僕らのこと ゴゥ(ス)トダンス・ウィズ・ランピィキャット(2/3)

(承前)

 合宿場所は、海に突き出た岬にあった。丸みを帯びた三日月型の岬の先の方、陸地の内側に抱えられる形で。建物の周りは岩場がほとんどだが、少しだけ砂浜があり、あまり人の来ない穴場となっているらしい。

 合宿の件を両親に伝えると、二人は心底嬉しそうな顔で送り出してくれた。

 合宿のメンバーは、高校生は俺と未咲とひかる、太田組の男子一人、女子二人の計六人。未咲は今日も脚を潔く露出した格好だ。

 駅で大学生の車を待つあいだ、近況などを報告し合う。未咲は女子二人とは既に友人関係らしく、黄色い声をあげてきゃっきゃっとはしゃいでいる。顔の広い輝はもちろん、太田とももう打ち解けている。太田は少し見ないうちにだいぶ日に焼けていた。


「すげえな太田、その日焼け」

「ああ、けっこうプールで泳いでたりするからな。茅ヶ崎は相変わらず白いなー」

「まあ、あんまり外出てねえし……」

「茅ヶ崎って、暑さ苦手そうだもんな。インドア派っぽいというか」

「悪かったな、どうせ俺はひ弱で根暗だよ」

「ああ悪い、皮肉のつもりじゃなかったんだ。インドアもアウトドアと同じくらい良いと思うし、ただそう思っただけというか……いや、悪口っぽかったよな。ごめん」

「……いや、俺こそごめん」


 つい棘のある言葉をぶつけてしまい、反省する。すぐに悪意を疑ってしまうのは俺の悪い癖だ。最近になって、他人はそこまで自分にマイナスの感情を持ってはいないものだ、と分かってきたが、つい思考がそちらに流れてしまう。太田があまり気に介していない様子なのが救いか。あまり卑屈になるのはよそう、と心に刻む。

 やがて二台の車に別れ、大学生三人がやって来た。男子が二人で、女子が一人だ。太田に似て大らかそうな雰囲気の男子が、太田兄だろう。大学生はみんな軽やかな空気を纏っていて、ずいぶんと大人に見えた。

 これで合計が男子五名女子四名。総勢九人となった。


「おー、大所帯だねえ」


 集まったメンバーを見回して、ふわふわしたロングヘアの女子大学生がころころと笑う。

 荷物をトランクルームに詰めこみ、自己紹介もそこそこに、二組に分かれて車に乗り込む。合宿場所へは一時間ほどかかる。途中、海沿いの幹線に出ると、夏の陽射しを波間に受けた海の表面で、数えきれないほどの細かいきらめきが、季節を誇るようにちらちらと踊っていた。綺麗だな、と素直に思った。

 岬へ近づくにつれ、道路は細くなり、民家は疎らになり、枝が海とは逆方向に伸びた木が増えてくる。小さな浜辺を横目に進み、こんもりと茂った木々を抜けると、その建物はいきなり目の前に現れた。

 公民館みたいだ、というのが最初の印象だった。外壁の漆喰は白く、ぱっと見は小綺麗だったが、よく見ると年季が入っているのが見て取れ、壁や玄関部分のコンクリートにはひび割れも生じていた。太田によると、少し前まで使われていた大学の施設だということだ。玄関脇には、臨海実習所、と彫られた金属のプレートがそのままになっていた。


「すごーい! なんか、頭良さそうな建物!」

「その発言がもう馬鹿っぽいけどな」


 目を輝かせている未咲に突っ込むと、間髪入れずチョップが飛んでくる。長年の勘に従ってすかさず避けると、避けるなー! と未咲が憤慨した。それを見ていた大学生たちが、二人とも面白いね、とくすくす笑う。どこが面白いのか分からない。

 太田兄に誘導され、玄関でスリッパに履き替える。所内は多少埃っぽく、かすかに薬品臭と潮の香りがした。廊下の上部にもガラスが嵌められているため、照明が点いていないにもかかわらずかなりの明るさだ。ドアや窓の鍵、階段の手すりなど、作られた年代を暗示するデザインが、ノスタルジックな雰囲気を醸し出している。通路はくねくねと蛇行し、一直線に先を見通せないようになっていた。通行するときは、向こうから誰かが来ないか気をつける必要があるだろう。建物内の部屋数は相当多く、普段は一人で在駐しているのが信じられないほど、敷地面積は広かった。

 まずはめいめい、割り当てられた部屋に荷物を置きに行く。ひとつの部屋は二段ベッドが二つ、簡易な長机ひとつと椅子が二つ。男子と女子で別れるが部屋の構造は一緒だそうだ。ここで勉強するわけではないから、まあ寝泊まりできれば十分だろう。戯れに布団に触れてみるとふかふかとして手触りがよく、快適そうだった。

 男子女子四人ずつからあぶれた一人はどうするのかというと、施設の管理人である太田兄には別に部屋があるらしい。

 興味本意でその部屋を覗かせてもらう。立て付けの悪いドアをぎっぎっと開けた先には、六畳ほどの昔懐かしい風情の和室があって、真ん中にぽつんと机が置いてある。夜は布団を敷いて寝るのだそうだ。

 俺を含めた高校生たちは一様に苦笑いを漏らす。あまりにわびしい風景だったからだ。


「なんか、寂しーい」

「こんな広いところに一人って、心細そうですねえ」


 太田兄は眉をハの字にして笑う。


「あー、そうそう。ちょっと怖いよ。たまに変な物音とか聞こえるし。足音みたいなの」

「え、それって――」

「ちょっと、やめてくださいよ、そういうの!」


 とたんに青ざめた顔になったのは未咲だ。いつも豪胆な幼なじみは、オカルト的なものは苦手なようだった。そう言う俺だって得意ではない。聞かなきゃよかったと後悔する。

 太田兄は冗談、冗談、と申し訳なさそうに笑みを振り撒く。俺にはその弁解が、どうも取って付けたもののように思えて仕方なかった。



 荷物を手放して身軽になると、建物内部をぞろぞろ歩き回って説明を受けた。

 トイレはここ。洗濯機はここ。お風呂はここ。お風呂は大浴場と個室なんだけど、人数が多い男子が大浴場使ってね。トイレに虫がいることあるから気をつけて。何の虫かは言わないでおくけど。

 そういえば、と太田兄が今思い出したように言う。


「ここ、大学の施設だっただけあって、標本室とか、二階には実験台付きの実験室とかあるよ。見たかったら自由に見てみて。頼んでくれたら案内もするし」


 へえ、標本ね、とあまり馴染みのない単語が耳に残った。

 ちょうどお昼時になったため、食堂へと移動する。車が別だった参加者同士で自己紹介をしつつ、仕出し弁当での昼食を終えると、いよいよ勉強の時間となった。二段式のどでかい黒板がある講義室を利用し、各自課題に取り組んでもよし、大学生に教えを請うてもよし、という塩梅だ。

 一度課題を持って講義室に向かった俺だったが、ペンケースを鞄に入れっぱなしだったことに気づき、やれやれと思いつつUターンする。ところどころ塗装が剥げたドアを開けると、中から真夏に似つかわしくないひやりとした空気が流れ出て、顔を撫でた。冷気の不意打ちに背筋がぞくっとなる。

 何かが足元をかすめるような気配がした。

 中に誰もいないと思っていたから、反射的に体がびくりと跳ねる。咄嗟に下を向いたが、影は捉えられない。廊下へ頭を向け、右左と見渡してみても、何の気配も感じられなかった。

 二度三度と首を振るう。気のせいだろうと思い込む努力をする。さっき太田兄に、物音とか足音などの変な話を聞いたから、神経がおかしな具合に立っているだけだ。きっと。

 気を取り直し、がやがやとした喧騒が満ちる講義室に舞い戻る。これまで放置ぎみだった課題にあせあせと取り組むあいだに、その昼の不可解な出来事は、脳の皺の隙間からこぼれ落ちていった。


* * * *

―未咲の話


 龍介から勉強合宿の誘いの連絡が来たとき、わたしは驚いた。そして同時に、ありがたくもあった。

 どこかに、頭を切り替えるきっかけがあればな、と思っていたからだ。



 学生は夏休みで浮かれているというのに、わたしの心の中の風景は、落葉しきった晩秋の林のように寒々としていた。会長との――さとるさんとの関係が、にっちもさっちも行かなくなっていたのが原因だった。

 わたしは悟さんからのキスを避けてしまった。

 あれからも、二人きりで会う機会は何度かあった。けれど、素敵なお店で美味しそうな料理とデザートを前にしても、どうにも気持ちは浮き立たない。好きなはずの人といるのに、座りが悪くて、もぞもぞする。美味しいはずなのに、何の味も感じなくて、砂でも噛んでいるよう。

 そして、真ん前にいる悟さんの目を、どうしてもまっすぐ見ることができなかった。この人は、わたしを女として、そういう対象として見ているのだ、と考えると耐えられなかった。席を立って逃げ出してしまいたくなった。本当に、勝手な話だと思う。悟さんには申し訳ない気持ちでいっぱいだった。手を伸ばせば触れあう距離にいるのに、厚いガラスで隔てられたように、そこには決定的な壁が立ちはだかっていた。

 悟さんは、雨粒をぎりぎりまで孕んだ曇天にも似た表情を浮かべている。整った顔は、くしゃりと泣き出しそうに歪んでいた。わたしのせいだ。わたしが変なことをしなければ、彼にそんな似合わない顔をさせることもなかったのに。

 もう元には戻れないのだと互いに分かっていた。それほど溝は深まっていた。一度自覚した違和感は、拭い去ろうとしても消えてくれない厄介な代物だ。それこそ、ガラスの向こうにこびりついて落ちない汚れのような。

 氷で薄まったアイスコーヒーを掻き混ぜながら、ね、と悟さんが優しい声色で沈黙を破る。


「俺が未咲さんのどこを見て、好きになったのか分かる」


 遠く遠く、何百光年も離れた星の光でも探すように、その目はどこか別の場所を見ていた。

 首をふるふると横に振る。


「分からないです」 

「うん、きっと、そうだよね。――前、放課後に未咲さんと茅ヶ崎くんが、一緒に牛丼屋に来たことがあったでしょう。あの時の未咲さんの笑顔。それを見て、俺は君を好きになったんだ」

「え、み……見てたんですか……」


 思いもよらないカミングアウト。

 あれは何月だっただろう。龍介を強引に図書館から連れだし、馬鹿話をしながら一緒に牛丼を頬張ったのは。そういえばあの時、バスケ部の集団がいたようにも思う。でもまさか、悟さんに、あんなあられもない姿を見られていたなんて。この期に及んで恥ずかしくなり、極限まで俯いた。

 悟さんがぽつぽつと言葉を紡ぎだす。


「あの時の未咲さん、すごくいい顔してた。楽しそうだったし、幸せそうだった」

「……それはっ、好きなものを食べてたからで――」

「うん、でも、俺の前の未咲さんは、あんなに良い顔はしないよ」

「……っ」


 はっと顔を上げると、悟さんは微笑んでいた。僅かに、瞳を潤ませて。


「俺の前では、あんな風に喋ってくれない? あんな風に、笑ってくれない?」

「それは……だって、そんなの……無理です……」


 あんなに何も考えず話をしたり、思いきり笑い声をあげるなんて、悟さんの前でできるはずない。

 できるのは、そう、隣にいるのが龍介だからで――。


「そっか。そうだよな……ごめんね」


 ひとつの欠点もない完璧超人の彼が、はは、と力なく笑いをこぼす。


「俺じゃ、茅ヶ崎くんの代わりにはなれないよな」

「そん、な」

「ようやく分かったよ。俺は、茅ヶ崎くんの隣にいる未咲さんを好きになったんだって。ほんと今さら、馬鹿だよな」

「っ……わたし……、ごめんなさい……」

「いや、俺こそごめんね。……」


 わたしは彼を傷つけてしまった。

 それ以来、悟さんとは会っていない。

 急に店内の音が遠くなった。さざめき声が消え、足音や食器の音が消え、BGMがすうっと消えた。代わりに、なぜか潮騒のざわめきが耳に届いた。それを妙に思う余裕もなく、悲しみに心を塞がれ、その場でずっと涙を押し殺していると、不意におい、と聞き慣れた声が隣からかけられた。

 えっ、とそちらを振り仰げば、いつもの仏頂面をぶら下げた幼なじみが、鋭い目つきでわたしを見ている。


「りゅ、龍介? どうしてここに……」

「お前に言いたいことがある」

「え」


 何の脈絡もなく龍介が言い放つ。

 どくん、と心臓が大きく脈打つ。


「未咲。今まで言ってなかったけど、俺――」


 龍介の口が何かの言葉の形を作る。なのに、発音が聞き取れない。慌てて耳をそばだてる。


「な、何?」

「俺は――」

「――ちゃーん」

「え? 何、聞こえない――」

「みさっちゃーん! 」


 部屋のドアが開けられた。

 ばちっと目を開ける。二段ベッドの上部の床材が視界を埋めている。ああ、そうか。わたしは、夢を見ていたんだ。途中までは現実にあったこと。途中からは、たぶん起きないこと。


「あ、みさっちゃん寝てた? 起こしてごめん」

「ううん、だいじょぶ」


 勉強合宿に一緒に来ている友達が、すまなそうな顔でひょっこりとドアからこちらを見ていた。

 どうやら、夕飯に大学生たちが作ってくれたカレーを食べたあと、ベッドで携帯を弄っているうち、うとうとして寝落ちしてしまったらしい。ずいぶん課題も進んだからな。やっぱり、頭を使うのは疲れるものだ。


「何か用だった?」


 問うと、彼女はにぱっと笑みを作った。


「外でみんなで花火やるって! 来る?」

「行く!」


 花火という単語が、私の底まで沈んでいた心を持ち上げる。布団をはね飛ばし、スリッパに足を押し込むのももどかしく、わたしはクラスメイトに続いて駆け出した。



 夢を見ているあいだに、すっかり夜になっていた。玄関の前の車止めでは、もういくつもの花火が鮮やかに咲き乱れている。わたしたちが加わると、メンバーは合宿参加者全員になった。みんなわあわあと歓声をあげながら、手持ち花火に火を点けている。

 普段は大概むっつりしている龍介も、頬を緩ませて輝と何か話していた。あいつは夜型だから、日が沈むと元気になるのかもしれない。

 その楽しげな横顔を見たとき、なぜだか胸のあたりがきゅう、と切なく締めつけられた。

 花火を大学生から貰い、また新たに花火へ点火しようとしている龍介へ、ととっ、と歩み寄る。


「龍介」

「ん、お前も来たのか」

「うん。ねえ……この合宿、誘ってくれてありがと」


 ありがとうだなんて、柄にもないなあと思いつつ声にする。

 でも今を逃すと、言えなくなりそうな気配があった。この合宿の時間で、今までのことに整理をつけられそうな気がする。だから、自分ぽくなくても、一言感謝を伝えておきたかった。

 案の定、龍介は不可解そうに眉根を寄せる。右手の人差し指が頬を掻いた。わたしから目を逸らして、蝋燭の前に腰を落とす。


「別に……あれだろ、お前のことだからどうせ、課題に手ェつけてなくてヤバかったんだろ」


 ――わあびっくり。この空気でそういうこと言えるとか。

 なぜこのぶっきらぼうな物言いしかできない幼なじみは、言わなくていいことばっかり言うのだろうか。

 幻滅。幻滅だ。

 わたしはそれには答えず、花火に火を移して、しゅううと小気味いい音をたてて輝く穂の先を、龍介の足先へと向けた。


「えい! これでも食らえ!」

「は、おい馬鹿、何してんだよっ」

「女心が読めないあんたへの罰でーす!」

「なに訳わかんねーこと言って……だからこっちに向けるなよ! 危ねえだろ!」


 両手に花火を持って龍介を追うわたし。

 そんなわたしからほうほうの体で逃げ惑う龍介。

 わたしたちを眺めてさんざめくみんな。

 実習所の夜は、心地のよい賑やかさとともに更けていった。


* * * *

―龍介の話


 深更に差しかかっているのに、俺は二段ベッドの下段で、まんじりともせずに皆の寝息を聞いていた。

 さっきは散々な目に遭った。訳も分からず、花火を持った未咲に追いかけ回されたのだ。何なんだあいつ、と声に出さずに悪態を吐く。何か、俺のしたことがまずかったのだろうか。

 未咲と二人になる機会はなかなか訪れない。それどころか、真面目な話をする空気に自分から持っていくことすら、合宿中にできるか怪しかった。未咲相手だと、つい皮肉やら茶化した言葉やらが口を突いてしまうのだ。

 慣れないベッドの上で、今夜何度目か知れない寝返りを打つ。体は疲れているのに、目だけが変に冴えざえとしていた。枕が変わるとなかなか寝つけないたちで、こういう時に苦労する。同室のみんなの穏やかな寝息が、夜の静寂しじまを強調している。

 それから一時間ばかり経っただろうか、やっととろとろとまどろんできたところで、不意に緊張感が脳へと去来した。

 何者かの気配。部屋の中だ。体が強ばる。

 心臓のどくどくという鼓動が体に響く。視界を埋める暗闇の中、小さな点が二つ、ぎらりと光った。その光から目が離せない。金縛りに遇ったように、体が動かせない。これは現実か? それとも、夢なのか?

 永遠に終わらないと思える一瞬だった。自分の大きすぎる呼吸音を何回ともなく数えるうち、気配と光はふうっと消えた。

 ほーっと長く息をつく。金縛りの経験は何回かあるが、自分が特に霊感が強いと感じたことはない。さっきのは見なかったことにしよう。そう気を取り直して、壁側に顔を向け、暑くてたまらないがタオルケットを頭まで被る。

 そのあと見た夢は、お決まりの、あの山羊頭の男たちのものだった。

 こんな夜を、あとどれほど繰り返さなければいけないのだろう。朝目覚めたら、寝間着もシーツも寝汗でびっしょりと濡れていた。

 夏には、本当に調子が狂わされる。



 合宿二日目。起床した人間から昨日のカレーを流用したカレーうどんを朝食に啜り、一息入れたのち三々五々勉強を始める流れとなった。

 昨夜の妙な気配と悪夢とであまり眠れなかったため、お世辞にもいい気分とは言い難かった。俺は息抜きにと、桐原先生から大量に渡されていた論理の問題プリントを取り出す。

 数学に取り組んでいる時は落ち着く。俺にとって、数学は色とりどりの絵画のようなものだった。それぞれの色味を持つ数字や記号たちが、互いに作用しあってさんざめき、新しい色相を作り出しては変転していく。問題によって彩度も明度もまったく異なる。ゆらゆらと陽炎みたいに蠢いていたものが、ペンを最後まで走らせると同時に、かっちりしたひとつの風景画になる。その繰り返しだ。

 黙々とそれらと格闘していると、隣にすーっと女子大生が移動してきた。出来上がりかけていた景色が、ぼんやりと薄まり消えていく。

 俺の手元を覗きこんで、わあ、と大げさに驚嘆の声をあげる。


「すごいね、それ。その問題って高校の範囲じゃないでしょ」


 俺は思考を中断させて、声の主へと視線を移した。

 髪をアッシュグレイに染めたその人は、俺と目が合うとふわりと微笑んだ。朝からばっちりメイクをしている。


「おはよう。昨日はちゃんと眠れた?」

「……おはようございます。ぼちぼちですかね」

「そう? 君は茅ヶ崎龍介くん、だったよね。数学得意なんだ」

「はあ、まあ……得意というか、好きというか」

「いいなー、茅ヶ崎くん――龍くん。数学ができるって、かっこいいよね」

「……。いや、どうですかね……」


 面と向かってそんなことを言われたのは初めてで、何と返せばいいか悩み、言い淀む。しかも、初対面に等しい人に"龍くん"なんて親しげに呼ばれたためしなどほとんどない。どぎまぎするなと言う方が難しい。その上、彼女の格好は、昨日は衿が詰まったブラウスだったのだが、今日は胸元が深く空いたカットソーだった。

 色白の肌に刻まれた谷間の影。

 頬杖を突いているせいで、それがさらに強調されている。無理矢理にでも目線を外さないと、そこに引き寄せられてしまう。意識を逸らすので精一杯だ。

 女子大生はいたずらっぽく目を光らせて笑う。


「どうかした? ねえ、龍くんってモテるでしょ」

「は……いや、全然……」

「龍くん、私に数学教えてくれない?」

「えっ?」

「私ね、経済学部なんだけど、数学苦手なの。経済学部ってけっこう数学使うんだよね。ねっ、いいでしょ?」


 ずいと体が寄せられる。すっきりとした、けれど甘さのある良い匂いが香った。女の子ではない、女性の香りだ。ぐらっと頭が揺れそうになり、なんとかこらえる。

 白く長い指に腕を絡め取られそうになるが、すんでのところでするりとかわした。


「すいません、俺ちょっと、休憩してきます」


 休憩を口実に部屋を抜け出すと、なぜか未咲がジト目で俺を睨んでいた。


* * * *

―未咲の話


 龍介がそそくさと講義室を出ていくが早いか、ぽつんと残された女子大生の元へ、太田くんのお兄さんが呆れ顔でやってきた。

 その表情は弟とびっくりするほど似ている。ちょっと苦労性なところも、兄弟で共通しているらしい。


「お前な、あんまり高校生をからかうなよ。困ってただろ」

「だって、龍くん可愛いんだもん」

「……ったく」


 女子大生は媚びたようにしなを作って笑う。

 わたしは苛々しながら、手が乱暴に動くのに任せ、課題の解答をカツカツと埋めていった。そこに苛々の原因があるように。ペン先で苛々の原因を潰していくように。

 龍介ってば、あんなんででれでれしちゃって、だらしない。彼女は龍介に興味津々のようだが、一体あいつの何に惹かれたというのだろう。

 そりゃまあ? 龍介は無愛想で口が悪いけどけっこう優しいし? わたしが手をあげても自分は絶対やり返してこないし? 数学に取り組んでるときのひたむきな横顔とか、割とぐっとくるし? 前髪であらかた隠れてるけど、よく見ると意外とイケメンだし?

 そんなの、なんにも知らないくせに。

 筆圧でシャーペンの芯がばきっと折れた。


「私、龍くんの連絡先聞いてみちゃおうかなー」


 女子大生が聞こえよがしに言う。わたしはそれを、聞こえないふりをしてやりすごす。

 何に苛ついているんだ、と自問自答する。別にいいじゃない。自然の成りゆきじゃない。出会いがあれば龍介を気に入る人がいて、その人と龍介が交際に発展するくらいのことが、あったって不思議でもなんでもない。龍介にも誰か特別な人ができて、その人の手を取って隣り合い、そうして彼は彼の人生を歩んでいく。

 そこまで考えて、胸の奥がふつふつと熱くなっている自分に驚く。

 嫌だ、とわたしはその時はっきり思ったのだった。


* * * *

―龍介の話


 講義室を抜け出した俺は、どうしたものかと思慮に暮れていた。

 もちろん休憩がしたくて部屋を飛び出したわけではない。あんなことで心が揺れはしないが、未咲がいる前で醜態を晒すのはごめんだったのだ。

 少し思案した俺は、標本室を見に行こうと決めた。



 実習所の中をうろうろすること数分。

 ようやく"標本室"という退色して文字が消えかかったプレートを発見することができた。引き戸を苦労して開け、空気の淀んだ部屋に足を踏み入れてみる。

 そこは、時間が止まってしまったとも思える場所だった。

 床には埃が薄く堆積していて、歩みを進めると、カーテンの隙間から射し込む光のただ中で、細かい塵がきらきらと踊る。部屋には背の高い棚がずらりと並び、ガラス瓶がところ狭しと陳列されていた。ホルマリンに浸けられて元の色がすっかり褪せ、白く輪郭がぼやけた生き物たちが、容器の中でぴくりともせずただじっと佇んでいる。多くは大小様々な形の魚で、他にはナマコやらゴカイやら、あとは名前も聞いたことのない動物もたくさんいた。

 昼日中ひるひなかだというのに、その室内の光景はどこか不気味で、背中の寒気を誘った。夜ならもっと雰囲気が出るだろう。無言かつ微動だにしない、かつて生き物だったものたちに囲まれて、生命があるのはここでは俺だけなのだ。そう考えると、別世界に迷いこんだような不可思議な心地がした。

 標本の表情は色々だった。あるものはかっと目を見開いて。あるものは半開きの口から、鋭く揃った歯を覗かせて。瓶に貼られたラベルを見ると、数十年前に採集された生物も珍しくない。ここだけが外界から途絶され、時間の流れが滞っている気分に捕らわれる。

 こういうの、変わったもの好きの未咲は気に入るかもしれない。後で連れてきてやるか、と思わず口元を緩めたとき、はっと身が固くなった。

 ――誰かいる。

 棚の向こう、物言わぬ標本が衝立のように並んだところに、目線を感じる。湿った目の気配。明らかに、こちらに感づかれないように振る舞っている。

 ――誰だ?

 合宿の参加者なら、姿を隠す必要などないのに。しかもその気配は、俺の目線よりかなり高い位置から漂ってくる。

 参加者に、そんなに背の高い奴はいない。

 冷房も効いていない暑い部屋の中、俺は背中に冷や汗をかいていた。昨夜の、一対の鋭い眼光が思い出される。足元をかすめた、一陣の風も。

 俺は、何かに、つきまとわれているのか。

 体に緊張が走る。唾を飲む音がごくり、と嫌に響く。


「誰かいるのか」


 乾いた声でやっと問う。

 謎の気配は滲んで溶けるように消えていった。


「……何なんだよ、くそ……」


 額の汗を拭いつつ、俺はぼやいた。

(続く)

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