僕らのこと 記者倶楽部のおしごと(1/2)

─茅ヶ崎龍介と篠村未咲の話


 何たるバッドニュース。最悪の誕生日プレゼントだ。



 一学期の終業式。

 ジイジイとミーンミーンとが混ざった蝉時雨が降り注いでいる。暑すぎて、もはや熱い。

 冷房の利いた教室から一歩でも出れば、だるほどの熱気に体全体が包まれる。不快だ。夏生まれなのに俺は夏が苦手だった。まだ七月だけれど、早く終わってほしい。

 クラスメイトはめいめい、友達同士で通知票を見せ合い、きゃっきゃっと騒いでいた。

 俺は通知票を貰っていない。授業の欠課が多すぎ、出席日数不足の俺には、夏休み中、補講がたっぷり待っている。成績がつくのはそれが済んでからだ。通常の授業とは違い、ほぼ一対一の授業のはずだから、それほど苦痛には感じない。人でぎゅうぎゅう詰めの教室が不得手な俺には、むしろ向いている気すらする。

 夏休み、なんの予定もねーなあ、と我ながら寂しいことを考えつつ帰る準備をしていると、幼なじみのひかるに肩を叩かれた。


「龍介、良い知らせと悪い知らせがあるんだけど、どっちから聞きたい?」


 いつも通りの、やわらかく人懐こい笑み。中学からと変わらず、こいつは良い成績を保っているのだろう。特に、いつも俺が最低評価の授業態度なんて、きっと高評価に違いない。

 しかし何なんだ、そのアメリカンな感じの問いかけは。俺は数秒押し黙る。


「……良い方かな」

「ハッピーバースデー、龍介。十六才おめでとう」

「え」


 ぽかんとする。そういえば、今日七月二十二日は、自分の十六歳の誕生日だ。すっかり頭から抜けていた。二十二分の七が円周率πパイの近似値になるなので、けっこう気に入っているのに。

 なぜ忘れていたんだろう、と疑問に思うが、もう一人の幼なじみである未咲が、何も言ってくれなかったことに思い至る。毎年、何だかんだと皮肉をこめても、どれだけひねくれた表現でも、必ずおめでとうと言ってくれていたのに。地味に傷つく。呻きそうになるが、心の引っ掻き傷を自分で認めたくなくて、ぐっとこらえた。

 輝は楽しげにハッピバースデートゥーユーと歌い始める。それを、やめろと言って制止する。輝には割とこういう、マイペースな一面がある。

 それよりも気がかりなのは、残りの悪いニュースの方だ。悪い方ってなんだよ、と輝を促すと、彼は人差し指を立てた両拳を軽くぶつけ合わせる。朗らかな笑顔をたたえたまま。


「明日、未咲と九条悟くじょうさとるが初デートしまーす」

「……は?」

 

 俺の周りから暑さが吹っ飛んだ。

 足元が底無し沼に変じ、ずぶずぶと呑まれていく。九条悟。このあまね高校の生徒会長。完全無欠の、完璧超人。そして、未咲の好きな相手。

 いつからだ。いつの間に、二人の仲はそんなに進展していたのだ。デートということはつまり、もう付き合っているのか? 仲はどこまで深まっているんだ?

 ぐらぐらと天井が回る。目眩だ。誕生日に言及してくれなかった理由。デートが楽しみで忘れていた、とかそんなところだろう。喧嘩ばかりしている幼なじみの誕生日なんかより、知り合って三ヶ月ちょっとの男とのデートというわけだ。

 はは。笑える。


「そんなにショックだった?」

「別に」

「そう? 涙目になってるけど」

「なってねーよ。つうか、なんでそれを俺に話すんだよ」

「ああ、それね」


 輝が愛用のカメラを鞄からひょいと取り出す。小ぶりだが立派なデジタル一眼レフ。


「明日二人のデートを"取材"するから、龍介も一緒にどうかなあと思って」

「取材……?」

「二人をけるってこと」

「はい?」


 気軽に犯罪を持ちかけておきながら、輝は聖職者のように微笑んだ。


* * * *


 終業式の三日前。

 テストが終わった安堵感と、むしむしとした暑さが相まって、夏休みまでのロスタイムみたいなだらけた雰囲気が、校舎に漂っている。わたしは幼なじみの輝と隣り合って、大会議室のテーブルに就いていた。

 黒板には"文化祭のテーマについて"という大きな文字。

 文化祭実行委員の顔合わせ、兼テーマ決めの場だ。

 わたしのクラスの委員長はわたし、副委員長は輝。演説台に立つ生徒会長が、よく通る明るい発声で、てきぱきと会議を進めている。今日も会長は爽やかでかっこいい。わたしのもう一人の陰気な幼なじみ、茅ヶ崎龍介とは全然違う。会長には、この人に着いていけば何も心配要らない、そう皆に思わせてしまう力がある。

 ぼんやりと会長の挙動を眺めているうち、あれよあれよとテーマが決まり、会議はお開きになった。テーマは聞き逃したけど、輝がちゃんと書きとめてくれてるだろうから、心配はない。

 上の空のまま、一度も使わなかった筆記用具をケースにしまう。他の実行委員たちは足早に会議室を出ていく。そのうちの一人の女子生徒がわたしの横を通りすぎる際、鞄の底面がちょうど会議資料の束のおもてを掠めていった。視界にちらと映るピンクのパスケース。

 あ、と思う間もなく、鞄にこすられた資料が重力に従って落下した。

 ばらばらになった紙が床にぶちまけられる。最悪、と思いながら床にうずくまり、ほとんど見てもいなかった資料を拾い集める。上級生たちは見て見ぬふりをして横を通りすぎていった。何よ、と声に出さずに毒づく。何なの! ちょっとくらい拾ってくれたっていいじゃない。


「篠村さん、大丈夫?」


 誠実そうな声とともに、資料が一枚差し出された。手の先を追って見ると、他でもない生徒会長だ。"夏のせい"では済まないほど、わたしの頬がかあっと熱くなる。


「会長! ありがとうございます、すみません」

「いやいいよ、これで最後かな?」


 他に誰もいなくなった会議室の床を、二人してきょろきょろ見回す。もう無いね、と会長が呟く。

 あれ? もしかしなくてもこの状況、二人っきりじゃない? 気づいてどきり、と心臓が一瞬止まる。まあもちろん会長はわたしなんか相手にしないだろうけど、でもこれはもしかしてもしかしてすると――。


「篠村さん」

「はいっ!」

「部活、頑張ってね。それじゃ」


 非の打ちどころのない爽やかな笑みを浮かべ、会長は部屋を出ていった。わたしの口からもう一度漏れた"はい"は、ロボットのような機械的な応答になった。

 そりゃそうでしょ、と自分を励ます。会長に名前を覚えられ、時々声をかけてもらえるだけで、わたしという存在には充分すぎるのだ。落ち込んでなんかいない。そう、期待してなんかいない。

 彼と初めて話した時のこと、よく覚えてる。

 初回の生徒会の集会だった。

 会長が全校生徒の前で話すのを何度も見ていたから、それまでに彼に対する漠然とした憧れは持っていた。かっこいいな、と思っていた。けれどそれは、女子生徒なら一度は抱くぼんやりとした感情であって、願わくばお近づきになりたいとはこれっぽっちも考えていなかった。テレビの向こうのアイドルと、付き合いたいなんて思わないのと一緒だ。

 生徒会の顔合わせが終わったあと、篠村さん、ちょっといいかな、と名指しで呼び止められ、わたしは驚いた。近くで見る会長は、はっとするほど背が高く、颯爽とした雰囲気と整った顔立ちが相まっており、つまりかなり魅力的だった。


「えっと、なんですか?」

「呼び止めてごめんね、大した用じゃないんだけど」


 ばつが悪そうに笑う。ああそういえば、あの時もこの会議室に二人きりだったっけ。

 

「君のその、服装のことなんだけどね」

「服装?」

「うん。生徒会で集まるときだけでいいから、校則どおりの着方をしてもらえないかな」


 それはとても柔らかい口調だった。

 わたしは自分の格好を眺める。シャツの第一ボタンとブレザーのボタンが開いていて、スカートは膝上十五センチ。おまけに指定外のニーハイソックス。ははあ、とそこで初めて気づいた。打合せ中、上級生がわたしを見てひそひそ耳打ちし合っていた原因はこれだな、と。

 わたしがすいません、気をつけます、と言うと、会長は困った顔をして微笑み、


「まあ俺は実を言うと、服装なんてどうでもいいと思ってる人間なんだけどね。生徒会長の立場上、そんなこと大っぴらには言えないけど。――あ、この話、他の人には内緒にしてね」


 そして、人差し指を立てて唇に当て、しーっという仕種をした。その時、会長の後ろの方から、なんともいえず清涼な風が吹き抜けてきたように感じた。一陣の風は、わたしの心を揺らして吹き去っていった。

 つまり、わたしはそれにやられたのだ。


「それじゃ、これからよろしくね」


 胸の高鳴りに動揺したわたしは、こくりと頷くことしかできなかった。

 それから会長は、特に理由がなくてもわたしに話しかけてくれるようになった。お前の服装を見てるぞ、ちゃんとした格好しろよ、という監視の意味なのかもしれない。それでもわたしは会長と話せてとても嬉しかった。

 夏休みに入ったら会長とはしばらく会えないんだなあ、寂しいなあ、と考えながら、会議室をようやく後にする。ドアの外では、なぜか待ち構えるみたいに、三人の女子生徒がひそひそ話をしていた。胸元のリボンの色は全員青。つまり二年生。つまり会長と同学年。

 内緒話はわたしの出現と同時にぱたりと止む。わたしの噂でもしていたのだろうか。ふうん、陰口ね。感じ悪。

 そのまま通りすぎようとも思ったのだけれど、向かって左に立っている人の鞄に、見覚えのあるものがぶら下がっていて、はたと立ち止まる。

 先刻見たばかりの、ピンク色のパスケース。

 資料を掠めていく、鞄の残像が蘇る。

 なるほど、と得心した。わざとだったんだ。嫌がらせだったんだ。途端にふつふつと怒りが湧いてくる。わたしはそういう、こそこそしたことが大っ嫌いだ。

 わたしは三人の真正面に立って、ぐるりと全員を睨みつけた。上級生が、少々気圧された風に見つめ返してくる。全員、凝った髪型をしていて、うっすら化粧気がある。外見を綺麗に見せるのが得意で、自分の容姿が他人より優れているのを知っている人たちだ。

 外見が良ければ悪口だって許されるとでも思ってるわけ? 冗談じゃない。


「あのー、何か言いたいことがあるなら、わたしに直接言ったらどうですか」


 言い放つと、左右の二人は腰が引けたのか、不安げな様子で真ん中の人を見た。彼女がリーダー格ということだろう。眉がきりりとしていて、吊り目ぎみの眼はアイシャドウとマスカラで縁取られている。見るからに気が強そうだ。

 彼女が腕を組み、臨戦態勢になる。敵を迎え撃つ騎馬武者さながらに。


「それじゃ言わせてもらうけど。あなた、一年の篠村さん、よね。もう九条くんと話すのやめてくれないかしら」


 やはり、会長の名前が出てきたか。にしても高飛車な言い方だ。むっとして言い返す。


「どうしてですか」

「あのね、九条くんはあなたと話すのに疲れてるの。あなたみたいにがさつで、可愛くもない女子と話してるのが苦痛なのよ」

「……それ、会長が言ってたんですか?」

「そうじゃないけど、少し考えれば分かるでしょ。九条くんは優しいから、そういうこと言わないだけ」


 わたしの心に言葉という矢が刺さる。ダメージはゼロではない。悔しいけど、彼女の言葉はもっともだ。でも、どうして何の関係もない先輩に、会長との関係をぶった切られなければいけないのか。

 そりゃ、会長に好意を持っていないわけじゃないし、話せれば嬉しい。けど、それだけだ。進展なんて望んでない。それとも、わたしみたいな人間には、会長と話すことさえ許されないのか。会長本人に言われたなら受け入れるしかないけど、こんな陰湿な人たちの忠告に、聞き分けよくほいほい従うなんてわたしにはできない。したくない。絶対に。


「会長が言ってたならやめますけど。なんでそれを他人に言われなきゃいけないんですか?」


 わたしたちは睨み合う。陸の源氏と沖の平家に分かれたみたいに。

 たぶん一分にも満たない時間だったけれど、途方もなく長く感じられた。相手は引く様子がない。わたしは軽く息を吐き、分かりました、と呟く。三人が色めきたつのを、声をあげて制止する。

 

「じゃあ、これから会長に聞きに行きましょう。一緒に」

「……え?」


 三人が揃って、きょとんとした表情になる。



 会長に会うため、生徒会室の扉を開ける。なぜここなのか、根拠はない。わたしの野生の勘だ。ただ、その勘はよく当たる。

 生徒会室は普通の教室の半分くらいの広さで、背の高い棚には議事録や広報誌がぎっしり詰められている。部屋の中央には長机が四つ、大きな平面になるよう置かれていて、会長が一人机に向かい、何ごとかノートに書き付けていた。

 わたしと先輩三人がぞろぞろと入ってくるのを見て、会長は目を丸くする。

 ここに来た趣旨をわたしが手短に説明すると、会長は笑みを潜め、難しい顔をした。居心地の悪い沈黙のあと、会長が重い口を開く。


「……それじゃあ君たちは、俺が篠村さんと話すのを苦痛に思ってるって、そう言ったのか?」


 会長が同級生たちの顔を順ぐりに見回す。口調は穏やかだが、声音にはしっかりとした凄みがある。それに目つきが全然笑ってない。ああ、怒っているのだ、と分かる。

 見たことのない会長の様子に、先輩たちは凍りついていた。


「自分の気持ちを、勝手に解釈されるのは好きじゃない。そういうことは、もうしないでほしい。――分かってもらえたら、出ていってくれないかな」


 静かな語り口の中に、抑えた怒気が滲んでいる。三人はこくこくと頷くと、蜘蛛の子を散らすごとく、あっという間に部屋から出ていった。

 会長が、長い溜め息を吐きながら椅子に深々ともたれかかる。わたしも出ていくべきなのか迷ったが、なんとなくこのまま会長を一人にするのも気が引けて、足が動かない。

 そのうち彼が、突っ立っているわたしを見上げた。泣きたいのに無理やり笑っている、そんな苦しい顔だった。


「はは……久しぶりに怒ったら疲れたよ」

「会長、すみません。わたしのせいで、あの人たちに嫌われたかも……」


 会長がううん、と首を横に振りながら、自分の横の椅子を引き出す。座るのを促される理由を考える前に、体が勝手に動いてそこに収まる。


「別にいいんだ、篠村さんは気にしないで。元はと言えば向こうの責任なんだし。でも、良かった。彼女たちに言われて、篠村さんが俺と話すのをやめなくて」

「え」

「もしそうなってたら、きっと悲しかったと思う」


 至近距離から、会長に見つめられる。こんなに近くで、目線を合わせて、向き合ったのは初めてだった。全身が強張って、自然な動作ができなくなる。あれ、どうしよう。呼吸って、どうすればできるんだっけ。

 今までにない覇気の欠けた調子で、ぽつぽつと彼が喋りだす。


「みんな、俺と仲良くしようともしてくれないのに、勝手にイメージを作り上げて、俺の気持ちを決めつけるんだ。そういうのは慣れてるつもりだけど……でも実際、凹むよ」


 完璧な超人であるはずの彼の弱みを見た気がして、心臓が締めつけられた。篝火かがりびに群がる夏の虫のように、秘めた傷にどうしようもなく惹かれるのはなぜだろう。


「それはきっと、みんな会長に憧れてるからですよ。会長がかっこよすぎて、近寄れないんじゃないですか」

「俺はそんなんじゃない。憧れるのに相応ふさわしい男じゃないよ」


 首を弱々しく振って、会長は寂しげに笑う。


「俺だって馬鹿なこと言ったりして、みんなでふざけたいんだけどな……みんな俺を一歩ひいて見てるっていうか、腫れ物を扱うような態度っていうか。何なんだろうな。誰かと腹を割って話したこともそんなに無いし、女友達全然いないんだよ、俺」


 意外だ、すごく。クラス中の、いや学年中の女子と友達だと明かされても驚かないのに。

 彼が膝をこちらに向ける。膝同士がくっつきそうな距離。息づかいさえ聞こえそうな距離。


「君は他の女の子と違うね。自分から踏み込んできてくれるっていうか……なんだか、すごく新鮮だ」


 真摯な眼差しがじっと注がれる。

 会長の瞳はすごく綺麗だった。

 わたしは恥ずかしくなって俯く。自分の顔があまり可愛くないのは自分が誰より知っている。こんなかっこいい人の視界に映ってごめんなさい。ああ、どうせならもっと美人に生まれてきたかった。いたたまれない。慣れない雰囲気になってきた。

 ──この空気をなんとかしないと。

 生徒会室に漂うラブコメの気配を変えるべく、足りない頭をフル回転させて考える。

 そこでふと、下がった視線の先、会長のスラックスのポケットから、某夢の国のキャラクターがこんにちはしているのに気がついた。十中八九、携帯のストラップだろう。わたしはそれを指で示して、そのクマの名前を口にする。


「あの会長、それ好きなんですか?」

「ああ、これ?」


 会長がポケットの中身を取り出す。カバーも何もない白い無機質な携帯に、愛らしいマスコットがぶらさがっている。なんとも絶妙なバランスだ。


「やっぱり、男がこういうの付けてるのって変かな」

「いえ、ただ好きなのかな? ってちょっと気になって……あ、彼女さんの趣味とか、ですか?」


 口が滑る。しまった。ラブコメ的空気に自分が戻してどうする、わたし。彼女さんの話なんて聞きたくないぞ。


「いや、彼女なんていないよ。姉貴が好きでね、その影響だよ」


 目の前の人は、眉尻を下げ、苦笑いをする。

 嘘みたいだ。こんな格好いい人に、彼女の一人もいないなんて。そして、彼のように爽やかな人が、"姉貴"というなかなか男前な呼び方をすることに、なんだかきゅんとした。


「きょうだいで仲がいいんですね」

「いいというか、ただ押し付けられてるだけかな。最近新作が公開されたでしょ? あれも、早く観に行けとか急かされてて」

「あ、あれ面白そうですよね。もう観たんですか?」

「いや、まだ行ってないんだ」

「じゃあ一緒に行きます?」


 軽く言ってしまってから、さーっと顔から血の気が引いた。わたしはノリでなんてことを口走ってるのだ。困惑されるか、露骨に嫌な顔をされるか、どっちかに決まってるのに。断られて傷つくのがオチだ。

 想像どおり、会長は目をぱちくりさせている。今に言葉を濁されるだろう。否定の言葉でざっくり傷つけられるのを回避するため、なーんて、と軽い調子で誤魔化そうとしたら、


「それ、デートだと思っていいのかな」


 先に口を開いたのは彼だった。

 目をしばたかせて、彼の顔を見返す。今なんて?

 会長は真面目な顔つきになっていた。全校生徒の前で見せる顔とも違う、とても、真剣な表情。

 どうして。どうしてわたし相手に、そんな顔をするんだろう。

 突然のことに対応できず硬直していると、会長は表情を緩め、わたしに笑いかけた。

 

「ごめん、いきなりで驚かせたよね。でも俺、本気で言ったんだ。篠村さんと、二人で映画を観に行きたいな」


 え、え、と到底言葉にならない。思考がホイップされ、もったりしたクリームで頭の中が覆われる。目の前が真っ白になる。何、これ。何が起きてるのか、理解がついていかない。


「え、あの、あの、わたし――」

「混乱させたかな。今すぐ返事してくれなくてもいいんだ。もし俺と一緒に行くのが嫌じゃなかったら、いつでもいいから、連絡くれないかな?」


 今に、生徒会室の外から、じゃじゃーん! ドッキリでした!、とネタばらしの集団が入ってくるのではないかと身構える。しかしその気配はまったく無い。

 一切からかいを含まない会長の言葉に圧倒され、わたしは壊れた人形みたいに、何度も小刻みに頷いた。急がなくていいからね、と言い残して、会長が部屋から出ていく。

 わたしはその場に釘付けにされたように、椅子から立ち上がれない。わたしの脳は熱さでゆだってしまったのだろうか。この熱気に当てられて、自分に都合のよい幻でも見ているのだろうか。

 窓の外ではわたしの心情を映したかのように、熱せられた空気がゆらゆらと揺れている。

 これがぜんぶ真夏の白昼夢でも驚きはしない。その方が遥かに自然に思える。けれど、はっきり分かるこの胸の高鳴りは、確かにわたしのものだ。


* * * *


 駅前の噴水は、格好の待ち合わせスポットになっている。

 乱立する建物のあわいから覗く青い空、湧きたつ真っ白な積雲、それらの鮮やかなコントラスト。水源から高みへ勢いよく噴き上げられた水のしぶきが、きらきらと陽の光を反射する。小粒の宝石をばら蒔いたようにも見えた。

 九条悟が、噴水の縁に腰かけている。俺は物陰で輝と隣り合い、九条が腕時計を確認する様子を眺めている。彼の格好は、ボタンが黒い白シャツにジーンズ、それに合皮のボディバッグ。ごくごくシンプルな出で立ちなのに、めちゃくちゃ様になっている。正直言って悔しい。

 輝が忍び笑いを漏らす。


「龍介、そう僻まないで」

「僻んでねーよ」


 九条悟が文庫本を取り出し、手慣れた風情でぱらぱらとめくり始めた。本にはカバーがかかっており、タイトルは分からない。待つのは慣れてるってことか。くそ。


「インテリぶりやがって……」

「難癖つけないでよ」

「つけてねーよ」


 小競り合いに似た言い合いをしながら、俺と輝は彼にじっと視線を注ぐ。

 なぜ、こんな事態になったのか。

 昨日、最低の誕生日プレゼントを俺に渡してくれた輝は、軽々しく犯罪の提案をして、いたずらっぽく笑った。対する俺は、めちゃくちゃ引いていた。


「尾けるって……尾行ってことかよ。それって犯罪じゃねえの」


 非難めいた俺の言葉に、ううん、と輝はあっさり否定する。聞き分けの悪い生徒へ、教師が向けるような目で俺を見た。


「犯罪にはならないよ。龍介、いま生徒手帳持ってる?」

「生徒手帳? まあ、多分……」


 藪から棒に尋ねられ、脈絡も考えられないままに、スラックスのポケットから深緑色の生徒手帳を取り出す。別に真面目に持ち歩いているわけではなく、単に配布されてからずっと突っ込んだままだったのだ。


「それに校則が載ってるでしょ。それの三六、読んでごらん」

「三六……三六……、っと」


 該当のページを見つけ、言われたとおり文面に目を走らせる。そこには蟻の行列にも似た細かい字で、

 "校則三六 本校の生徒並びに教職員は、本校の記者倶楽部による私的利用を伴わない全ての取材行為(写真利用を含む)を、本校への入学(教職員においては着任)を以て、許可したものと見なす。"

 と印字してあった。

 おいおい、と心の内で突っ込む。何だこりゃ。


「記者倶楽部っていうのはね、この高校で新聞部と写真部を兼部してる生徒のことだよ。つまり僕みたいな生徒のこと」


 要領よく、輝が補足説明を加える。

 俺は無意識に眉間を押さえた。

 つまりこの校則が言っているのは、記者倶楽部の面子に記事を書かれようが写真を撮られようが尾行されようが、文句は言えないということだ。それがたとえ無断であったとしても。

 そんなのってありなのか。大体、こんな小さい字の羅列を誰が読むものか。

 俺は手帳をぱしっと机に叩きつける。


「卑怯だろ、こんなん。知らないうちに許可したことにされて、悪質じゃねーか。この学校ってそんなとんでもねえとこだったのかよ」

「校則は学校のホームページでも公開されてるよ。誰でも閲覧可能だし、アンフェアなところは何もない。取材行為だって写真だって、何も悪用するのが目的じゃないよ。公共の場でのマナー違反とか、借りた本の無断延滞とか、駐輪場の不適切な利用とか、そういうものの抑止が目的なんだ」

「っつったってなあ……」


 輝は明朗な笑みをたたえながら、淀みなく滔々と説明する。その朗らかさが逆に怖い。学校の思わぬ実態に口ごもっていると、瞳をきらりと光らせた幼なじみが、低く悪魔の囁きを吹き込んでくる。


「ってことで、龍介、明日の予定はある?」

「まあ……何もないけどよ……。つうか、俺は新聞部でも写真部でもねーだろ」

「心配しないで。もう倶楽部長に許可は貰ってるから」

「は」


 根回し良すぎだろ。怖いわ。


「ま、龍介が来なくても僕は行くんだけどね。未咲が生徒会長とどんなことをしてどんな話をするか、僕だけが知ることになっちゃうなあ」

「う……」

「取材内容は取材した本人と倶楽部長しか知ることができないんだ。だから――」

「分かった分かった、行くよ、行きゃいいんだろ」


 未咲と生徒会長のデート。俺にとって、それを一切気にかけるなと言う方が無理だ。俺が早々と白旗を揚げると、輝は満足げに頷いた。



 こうして上手く乗せられた俺は、ポケットにしまえるオペラグラスを持って、ここで未咲の登場を今や遅しと待ち構えている。

 時刻はもうじき九時半。朝の清々しい空気が太陽の熱によって塗り替えられ、じりじりした熱が肌を焼きつつある。

 輝によると、二人の待ち合わせの時間はそろそろとのこと。どうしてそこまで詳しい情報を持ってるんだ、と恐る恐る訊くと、何のことはない、生徒会長と一緒に映画に行くんだ、と未咲本人から報告を受けたらしい。

 心がどんよりと淀む。

 ――俺には、何も言わなかったくせに。

 と、軽やかなステップを踏み、その未咲が現れた。思わず、その姿を凝視する。

 半袖の白いコルセットブラウスに、裾がスカラップになったデニムのショートパンツ。小ぶりなピンクベージュの鞄と、足元は涼しげなコルクソールのサンダルだ。いつもの勇ましい雰囲気とはまるで違い、可愛らしくどこか慎ましいとも言える空気感をまとっている。髪の先もアイロンかなにかで巻いていて、控えめに化粧もしているようだ。

 潔くあらわになった太ももが、夏日に眩しいほど映えていた。

 未咲を認めた九条悟が、好青年らしい笑みを浮かべて立ち上がる。


「なんだよあのショートパンツ……ショートすぎだろ」


 ぼやくと、輝がぷっと噴き出す。


「――んだよ。なんも面白くねーよ」

「龍介、相変わらず未咲の脚見すぎだから」

「み……っ、見てねえよ。相変わらずってなんだよ」


 未咲が九条悟の元へ駆け寄っていく。目元を緩ませた九条悟が、未咲に可愛いねと言っているのが、輝のような読唇術を使えない俺でも分かった。むくむくと積乱雲のように湧いてくる、"羨ましい"という気持ちに無理やり蓋をかぶせる。恥じらいを含んだ未咲の笑顔が、やけに遠くにあるように見え、ぐっと唇を噛む。

 俺は今さらになって後悔していた。生徒会長へのプレゼントを一緒に選んだあの帰り道、うまくいくといいな、なんて未咲に声をかけたことを。


* * * *


 連絡くれないかな、と会長に言われた日、わたしは夢見心地のまま家に帰った。

 自室でもこもこのルームウェアに着替えてから、ふわふわした足取りでベッドにダイブする。ぬぼーっとした表情のウサギの抱き枕を抱えながら、携帯の画面と天井を見上げた。

 心臓がどきどきするのと同時に、胃のあたりがしくしくする。嬉しいのに、なぜか泣きたい。わたしは、どうしてしまったのだろうか。わたしはこれから、どうなるのだろうか。

 彼の、真剣な視線が目に焼き付いていた。

 ひどい自惚うぬぼれでなければ、会長の言ったことはたぶん、本心だと思う。信じられないかった。信じてしまうのが怖かった。他の人を差し置いて、わたしが彼と二人きりなんて。わたしなんかで、いいのだろうか。

 ぎゅっと目を閉じる。瞼の裏に会長の顔を思い浮かべて、返事をどうすべきか、自分の心に聞いてみる。

 彼について、知りたいことがたくさんあった。

 どんな食べ物が好きなんだろう、とか。飲み物は何が好きなんだろう、制服以外にどんな服を着て、休みの日はどんなことをしていて、どんな風に街を眺めるんだろう。

 そんなとりとめもないことが、胸からあふれそうなほど、いっぱい。

 それが、今のわたしの、純粋な気持ちだ。

 ウサギを端に追いやった。腹這いになり、携帯の液晶とにらめっこする。


『映画の話、よかったらよろしくお願いします。

 わたし、会長のこと、もっと知りたいです』


 画面にそう打ち込んで、送信しようか、やっぱりやめようか、この期に及んで迷いに迷う。

 指先の右往左往を二十回くらい繰り返したところで、タッチパネルに指が触れてしまったらしく、意図せぬ拍子にメッセージが送信されてしまった。

 うわ、と反射的に声に出して携帯を放り投げる。しばらく呆然とベッドに座りこんでいたけど、じわじわと恥ずかしさが込み上げてきた。

 どうしよう。取り消そうか。今なら間に合う。会長もまだ見てないかもしれないし――。

 布団から携帯を拾い上げた瞬間、画面に新しいメッセージが表示された。


『良かった、嬉しい。

 俺も篠村さんのこと、もっと知りたい』


 読んだ刹那、心臓が跳ねる。一瞬だけ、時間が止まったみたいに思えた。


(続く)

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