彼らのこと The Hero is Here. Ⅲ(1/2)

 自分が"英雄"であることを告げると、男の一人がごくりと喉を鳴らして、一言ひとことを噛み締めるように訊いてくる。


「……お前が、英雄だって? 嘘じゃあないだろうな」

「本当かどうか、連れていって確かめたらいいだろう」


 私は十歩ほどの距離まで彼らに歩み寄り、両腕を差し出した。山羊たちが揃いも揃ってぎくりと身を震わすのが滑稽だった。

 水城先生はその顔に戸惑いを湛えながら私を見上げている。畏怖や恐怖といった感情が多分に現れていて、締めつけられるような痛みが胃の底に走った。


「桐原先生……? どういうことですか、何が……どうなって……」


 状況に着いていけないのだろう、水城先生が単語を並べる様はたどたどしい。それらに答えることはできなかった。答えれば、こちらの世界に彼女を巻き込んでしまう。あってはいけない事態を招いた私ができるのは、責任を取ってこの場から身を引くことだけだ。

 ふるふると頭を振ると、彼女はわななく手で口を覆う。またつうっとそのまなじりから涙が伝い、己の胸は罪悪感で押し潰された。

 私が大人しくしているのを見て、彼らは水城先生を解放した。辛うじて唯一汚れていない上着を、これを、と言って放ると、彼女はそそくさとそれを羽織る。おそらく彼女とは会えないだろう。もう、二度と。

 これが今生こんじょうの別れだ。

 万感の思いを抱いて水城先生を見やると、彼女もまた私を見つめ返していた。ひたむきな、純粋すぎるほどの熱さがそこにこもっている。その熱を受け止めきるのに、自分の背負った過去はあまりにも後ろ暗くて、ふいと目を背ける。忘れなくてはいけないのだ。忘れてもらわなくては、いけないのだ。もう私に、彼女と関わる権利などないのだ。

 山羊頭が私に手錠をかけた。冷たい金属の戒め。どう足掻いたとて、縄のように逃れられはしない。これからどこへ連れていかれ、何をされるのか見当もつかなかったが、もうどうでもよかった。水城先生さえ、無事ならば。

 私が引き立てられようとするとき、不意に先生がずいと私に身を寄せた。山羊頭たちが制止するが、それ以上の手だしはしない。最期の別れの挨拶でもしろという彼らなりの配慮か。

 彼女は、まるでこの場に私と二人きりであるかのように、真っ直ぐ私だけに視線を注いでいた。固い意志の宿った、燃えるような瞳だった。


「先生……どこかへ、行ってしまうんですか」

「……巻き込んでしまってすみません。このことは――私のことも、忘れて下さい。もう、戻ってこれないと思います」

「そんな……どういうこと、ですか」

「私とあなたでは、そもそも流れている血が違うんです。生きる世界も初めから違う――これが私の世界なんです。本当にすみません。あなたには感謝してもしきれません」


 弱々しく頭を下げると、先生の瞳がやにわに潤み、薄紅うすべにに色づいた頬を再び雫が濡らす。


「そんなの嫌です……! 行かないで下さい……っ、私……私、先生がいないこれからの生活なんて、耐えられません……ッ! 私の隣にいて下さい……行かないで……!」


 水城先生は泣きじゃくっていた。私との別れを惜しんで。

 私のために、泣いているのだ。

 焼けた肉の切り口から生々しい赤が覗くような、新鮮な驚きだった。私がいなくなることで、悲しむ人がいる。足元が崩れ、目の前の景色が一変するようだった。それは、決して絶望のせいではなく。

 ――悲しませたくない。

 彼女を、悲しませたくないと思った。悲しませてはいけないと、強い感情が爆ぜた。

 心に種火がおこるのが分かる。

 知覚は後回しにし、強く床を蹴った。一飛びに水城先生に肉薄して、腕をすっぽりと彼女に被せ、無理に小さい体を抱えあげた。そのまま、たんたんと大きな歩幅で山羊頭たちから離れる。

 四人がゆらり、と私たちを見る。全員の手に拳銃が握られていた。逆上してすぐにでも発砲しようとする一人を、上背のある一人が焦って引き留める。


「殺すのは駄目だ! 俺たちが殺されるぞ」


 そうだ。奴らは私を殺せない。それはかなりのハンデになる。

 背の高い山羊が向き直ってじり、と一歩を詰めた。


「どういうつもりだ」

「気が変わった。貴様らと仲良く旅行に出発するのはやめだ。私たちは帰らせてもらう」

「帰らせてもらう? はいそうですかと帰すとでも思っているのか」

「いや。だから、強行突破させてもらう」


 人一人を抱き上げた格好で、また走り出す。先刻まで踏み締めていた場所を銃弾が穿つ。ドアを蹴破って廊下に出た。回り込め! という怒声が聞こえる。

 自分のすべての感覚が鋭敏になっているのを感じた。そのまま廊下を駆け抜けることはせず、隣の隣の部屋に潜り込んで、そこにあったパーテーションの裏に身を隠す。いったん彼女を床に下ろすと、その全身が震えていた。無理もない。こんな非日常的な状況に放り込まれて、平常心でいろという方が無理な話だ。だが、彼女にやってもらわねばならないことがあった。

 顔を疑問符だらけにした先生が口を開きかける。

 

「あの……」

「今は説明できません。それよりも、お願いがあります。聞いてくれますか……」

「えっと、はい」

「私のシャツの胸ポケットに、煙草の箱が入っています。その中に、一本だけ黒いものがあります。それを取り出して下さい」

「は、はい……」


 水城先生が細い指先を伸ばす。我々は物影で体を密着させながら、ひそひそと囁きあった。互いの息遣いが――もしかしたら心臓の鼓動さえも――聞こえてきそうだ。張り詰める緊張感の中、水城先生がもぞもぞと指を動かして、目的のものを選び出した。

 それは金属の棒。ちょうど煙草と同程度のサイズで、表面は黒々としている。ただし、その一端は鋭利に尖っていた。


「これ、ですね」

「ええ。それを、手錠のチェーンの隙間に、差し込んで下さい」

「ここに、入れればいいんですね……。ん、なかなか、入らない……」

「落ち着いて。ゆっくり」

「はい……、できました」

「ありがとうございます。少し、離れていて下さい」


 右手を捻り、チェーンに刺さったその棒を無理やり掴む。その瞬間。

 黒い棒が何十倍にも巨大化し、衝撃音とともにチェーンを粉々に粉砕した。

 水城先生は唖然としてその様子を見ていた。私は自由になった腕で三メートルに届くかという棒――というよりむしろそれは槍だ――をしっかりと掴む。手品などではない。これが私の、影のエージェントとしての得物だった。自在に大きさを変える、穂先まで黒々とした槍。共にいくつもの戦場を駆けてきた相棒。


「なん、ですか、それ……いえ、今は話せないんですよね……」

「申し訳ないです。……これから多少無理をします。私にしっかり掴まっていて下さい」


 言うなり、先生をひょいと片腕で抱えあげると、ひゃっと悲鳴が上がる。それでも、おずおずと首に腕が回された。


「離さないで下さいね。それから、私がいいと言うまで、目をつぶっていて下さい」

「え……でも、怖いです……」

「あなたに酷いものを見せたくないんです。――私を信じて下さい」


 信じろなどと、どの口が言うのだ、という自身の反駁はんばくは喉元で押し殺す。先生は、何か大切なものを守る決意をしたかのように、こくりと小さく、だが強く頷いた。


「……分かりました。ぎゅっとしてます」


 彼女の腕にぎゅっと力がこもり、瞼がぎゅっと堅く閉じられる。体温を感じた。この温もりが、今の私が守らねばならないすべてだ。

 じゃり、と一歩を踏み出す。

 選びうる作戦は二つある。待ち伏せか、打って出るか。自分一人なら待ち伏せて奇襲をしかけるところだが、運動能力が落ちている現状では難しい。四対一にでもなったら目も当てられない。打って出る他にないだろう。

 槍を持った方の半身を先に出すようにして、部屋を後にする。廊下のすぐ先に、二つの影が待ち構えていた。幸い、挟み撃ちにはされていない。

 私が水城先生を抱えているのを見てか、山羊頭たちが鼻白むのが目に見えるようだった。


「なんのつもりだ。女抱えたままろうってのか?」

「貴様らには良いハンデじゃないか?」


 わざと煽る言葉を口にすると、彼らは予想通り怒りのボルテージを上げてくれた。


「こいつ……ふざけやがって……!」

「おい……それは、何を持っている?」


 一人が、私の持つ槍に気づいた。

 足を踏ん張り、その一人に向かって、右手を思いきり振るう。槍が長鳴りを響かせ、十メートルはあろうかという距離を刹那のうちに詰める。相手の二人が息を飲む音が聞こえる。被り物の下で顔が恐れに染まるのが、手に取るほどに見えた。

 テレビドラマでナイフが人の体に刺さるときなど、ぐさりと効果音が入るが、あれは当然ながら虚構だ。

 金属が肉に刺さっても、音はほとんどしなかった。

 槍身は山羊頭の胸を射抜き、そのまま床に縫いつける。背中から流れ出た血が槍を伝う。四肢がじたばたと痙攣するが、すぐに静かになる。

 仲間の一人を喪い、隣にいた山羊が激昂した。怒りで任務を忘れているのか、銃口がまっすぐ私の顔面を捕らえる。自分の右手は空だ。


「お前、よくも……馬鹿な奴だ、武器を手放すなんてな……!」


 引き金に指がかかり、弾丸が放たれる。私の頭は銃弾に穿たれ、後頭部に花を咲かせる――。

 ことはなかった。

 金属と金属がぶつかり合うギィインという耳障りな音。手に持つ槍で、弾丸を弾いたのだ。

 相手には何が起こったのかも分からなかったに違いない。目にも止まらぬ手捌きだったはずだから。自分さえ、己の行為をいちいち自覚していない。ほとんど意識の外、体の反射だけで、この場のすべてを掌握している。


「どうして……」


 山羊が悄然と呟くのへ肉薄する。銃口はもはや私を追ってこない。

 手を離れていた槍がどうして我が手中にあるのか。簡単だ。私はこの槍を、自分が身に付けた黒いものから自在に取り出せる。離れたところからでも、例えば黒いスーツの上着やスラックスを介して、槍に触れられるのだ。浅い水底に槍が沈んでいて、まるで黒い布地が、その水面であるかのように。それがこの槍の持つ、もう一つの力だった。

 今度は投擲ではなく、一メートルほどに大きさを調節した槍を、逆手に持って直接人間へ叩き込む。喉元からどばっと血があふれた。水城先生を返り血からかばうため、背中でそれを受け止める。鉄臭い匂いが鼻腔に満ちた。自分は嗅ぎ慣れた匂いだが、彼女は気分を悪くしてはいないだろうか。

 騒動の音を聞きつけたらしく、背後から残りの二人が現れた。物言わぬ肉塊と化した仲間を見、彼らがどう感じたのかは分からない。憤りか、動揺か。何にせよ、面食らっているうちに、先ほどと同じやり方で一人を床に縫いとめて一気に距離を詰め、もう一人を素早い足払いで転倒させる。

 工場の中を一気に駆け抜けた。

 廊下の先に、出口が見えた。そこで一旦休止し、先生を床に降ろして、話しかける。


「水城先生、目を開けて下さい」

「……終わりました、か?」

「あと一人残っています。が、あなたは先に逃げて下さい」

「え……でも……先生は……?」

「私も後から行きますから。心配しないで」

「分かり、ました」


 こくりと頷いた彼女を送り出して、振り返る。一番立っ端のある、山羊頭がゆらりゆらりと歩み寄ってきていた。

 ここからは一対一だ。

 発砲。銃弾を槍身で弾き返す。槍を投擲するが、相手がそれをかわす。またも銃弾を弾き、そのまま腕を振るって相手の拳銃を遠くへ吹っ飛ばした。次で決める、と腰を落とした私の左腿を、しかし弾丸が撃ち抜く。瞬間的な熱さ。貫通した腿の後ろから血が溢れるのが分かる。仲間の銃を拾っていたのか。

 中途半端な姿勢で放った槍は致命傷にならなかった。相手も必死だ。死に物狂いといってよい。動くたびにどんどん血が流れ出ていく。相手の体からも、自分の体からも。

 腿を撃たれたのはよくなかった。血を失いすぎて、目の前が霞んでくる。だがここで倒れるわけにはいかない。奴らに関わってしまった水城先生を、そのまま野放しにしておくと楽観するのは到底できなかった。

 ここで潰す。なんとしても。

 死線に飛び出していくと、相手は怯んだようだった。懐に取りついて、左肘を食らわせる。バランスを崩した相手に馬乗りになると、衝撃で毛むくじゃらの被り物が外れて、つるりとした顔が露になった。彼はまだ若かった。おそらく私よりも。その心臓目がけて、躊躇なく槍を降り下ろす。若者の目がかっと見開かれ、喘鳴ののちに呼吸が止まって、瞳孔がぐぐっと開いた。

 終わった。

 死を見届けて一度立ち上がるも、激しい目眩に襲われ、私はその場にへたりこんだ。埃と砂と血でまみれた床に、ごろりと身を横たえる。もう、体がぴくりとも動かない。止血を、止血しなければ、と思うのに、指はまったくついてきてくれなかった。

 そのうち、白く重たいもやが思考を覆い始める。臓器がことごとく停止へ向かい始めるのを自覚する。ああ、これが死というものなんだな、とえらく静かな心持ちでそれを迎え入れた。ほのかに温かく、優しく、痛みすら包み込んで、苦痛のない場所へ連れていってくれる。なんだ、これなら死ぬのも悪くないじゃないか。

 ゆっくりと瞑目する。このまま二度と、目覚めることもないのだろう。深々とした、一点の光もない闇へと、全身が沈みこんでゆく。

 じゃり、という足音とともに、馴染み深い声がした。


「あーらら、こりゃまた派手にやったねェ」


 軽薄そうな、男の声。

 意識が途切れる寸前に、体が抱き起こされるのがなんとなく感じられた。頬がぺちぺちと叩かれる。


「おーい、生きてるかー? 死んでたら運んでやらねェぞー」

「う、るさい……黙って運べ……」


 切れ切れに耳朶に届いた最後の声は、確かに己のものだった。


(続く)

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