した嵐は、いつまでもやってこなかった。

 薄目を開くと、口元に手をやり、肩を小刻みに震わせてルネが忍び笑いを漏らしている。


「……なんてな。少しいじめすぎたか」


 悪びれずにのたまう姿は、まるで悪ガキだった。

 してやられた。私は唖然として、阿呆のように彼女を見返すしかない。


「君はなんというか、いじめたくなるな。今日はもうやめておいた方がよさそうだ。次からもかわいがってやるから、逃げるなよ?」


 楽しげなルネに、鼻をつんとつつかれる。私は頭を抱えたかった。穴があったら埋めてほしかった。むしろ、穴がなくても海に沈めてほしかった。

 その時の自分の脳裏に浮かんでいたもの。それは、蜘蛛が獲物の虫を糸でぐるぐる巻きにするところ。

 絡め取られた。そう思った。

 その晩は体の熱をもて余して、夜通し悶々と思い悩むことになったが、その顛末はまあ、どうでもいいだろう。



 その後も訓練は続いたが、初回のようなドラスティックなルネは嘘のように鳴りを潜めていた。無言で長々と抱き合い、頬を寄せるだけのキスを繰り返す。何度も、何度も。

 ルネは徐々に慣れてきたのか、私が素手で頬に触れても、ほぼ拒否反応を示さないまでになっていた。

 私の方はというと、訓練に全く慣れることができず、ルネと秘密を共にした夜は本能がたかぶり、どうしようもなく体の芯が熱を帯びた。こんなに自分の体の制御が利かないのは初めてだった。それを鎮めるため、ルネの悪戯っぽい顔を想起しながら、自らを慰めるのはどこまでも惨めなものだった。

 テント群と見張り連中から離れ、草むらの中で息を荒くし、べとべとになった右手を冷然とした気持ちで見つめていると、自分が極限まで卑しく矮小な存在に思われ、あの孤高で高潔な美しさを持つルネに申し訳なかった。罪の意識で押し潰されそうなのに、その背徳感すら次の興奮の薪となり、懲りずに全身を火照ほてらす自分がほとほと嫌だった。

 ルネの指で優しく触ってほしい。優しくなくてもいいから、乱暴でもいいから、彼女の指が欲しい。

 ルネに触りたい。抱き締めたい。ルネに触ってほしい。抱き締めてほしい。

 もっとずっと先まで、二人で行きたい。

 行き場なく堆積する思いを抱えて独りで達したあと、私は決まって涙を流していた。

 知りたくなかった。自分が、こんなに最低の男だったなんて。

(続く)

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