彼らのこと 勿忘草の花の色
─桐原錦の話
自分はもう一生泣けないのだと、そう思っていた。
私は喫煙がてら外に出て、校舎の周りをぶらぶらと散策していた。
春の日の昼時。麗らかな日差しはすべてに等しく降り注ぎ、遠くの景色は粉を振ったように、ぼんやりとけぶって見える。桜の花びらは既に散り尽くしていて、鮮やかな若草色の新芽が、枝からむくむくと伸びはじめていた。小鳥のさえずり、蝶の舞う姿、草むらに踏みいったときのやわらかな足裏の感触。
春。生命が芽吹く季節。
こうやって外を歩いているだけで、命の躍動、そのエネルギーの震えを肌に感じることができる。小さな昆虫も、誰も気に留めない草花も、目立たない羽色の小鳥も、それぞれの生を謳歌しているのだ。
私を置き去りにして。
小さな命ですら私には眩しい。自分は生きながら死んでいるも同然だったから。春になると私はいつも、生と死や、この世の無常を考える。どうせなら、こんな良い日に死にたいとうっすら願った。次々と咲きあふれる色とりどりの生命は、矮小な自分の、色味の無い死を覆い隠してくれるだろう。
校庭の周りを一通りぐるりと歩き、職員用の玄関へと戻る。玄関口の前には、松が植えられた円形の庭がある。その松の根元あたりに、こぢんまりとした植物を見つけた。小さな、しかし鮮やかな青い花。その青に惹かれ、私は思わず膝を折っていた。
見覚えのある花だった。花の直径は五ミリメートルほどしかない。花弁は五枚で、先が丸っこく、優しげな印象を受ける。
ああそうだ、この青。彼女の――ルネの瞳の色にそっくりだ、と気づいたところで、思い出した。彼女はこの花が好きだったことを。
我々は立場柄、サバイバルの知識が豊富だった。ゆえに、食用にできる植物には明るかったが、それ以外となるとてんで駄目だった。それでも、名前が分からなくとも、ルネは草花を慈しんでいた。
花の隣に腰を下ろし、慈愛に満ちた目で野草を見つめる彼女の姿。脳裏にありありと蘇る白昼夢。手が届きそうなほどくっきりした幻影に、指を伸ばすような真似はしない。虚しくなるだけだと、分かっているから。
「桐原先生? 大丈夫ですか?」
じっと花の隣にうずくまっていると、聞き馴染みのある声に呼び止められる。見上げると、同僚の水城先生だ。若干心配そうな顔で私を覗きこんでいる。くりくりした両の目がこちらに向けられていた。
大の男がこんな場所でしゃがんでいたら、確かに悪目立ちするだろう。私はばつが悪くなり、誤魔化し笑いをする。
「ああ、いえ、花を見ていたんです」
「花を?」
水城先生がわずかに瞠目し、庭の草地に目を落とす。彼女は膝が汚れるのも構わぬ様子で、あっさりとそこに膝立ちになる。
華奢な手が、春風に揺れる青へと、優しく差し伸べられた。と同時に緩められる目元。
「ああ、これ、ワスレナグサですよね。私もこの花好きです。青色が綺麗だから」
「ワスレナグサ……」
「"私を忘れないでください"」
唐突に呟かれたその言葉へ思わず、え?と聞き返す。水城先生は、私へ顔を向き直し、まばゆいほどににっこりと笑う。
「ワスレナグサの花言葉だそうです。外国の伝説だったかな? それが基になってるらしいですけど、なんだかロマンチックですよね……あの、桐原先生?」
何かが私の喉元につっかえた。
揺れるワスレナグサの花と、最期に"私を忘れて"と言ったルネの顔とが、何故だかだぶって見えて、言葉にならない思いが胸を突く。目頭の熱を感じたかと思うと、水城先生が慌てたように私を凝視した。レースで縁取りされた、上品でかわいらしいハンカチがおずおずと差し出される。
「え、と、大丈夫ですか……?」
「……え」
何を気遣われているのか分からないまま、漠然と手を頬にやる。そして、愕然とした。
信じられなかった。指で触れた私の肌は、濡れていた。涙だ。
私は涙を流していた。
顔から手を離し、呆然とした心持ちで、濡れた指先を眺める。
泣き方なんてとうに忘れたと思い込んでいた。彼女がこの世からいなくなってから、八年間もの長きに渡って、自分は泣くことができなかったのだ。一番大切な人の死を前にした時でさえ、奈落に突き落とされたような悲しみの底でさえ、涙の一滴すら流せなかった。
そんな私が今、泣いている。春の暖かさで雪が融けるように、こんなにも自然に、簡単に、あっけなく。
自分の指をぼうっと見つめている私を、水城先生は怪訝な表情で見ている。きっとおかしな人間だと思われただろう。別段それで困らない。
「ええと、どうかしました……?」
「自分が泣いているのが、不思議で」
「不思議?」
ぽろっとこぼれた本心。言うつもりでは全くなかった言葉。彼女が目をぱちくりさせる様は小動物めいている。
その時の自分の心境は、憑き物が落ちたように、妙にすっきりしていた。彼女の前では、取り繕おうという意識がきれいに削ぎ落とされていた。自分でも説明不可能な感覚だった。
きっとそれは、彼女が持つ力のせいなのだと思う。
「私はずっと、泣くことができなかったんです。何年も、涙が出なかった。なのに今、あなたから花言葉を聞いて、昔の知り合いがこの花が好きだったと思い出したら、自然に涙が出てきたんです。不思議なことに」
「え、それってつまり……私が泣かせたってことになるんでしょうか?」
水城先生がにわかに慌てた様子になる。
私は、我ながら意地が悪いなと思いつつ、口の端を引き上げ、そうですねと首肯する。
「え、えっ、あの」
「あなたのおかげで、泣くことができたんだと思います。ありがとうございます」
「えーと、ど、どういたしまして……?」
私は心の底から感謝していたのだが、おそらく彼女には伝わらなかっただろう。水城先生の返答はぎこちなく、明らかに困惑ぎみだった。泣きたそうな笑いたそうな、微妙な顔つきの彼女からハンカチを受け取り、目元を押さえる。
ふと、目の前の小柄な女性が真顔になった。
「あの、その知り合いの方って、大切な方なんですか?」
「……そうですね。大切、でしたね」
やわらかな銀髪が脳裏でゆらめく。
過去形でしか語れ得ぬ人。彼女はもはやこの世にはいないのに、まるで私の中で生きているように、凛とした声で喋り、微笑む。
水城先生はそれ以上深く聞こうとはせず、どこか意を決した表情で、私をまっすぐに見つめた。
「そうですか……あのっ、こういう小さな花を大切にできる人って、心の優しい素敵な人だと思います。偏見かもしれませんけど」
「――いえ……私も、そう思います」
彼女の言葉はありがたかった。その温かさが、熱を失って久しい私の心にもじんわりと沁みた。
私が同意すると、水城先生が相好を崩す。彼女の笑顔は、周りの空気をぱっと明るくする。
この人は、と考える。今までの人生で、ずっと日向を歩いてきたのだろう。そして、たくさんの人から愛されてきたのだろう。どうして彼女のような人が、私に笑顔を向けてくれるのか分からなかった。その、太陽のような笑みを。
この人には、春の光が似合う。
不意に、流れるような仕草で、彼女のたおやかな手が私の手を取った。空の方の手が、温かいふたつの掌に挟みこまれる。
私より幾回りも小さな手だった。しかし脆さは感じなかった。むしろ、しっかりした意志が伝わってくる、力強い手だった。
私は彼女の満面の笑みを見た。
彼女の行為には何ひとつ
つまるところ、反応が遅れた。
「――あの、人が見ていますので」
「あっ、す、すみません!」
理性的な社会人の立場に戻ってそう言うと、水城先生も我に返ったようで、慌てて手を引っ込める。目を泳がせている彼女の前で、借りたハンカチをひらひらと振ってみせる。
「これ、貸して下さってありがとうございました。洗ってお返ししますね」
「そんな、いいですよ、わざわざ」
「ですが、使ってしまいましたし……」
「いえっ、本当に、大丈夫ですから!」
「そうですか? では……お言葉に甘えて、お返しします」
ハンカチを水城先生に手渡す。受け取った水城先生は、もう一度はにかむように微笑んだ。私は何故だか、自分の胸の奥の方が、じわっと温かくなりつつあるのを感じた。例えていうなら、忘れていたものを思い出しかけている、そんな感覚だ。
私たちのあいだで、ワスレナグサが春風に揺すれる。
今思うと私はその時、無意識のうちに、彼女の純粋さに癒されていたのかもしれない。
その日は、水城先生のしっとりした掌と、細い指の感触がいつまでも手に残っていた。
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