彼らのこと・回想 銀の追憶Ⅰ(1/2)
―桐原錦の話
その頃の私は、目隠しされた
できることといったら力を振るうことばかりで、他人と心を通わせたこともなく、どうしようもなく無知で、そしてそれゆえに、幸せだった。
涼やかな風がそよいでいた。八年前、私は二十二才だった。
当時、影と
堂々巡りする予見。日夜発生と消失を繰り返す戦線たち。
その影対"罪"の全面闘争は、のちに"パシフィスの火"と呼ばれることになる。
両陣営がくんずほぐれつして作りだすカオスから、切り離された場所があった。
それは影の最後の砦であり、そのとある孤島に、影の最高権力者のシューニャがいる。影の創立者たる彼のもとへは機密情報が昼夜問わず届けられ、彼を守ることが影そのものを守ることと同義だった。影の創立者たちはシューニャ一人を残してこの世の者ではなくなっていた。すべては"罪"の仕業だった。
孤島は全面が特殊な人工プレートで覆われ、目視はもちろん、レーダーその他の機器をもってしても見つけることはできない。島へ入るには影の構成員しか知らない海底の道を通り、地上に抜けたあとは入り組んだ獣道を、ある特定の進み方に沿って歩いて行かねばならない。誤れば、草むらに隠された銃火器が火を吹き、闖入者を蜂の巣にする。問答無用で。
辟易するほどややこしいやり方だ。そして私はその時、既にかなり辟易していた。
私は他のある部隊から、シューニャを護衛するためのその部隊へ、お偉方から異動を指示されていたのだ。その部隊のナンバーには"一"が割り振られていた。第一部隊への配属は栄誉とされている。自分は両者の衝突の最前線で戦功を上げていたから、それが理由だろうとは想像がついた。
影の最後の砦。あまり気は進まなかった。何かを護るために戦ったことなど、それまでに一度もなかった。
「まだ着かんのか……」
思わず独り言がこぼれる。島の地上に出てもう一時間弱、鬱蒼と茂った草木を掻き分けて進んでいる。羽織った膝丈の黒のコートが藪に引っ掛かり、鬱陶しい。道順は文面に残すことはできないと言われて全て頭に入っているが、それによるとまだ三分の一ほど残っている計算になる。
「しかしまた厄介なところに配属されたものだ」
一人、ごちる。
この島は今まで身を置いていた部隊とは違い、日常的に"罪"との小競り合いが発生するような部隊ではない。"罪"の連中がここを攻めてくるということは、シューニャの居場所が割れたということであり、鉄壁の防御が突破されたのと同じだ。すなわち、一度の攻撃が破局を意味するのだ。
"罪"の陣営ではまさに今、血眼でシューニャ探しが行われているだろう。この部隊の兵士たちは毎日その切迫感の中でぴりぴりしているはずだ。私も今日からそのような日常へ飛び込むのだ。
まだしばらく獣道をがさがさと歩んでいると、不意に目前の藪が不自然に音を立てて揺れ始めた。何か大きい動物でも出るかと私は身を構える。この山林の豊かさでは、熊でも出てきたところで驚きは少ない。
じきに身を現した動物は熊ではなかった。かといって猪でも鹿でもなかった。人間だった。
現れた人間は、私を認めると驚いたように目をしばたかせる。私より頭ひとつ分背が低い、髪を無造作に後ろで一つに結わえた少年だった。銀色の髪が陽光を反射してきらきらと輝いている。アジア人であることを示す自分の黒々とした制服ではなく、紺色の上下を身に付けていたため、ヨーロッパ出身だと知れた。
少年兵とは珍しい。しかもこの第一部隊で。
「どうした、少年。迷子か」
尋ねると、少年は澄んだ青の目をさらに大きく見開く。だがそれも一瞬のことで、私が気付いた時には少年はくすくすと笑い声を漏らしていた。
「何か?」
「いや……失礼、君は今日付けで第一部隊に配属されたニシキ・キリハラで間違いないな?」
少年はさもおかしそうに、笑んだ口元を手で覆いながら問う。まだ声変わりもしていない鈴を転がすような声だ。
何におかしみを見出だしてあるのか分からず、思わず眉根を寄せて
「ああ。いかにもそうだが……」
「本拠地へ案内しよう。ついてきてくれ」
少年は髪をふわりとひるがえして背を向ける。その拍子に、彼が帯刀していることに気づく。どうも日本刀らしいが、このご時世にそんな装備で戦えるのかと疑問が浮いてきた。
少年兵の出現は意外だったが、とにかくこれで道順を気にする必要はなくなった。私はやれやれと息をひとつ吐く。
人工プレートを通過した日光によって白亜に輝く、シューニャが暮らす殿堂。それはまるで古代ギリシャの神殿のよう。
部隊の本営は、その仰々しい建造物の前庭に張られた、野営のテント群だ。影の指導者が鎮座ましますあの建物には、予見士たちと許された者しか入ることができないという。おそらく私には入る機会など与えられないだろうと思われた。
私と少年が茂みを抜け、連れだってテント群へ近づくと、周辺にいた執行部隊の隊員たちがわらわらとこちらへ駆け寄ってきた。紺色の服が多く、次が南北アメリカのカーキ、オセアニアのオレンジやアジアの黒、アフリカの緑はちらほら認められる程度だ。彼らの顔には焦りと、ほっとしたような表情が半々に浮いている。
「隊長、どこ行ってたんですか! みんなで探したんですよ」
一人の隊員の言葉に、私の傍らに立つ少年が返答を返した。
「いやそれはすまない、彼のことを迎えに行っていたんだ」
「あー! その彼が新入り君かあ」
燃えるような赤毛の男に、新入り君呼ばわりされて私は少しむっとする。欧米人からすると童顔に見えるのかもしれないが、これでももう二十二だ。何回も死地をくぐり抜けてきた自負もあるし、経験はベテランの隊員に劣らないと思っている。
――いやそれよりも、この声変わりもしていない少年が、この部隊の隊長?
信じられない気持ちで、少年に向き直る。
「この部隊の隊長は君なのか、少年」
「少年……? おい新入り君、今少年って言ったか?」
先ほどの赤毛の隊員が、笑いをこらえるように聞いてきた。私の返事を待たずしてその若者は吹き出し、笑いが皆のあいだに波紋みたいに広がっていく。私ばかりが取り残される。何がそんなにおかしいのだか分からない。
「すまんな錦、申し遅れた」
少年が私の肩に片手を置く。目線をずらしそちらを見ると、少年は苦笑を浮かべていた。
彼が髪を縛っていた紐をほどく。美しい銀髪が、戒めを解かれてさらさらと風に舞った。きりりとした眉が凛々しい。
「私は執行部第一部隊所属、ルネ・ダランベール。この部隊の隊長をやっている。そして私は二十五才だ。そして、女だ」
「……は?」
兵士たちの爆笑の渦中で、私は絶句するより他になかった。
それが、私とルネの出会いだった。
夜も更け、辺りに喧騒が満ちている。火が広場の中央に焚かれ、そのぐるりを取り囲んで、隊員たちが飲めや歌えの宴を繰り広げていた。
戦場のただ中で酒宴が行われている。信じがたいことに。しかも、その名目は私の入隊祝いだ。
嘆息を漏らす。私は、楽しげなかしましさから逃れるように、一人で広場の外れにあった倒木の上に腰かけている。手には酒の入った木のグラスがあるが、中身は宴の始まりからほとんど減っていない。
ぱちぱちと音をたてて、茜色の炎が揺らめく。その中で配給品の肉や、誰かが釣ってきた魚が炙られていて、香ばしい匂いをここまで漂わせている。私以外の隊員たちは、時おり笑い声を上げてやんややんやとはしゃぎ回っていた。こんなところで飲酒できるなんて、その能天気さに呆れを通り越して、羨ましささえ覚える。
私がルネの自己紹介を聞いたあと、彼――もとい彼女に、隊長室へ来るよう指示された。なんだか面白そうだからという理由でなぜか赤毛の男もついてきて、ルネはそれを止めなかった。
「俺はヴェルナー・シェーンヴォルフ。ヴェルでいいぜ」
歩きしな、男はそう自己紹介する。よく見ると彼の虹彩は血の色が透けているような赤色で、じっと見ていると吸い込まれそうな妙な迫力があった。左肩には黒赤金のドイツの国旗が縫い留められていたが、それが本物なのか私は
ルネの先導で一際大きいテントの入り口をくぐると、大型の机と椅子が整然と並んでいる。ここが食堂のようだ。机と机のあいだを抜けていくと、幕で区切られたスペースがある。この先が隊長室になっているらしい。
隊長室は思ったよりも狭く、六畳ほどの広さで、部屋の隅に書き物机はあったが、最も多く面積を占めているのは地面に直接敷かれたマットだった。ルネは腰に差していた日本刀を刀掛けに置き、自らもマットに胡座をかいて座った。
「まあ、座れ」
とルネが促す前にヴェルナーはちゃっかり彼女の隣に腰を下ろしている。図々しい奴だと呆れながら私もルネに倣う。
「先ほどは失礼した。隊長殿とはつゆ知らず……」
少し頭を下げつつ、出会い頭の非礼を詫びる。ルネは口の端に、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「それよりも、先に謝るべきことがあるんじゃないか? ん?」
「いや……申し訳ない」
「まあそう恐縮するな。こういう外見だし性格だし、男に間違われるのには慣れている」
「面目ない……」
羞恥に頬の辺りが熱くなるのを感じて、私は俯いた。
ヴェルナーが私の心境を知ってか知らずか、気軽な調子ではっはと笑う。
「まーでも、あれは仕方ねえよ。ルネがもっとめりはりのある体してたら新入り君だって間違えな――ぐふっ!」
ルネの拳がヴェルナーの腹に横から入り、男は丸くなって悶絶し始める。ルネはその様子を、凄味のある笑みとともに眺めている。恐ろしい。
「まったく、失敬な奴だと思わんか?」
ルネはこちらに苦笑を向けた。確かにと頷いて、やっとのことで痛みから回復したらしいヴェルナーに向き直る。
「たとえ冗談でも、あのような言葉は感心せんな」
「うっ、新入り君に説教されるなんて……」
「はは、錦は紳士だな。まあ、私も手が出てしまったからおあいこだ」
「そうそう」
「お前は少しは反省しろ」
ルネはヴェルナーの頭を小突く。いってえ、とぼやきながらもヴェルナーの顔には笑みがある。私は二人の様子を見て、当惑せずにはいられなかった。今まで籍を置いていた部隊では部隊長の言は絶対で、そもそも軽々しく言葉を交わせるような関係ではなかった。ところがここはどうだろう。まるで、隊長と隊員が対等な間柄であるかのようだ。
「驚いたか?」
ルネが今度はにやりと不敵に笑った。私の考えが読めたとでも言わんばかりの表情だ。
「ここに来た奴らは大体最初は驚くよ、君だけじゃない。でもこれが私のやり方なんでね。君にも慣れてもらわねばならないんだ」
「話というのは、もしや……」
「そうそう、そのことだよ。ここでは堅苦しいのは抜きだ。肩の力を抜いて、気楽に話せ」
気楽にと言われても、戸惑わずにいられない。ここでは、自分の常識が通じないらしかった。
「しかし……」
「上官命令が聞けないか、錦?」
ずいと顔を近づけて、ルネが低く問うた。その双眸が、ぞくりとするほど冷たい光を宿している。やられる、と本能が囁いた。この人は、紛うことのない、本物の手練れだ。
分かった、と観念して答えると、ルネは破顔して私の肩をぽんぽんと叩いた。
「そうそう、素直が一番だよ。じゃ、次に行こう」
「次……?」
何が何なのか分からないまま、ルネがさっさと立ち上がって隊長室を出ていく。ヴェルナーはもう後に従っている。食堂のテントから外に出たところで、ルネに追いつく。それと、彼女が隊員を呼ぶための大音声を張ったのが同時だった。
「全員集まったか? よく聞け、貴様ら!」
わらわらと集合した男たちへ、ルネな威勢のよい声を放つ。その声はどこまでも澄んでいる。
「今宵、桐原錦くんの入隊を祝して、歓迎会を執り行う! 開始は十八時、厳守だ。それでは総員、準備開始!」
愉快げな笑いを湛えた隊員たちが、おう、と地鳴りのように応えた。
そして私は、
「まったく、戦場で何をしているのやら」
一際盛り上がっている一団をちらりと見やる。その輪の中心にいるのは、隊長殿もといルネだ。
「ルネも真面目そうな顔をしてあれだものな……」
銀髪が、炎に照らされてまるで金属のように輝いている。がたいのよい男四、五人に混じって、ルネはぐいぐいと酒を飲み進め、大口を開けて呵々大笑している。もしかしなくても誰よりも飲んでいるのではなかろうか。宴が始まってそれほど経っていないのに、少年のような顔はほんのりと朱に染まり始めていた。
はあ、ともうひとつ息を吐いて、手元の杯に目を落とす。うんざりした表情の男の顔が映っている。とんでもないところへ来てしまったものだ。
「よっ、新入り君。飲んでるかーい?」
唐突に肩を叩かれる。
見なくても分かる。ヴェルナーだ。億劫に思いつつ横目で見ると、締まりのないだらしない顔がある。彼の赤毛は、朱色の光の中でゆらゆらと燃え盛っていた。
不躾な男の登場に、むっとして言い返す。
「新入り君じゃない。錦という名がある」
「あーそうだったねえ、どうも男の名前を覚えるのは苦手でね。女の子の名前なら一発で覚えられるんだけどね。あはは」
誰もそんなことは聞いていない。
どうやらヴェルナーもしこたま飲んでいるらしく、昼間の上をいく上機嫌さと鬱陶しさだった。
「何の用だ、ヴェルナー」
「おっ、俺の名前は覚えてくれたんだ。嬉しいねえ、ヴェルでいいって。つうか、別に用がなくても話していいだろ。宴の席なんだしさ」
男はへらへらと気の抜けた笑みを浮かべ、気安く私の隣に腰を下ろす。そのまま私の杯のなかを覗きこんだヴェルナーの口先が尖る。
「おいおいなんだよ、全然飲んでないじゃんか。お前のための宴なんだからどんどん飲めって。あーそれとも酒が駄目な体質なの? 日本人には多いんだっけか。ていうかもしかして成人してないから飲めないとか? そういえばお前年いくつ? そもそも成人してんの」
うんざりした。ヴェルナーの声が洪水のように襲いかかる。ぺらぺらとよく喋る男だ。正直苦手なタイプだった。
「年なら、二十二だが」
「えっまじで? 俺より二つも上かよー。全然見えねえわ、年下かと思ってた」
無礼極まりない男は上体を
憮然として彼から視線を逸らす。もう一人でに抜け出して、さっさと寝てしまおうかとも考えた。
ところが、自分の意志に反し、顔が勝手にぐいとヴェルナーの方を向く。彼の手が頬を掴み、無理矢理そちらを向かせたのだと、数瞬遅れて気づく。
――どこに初対面の、しかも年上の同僚の顔を、鷲掴みにする奴があるのか。
私は問答無用でヴェルナーの手を振り払った。
「気安く触るな。何様のつもりだ」
「あのね、お前さ、その顔やめろって」
「……何なんだ、いきなり。どの顔のことだ」
「だからァ、その顔だよ、その
「貴様に愛想を振りまかなくてはいけない理由が分からない」
「はあ……なんか理屈っぽくてめんどくさそうな奴だなお前」
ヴェルナーが呆れ顔になって首を振る。だったら関わらないでくれと本気で思う。それに呆れたいのはこちらだ。
こんな馴れ合いのままごとのようなことをして、一体どういうつもりなのか分からない。私はここに、酒など飲んで馬鹿騒ぎするために来たのではない。
「私はな、こんな戦場の渦中で酒を飲む気にはなれんのだ。ルネも一体どういうつもりなんだか」
またもルネのいる方に目をやる。大きな切り株の上で、腕相撲の力比べをやっているらしい。ちょうど屈強な隊員をルネがたやすくねじ伏せたところで、私は内心一驚を喫した。周囲がどっと囃し立てる。
その様子は、心底楽しそうだった。私がこれまでに見てきた戦場とは、全く別物の世界がそこに広がっているようだった。そこは、とても温かそうだった。
「楽しそうだろ」
ヴェルナーが私と同じ方を見ながら、しみじみと呟く。
肯定も否定もしないでいると、ヴェルナーは手の杯をぐいと傾け、静かな口調で語りだした。
「ここは特殊な戦場だからな。他の部隊みたいに、小規模な衝突が日常的に起こるなんてことはねえのよ。一日何も起こらないか、もしくは最終決戦かどっちかだ。そんな状況で、いつもぴりぴり神経尖らせてたんじゃあ誰でもすぐに参っちまう。だから今日みたいに、時々息抜きが必要なんだよ。隊員の精神状態に気を配るのも、隊長の役目ってわけさ」
そう語るヴェルナーの紅い瞳には、確かに尊敬と慈愛の念がこもっていた。
なるほどな、と納得する。戦地に相応しくない宴も、隊長の采配のうちというわけか。ここでは他所の部隊の常識は捨てた方がよさそうだ。
私も、酒の器を思いきり傾けてみる。喉が焼けつく感覚があり、アルコールの匂いがつんと鼻を突く。脳の中心がふわっと一瞬だけ軽くなって、揺れる。
「ところでさ」
隣に座る男が声を潜めた。その双眸が野性的な光を帯び、隙を突かれた心持ちになる。側にいるのは狂暴な獣なのではないか、と五感を狂わせるほどの眼光の鋭さだった。
「他の奴から聞いたけど、
「……本当も何も、自分でそう名乗ったわけじゃない。他人が勝手に呼んでいるだけだ」
寒気に気づかないふりをして、ヴェルナーの目を睨み返す。
黒獅子という仰々しい呼び名は、私の二つ名のようなものだ。その当時は襟足が長かったから、誰かがそれをライオンの
「ふーん……当代最強と
「勘弁してくれ。それも他人様が言っているだけで、誰が一番強いかなんて、総当たり戦でもしないことには分からないだろう。私は命令に従って戦っているだけだよ。それに、味方同士で戦うなんて無意味だろうに」
「事前に聞いてこなかったのか? ここじゃあ"罪"の襲撃可能性がゼロの日は毎日、隊員同士で模擬戦闘をやるんだぜ。手加減無用のな。訓練だと甘く見てると、死ぬぜ」
ヴェルナーはにたりと口の端を好戦的に歪ませると、アルコールをちびりと舐めた。
物騒な眼光に負けじと睨み返す。
「何を二人でこそこそ喋ってるんだ? 楽しそうだな、私も混ぜろ」
膠着状態に陥りかけたところで、上機嫌なルネが乱入してきたため、その場の緊張ははらりと解けた。
第一部隊での初日の夜は、このようにして更けていった。
百人近い第一部隊の中で、アジア人は数えるほどしかおらず、その中でも日本人は私一人だった。そのせいで周りからもの珍しがられ、
一日のうち午前いっぱいは鍛練と訓練で潰れるが、午後は非番の者は自由に過ごしていいことになっていた。たとえ襲撃可能性がゼロでも、三十人ほどは交代制で見張りに就く。ただしその最中にも、
非番の日、私はよく林の中の手頃な木に登って、眼下からの楽しげな声を聞きつつ空中で過ごした。あまり森に分け入りすぎるとならず者と見なされ肉片にされる恐れがあるため、そこは注意ぶかく木を選ぶ。
時間が止まったような午後のひととき、木漏れ日の下で、私は愛読書の数理本を繙いた。その本はもう装丁がぼろぼろになって綴じ紐も甘くなっている代物で、大多数の人間には訳の分からない数式ばかりが羅列しているとしか見えないものだ。
趣味が数学だというと、大抵のエージェントは眉間に皺を寄せる。もっと実戦に役立つものを趣味にしたらどうだ、と言わんばかりに。私の師匠もそういう人だった。この本も一度彼にめちゃくちゃに踏みにじられ、捨てられそうになった。
他人がどう言おうと構わなかった。数学は自分にとって癒しだった。戦闘に身を投じること以外で、唯一没頭できる無二のものだ。数学は変わらない。いつでも、いつまでも、どこでも、その本を開けば不変の世界が広がっている。変化に揉まれてきた人生で、微動だにしないものを求めるのは当然だったと今は思う。
ふと人の声がした気がして、本から顔を上げる。小さいが確かに、聞こえる。私の名を呼ぶ、澄んだ声だ。
「錦ー! どこにいるー?」
その伸びやかな呼び声はやがてすぐそばまで近づいてきた。木の根元に向かって、上だ、と声を張る。じきに、ルネの姿が視界にフェードインしてきた。彼女は、こちらを見上げて気持ちのよい笑みを浮かべた。
「そんなところにいたのか、錦」
「何か用か」
「まあなんだ、ちょっと待ってろ」
問いには答えずに、ルネが枝を伝ってひょいひょいと登ってくる。あっという間に、私のすぐ隣の枝にたどり着いた。そして、私の手元を覗きこむ。
「何読んでるんだ……数学の本か?」
「まあな。これを読んでいる時が、一番落ち着くんでな」
彼女が目を丸くするのを、私は無感動に見ていた。きっと、次の瞬間には変わった奴だと笑うのだろう。それで傷つきもしない。
ところが、ルネはそうしなかった。
「へえ……。それ、私にも教えてくれないか」
好奇心に満ち満ちた瞳で、そう言ってきたのだ。意外な反応に、言葉を返すのが遅れる。
「……興味があるのか」
「そうだな。その数式の意味というより、君にな」
にんまりと微笑んでそう言うから、今度こそ私は返す言葉を失う。
ルネの真意を図りかねて顔をしかめる。まるで、私自身について知りたいと言っているように聞こえる。だとしたら、無駄な労力を使うだけだと教えてやらねばなるまい。私は何の面白みもない人間だ。それは自分が一番よく知っている。
「私はつまらない人間だ。関わり合いになる価値などないぞ。放っておけ」
善意で忠告したつもりなのに、ルネはどう捉えたのやら、ぷっと噴き出して弾けるように笑いだした。
「なぜ笑う」
「いや、君は面白いよ。まったく面白い。ああ、からかってるわけじゃないんだ」
「……」
「関わり合う価値があるかどうか、君がつまらない人間かどうか、君が決めることじゃない。それは、私が決める」
ルネはまるで大輪の花のように笑いかけ、そして出し抜けに手を伸ばし、私の頭をわしゃわしゃと撫でた。
ゆっくりと優しく、それでいてしっかりと力強く。
唐突な行動に、唖然として動けない。もしかしなくとも、私はその時、初めて人に頭を撫でられた。胸の奥がこそばゆくなる、しかし不快ではない不思議な感覚に襲われる。経験したことのない、心のざわつきだった。
「それじゃあ、楽しみにしているよ」
言い残して、五メートル以上はある高さから、ルネはひらりと軽やかに飛び降りた。私はしばらくぼうっとして、ルネの掌が前後したあたりの頭の上に、手をやってみるなどの不可解な行動を繰り返していた。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます