僕らのこと ゴゥ(ス)トダンス・ウィズ・ランピィキャット(3/3)

(承前)

 合宿の時間はあれよあれよという間に過ぎ、いよいよ三日間に渡る日程のメインイベント、バーベキューが目前に迫ってきた。

 昨日から自分について回る気配を一時いっときでも忘れるため、一心不乱に課題に取り組んだ俺は、山のように積んでいたワークやらプリントやらを劇的に減らすことに成功した。これで夏休みの後半は、暑さをやり過ごしつつだらだらと日数を数えられそうだ。

 俺が課題に向き合うあいだ、未咲は何やら不機嫌そうな様子で、しきりにあれを教えろこれも教えろと絡んできた。俺が何かしでかして、それに腹を立てているのだろうか。しかしそういう場合、いつもの未咲であれば俺に構わずほったらかしにするはずだ。

 未咲はどこか、彼女自身に腹を立てているようにも見えた。


「どうかしたのか」


 問うと、別に、と即座に突っぱねられる。女子は本当に何を考えているのか掴めない。なので、未咲の機嫌が直るまでそっとしておくことに決めた。

 キリのよいところまで課題をこなし、ふと窓の外を見ると、目線まで陽が傾き、辺りが茜色の染まりつつある。夏の盛りだと思っていたけれど、徐々に日の入りが早まっているのを実感する。今が真夏のピークで、あとはだんだんと秋の気配を感じるようになるのだろう。

 夏は嫌いだが、こんな季節の終わりには、誰もが抱くどこか切ない晩夏の郷愁が、自分の胸にも広がるのをとどめることはできなかった。



 バーベキューが始まるまであと一時間ほど。俺はそれに備え、早めにお風呂に入っておくことにした。

 入浴に使うアイテム一式を携えて風呂場に向かうと、そこには先客がいた。こんな時間に俺と同じことを考える奴がいるのか、とよく見ると、それは見慣れた姿。ひかるだった。

 幼なじみといえど、裸体を晒すのはそこはかとなく気恥ずかしいものがある。なんとなく前を隠しつつシャワーへ近寄ると、体を洗っていた輝は俺に気づき、やあと声をかけてきた。


「おう」

「バーベキューが終わったら合宿も終わりだねえ」

「意外とあっという間だったな」

「ほんとにね。龍介はあの、大学生のお姉さんの連絡先聞き出したの?」

「しねえよ、そんなこと」


 しばらくこの合宿に関する感想をぽつぽつと言い合う。誘ってくれてありがとう、と言われたので少々照れくさくなり、改まって言うほどのことかよ、と憎まれ口を叩く。

 不意に輝が黙りこんだ。ついそちらを見ると、輝はじっと俺を見返していた。

 

「龍介はさ、あの二人、うまくいくと思う?」


 しばらくの沈黙ののち、不意にぽつりと輝が漏らした。その声はごく小さいものだったが、浴室の硬い壁によってその響きは何倍にも膨れ、部屋中を満たす。

 増幅された音は、いやに俺の耳に刺さった。


「――あの二人って?」

「未咲と、九条先輩だよ」

「ああ……まあ、そうなんじゃねえの」


 その名を聞いただけで、苦い気持ちが胸の内に広がる。

 上手くいくも何も、お互い好きなら上手くいっているのではないだろうか。九条の方はともかく、未咲にはあんな欠点のない男を嫌う理由などひとつもないはずだ。俺なんかじゃ足元にも及ばないくらい、九条は完璧なのだから。どこまで進展したとかは知りたくないけど。

 輝はふっと、どこか虚無的な微笑みを浮かべた。


「僕は上手くいかないと思うな」

「は? なんでだよ……」

「未咲の感情は憧れであって、それは恋愛とは別物だからさ。先輩はそうじゃない。二人の気持ちは初めからすれ違っている」


 輝の口ぶりは、自分と同学年とは思えないほどに大人びていた。

 というか、何なんだ。その恋愛のエキスパートみたいな口調は。


「お前、そういう方面に詳しいんだっけ……」

「これはチャンスなんだよ、龍介」


 俺の問いかけには答えず、力強く言い切る。

 いや、何のだよ。


「何言いたいのか、さっぱりなんだけど……」

「このままでいいの、龍介。このまま、二人が恋人関係のままで。――君さ、未咲が笑ってるならそれでいい、とか思ってるんでしょ」


 ぐっと喉の奥が詰まる。まさしく図星。輝の言う通りだった。

 未咲が笑っていられるなら、幸せを感じているのなら、その笑顔が俺に向けられるものでなくても、俺は構わないと思って、いる。

 こいつ、読唇術だけじゃなく読心術も使えるんじゃないのか、と恐れおののかずにはいられなかった。

 輝は教え諭す表情になる。いつもの温和な雰囲気は消え、冷徹とまでいえる顔つきになっていた。


「それじゃ駄目なんだよ。物わかりのいいふりはやめなよ。龍介はいつもそう。何だかんだ理由をつけて、自分が傷つくのが怖いだけなんでしょう。できない理由なんて探せばいくらでも見つかる」

「何……」

「自分から動かなきゃ、欲しいものなんて手に入らないんだよ」


 輝が、俺の心のその真ん中まで見透かそうとするように、まっすぐな視線で射抜いてくる。瞬きすらしない。

 幼なじみの見たことのない表情に、俺は気圧けおされていた。


「君はもっと、我が儘になっていいと思うよ」


 最後に少しだけ張り詰めた顔を緩めて、輝はそのまま浴室を出ていった。

 無音になった浴室で、しばらく目の前の曇った鏡を睨む。俺には分かる。あいつは相手の痛いところを無闇に突いて回るような人間ではない。きっと本当に俺のためを思って、敢えて厳しい言葉を選んでいるのだ。


「だからってなあ、どうしろっつうんだよ」


 今、未咲の隣には九条がいる。俺では彼にはどうやったって勝てない。未咲もきっと、そんなのは望んでいない。二人が上手くいかないなんて、そんなことがあるだろうか。きっと、俺の気持ちと存在だけが邪魔なのだ。

 このままでいいのか。いいとは思わない。けれどこんな現状で、どうしたらいいのか考えたって解が導かれる道理はない。

 ――人間も、数学と同じく論理的だったらいいのに。

 頭の中のもやもやを直接揉み消すように、俺はシャンプーをわしわしと泡立てた。



 肉や魚介類の焼ける香ばしい匂いが、暑さの名残濃い実習所の周りの闇に、心地好い喧騒とともに漂っている。暗闇に食べ物や炭、緑の香りが混ざりあう、濃密な夜だ。木にくくられたライトがちょうど食材が乗った網を照らし、その下では、明るい光を放ちながら、炭がぱちぱちと爆ぜている。

 網の隣には巨大なテーブルが設えられ、生の肉や野菜をはじめ、おにぎりや甘辛様々なつまめるお菓子、ソフトドリンクや大学生用の酎ハイ、ビールなども並んでいた。大学生各位のアルコールによるテンションの上昇で、高校生たちも自然と笑い声が大きくなっている。馬鹿騒ぎというほどではなく、和やかと呼べる範囲での宴といえた。

 バーベキューをするにあたり、俺は進んで食材を焼く役を買って出た。役割があるのはいいことだ。食材は昼間に大学生が買い出しに行って調達してくれたもので、立地が海そばということもあり、肉よりもむしろ新鮮な魚やエビ、貝類が目立っていた。大学生がいつの間にか釣ってきたアジなども含まれている。

 その食材をテーブルに並べる際、大学生の一人、太田の兄がしきりに首をひねっていた。どうかしたんですか、と輝が尋ねる。


「うーん……なんか、買っといた食材が減ってる気がするんだよね」

「そうなんですか?」

「かといって、誰かが調理した跡もないみたいだし、生のままで食べられるものでもないし……バーベキューに支障をきたすほどでもないけど、不思議だなあ」


 俺は二人の会話を背中で聞いていて、ぴくりと反応してしまう。部屋から飛び出た何か。夜中にぎらりと光る双眸。標本室で感じた何者かの気配。それらが、ここに至っても影を落としている。

 もしかして、この実習所には俺たち以外の"誰か"がいるのではないか。潜伏し、俺たちの様子を窺っているのではないか。


「あれかな。屋根裏にこっそり住んでる人がいて、そーっと食べ物を持っていって……って、こういうの何かあったよね。江戸川乱歩だっけ」

「や、やめて下さいよそういうのぉ……」


 俺の後ろで未咲が怯えた声を発した。

 その未咲は今、女子で集まってよく響く笑い声をあげている。まさに宴もたけなわというところだろう。もう不可解な出来事は忘れてしまったようだ。あれくらい機嫌が良ければ、二人で話がしたいと言って誘い出せるかもしれない。

 なあ、と口火を切りかけたその時。

 円の中心にいた女子大生が、高々とアルコールの入ったコップを掲げ、


「さあ皆さん、盛り上がってますかあ? それではお待ちかね! 肝だめしの時間でーす!」


 と朗々と宣言した。

 いや、何だそれ。そんなのがあるなんて聞いてない。待ってもいない。


「き、肝だめし?」

「そんなの聞いてないですよお」

「私怖いの駄目なんですけど……!」


 女子たちが口々に拒否反応めいた言葉を並べる。俺だってそういう、わざわざ得体の知れないものがいそうなところへ行くのを楽しむようなイベントは、正直ごめん被りたい。

 女子大生は聞いているのかいないのか、にやーっと口の端を吊り上げる。


「ルールは簡単! くじで二人組を決めて、森の奥のほこらの前に置いてある、鉛筆を一本持って帰ってくるだけ! ちなみに明かりはこの懐中電灯だけだよー! さ、くじ引きしよう!」


 彼女はなぜか楽しそうに、本当に楽しそうに、掌に収まるほど小さい懐中電灯を見せびらかしてみせた。それだけを持って暗がりに分け入っていくには、あまりに心もとない装備品だ。

 彼女があまりにてきぱきと説明し進行するものだから、誰にも拒否する暇もなかった。怖がっていた女子高生たちも流されるように、言われるがまま組決めのくじを引いていた。俺も気づけば"四"と書かれた細長い紙片を持っていた有り様だ。

 女子と男子とで組になるようにしてあったらしく、案の定というべきか、運良くというべきか、俺は未咲と二人組になった。うんまあ、こうなる予感はなんとなくあった。俺と同組になったことを知ると、未咲は露骨にぷいっと顔を背けた。

 数字が小さい順に森に入るらしい。一を引いたのは輝と同級生の女子で、輝はか弱い光では到底照らせない深い暗がりの中へ、躊躇することなく踏み込んでいった。その表情は穏やかで全くひきつったりしていなかった。すごい余裕だ。同性ながら惚れぼれするくらいの。

 待っている時間はやけに長く感じた。何か食べていてもいいのだが、その方が気が紛れるのだが、じわじわと這い上ってくる緊張感のせいで、とっくに食欲などせている。

 一組目が戻ってきたのは十分ほど経ってからだった。にこにこと笑う輝の片手には、ちゃんと鉛筆が握られている。隣の女子は、俺たちの姿を見るとあからさまにほっとした顔つきになった。

 二組目を見送り、彼らが戻り、三組目を見送るあいだに、未咲の表情からは血の気が消えていった。この待たされる時間は確かにきつい。嫌なものはさっさと終えてしまうに限る。俺にだって余裕はなく、掌にはじっとりと汗をかき、鼓動が早まっている。ただ、未咲の様子から察するに、彼女の緊張は自分の比ではなさそうだった。

 三組目の太田からいやに軽い懐中電灯を受け取る。よくこんなもの見つけてきたなと思うほどかわいらしいサイズだ。試しに木立の入り口から内部へ差し向けると、ほんの少しの狭い範囲しか照らすことができない。


「ぶっちゃけ怖いぞ。頑張れよ、茅ヶ崎」


 要らんことを囁き、俺の肩を叩いて、太田は皆の方へ歩み去っていった。 

 ただの森だ、と自分に言い聞かせ、未咲と二人して木々のあいだに足を踏み入れる。想像以上に前が見通せない。足元には落葉が積み重なっており、踏みしめるごとにバリバリと小さくない音が出た。木は大半はまっすぐ上に伸びているが、ところどころに節くれて曲がった種類のものもあり、それが暗闇からぱっと照らし出される様は、何か奇妙な生き物じみて背中を粟立たせる要素満載だった。

 俺の心臓はどくどくと激しく脈打っている。雰囲気に飲まれているのもあったが、一番は、身を縮こませるようにした未咲が、俺へ体を密着させているのが原因だった。

 緊張と、恐怖と、少しの喜悦で、もう自分の心境が分からない。

 へばりつく未咲をちらりと盗み見ると、その顔色はずいぶんと青かった。 


「大丈夫かよ、お前」

「たぶん……大丈夫……」


 大丈夫そうには見えないのだが。

 そう返そうとした矢先、ぴゃっと未咲が飛び上がる。


「ひゃっ」

「な、なんだ?」

「いまなんか、パキッていわなかった? やだぁ……」

「風とか、木の枝でも折れたんじゃねーの……」


 言うが早いか、未咲にきゅ、と手を握られた。

 おい、それはやばいぞ。


「……龍介の手、意外とおっきいね。こうするとちょっと安心するかも……」


 片手が未咲の両手で包まれる。未咲の手はさらりとして、俺より少し冷たかった。こんなときにやめろと言いたい。全力疾走した後くらい早まったこの脈拍が、未咲に伝わってしまうのではないか、と恐れを抱く。

 手を繋いだまま、それからは無言で森の奥を目指した。おそらく四、五分だったのだろうが、体感では一時間も二時間もかかったように思われた。


「あ、祠って、これかな」


 俺も同時にそれに気づいた。俗に鎮守さまというものなのだろうか、俺の背丈より小さい鳥居と、ちんまりとした祠が姿を現した。祠の前に鉛筆がそっと置いてあり、それはお墓に線香を供えるのにも似ている構図だった。未咲が鉛筆を一本掴む。二人とも、どちらからともなくほっと息をついた。


「じゃ、戻るか」

「うん」


 未咲の両の手はまだ俺の手をしっかり握っている。そういえば、未咲と手を繋いだのなんて、中学一年のとき以来じゃないか。ぼんやりとそんな考えを巡らせられるほど、往路よりは心に遊びができ、この状態を噛み締めて心に刻むこともできた。未咲の顔色にも血色の良さが戻ってきている。

 今なら言えるのでは。

 今なら、ずっと隠し事をしてきたと、彼女に伝えられるのでは。

 俺は唇を湿らせ、意を決して、口を開いた。


「あのさ。お前に言ってなかったことがあるんだけど……」

「え?」


 未咲が、予想以上の反応を示す。肩がびくりと跳ね、脚の動きが止まる。それは、予想外の切り出し方をされた、というより、言われるのではないか、と予期していた言葉を不意に投げつけられた、と思えるような反応の仕方だった。

 未咲の過剰なリアクションに内心で首をひねり、また実際に未咲の方へ首をひねったとき。

 俺の思考は突如凍りついた。


 そこに山羊がいた。


 呼吸ができなくなる。木立の暗がりの中、人の大きさの影がぬっと立っている。闇に紛れるような、黒っぽく目立たない服装。そして頭には、リアルな山羊の被り物。

 山羊頭の男。

 何度も繰り返す、誘拐の日の夢。

 ――どうしてここに、あいつがいる。これは現実か。誰か夢だと、そう言ってくれ。

 視界がぎゅうと狭くなる。心臓が破れそうなくらいに、ばくばくと肋骨を叩く。不快な冷や汗がこめかみを伝った。いきなり押し黙った俺を、未咲がどこか切迫した面持ちで見上げている。


「ねえ何? 話って――」


 俺はそれに答えられない。凝視する先で、ゆらり、と山羊頭が一歩踏み出したように見えた。

 俺は未咲の手を乱暴に引っ張った。


「走れ!」

「え、え? 何なの?」

「いいから!」


 もどかしく俺は叫ぶ。半歩遅れて、未咲が着いてくる。木々を抜けるまで、無我夢中だった。そのあいだの記憶はなく、気づいたら実習所の前で膝に両手を置き、ぜえぜえと肩で息をしていた。

 必死の形相で疾走してきた俺を、みんなが目を丸くして見ているのが分かる。未咲はかなり混乱していた。


「ねえ、何なの! 話って……どうしていきなり走りだしたりしたのよ!」


 いまだ息を切らしながら、俺の頭の中ではぐるぐると様々な考えが回っている。動揺しすぎて、未咲の問いかけに答える余裕もない。

 あれは本当にあの山羊男だったのだろうか。あそこに、実際に立っていたのだろうか。

 繰り返し夢を見すぎて、起きていても夢が見えるようになってしまったのか。もしくは大学生が用意した、参加者を怖がらせるための仮装という可能性は? よく考えれば、俺が誘拐に遭ってから、八年近くが経っているのだ。当時の誘拐犯と同一と考えるには無理がある。もっと冷静になればよかった。焦りすぎだ。走って逃げることもなかった気がしてくる。

 そばに、女子大生がつつうっと寄ってきた。


「何かあったの? 龍くん」

「いや……何でもないです」


 そう返答するしかない。女子大生はそお? と小首を傾げると、また威勢よく右手を天へと掲げた。


「最後は私ですがあ、男性諸君! 誰かエスコートしてくれる人ー!」


 え、と無意識に声が漏れる。そうか、女子は男子よより一人多いのだ、と思い出し、焦る。もし、あれが本物なら。あそこに山羊男がいるのなら。行かせるわけにはいかない。けれど、"行っては駄目です"と言っても、全員に怪訝に思われるのがオチだろう。


「俺、行きます」


 自分でも驚くほどの勢いで、名乗りを上げていた。

 女子大生がにっこりと満足げに微笑むが、それを視認し、なにがしかの感情を脳から引き出すだけの余力は俺にはない。

 彼女と並んで再度森へ踏み込む俺を、未咲は憮然として見送っていた。



「意外だなー、龍くん。こういうの、けっこう苦手そうなのに」

「……はあ……」


 俺はほとんど、女子大生の話を聞いていなかった。さっき、山羊頭の人間が立っていた場所が近づいてくる。それに伴い体が強ばる。心臓が激しく脈を打つ。懸命に目を凝らす。

 しかし。


「いないな……」


 現場には何者の影も形もなかった。呟くと、女子大生が説明してくれと言わんばかりに眉をひそめる。それを無視して、頼りない懐中電灯を頼りに、木々のあいだへ分け入った。危険だ、とか身のほど知らず、とはその時は思わなかった。

 衝立ついたてのように生えた木を抜けると、そこは森の中でも少し開けた場所になっていた。テニスコート半面ぶんほどだろうか。そこの地面は湿ってぬかるんでいて、たくさんの足跡でぐちゃぐちゃになっていた。

 そこに呆然と立ちすくむ。

 やはり、何かがいたのだ。しかし、この足跡は何だろう。普通に歩き回ったにしては不自然だ。光で照らすと、足跡は足先に向かって深くなっており、一番深いところでは地面から数センチは沈みこんでいた。足先にかなり力がかかっているということは、走った跡なのだろう。

 注意深く観察すると、人間らしき靴跡のほか、小柄な獣の足跡めいたものも発見できた。


「うひゃあ……なんだこれ」


 遅れて着いてきた女子大生が驚愕の声をあげる。俺は立ち上がって、彼女の方を振り返った。


「何か、大学生の人たちで俺らを怖がらせる仕掛けをしていたとか、そういうのはないですか」

「いやあ、何もしてなかったけど。この森、夜になるとそれだけで充分怖いし。一応、昼のあいだに危険箇所がないか調べたけど、こんな足跡なかったと思うなあ」

「そうですか……」

「龍くんは何か知ってるの?」

「いや、何も分からないです」


 知っていたらむしろ教えてほしいくらいだ、とはさすがに言わなかった。

 その後、周りに用心しながら祠まで行き、また来た道を戻ったが、もう何事も起こりはしなかった。

 未咲が何か尋ねたそうに俺に視線を寄越していたが、その視線に応えるほどの心持ちには到底なれなかった。



 翌朝、どうしても昨晩の出来事が気にかかり、朝も明けきらぬうちに、森へと調べに出る。

 そして俺は、絶句することになった。


「嘘だろ……」


 あれだけ深く刻まれていた数えきれない数の足跡は、綺麗さっぱり、消えていた。まるで、最初からそこには何も存在していなかったように。地面は滑らかで、自然だった。

 狐につままれたような気持ちだ。しかしどうしようもない。不可解な思いでもやもやする脳をなだめて、なんとか帰りの車に乗った。始終未咲は俺をちらちらと見ていた。

 実習所の、公民館みたいな建物が遠ざかっていく。これからまた、何かが起こりそうな予感がしていた。


* * * *

―ある黒猫の話


 夜は私たちの世界だ。

 私の漆黒の毛並みは、夜の闇にたやすく紛れこむことができる。

 そして私には見える。人間の目では捉えられない光量の中でも、何もかもが昼間と遜色ないくらいに、はっきりと。人間がタペータムと呼ぶ構造のおかげだと、私は今のご主人に出会ってから知った。

 そのご主人は今、紺色のしかつめらしい服――軍用服というのだそうだ――に身を包み、"彼ら"がいる方へ向かって、編み上げ靴を前後に動かしているところだ。隙のない足運びには、猫の私でさえうっとりする。私はご主人の足元に寄り添い、一分も離れないように着いていく。"彼ら"を出迎えにいくのだ。

 潜伏している二日間、私は何度か冒険をした。

 監視対象の男の子のベッドで眠っていたら熟睡しすぎ、危うく姿を気取られそうになったり、その子の寝顔を見てみようとベッドに近寄ったら、全然眠っていなくて怖がらせてしまったり、興味本意で標本室まで着いていって、標本瓶ごしに見つめあう事態になったり、美味しそうな魚がたくさんあったので、つまみ食いしたらご主人に叱られたり、色んなことがあった。

 普段の私ならそんなはしたない真似はしないのだが、個猫的にその男の子が気に入っているので、どうか許してほしいところだ。あの子はいい子に違いない。だって、猫の撫で方がじょうずだったもの。

 ご主人はずんずんと森の中に入っていく。足元を離れ、鼠でも探しに行きたい衝動に駆られるも、これが仕事だからと本能を押さえこむ。じきに"彼ら"の姿が見えてきた。黒々とした森の闇の中で、"彼ら"はあらぬ方向をじっと注視していた。私たちには"彼ら"が何を見ているかが分かる。あの男の子だ。

 "彼ら"は"罪"ペッカートゥムの人間だ。ご主人の敵。私の敵。

 "彼ら"まで、あと十メートルばかり。


「こんばんは。いい宵ですね」


 出し抜けに、ご主人が声を発した。ずいぶんとのんびりした調子で。おそらく何語で話しかけるのが適切か迷った結果なのだろう、その声がけは英語だった。

 ――猫だからと馬鹿にしてもらっては困る。私はご主人が普段よく遣う言語なら、大概は理解することができる。まあ、日本語はなかなか難しいので、勉強中だけれど。

 人間の言葉だけでなく、今のご主人に拾われて、ずいぶん汚いことも覚えた。

 人間はどうしたら驚くか。急所はどこか。盗んだものをどうやって咥えたら落ちにくいか。密室に見える部屋からどう逃げ口を見つけ出すか。人間から漏れでた体液はどんな臭いがするか。などなど。

 もちろんご主人は私に、人間の体液の臭いなど進んで嗅がせるわけはない。ご主人は常に私に優しい。けれど、たとえ誰かに酷いことをした後、念入りに体を洗ったとて、私の鼻では分かってしまうのだ。ご主人の全身から、ご主人のものではない血やら吐瀉物やらの臭いがぷんぷんするから。

 不意にかけられた声に、変な被り物をした男たちがゆうらりと振り返る。一、二、三人いる。その変な被り物は山羊という動物だと、私はようやく思い至った。"彼ら"は地面に引きずるほど長い上着を纏っていて、その内側から思い思いに、鉄パイプやら杖やら細長い木材やらを取り出した。物騒だ。溜め息が漏れる。まったく、品がない。

 その動作に、ご主人はやれやれと首をすくめる。


「僕と踊りたいんですか? こっちは丸腰だっていうのに、仕方ない人たちですね」


 ご主人の物言いは間延びしていると言ってもいいくらいだが、ご主人の目は全く笑ってはいない。冷たい双眸。私と同じ、捕食者の目だ。

 今の私たちを正面から見たら、その瞳の美しさにきっと誰もが感嘆することだろう。

 ご主人の左右の目は色が違う。

 右の目には月の金。

 左の目には空の青。

 そして私は、その左右の色が逆になっている。

 今の私たち、と前置きしたのは、いつもの私たちの左右の瞳は同じ色だからだ。ご主人は透き通った鮮やかなブルー。私はきらきら輝くゴールデン。

 私とご主人がじっと見つめ合うと、右目の虹彩の色ごと、見えている景色が入れ替わる。言わば、私たちは二重の視界を手に入れるのだ。例えばご主人が前を向いているとき、私が後ろにいれば、ご主人の死角はほぼゼロになる。どういう仕組みかは分からないし、興味もない。見えるものは見える、それだけで私には充分だ。

 ご主人の相棒は誰にでも務まるわけではない。パートナーはどうも私で二匹目らしい。私はご主人に尽きかけていた命を救われ、その上ご主人に選ばれた。だからご主人の役に立てるのは、私にとって至上の喜びだ。

 二重に見える特別な視界を使いこなすのはなかなか困難なものだけれど、そこは特訓、特訓だ。何事も始めからうまくいくことなんてないのだし。

 私の目の前で、ご主人が身を屈める。いよいよ始まる。今宵の舞踏が。

 私へとご主人が目配せを送る、それが合図だった。

 ご主人の右足が、力強く大地を蹴り出す。それぞれの得物を構えた山羊男たちへと、一気に肉薄する。それきたとばかり降り下ろされた三つの鈍器は、見事にすべて空を切った。

 ご主人は高々と飛び上がっていた。その動きはもはや人間のものではない。

 いつしか彼は、"僕は猫だよ。人間じゃなく、尾のない猫ランピーキャットだ"と言って、笑っていた。そして今宵対するは、八年前からこの地上に漠と漂う亡霊だ。


 亡霊ゴーストは。

 山羊ゴートは。

 尾のない猫ランピーキャットとダンスを踊る。


 飛び上がったご主人は木の上へ着地する。私は相手が全員見えるよう、ちょこまかと地面を縫う。三人の死角から地上へ飛び下りたご主人は、間髪入れず、一番近くにいる山羊男の首元へ、目にも止まらぬ手刀を食らわせた。

 一瞬の静謐。

 男は、へにゃりとそこに倒れ伏した。

 残りの山羊男のあいだに、明らかに動揺が走る。


「僕は戦えないと聞いていましたか?」


 ご主人は体の前に腕を構え、微笑みながら、ゆったりと問う。


「確かに、誰かの命を奪ったことはまだないです。でも、自分の身を守るくらい、わけないんですよッ」


 また、ご主人が大地を蹴る。振り回されるパイプと木材を、ご主人は難なくひらりひらりとかわす。隙を突いて一人の懐へ飛び込み、肘を鳩尾へ食らわす。二人目。無我夢中で突きを入れてくる相手のパイプを、体を回転してかわす。その回転の勢いで、鋭い蹴りを繰り出し得物を弾き飛ばした。慌てふためく相手の顎へ、最後の一撃。頭突きだ。 

 あっという間に、三人の失神男の出来上がり。

 ご主人は軍用服のポケットのひとつから、するすると紐を取り出すと、三人をこれでもかとばかり雁字搦がんじがらめに縛り上げた。あとは彼らを掃除屋に引き渡し、それで仕事は終わりだ。そうそう、このめちゃくちゃになった地面をきれいにならすのも、忘れてはいけない。

 一仕事終えたあと、ご主人は革手袋を外した手で、優しく私の頭を撫でてくれた。私たちの双眸の色はもう元に戻っている。


「戦う羽目になるとはね。ヴェルナーさんに文句を言って、追加報酬を貰わないと」


 ご主人が立ち上がり、歩き出す。私もニァアと鳴き声をあげて後に続く。尻尾をゆらゆら揺らしつつ、自慢の漆黒の毛並みが乱れてしまったから、ゆっくりブラッシングしてもらわなきゃ、と思いながら。

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