僕らのこと ゴゥ(ス)トダンス・ウィズ・ランピィキャット(1/3)

―茅ヶ崎龍介の話


 夏が来ると、決まってあの夜の夢を見る。

 蝉の鳴き声と、草いきれと、ぬめった眼。俺が、誘拐された日のことだ。



 小学二年の夏休み。

 その日も、俺は未咲と輝の二人と一緒に、小学校の敷地内で虫取りをしていた。遊びに夢中になり、あたりが薄暗くなってきたところで、かなり遅い時間まで外にいることを覚った。夏とはいえ、日が沈めば暗くなるのに時間はかからない。

 そしてそこで、慌てて帰ろうとしたのがいけなかった。

 右手が空っぽ。その事実に気づいたとき、帰り道はもう半ばに差し掛かっていた。家を出るときにはそこに収まっていたはずの、虫取網の硬い手応えはどこにもなかった。

 ――学校に忘れた。

 俺はにわかに慌てた。幼なじみ二人には先に帰ってもらうように伝え、元来た道を走って戻った。

 忘れられた網は所在なげに、まだ続く蝉時雨の下、桜の木の根本にぽつんと落ちていた。駆け寄って無事に回収した俺は安堵し、明日はどこに行こうかなあ、今日の夕飯は何かなあ、などと考えつつ、一人で帰路を辿りはじめた。

 夕陽は山陵の向こうへ落ち、世界は急速に彩度と明度を失いつつあった。道路のアスファルトから、昼間の陽射しで蓄えられた熱気が、むわっと吐き出され立ちのぼっていた。頭上からは、色々な蝉の鳴き声が雨のように降り注いだ。その時だ。後ろから車のエンジン音が近づいてきたのは。

 俺は気にも留めず歩き続ける。すぐ後ろでエンジンが停止する。かと思うと、ばらばらと人が出てくる音が続き、何事かと振り返る間もないまま、ぐいと後ろに体が引かれた。不意の事態に、何の反応もできなかった。あれよあれよという間に目隠しをされ、乱暴に車内へと連れ込まれた。

 突如降りかかった受難。何が起こったのか分からない。誘拐、という言葉は知っていたけれども、それが自分の身に起ころうとは露ほども思っていなかった。

 頬から伝わるシートの硬さ。現実の進行は思考が追い付くのを待ってはくれない。俺はなす術なくじっと息を殺した。頭は混乱している一方でやけに冴えていて、状況を把握しようと目まぐるしく回転していた。車体に震えが走り、全身へのGのかかり方で発車を知った。

 車内で飛び交うくぐもった声はすべて男のもので、日本語ではなかった。当時の俺は外国語に触れた経験がほぼないと言ってよく、己の幼心を一番震え上がらせたのは、突然連れ去られたことより、見知らぬ人間に取り囲まれていることより、男たちが意味の取れない言葉を話していることだった。

 次に車体が止まるまで、何分かかったのかは分からない。一時間かかったようにも思えたが、案外五分くらいだったかもしれない。とにかく車は停車して、目隠しは外された。

 暗かった。周りに街灯はなく、車の内部まで薄暗い。節くれだった手が、うつ伏せた俺を起こした。その手の生々しさと熱さを、今でも覚えている。怖々と様子を伺うと、一人は横から、一人は運転席から、一人は助手席から、こちらを見つめていた。背中がぞっと粟立つ。全員、顔は分からなかった。辺りが暗かったから、ではない。

 皆、剥製のような山羊の被り物をしていたからだ。

 その時になって、体が震えだした。悪夢でも見ているようだった。閉塞感が満ちる狭い車内にあって、それは大きすぎる存在感をばらまいていた。ごわごわした毛並み、半円を描く角、横に広がった瞳孔。光が乏しい中で、山羊の頭は本物みたいに見えた。それが、人の体からにょっきりと、文句を寄せ付けぬ様子で、当然のように伸びている。生理的な嫌悪感で、吐き気が喉の奥からせり上げた。あれを塗り替える恐怖を、俺はまだ味わっていない。

 助手席の山羊男が何か言い、正面にいる男が応えて頷く。無造作に腕を掴まれる。その手には血管が浮き、確かに血の通った人間のものに違いなかった。これは悪い夢などではない。相手は本物の人間だ。その事実が、こみ上げる嫌悪を助長した。

 恐怖で体が強張っていた。ほとんど抵抗もできないまま、男に指で無理やり口を開かされる。視界が潤む。男は涎が垂れるのも意に介さず、もう一方の手を俺の口内に突っ込んだ。

 喉の奥の異物感。おえ、と反射的に嘔吐しそうになる。とうとう涙があふれた。

 男が手を引き抜くと、すぐさま水を多量に飲まされて、口蓋を力ずくで閉じさせられる。口の中に粒状の何かがあった。嫌だ。飲みたくない。そのもがく思いも空しく、俺の喉は水と一緒に、その何かを食道へと押しやる。

 途端に四肢が弛緩し、ぼうっと白い諦念に思考を包まれる。ああ、これで死ぬのか、というぼんやりした絶望に。

 男たちがぴくりと何かに反応した。


 刹那、強い光が車窓の闇を裂いた。


 かっと辺りが照らされる。車のヘッドライトのものらしい、二条の眩い光。力強いエンジンの重低音。周りの木立が影絵となって、光の動きに呼応する。間髪入れず、三人の山羊男が弾かれたように外へわらわらと出ていく。 

 何が起こったか見届ける勇気も出ず、俺は力なくシートにもたれかかっていた。外からばしっ、ばしっ、という聞いたこともない強烈な衝撃音が聞こえてくる。それと同時に、どさっ、どさっ、という質量のあるものが倒れるような音も。

 永遠が流れたかに思えた。まるでもう死後の世界にいるみたいに、現実感を忘れてしまっていた。昼間、二人の幼なじみと笑いあっていた自分との、なんという遠い隔絶だろう。ふと、ゆるゆると手を挙げて、なんとなく頬をつねってみると、痛かった。


「おい坊主、何してるんだ?」


 軽く笑みを含んだ、低く響く声。聞きなじんだ日本語に、はっと顔を上げる。開いたドアから、右目を眼帯で覆った大柄な男性が、穏やかな顔でこちらを覗いていた。


「もう大丈夫だ。外に出てこられるかい?」


 男性は日本語を繰っているけれども、彫りの深い顔立ちからして外国人のようだった。彼に促され、おそるおそる車外に出る。

 見たことのない、木立の中だった。不意に現れた車のライトから外れたところは、濃密な闇が空間を満たしている。光に照らし出されているのは、山羊頭の男たちが縛りあげられ、三人一緒にぐるぐる巻きにされている姿だった。全員、微動だにせず沈黙している。気絶させられていたのだろう。

 突っ立っていると、眼帯を着けた男性に、何かされたか、と静かに問われる。そういえばまだ生きているな、と喉に手をやりつつ答える。口の中で蠢く太い指の感触を思い出し、気道が狭くなり、うえっとえずきそうになる。絞り出す声は存外にかすれていた。


「さっき、何か、飲まされ、て……」

「そうか。シューニャ」


 男性は不思議な響きを口にして、背後を振り返る。釣られてそちらを見ると、まだ幼さを色濃く残した、驚くほど整った容貌の少年が、暗がりからゆっくりと姿を現した。

 息を飲む。年の頃は俺より少し上くらいだったか。雪に似た純白の髪に、長く伸びた睫毛に縁取られた、薄い灰色の瞳。感情が抜けたような、冷たく無機質な表情。白い布を何枚も重ねた大仰な服。まるで精緻な人形だった。シューニャというのが、彼の名なのだろうか。

 俺に歩み寄ると、彼はわずかに硬い面持ちを緩める。


「少年よ、怖かったろう……おや、泣きやんだのか。見かけによらず強い男子おのこじゃな。ところで少年よ、少し口を開けてくれんかのう」


 子供の容姿なのに、その言葉遣いはまるで老人だった。

 彼らが何者か分からないながら、俺は素直に従うことにした。現実感が薄すぎて、嫌がる理由を考えることすら頭になかったのだ。

 シューニャという少年は、細く小さい棒――綿棒だったろうか――を眼帯の男性から受けとると、手を伸ばし、それを俺の口にそっと差し入れた。棒はすぐに口外へと出され、大柄な男性が持つ箱めいた機械の、金属のシートのようなところへ、棒の先が押し当てられる。

 二人が何やら難しい顔をして機械の液晶部分を見やっているのを、俺は他人事のように眺めていた。大柄な男性と白い少年とが囁きあう。


「ううむ……ただの視察のつもりだったのにな……こいつら、余計なことをしてくれる。だが、命にかかわることではないんだな?」

「うむ。じゃが……こんな年端もいかぬ少年に、酷なことをするわい」

「そうだな……」


 その言葉たちの意味は分からなかったけれど、俺は無意識のうちに、それらの響きを脳に刻みこもうとした。

 乗ってきた車に箱形の機械を仕舞ってきた眼帯の男性は、気を取り直したように俺に微笑みかける。


「君は、茅ヶ崎龍介くんだね?」


 俺は仰天した。どうして、見ず知らずの外国の人が、自分の名前を知っているのだろう。


「どうして、僕の名前……あ、警察のひと?」


 そんなわけはないと思いながらも俺は問う。男性は口を弓形ゆみなりに歪ませて、かぶりを振る。


「いや。そうじゃないが……我々はね、君自身のことを、君よりもよく知っているんだよ」

「え……?」


 噛んで含めるような語調。その意味がさっぱり分からず、ずいぶん高いところにある彼の顔をぽかんと見つめる。薄い茶色の理知的な瞳が、俺のことをじっと見ていた。


「まあ、今すぐには分からんだろうがな。そのうち分かる日も来るかもしれんよ」

「……?」

「少年よ、この道をまっすぐ行くとよい。お主のお友達がじきに迎えに来てくれる。そうそう、わしらのことは誰にも言わないでくれると助かるのう」


 内心で首をひねっている俺に、少年が話しかけてきた。これから起こることが既に分かっていて、しかもそれが当然のような話しぶりだった。

 もやもやと渦をなす俺の疑念は意に介さない様子で、白い少年が大袈裟に重ねた服の懐からごそごそと何かを取り出す。


「お友達を待つあいだ、これを食べているとよい。少年はこの菓子は嫌いでないかの?」


 掌に乗った箱は、きのこのお菓子のパッケージだった。

 思わず目をしばたかせる。あまりに雰囲気にそぐわないそれの登場に。


「えと……うん」

「それは良かった。わしは日本の菓子が好きでの。ただのう、わしはたけのこ派じゃと何度言ってもこの男が覚えんのじゃ。いつも両方とも買ってきよる。これは戦争だと言うのに、嘆かわしいのう」

「戦争って、大袈裟な……どっちも小麦とチョコレートには変わりないだろう」


 男性の呆れ声に、少年はふんと鼻を鳴らして答える。どうも信じられないが、少年の方が地位が上のようだった。


「まったく。そんなことじゃからいつまで経っても彼女の一人見つからんのじゃ」

「子供の前でそれを言ってどうするんだ……」

「甲斐性を身に付けよということじゃ。……まあそれは、今はどうでもよいことか」


 おほんとひとつ咳払いして、少年はまともに俺の目を覗きこむ。整いすぎた顔立ちにはある種の凄みがあり、俺は猛々しい獣にでも遭遇したかのように、そこから一歩たりとも動けない。


「茅ヶ崎少年よ。運が良ければ……いや、運が悪ければ、と言うべきか。また相見えることもあろう。さらばだ、少年」

「できたら、我々のことは秘密にしておいてくれると助かる。それじゃあな、茅ヶ崎くん」


 不思議な二人組だった。うん、とこくりと頷いたあと、ありがとう、と慌てて付け足す。その小さい感謝は二人に届いたかどうか、分からなかった。車のエンジン音が遠退いていく。

 車の走り去っていった方へ向かうと、そこには確かに道があった。舗装されていない砂利道だ。言われたとおり、お菓子を食べながら道をたどっていたところ、果たして途中で未咲と鉢合わせた。未咲は泣きじゃくっていて、服から膝からみんな泥んこだった。自分を探すためにそんな身なりになったのだ、と考えると申し訳なかった。


「龍介くーんっ!」


 俺の顔を認めた未咲がぱっと走りよってくる。俺の胸に体を預けてえぐえぐ泣くから、ぎこちなく手を上げて、頭を撫でてあげた。これではどちらが慰めているのやら、分かったものではない。

 腕の中で震えている彼女の体は温かく、俺は心から安心できた。

 その夜から、俺はきのこ派になった。

 そして俺は、いまだに山羊が苦手である。



 夏の朝は好きじゃない。明るくなるのが早すぎるし、暑さで目が覚めてしまって、目覚めが最悪だからだ。

 繰り返す幼い夏の一夜。

 またあの夢か、とげんなりしながら携帯を手繰り寄せ、時刻を確認する。まだ七時前だ。それなのに、カーテンの隙間から差す日射しは白く眩しく、室温はおそらく既に二十五℃を超えている。ジイジイという蝉の鳴き声も聞こえる。

 携帯の通知欄には、メッセージの到着を報せるアイコンが点っていた。ベッドの上で起き上がり、画面を操作する。クラスメイトの太田からのものだった。

 期末試験の勉強会の後、しつこく彼に勧められ、仕方なしにダウンロードしたアプリだったが、これがなかなかに便利だった。つまらない意地を張っていた自分が、阿呆だと思えるほどに。未咲や輝ともIDを交換した今では、むしろメールをほとんど使わなくなっていた。それはいいのだが、未咲から変なスタンプだけが脈絡なく送られてくることがあり、対応に困っている。どうにかしてほしい。

 画面を操作して見ると、太田からのメッセージは夜の零時過ぎのものだった。何やら、勉強合宿なるものへの誘いらしい。


 "いきなりだけど、茅ヶ崎は勉強合宿とか興味ない? 日程はお盆前で、BBQ付きなんだけど"

 "二泊三日で、大学生が勉強教えてくれるんだ。他に何人か呼んでもオーケー。俺の方は前に茅ヶ崎に数学教わった女子部員二人と行くつもり"

 "興味あったら、詳細送るよ"


 ふうむ、と考える。もう八月の頭だけれど、俺はまるで夏らしいことをしていない。補講のために学校と家を往復してばかりで、正直夏休み前とそんなに変わらない生活を送っている。未咲は部活と補修、輝は記者倶楽部の取材に駆け回っており、捕まえる暇もない。

 ただ、お盆前となれば部活も補修も俺の補講もいったん休みになるだろう。夏休みの課題を大学生に教わるのも悪くない話だし、太田組も大体人柄が分かっているし、幼なじみの二人を誘って参加するのもありかもしれない。

 返事を打ちながら、ふっと笑いがこみ上げてきた。俺も変わった。以前の自分なら、こんな誘いに乗るなんて考えられなかったろう。

 あの軽佻浮薄な赤髪の男――ヴェルナーと話して、そんなに怖がらなくていいんじゃない、と言われてから、俺は少し積極的になれたと思う。何か新しいことをするのにもうあまり恐怖はない。関わってみて駄目だったら、元からそれだけの関係だったというだけだ。彼のおかげで変われたなどと、声を大にして言う気はさらさらないが。

 興味はちょっとあるかな、と送信すると、返事は二時間ほど経って返ってきた。


 "茅ヶ崎、早起きだな! じゃあ詳細送るわ"

 "一日目

お昼食べてから駅前に集合、大学生が車持ってるからそれで移動。合宿場所に着いたら勉強見てもらって、夜は仕出し弁当かなんかとる予定"

 "二日目

自由に勉強見てもらう日。海近いから、息抜きに泳いでも釣りしてもよし。夜はBBQ。買い出しは大学生がしてくれるって"

 "三日目

 帰る準備して、昼までに帰る"

 "ざっとこんな感じ。俺の兄貴が夏休みに施設管理のバイトしてて、格安で使ってもいいことになってるんだと。上宮とか篠村さんもどうかなーって。返事は明後日までにくれると助かる"


 文面を脳内で整理しながら、なかなか良さそうだと考える。幼なじみ二人は俺が誘わねばなるまい。

 未咲に送る文面を打っていると、そういえばあの一件から自分から連絡取るのは初めてだな、と気がついた。

 あの一件。未咲と、生徒会長・九条悟くじょうさとるのデート。

 夕陽で茜に染められた、公園の場面がふっと頭をよぎる。二人きりの公園、見つめ合う男女、徐々に近づく双方の顔。俺が言うのもなんだが、完璧にロマンチックなムードだったはずだ。

 なのに、未咲はそれを避けた。

 見ていられない、と目を逸らした俺を我に返らせたのは、ごめんなさいっ、という鋭く空気を打つ未咲の声だった。あの時、未咲が拒絶したのはなぜだろう。単に初めてのデートで恥ずかしかったからか。それとも、屋外でキスするなんてとんでもないという古風な考えを持っているのか。

 輝からは何も聞かされていないが、二人があれからまたデートを重ねている可能性もある。そして今度こそは、顔を背けずに、唇を――。

 手の中の携帯をぐっと握りしめる。

 別に、それならそれで、いいじゃないか。あいつが笑っていられるなら。未咲のあの、真夏の太陽のような笑顔が向かう先が、俺でなくても。何も外野が騒ぎ立てることじゃない。

 俺は諦めるつもりでいた。

 そこまで滔々と思考して、己の決心のうすら寒さにぶるぶると頭を振るう。

 ――諦めるって、なんだよ。それじゃまるで、俺が未咲を好きみたいじゃねーか。

 気を取り直し、雑念を滅して携帯と向き合う。修行僧みたいに、完全なる無を念じながら。

 二人からは一日と経たず返事が来た。答えは、どちらもイエスだった。

 それを見て、俺は無意識的に拳を握りかけた。

 俺は決めていたのだ。この合宿に二人が参加したら、詳しく言えない隠し事がある、と伝えることを。もうこれ以上関係がぎくしゃくするのはごめんだった。それと同時に、吐いて楽になりたい思いもあった。

 そしてもう、二人に依存するような生活は終わりにするのだ。

(続く)

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