彼らのこと The Hero is Here. Ⅲ(2/2)

(承前)

* * * *

水城麗衣みずきれいの話


 桐原先生に促され、建物の外まで走り抜けた私は、草むらの中で混乱をきたしていた。

 ――どうしよう、ここから離れた方がいいのかな……でも、先生のこと気になるし……。あ、そうだ! 救急車と警察に連絡、救急車って何番だっけ……!

 スカートのポケットに携帯を入れていてよかった。先生のスーツの上着をかき合わせ、ダイヤルしようとしたところで、携帯がいきなり視界からすぽんと消えた。


「えっ」

「呼ばなくていいですよ」


 至近距離から、男性の声がした。

 ぎょっとして振り向くとそこに、欧米人とおぼしき金髪碧眼の青年が微笑みを湛えて立っていた。その手で私の携帯をもてあそんでいる。彼が私の頭の上から手を伸ばし、携帯を後ろから取り上げたらしい。

 ぞぞっと背中が粟立あわだって、反射的に一歩退く。さっきの人たちの仲間だろうか。


「そんなに身構えなくて大丈夫ですよ。僕は桐原さんの味方ですから」


 そう、流暢な日本語で言う。先生の名前が彼の口から出たことに、いくらか安心して緊張を解いた。


「水城麗衣さん、ですよね。あなたも、一緒に車に乗って下さい。じきに桐原さんとヴェルナーさんも来ると思うので」


 青年は携帯を私に手渡しながら、後方を指で示した。砂利道に、後部が黒塗りになったバンが停まっている。後ろの扉は開いていた。

 ううん、見るからに怪しい……。けれど青年の口ぶりには、物腰の柔らかさとは裏腹に有無を言わさぬ凄みがあった。運転席に乗りこんだ彼に続き、警戒しつつ渋々助手席のドアを開けると、シートの上で黒い影が蠢いた。


「うわ」

「ノイ、後ろに行っていて」


 影は黒猫だった。暗がりの中で、瞳がぎらりと光っている。青年の指示をまるで理解しているかのように、猫は車の後ろへ移動していく。その尻尾を目で追うと、車の後方に座席はなく、カーペットが敷かれた平らなスペースが車内に広がっていた。大人が優に横たわれる広さだ。

 不意に青年が口を開く。


「名乗り忘れていましたけど、僕はハンスです。ハンス・リヒター。覚えなくてもいいですけどね」

「ハンス……さん。えっと、私は水城麗衣です」

「知ってますよ」


 ハンスさんは軽く笑い声をあげた。そういえばさっきフルネームを呼ばれていたっけ。動転しすぎだ。頬が熱くなって、俯いて両拳を握り締める。それにしても、彼は何者なんだろう。ちらりと横目で窺うと、作り物かと思われるほど整った相貌がある。こんな美青年と知り合う機会なんて、私にはない。

 しばらく祈るような気持ちでいると、工場の出入り口から大柄な男性が出てきた。同じくらいの体格の人を抱えている――桐原先生だ。ぐったりとしていて、身動みじろぎひとつしない。自分の顔から血の気が引くのが分かった。気を失っているみたいだ。

 車の近くまで二人が来ると、先生のシャツが赤黒く染まっており、顔はひどく青ざめているのが見えた。まるで生気が感じられない。胸がざわざわと落ち着かなかった。

 車の平坦な床部分へ、男性が先生をそこに担ぎ込む。苦しげな、浅い呼吸が聞こえてくる。つらそうだ。視界が潤む。私のせいだ。私のせいで、好きな人がこんな目に。


「俺は止血の続きするから、ハンス、運転頼むわ」

「了解です」


 男性が後部から車に乗り込んできて言うのへ、ハンスさんが返事をする。長身の男性は目につく赤毛だった。そこで気づく。この人とは、何ヵ月か前に一度会ったことがあると。先生を下の名前で呼んでいた、おそらくは、桐原先生の昔からの知り合い。

 ばん、とドアが閉じるのと同時に、車がぶるりと身震いして発進する。

 私は後ろに向かって、思いきって声を張った。


「あのっ、救急車とか、呼ばなくていいんですか。あ、それに警察! あの人たち、銃を持ってました! 警察に言わなきゃ――」

「お嬢さん」


 てきぱきと先生の傷口に包帯を巻き、手元を血まみれにした赤い髪の男性が、落ち着き払った声音で私の話を遮る。


「ちと静かにしてくれねェかな。君より俺たちの方が慣れてるんだわ、こういうの」

「今は騒がず僕たちに従って下さい、いいですね?」


 ハンドルを握るハンスさんからも、淡々とした言葉が向けられる。


「は、い……」


 穏やかながら反論を許さない調子に、私は小さく首肯せざるを得なかった。

 項垂うなだれて前方に顔を戻そうとした、その瞬間。先生の口元がわなないて、う、と苦しげな呻きが漏れた。

 はっと注視する。薄目が開く。先生の手が弱々しく伸び、傍らで手当てをしている男性の腕を掴んだ。


「……ヴェル? ここ、は……」

「車の中だよ。今病院に向かってる」

「水城先生、は……」

「無事だよ。怪我もない。車に一緒に乗ってくれてる。だから安心して寝てろ」

「そうか。良かった……」


 桐原先生はまた目を瞑り、糸が切れるように、またまどろみへと落ちていった。

 私を気遣っている。自分自身じゃなく。こんな状況と状態でも他人を想う彼の振るまいに、ぎゅっと胸が苦しくなり、また涙がこみ上げてきた。



 静まり返った病院の待合室に、"手術中"の無機質な赤い光が灯る。

 金髪の青年――ハンスさんが運転する車は、こぢんまりとした病院に横付けされた。連絡を受けていたのか、すぐにストレッチャーを携えた看護師さんたちがわらわらと出てきて、桐原先生を搬送していく。

 病院の外観を見て、なんだか心配になった。そこが小規模な開業医だったからだ。もっと大きく、設備が整った病院に行かなくて大丈夫なのだろうか。

 私以外の二人は車外に出て、ふうっと息を吐く。


「やれやれ。元影の隊医がやってる病院が近くにあって良かったぜ」

「ほんとですね。間に合っているといいんですが」


 暢気のんきにも思える発言に、かっと頭に血が昇るのが分かった。

 気づいたときには彼らの前に躍り出て、大声で喚き散らしていた。


「あの! こんな病院でいいんですか? ここ、個人の開業医じゃないですか。救急車も呼ばない、警察も呼ばない、そんなのおかしいですよ! これでもし先生が助からなかったら……助からなかったら、私の、せ――」

「お嬢さん。泣くにはまだ早いぜ」


 湧き出てくる言葉をそのままぶつける私を、赤毛の男性が優しい声でなだめる。

 自分の頬に、いつの間にか、熱いものがつううと伝っていた。感情が昂りすぎて、抑えることなんてできはしなかった。どうして先生がこんな目に。助けて。助けて。

 助けてよ。


「冷えてきたし、とりあえず中に入ろうか」


 男性がそっと私の肩を抱き、病院のロビーへ促すのに、力なく従う他になかった。

 そして今、私は手術室の前にある長椅子に腰かけている。

 入院着を貸してもらって、その上から先生のスーツを羽織っていた。その袖部分を、ぎゅっと両手で握り直す。私の肩を強く抱き締める、先生の手の感触がまだ体に残っていた。

 お願い。お願いします。助けて。助けて下さい。

 どうしても悪い想像ばかりが膨らむ。もしも、手遅れだったら。先生がもしも、助からなかったら。あの手術中のランプが消えて、駄目でした、医者たちがそう肩を落として、頭を振りながら出てきたら――。

 黒々とした想像に呑まれそうになっていると、ふと、視界に紅茶の缶がフェードインしてきた。


「どうぞ」


 見上げると、にこやかに笑う赤髪の男性だった。

 ぎこちなくそれを受け取る。温かかった。それで、自分の手がどれだけ冷えていたのかを知った。

 男性が私の隣にその長身を沈ませる。


「紅茶は嫌いじゃなかった?」

「……はい、好きです」

「そういえば、あいつがコーヒーをブラックで飲めないの知ってる?」

「え、いいえ。そうなんですか」

「そうそう。意外と可愛いげがあるよな、あいつ」


 穏やかに男性が笑う。

 その声はゆったりとしていて、焦燥感など微塵もなく、大河の流れのように落ち着いていた。気持ちがじんわりと温かく包み込まれ、荒立った心の表面が少しだけなだらかになるのを感じた。混乱を極めている私の感情を、揉みほぐしてくれているのだろう。素直に、ありがたかった。

 少しの静寂を置き、


「君のせいじゃないよ」


 唐突に、そう彼が言った。

 心でも読んだかのようなタイミングに、まじまじと彼の顔を見てしまう。


「君が負い目に感じる必要なんてないんだ。むしろ、あいつは自分が君を巻き込んだと思ってるはずだよ。大丈夫、あいつはこれしきでくたばるようなタマじゃないさ」

「……」

「もしこれで死んだりしたら、俺があの世まで、あいつをぶっ飛ばしに行ってやるよ」


 その声はからっとしていて、湿度の低い南国の風のように、朗らかだった。

 彼につられて、涙目になりながらもふふっと笑ってしまう。


「ありがとうございます。おかげでちょっと、前向きになれました。あの……」

「ああ、言ってなかったね。俺はヴェルナー。ヴェルナー・シェーンヴォルフ」

「ありがとうございます、ヴェルナーさん」

「……君に話があるんだけどさ」


 ヴェルナーさんが膝をこちらに向け、先ほどとはうって変わって真面目な調子で、そう切り出した。自然、私の背中も伸びる。

 彼は決定的な言葉を口にした。


「君は、錦のことが好きなんだよね」


 そう、歩くような速度で。

 心臓が一瞬止まる。私に向けられている赤い双眸の中心は、底の知れない深淵だった。不意に背筋がぞくりとする。その瞳の前では、何も取り繕えそうになかった。小さくこくりと首を振る。


「……はい」

「今日ので分かったと思うけど、あいつは普通の人間じゃない。あいつは、君とは別の世界に生きてる人間だ。君とは全然違う常識の中で生きてきた人間なんだ。それでも、あいつを好きでいられる?」


 冷静な、冷淡ともいえるほどの問いかけだった。試されている、という気がした。

 手にある缶をきゅっと両掌で包む。

 ――怖いと、思った。今までに見たことない目をして、聞いたことのない声を放つ桐原先生を、少しだけ怖いと感じてしまった。それは事実だ。けれど、それはその時だけのことだ。だって、彼は私を助けてくれたのだから。しかも、命がけで。

 自分の、桐原先生が好きだという好意の形は、どこも変容してはいない。

 だから私は、迫力のあるヴェルナーさんの赤い眼を、真っ向から見返して答える。


「はい」


 気持ち強く発声すると、彼がそれに応えてにやっと笑う。


「いい返事だ。あいつは一筋縄ではいかないぜ。それでもいいのかい」

「もちろんです」

「それならさ、君の想いがあいつに届くように、俺もできるだけのことは協力するよ」

「……え」


 思いがけない申し出に、目をぱちくりさせてしまう。あの先生のことを下の名前で呼ぶなんて、よっぽどヴェルナーさんは彼と仲がいいに違いない。そんな人からのありがたい提案を、断る理由などなかった。

 けれど、以前二言三言言葉を交わしたとはいえ、私たちはほとんど初対面なのだ。そんな人間に対して、どうしてそんな配慮をしてくれるのか理解できなかった。


「どうしてそんな……ヴェルナーさんは私のこと、まだほとんど知らないんじゃ……」

「俺は恋する女の子の味方だからね。理由なんて要らないさ。それに、あいつの子供も見てみたいしね」


 ヴェルナーさんは芝居がかった口ぶりで言うと、ばちんと気障キザっぽくウインクした。まるでステージ上にいる舞台俳優のように。

 何と返すべきものか、と迷いつつ黙っていると、


「それより、手術が長引きそうだから君は帰った方がいいよ。手術が終わっても、どうせしばらく意識が戻らないだろうし。連絡先を教えてくれれば、意識が戻ったら伝えるからさ。家までハンスに送らせるよ」


 反論しようと半ば口を開けるも、ここにいるべき理由が見つからず、言葉を飲み込む。心情的には先生の側についていたいのはやまやまだったが、私がここにいたところで何にもならない。時計を見ると、もう二十二時を回っていた。それに手術が終わったところで、すぐには面会できないに違いない。


「……そう、ですね。ここにいても何もできないし。分かりました、帰ります」


 私は素直に立ち上がって、ヴェルナーさんにぺこりと頭を下げた。赤髪の男性はうん、気をつけて、と言いながらほほえみ、暗がりに向かって声を放つ。


「じゃあハンス、送ってあげて」

「了解です」


 廊下の闇の中から、すうっと青年と猫が現れた。

 じゃあ行きましょうか、という青年に従って外に出る。まだ秋の初めだし、そこまで空気は冷えているわけではないけれど、風が妙に身に染みた。病院の前の道路は、この時間でも車がそれなりに行き交っていて、それがどこか遠い景色に見えた。

 病院のロータリーに停められていたのは、私の愛車の水色の軽だった。


「あ、私の車……」

「車から降りるときは、鍵をかけた方がいいですよ」


 年下であろう青年に言われると気恥ずかしかった。

 ハンスさんは自然な動作で運転席に乗る。それを特段おかしく思わないくらいには、ぼんやりと頭に霧がかかっていた。まるで、磨りガラスを通して世界を見ているようだった。今夜は、色んなことがありすぎた。


「今日は大変でしたね」


 知ってか知らずか、青年が適切なタイミングで切り込んでくる。その声は、一枚膜を隔てたところから届くのに似ていて、意味を掴むのに数瞬を要した。

 一拍遅れて、ふるふると体の前で手を振る。


「いえ、そんな」

「困ったことがあれば、言って下さい。僕らは桐原先生の味方ですし、あなたの味方です」

「味方……」


 何回か言われたけれど、なんて非現実的な語句なんだろう。テレビや本の中でしか使わないような言葉。味方と言っているけれど、この人たちは一体何者なのか。普通の仕事をしている人には見えない。どうしてこんなにも日本語がぺらぺらなのかも不思議だ。

 桐原先生は、どういう人なんだろう。

 手術は無事に終わっただろうか。ヴェルナーさんはまだ病院にいるのだろうか。あの山羊の被り物をした人たちは何だったのだろう。すべてが、この静かな車内とひと続きの現実だなんて到底信じられなかった。

 線状に流れる車窓の外を眺めながら、私もハンスさんもしばらく何も言わなかった。沈黙はさして苦にはならなかった。

 ハンスさんがぽつりと呟いたのは、私の住むマンションがだんだんと近づいてきた時だ。


「でも、彼が英雄だったなんて」


 彼の呟きにはどこか愕然としているような響きがあって、反射的に振り返ってしまう。


「え?」

「……いえ、こちらの話です」


 金髪碧眼の青年は、一分の隙もない完璧な笑みを浮かべ、頭を振る。何かを誤魔化すみたいに。

 マンションの駐車場に車が停められた。明日も仕事がある。これから歯を磨いて、お風呂に入って、明日の準備をして、いつものように寝なければならない。たったそれだけが、途方もなく大変なことのように感じられた。


「ハンスさんは……今日これからどうするんですか」

「タクシーでも拾って、病院に戻りますよ」

「そうですか……。あの、ありがとうございました」

「僕は特別なことはしていませんよ。とりあえず今日のことは置いておいて、ゆっくり休んで下さい」

「はい……」

「ノイをお貸ししましょうか」


 覇気のない私の顔を覗きこみ、そうハンスさんが提案してくる。え?、といぶかると、青年の足元にすり寄っていた黒猫がニァアと鳴く。お任せ下さいとでも言っているように。

 

「僕もなかなか眠れない夜とか、この子の毛並みを撫でるんです。すると、いつの間にか眠くなってくる。アニマルセラピーのようなものなんですかね。一緒に眠ったら寝付きがいいかもしれませんよ。この子は大人しいし、一晩くらいなら、大丈夫でしょうから」


 足元に目を落とすと、こちらを見上げる猫と目線が合う。暗闇でもきらりと輝く、金色の眼だ。

 膝を折ってそっと抱き上げる。温かく、柔らかい、しっかりとした重さ。黒猫は私の腕の中に、すっかり収まった。


「じゃあ、一晩だけ。いいですか」

「ええ、もちろんです。おやすみなさい、水城さん」

「おやすみなさい」


 歩み去る青年の背中をしばらく見つめたあと、自室に帰って就寝の準備に取りかかった。先生のスーツの上着をハンガーにかけながら、その生地の表面に指を滑らせ、無事でいて下さい、と願う。

 猫は本当に大人しかった。部屋に置いてあるものの匂いを嗅ぎ、体をすり寄せるだけで、走ったり何かを引っ掻いたりするような行儀の悪いことはせず、撫でるとすぐに喉をごろごろいわせる。人懐こく、かわいい猫だった。

 寝床に入る前、携帯の画面を点灯させて、壁紙に設定してある花の写真を見る。花びらの多い、とりどりの色をした愛らしいキク科の花。自分の誕生花の、スプレーマムだ。

 花言葉のひとつは、"逆境の中でも平気"。

 平気、平気、と心に刻みつけ、黒猫をベッドに招き入れる。


「猫ちゃん、一緒に寝ようか」


 温かく人よりもずっと小さい生き物が、布団の中に潜りこんでくる。

 その黒く艶やかな毛並みを幾度となく撫でているうち、私はいつしか眠りに落ちていた。

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