彼らのこと・回想 The Bird doesn't sing a Aubade.

─ヴェルナー・シェーンヴォルフの話


 退屈な会議にも、実りというのはある。



 影と"罪"ペッカートゥムの全面闘争──パシフィスの火──が鎮まって2年が経つ。

 相手方の首領ドンは死んで、世間は表面上平穏を取り戻したけれども、罪は根絶やしになったわけではなかった。闘争は俺たち影側にも深い傷跡を残し、"罪"の奴らを完膚なきまでに叩きのめす力を奪った。罪の生き残りは追撃を逃れ、現在でも細々と、しかし確実に活動を続けている。そいつらにどう対応していくか、影の方針会議が開かれることとなった。

 会議に召集された俺は、堅苦しい場所にこれから何時間も拘束されることに苛立ちながら、無駄に広い会場をぶらついていた。テレビ会議の機器も普及したこのご時世、顔を突き合わせて侃々諤々議論をすることに何の意義があるというのか。会議の現場で考えても仕方ないことをぶつくさ呟いているとき、一人の女性の後ろ姿が目に飛びこんできた。

 強い既視感を覚える歩き方だった。

 人は普段意識しないけれど、歩き方というものには非常に強い個性が現れる。ほとんど隠しようがないくらいに。個人差が大きく、後ろ姿でも遠目でも判別できる歩行による個人識別法は、影のなかで有用なツールとして使われている。

 俺の思考の中から、一瞬で不平が霧消した。


「ロッティちゃん!」


 声をかけながら走り寄る。

 最後に会った時からだいぶ髪が長くなっているが、間違いない。俺が間違えるはずがない。二年前、パシフィスの火が激しかったとき、支援部にいたシャーロット・エディントンだ。俺が想いを寄せていた女の子だ。

 あの頃の騒々しい思い出が、胸に甦る。


「ロッティちゃん、久しぶりだね! 君も呼ばれてたんだねえ、俺のこと覚えてる? 髪伸ばしたんだー似合うね、相変わらず君は世界一可愛いよ」


 目前に迫る彼女が、ふっと振り返った。スリーピースのパンツスーツに身を包み、首元にはマニッシュなクロスタイ。その男っぽさを補って余りある、輝かしく豊かな金髪とこぼれ落ちそうに大きな青い瞳。二年前に十八歳だったはずだから、今は二十歳か。ああ、何も変わらない。シャーロットは変わらずとても美人だった。

 桃色の可憐な唇が、つと開く。


「あなたも相変わらず、女と見たら口説かずにはいられないようね。ヴェルナー」


 きれいなアーモンド形をした双眸に、きっと睨まれる。

 はて。俺の思考は一瞬止まる。

 シャーロット。外見は確かにシャーロットだ。間違いない。でも、纏っている雰囲気がなんだか違う気がする。二年前は、もっとこう、大人しくて控えめな感じだった。俺が近づいていったら、即座に女性の上官の影に隠れてしまうような。

 それに、名前を呼び捨てにされたことなんて一度もなかったはずだ。気づいてなぜかちょっとどきどきした。

 思考が迷走のトップスピードへ駆け上がらんとする間に、


「何か用かしら? 何も用がないなら話しかけないでちょうだい」


 シャーロットがふいと立ち去ろうとする。

 彼女の高飛車な物言いに、背中がぞくぞくとした。それはある種の快感だった。思い返せばこれが、自分のマゾヒストとしての目覚めだったのかもしれない。元々俺の中に火種はあったのだとは思う。少年時に年上の女性とばかり夜遊びをして、異性に主導権を握られる状況には慣れていたから。

 すたすたと大股で離れていくシャーロットを、慌てて追いかける。


「あーちょっと、ちょっと待って! 用ならあるんだ、この会議が終わったらさ、一緒に食事でもどうかな?」

「食事……」


 こちらを見上げるシャーロットの、永久凍土の氷のように冷たい視線。俺の価値を推し量っている視線。

 値踏みされている。そう思ったら興奮してしまった。


「そうね……いいわ。ちょうどあなたに聞きたい話があるから」


 頷いたシャーロットは、ずいと体を寄せてきた。近い。腕を差し出せば、抱きしめてしまえる距離だ。

 彼女の華奢で優美で、けれどか弱さを感じさせない手が、俺の首元に伸ばされる。どきりと心臓が跳ねる。このまま首でも絞められるのか? それも悪くないな。


「ちゃんとしたお店に行くなら、ネクタイくらい締めてきなさいね」


 シャーロットはそう言って、不敵にふふっと笑った。

 体の奥から、形容しがたい色々な情動が湧き上がってくる。到底口には出せない、興奮やら悦楽やらも混じっている。

 俺は阿呆みたいに彼女の遠くなる背中を見つめた。会議の開始を知らせるエージェントの怒声に我に返るまで、俺は廊下のど真ん中でぼんやりと突っ立っていた。



 大慌てで予約した割には、いい店だった。

 淡いグレーで統一された店内は落ち着いた雰囲気で、壁にかかった抽象画と、テーブルに飾られた花の色彩が映え、目を楽しませる。室内の居心地のよさを軽やかに演出する、プーランクの器楽曲の調べ。席同士の間隔は大きく取られており、隣の席の会話はほとんど聞こえない。俺たちの会話もそうだろう。

 静かな談笑と、食器がたてるカチャカチャという無機質かつどこかあたたかい音。それらが、品のよい調度品で揃えられたフロアに満ちている。

 シャーロットの格好は昼間と異なり、膝丈の濃紺のカクテルドレスだった。

 会議の出席者に用意されたホテルのロビー、そこでの待ち合わせに、シャーロットは華やかに変身して現れた。パンツスーツで上書きされていた彼女の魅力があらわになっていて、目が釘付けになる。日中には半分以上隠れていた、優美な形状の黒いピンヒール。それに踏まれてみたいなあとふと思った。


「ロッティちゃん、すごく綺麗だね」

「お世辞はいいわ。それより、ネクタイはあったのね。あなたがネクタイを締めてると、手綱たづなみたいだわ」


 シャーロットが俺のネクタイを軽く引っ張る。

 手綱。その単語が異様に大きく聞こえた。操られるためのもの。俺の手綱はぜひとも、シャーロットに持ってほしい。


「なんだ、調教してくれるのかい」

「そうね、悪い犬には躾が必要ね。もっとも、それは私の役目ではないけど。さあ、早く行きましょう」


 シャーロットはさっさと歩き出した。彼女の一言、一単語が俺の心臓を正確に射抜く。俺の脈拍は走った直後くらい速く、頭は熱病に侵されたみたいにぼーっと熱かった。 


「元気そうで良かったわ」


 洗練された所作で、オードブルを口へ運んでいたシャーロットの言葉に、はっとする。いけない。追想に浸ってぼんやりしてしまっていた。


「ああ、元気も元気だよ、特に」


 下半身が、と言いかけてやめる。つい素が出そうになる。悲しいかな、ネクタイを締めていても、こんな上品な店にいても、俺の内面が上品になるわけではないのだ。むしろ、この場にいることへのある種の反動で、下世話な文句を使いたくなってくる。これはもう病気みたいなもので、しかもおそらく一生治らないと断言できる。


「君も元気そうで何よりだ」

「ありがとう。ところで、知ってるかしら。私ね、今あなたと同じところの所属なの」

「え」


 思いがけない告白に、目をしばたかせてしまう。シャーロットは俺の反応をうかがうように、こちらをじっと見続けている。

 影という組織には、三つの部署がある。支援部、諜報部、それから俺のいる執行部だ。

 シャーロットは以前は支援部の所属だったはずだが、俺と一緒ということは、今は執行部所属ということか。執行部とは、とどのつまりは相手と直接事を構える部所だ。一番の下衆人の集まりだ。

 支援部から執行部への異動。

 その制度は、あるにはある。だがそれは、滅びた文明の荒廃した遺跡よろしく、ひっそりと規律のなかに打ち捨てられているものにすぎない。異動認可のための試験は、身体能力やら戦闘技術やらの基準がやたらと厳しく、幼少から訓練を受けた者でないと、クリアするのがほとんど不可能なのだ。

 それを、シャーロットはパスした。

 軽い目眩に襲われる。どれほど努力したのだろう。どれほど苦労したのだろう。あの、男を前にしただけで狼狽えていた、線の細い女の子が。


「──頑張ったんだね」

「今も、頑張っている途中よ」


 辛さなど微塵も感じさせない、彫像めいたほほえみ。仮面の上から張りつけた、作り物の笑顔。

 不意に、周りの状況なんかぜんぶ無視して、澄ました形の椅子なんか蹴り倒して、彼女をぎゅっと抱きしめたい衝動に駆られた。

 けれど、なけなしの理性が俺を座面に縫いつけて、ワイングラスをすっと持ち上げさせるにとどめる。


「そっか……つまり、君もろくでもない連中の一員ってわけだ。ようこそ、人でなしの集まりへ」

「ありがとう」


 乾杯は既に済んでしまっていたけれど、シャーロットもグラスを掲げてくれ、二人揃って赤い液体を口に含む。

 ああ、渋いな。すごく渋い。


「ねえ、どうして部署変えなんてことをしたのか分かる」


 今度は試すような視線が向けられる。俺は閉口して、顔の横でひらひらと手を振った。婉曲な表現は嫌いじゃないが、シャーロット相手に腹の探りあいみたいなことはしたくない。


「回りくどいのはやめにしよう。聞きたい話って、ルネのことだろ」

「今の話でよく分かったわね。そうよ」

「俺が話せる内容で、君が聞きたいことなんて、それくらいしか思いつかないからね。君はルネの背中を追いかけて、部署変えをした。そういうことじゃないのかな」


 シャーロットがゆっくりと、噛み締めるように頷く。

 ルネ・ダランベール。

 執行部所属の、俺のかつての上官。シャーロットが親しくしていた相手。ルネはもうこの世の人ではない。敵の手にかかって、二年前に死んだ。

 ルネとシャーロットは女性同士ということもあってか、しばしば二人きりで長々と話しこんでいた。何を話していたのか俺は知らない。二人でいるところに近寄っていったら、しっしっとルネによく追い払われたものだ。

 柄にもないかもしれないが、俺はルネを尊敬していた。上官として、人間として、心から慕っていた。彼女は全き真のリーダーだった。

 そして、ルネに敬愛の情を持っていたのはシャーロットも同じだったのだろう。道半ばで途絶えてしまった彼女の足跡を、シャーロットは辿ろうとしている。追いつこうとしている。そしていつか、追い越そうとしているのだ。

 そう考えると、日中シャーロットが身につけていた男性的なスリーピーススーツも、男だらけの執行部にあって、課せられた使命を果たしていくことへの決意の表れに思えた。


「それで、ルネの何が聞きたいんだい」

「辛かったらごめんなさい。……最期のこと」


 申し訳なさそうに、シャーロットが切り出す。予想はついていた。シャーロットは、ルネの死に目には立ち会えていないから。

 それは、思い出というにはあまりに生々しい記憶だ。

 もう二年。まだ二年。

 血染めの最期だった。美しい銀髪を自らの鮮血で染めて、命を髪に吸い取らせて、ルネの体は少しずつ熱を失っていった。永遠の眠りが近づいても、彼女は苦痛の中で笑っていた。死ぬのが自分で良かった、君たちでなくて良かった、と。

 思い出す必要もない。思い出すには一度忘れる必要がある。脳裏から消えてくれない光景を、思い出すことはできない。

 今際いまわにルネは、私を忘れて、と言った。愛する人へ、私を忘れて幸せになってくれ、と。それはどんなに想像を絶する心境だったろう。

 目の奥からとめどなく溢れ出る涙の熱さを、今まさに経験しているように、俺は想起することができる。嘘だろ、という内心の叫びが、頭の中で何度も反響した。目の前の状況を理解することを、脳が拒絶していた。戦友は、二度と動かない彼女を腕に抱いて、体の動かしかたを忘れてしまったように、呆然としていた。

 眼前のシャーロットに語った後で、最期は笑って逝ったよ、と付け加える。

 シャーロットが詰めていた息を吐く。


「私ね、ルネさんが亡くなったなんて、今でも信じられないの。何事もなかったみたいに、ルネさんがひょっこり帰ってくるんじゃないかって、まだ思ってるわ……」

「……そっか」

「──ごめんなさい。すべてを見ていたあなたの前で、軽率な発言だったわね……気を悪くしたかしら」

「いや……いいんだ」


 俺は戦友のことを考えていた。一度も涙を見せずに影から去っていった、日本人らしく真面目で堅物で、ルネを愛していた男のことを。

 ルネの死後、彼は虚無に覆われたその黒々とした眼で、じっと死を見つめていた。見えない死の輪郭をなぞるような、怖いくらいまっすぐな視線で。影を辞める直前の彼は、一歩踏み間違えばふらっと彼岸へ行ってしまえる、そんなぎりぎりのところに立っていた。俺にはそう見えた。

 どうにか、彼の喪失感を癒してくれる人やものが見つかっていればいいが、と願わずにいられない。

 ウェイターが、コースのメインディッシュを運んでくる。芳しい赤ワインのソースを絡めた、牛肉のフィレステーキ。ウェイターが去るまで、お互いじっと肉汁滴るそれを眺めた。

 ミディアムレアの肉塊にナイフを入れながら、シャーロットが問う。


「ルネさんは、幸せだったのかしら」

「死者が幸せだったか不幸だったか、それを論じることに意味はないよ。その議論は、生者の慰めにしかならない。死ってのは、生者だけに意味のあることだ」

「ずいぶん達観してるのね」

「そうだね。死んだ生き物の肉を味わいながら、血の色の飲み物を楽しみながら、死者の話をすることができる人間だよ。俺も、君もね」

「……そうね」


 シャーロットの返事は、考え事に沈んでいた。

 俺は大きめに切り分けたステーキを頬張る。咀嚼する。中から肉汁が溢れ、牛肉の風味が口内を満たす。死者の沈黙は永遠だ。俺たちはいつまでも、その沈黙に耳を澄ましているわけにはいかないのだ。嫌でもこうやってものを食べて、生きて、前に進まねばならないのだ。時間の歩みに取り残されないように、不断の流れにしゃにむにしがみついて。

 その後は他愛もない近況報告をした。料理はどれも美味しかった。文句なしに和やかな店内において、いつになくしんみりした気分だった。シャーロットに聞きたい話がたくさんあったはずなのに、なぜだか言葉はあまり浮かんできてはくれなかった。



 店の外では夜風が冷たい。薄着のシャーロットに、スーツの上着を羽織ってもらう。その上で、つい無意識にシャーロットの細い腰に手を回していた。女性と歩くときの癖だ。振り払われるかと思ったが、意外にもすんなり受け入れられる。


「嫌がらないのかい」

「話を聞かせてもらったから」


 等価交換というわけだ。

 シャーロットの瞳の奥では、何か強い決意が揺らめいている。


「今日は泊まるんだろ。同じホテルだし、部屋まで送っていくよ」

「ありがとう」


 本当はずっと、一晩中でも寄り添っていたかったが、この心境と雰囲気ではできそうもない。あっという間にホテルに着いてしまい、名残惜しいながらお別れのハグをする。それはもう長々と。食事前の彼女と別人みたいに、シャーロットは妙に従順だった。


「じゃあ、おやすみ」

「ヴェルナー、ちょっと待って」


 袖を強く引かれる。体の向きを変えようとしていた俺は、簡単に体勢を崩す。強引に部屋に引き入れられた。

 背後で重い金属の音がする。ドアの鍵が自動的にかかったのだ、と思ったか思わないかのうちに、シャーロットにキスされていた。

 やわらかい唇。あまやかな、花にも似た肌の匂い。幸せを具象化した香りが、鼻腔をいっぱいに埋める。条件反射で腰に腕を回し抱き寄せると、シャーロットが首に手を絡め、いっそう深く口づけてくる。彼女の意図がわからないながら、体の内側が熱を帯びてくるのを感じた。

 さらに腰を引き寄せ、体を密着させる。舌を入れようとしたら、存外強い力で突き放された。

 俺を見上げるシャーロットの双眸には、何の情感もこもっていなかった。

 仕事を前にした業務遂行者の目。取引の勘定をしている計算者の目。

 シャーロットは俺ではなく、俺のもっと向こうにいる、誰でもない誰かを見ている。


「どうしたの」

「お願いがあるの」


 俺の懐にとす、と体を預けたシャーロットは、抱いてほしいの、と囁いた。

 俺は彼女を抱擁したままで、数秒押し黙った。これが他の女性なら二つ返事で誘いに乗るところだが、思慮深いシャーロットのことだ。何かしら事情があるに違いない。


「理由を聞いても?」

「……この前、話をされたの。影の任務で、色仕掛けを使って情報を集める必要が出てくるかもしれないって」

「ハニートラップってやつか」

「ええ。でも私まだ――経験がなくて。きっと練習なしじゃうまくできない。あなた、そういうことは詳しいでしょう。だから、色々教えてほしいの」

「……初めての相手が俺でいいのかい」

「こんなこと、他の誰かに頼めると思うの?」


 至近距離から、青い目に宿った強い光に射抜かれる。美しい瞳だ。雪を頂く険しい独立峰のように、気高く、孤独で、他人を寄せつけない瞳だ。その瞳の中に凍りつく雪を、融かすことができたらいいのに。

 それだけの情熱が、俺のなかにあるだろうか。


「分かった。俺を練習台にしていいよ。何でも言って」

 

 シャーロットがほっとした表情をする。俺たちはドアの前で、もう一度唇を重ねあった。



 シャワーを浴びながら、どうしてこんなことになったのだろうとぼんやり考える。

 そりゃ、シャーロットと合意の上で一夜を共にできるなんて、俺には願ってもないシチュエーションだ。夢みたいだ。けれど、俺は他の男に抱かせるために、今夜彼女を抱くのだ。本当はそんなの想像したくもない。しかしそれをシャーロットが望むなら、俺には止める権利がない。

 シャーロットは先にシャワーを浴び終えている。湯上がりにバスローブを纏った姿は、とてもあでやかだった。胸元の服の合わせから、深い胸の谷間が覗いていた。以前は彼女のスタイルをあまり意識したことがなかったなと思う。シャーロットは可愛い女の子から、美しい女性になっていた。たった二年で。

 緊張がそろりそろりと足先から這い登ってくる。初めてのときですら、こんなに生唾は出てこなかっただろう。

 お湯の栓をひねり、タオルで体を拭き、下着を穿く。そこでいきなり、浴室の扉が開かれた。反射的に武器を探してしまうのは職業病だ。上下の下着しか身に着けていないシャーロットが、そこに立っている。


「鍵をかけないなんて不用心ね。もう終わったかしら?」

「えっ待って、まだパンツしか穿いてな──」

「要らないでしょう、どうせ脱ぐんだもの。早く来て」


 にべもなく言う。体の線を隠そうとすらせず。

 ロイヤルブルーの下着に彩られた、白く透明感のある、なめらかでつややかな肌。下着のレースに飾られて、一種の芸術品とさえ見える、たわわでやわらかそうな胸。見事なくびれと、引き締まったおなか。魅惑的な腰つき。夢にまで見た肢体だ。この世界中でシャーロットが一番綺麗だ。疑いもなく、ためらいもなく、俺はそう確信した。

 シャーロットに手を引かれるまま、隣りあってベッドに腰かける。苦笑いがこみあげてくる。


「ああ、やばいな。すげえ緊張する」

「あなたが緊張してどうするの。……始めましょう」


 ベッドの上で抱きあう。キスを交わす。今度は舌も絡めて。シャーロットの肌はさらさらなのに、しっとりともしていて、最高に気持ちいい。ずっと溺れていたくなる。そのうちに堪えきれなくなって、押し倒す。あくまで優しく、だ。

 下着の上から、シャーロットの体のすみずみまで、くぼみから盛り上がりまで、貪るように口づけをする。こんな状況でも、嬉しいという気持ちを抑えられなかった。どんな形であれ、シャーロットに尽くせることが俺の喜びだった。

 シャーロットもぎこちないながら、口づけを返してくれる。時おり抑えた甘い吐息を漏らしながら。それだけで俺の本能はどんどん剥き出しになっていった。理性は遥か下方に置き去りにされ、動物の本能だけがぐんぐんと高みに昇っていく。

 我慢できず、熱くなった下半身のたかぶりをぐいとシャーロットに押しつけると、彼女はびくりと小さく身を震わせた。


「あ、ごめん……」

「いいの。ねえヴェルナー……触っても大丈夫かしら」

「……俺はいいけど……」


 シャーロットが俺の下着を降ろそうと手をかける。その両手はあからさまに震えていた。こちらが申し訳なくなるほどだった。口では平気な素振りをしていても、気持ちはいっぱいいっぱいなのだ。

 これから、彼女が知らないことを、もっとたくさんするというのに。


「ロッティちゃん……やっぱりもうやめておかない……?」

「馬鹿にしないでよ、これくらい私にだってできるんだから」


 声のわななきを押し殺して、シャーロットが一気に下着を下ろす。

 俺のものは充分大きく、硬くなっていた。薄暗い部屋でも、先走りで濡れ、太い血管が浮き出ているのが見える。奇怪でグロテスクな、男だけが持つモニュメント。

 シャーロットが固まる。喉だけが動いてごくりと唾を飲み込む。


「見るのは初めて?」

「……近くでは」

「そう。……触ってみる?」


 こくりと頷きが返ってくるが、緊張のためか、彼女の腕は糸の切れた操り人形みたいに動かない。俺はシャーロットの手首を優しく掴み、張りつめて屹立したものに導く。指先から彼女の速い脈動が伝わってくる。しかし俺も少なからずのぼせあがっている。何せ相手は大好きな相手なのだ。おあいこだ。

 細い指がそこに届いたとき、電撃を受けたのかと思った。一瞬意識が吹っ飛ぶ。それほど強い快感が体を貫いた。こんなことは初めてだ。

 シャーロットは強張りながら、どこか感心した風な表情を浮かべる。


「こんな、感触なのね」 

「……硬いでしょ」


 おずおずとした頷き。


「……それに、すごく熱いわ」


 囁きと同時に、彼女の指の腹がゆるゆると表面を往復する。それだけで気持ちよくて、脳のヒューズが飛びそうになる。撫でさすられる感覚に、思考が熱で溶ける。興奮の血流で胸がはち切れる寸前に、シャーロットが脚のあいだにぐっと顔を寄せてきた。


「これを、咥えればいいんでしょう。どうやったらいいのか教えてね」

「え、ちょっと、待っ──」


 彼女は躊躇なくそれを口に含んだ。

 途方もない快感が、背中伝いに脳まで駆けあがる。

 未曾有の感覚だった。きもちいい。それ以外考えられない。理性の残滓ざんしが弾け飛ぶ。真っ白く輝く悦楽の海に投げ出され、全身をふわふわした快楽の波が包む。肌の感覚がおかしくなって、あたたかい波間にゆらゆら浮いていると錯覚する。

 気持ちよさでどうにかなりそうな頭で、必死にシャーロットのことを考える。彼女の問いたげな上目遣い。そうだ、やり方、教えてあげないと。

 シャーロットの髪を撫でる。掌だけ、快楽の海から付き出している感覚。さらさら、ふわふわとした髪の触感。すべてが俺の脳内で快感に変換される。臨界点ぎりぎりだ。


「先端の縁のところ、舐めて……そう……奥まで、咥えてみて……歯が当たらないように……」


 自分の声がひどく遠い。

 ああ、ロッティちゃんの舌だ。ロッティちゃんの咥内だ。ロッティちゃんの吐息だ。俺のものはいま、シャーロットに咥えられている。夢みたいだ。


「きもちいい、きもちいいよ、ロッティちゃん……」


 うわ言みたいに呟く。

 瞼の裏にちかちかとまたたく光。俺の絶頂の予兆だ。


「離して、ロッティ……」


 言いながら、シャーロットの頭を穏やかに押し返すが、彼女はなぜか離そうとしない。


「ロッティちゃ、……駄目だって……っ」


 堪えきれなくて、そのまま達した。悦楽の海が巨大な波となって、何度も押し寄せる。シャーロットの口の中で、俺のものがびくんびくんと痙攣を繰り返して、どろりとした生臭い液体を吐き出す。

 してもらっていただけなのに、息が上がっていた。シャーロットが、口内の白いものを、ごくんと嚥下する。俺は肩で息をしながら、彼女を信じられない思いで見る。


「──こんな味なのね」

「ごめ……」

「私が望んだことよ」


 彼女の掌が、頬を優しげに撫でた。

 絶頂に至ったばかりで霞がかる頭に鞭打つ。俺もしてあげないと、と自分を奮い起たせる。


「じゃあ、今度は俺の番だね。触っていい?」


 返事があるかないかのタイミングで、下着の上から豊かな双丘を揉みしだく。あっ、と驚く声があがるが、頓着せずに続けた。

 わざと音をたてて首筋に口づけを落としながら、下着の下部から指を差し入れ、先端に触れる。ふにふにとやわらかさを持っていたそこは、優しくつねったり、周辺を触ったりしているうちに、硬さを帯びてくる。

 シャーロットの吐息が、隠せずに漏れる声が、熱く、甘くなってくる。耳のそばで生まれるその音が、俺の野性を激しく呼び覚ます。


「今まで誰かに触られたことある?」


 聞くと、シャーロットが弱々しく首を横に振る。

 俺の体温がまたぶわっと上がった。こんなに綺麗な体に、誰も触れたことがないなんて。その初めての男になれるなんて。嬉しい。とても嬉しい。


「下、触るね」

「ん……」


 下着の上からそこを愛撫する。布ごしでも、もうとろとろに潤んでいるのが分かる。感じてくれているのだ。

 直に触れようと下着のなかにそろそろと指を伸ばすと、シャーロットがひしとしがみついてきた。片腕で火照ったしなやかな体を抱きとめる。


「怖い? 大丈夫だよ。気持ちよくしてあげるね」


 俺は中指を、そこに伸ばした。熱く、ぬるりとした感触に迎え入れられる。途端、シャーロットが聞いたことのないような甘い喘ぎをあげた。触られるのは初めてなのに、それが気持ちいいと、体が知っているのだ。

 入り口の上の方にある膨らみを刺激する。シャーロットの腰が、俺の指に合わせて上下しはじめる。おそらく無意識のうちに。


「ん……っ、ヴェルナー……だめ、そこ……」

「ここ、気持ちいいでしょ」

「やぁ……も……おかしくなっちゃう……っ」

「気持ちよくなっていいんだよ」


 シャーロットは俺の腕のなかで、生まれたての雛のように震えていた。自分すら知らない自分に怯えていた。そんな彼女を、心の底から愛おしいと感じた。大切にしたいと思った。

 指の先でぷっくりと形を作ったものが、どんどん硬さを増していく。それに比例して、シャーロットの嬌声も高く、長く、とろけていく。抱き寄せていた方の腕を解き、片手で刺激を続けながら、もう片方の手を後ろから入り口へと伸ばす。

 そこはシーツにこぼれるくらいに濡れていた。中から溢れてくるものに逆らって指を差し入れると、案外たやすく根本まで受け入れる。

 シャーロットの中はとても熱かった。

 片手の刺激を一旦止め、奥まで差し込んだ指を動かしてみる。


「中で動いてるの、分かる?」

「そこ、なに……」

「一緒になるとこ」


 耳元で囁くと、シャーロットの中が俺の指をきゅうと締めつけた。

 両手での刺激を再開する。シャーロットの、あ、ああ、と漏れる猫みたいに上擦った声が、脳の雄の部分を引っ掻きまわす。もうとっくに理性なんか焼き切れている。

 この指が、俺のあそこだったら。そう考えるだけでやばかった。俺のものはまた硬くなっていた。

 早く挿れたい。本能のまま、剥き出しになったものをすべすべした太ももの内側に擦りつける。

 一際高い喘ぎ声が上がって、シャーロットがぎゅううと俺に縋りつく。まるで全身が落下していくことに逆らうみたいに。中が、きゅう、きゅう、と強い収縮を繰り返した。絶頂だ。指の運動をやめる。荒い息をたてて、シャーロットが脱力する。

 気持ちよかった、と問うと、潤んだ目が俺を見つめ、小さな頷きが返ってくる。


「良かった」


 軽く汗ばんだシャーロットの額にキスをした。

 彼女はもうぐったりしている。俺のは痛いぐらいっているし、最後までしたかったが、彼女は何もかも初めての経験なのだ。このへんで止めておいた方がいいかもしれない。


「今日はもうよそうか」

「……馬鹿言わないで。最後まで続けるわ」

「ロッティちゃん……君に無理をさせたくないんだ」

「何を言ってるの? あなたが気を遣う必要ないじゃない。私が頼んだことなのよ」

「そうだけど……」

「私とするのは嫌?」


 きっと睨まれる。それが精一杯の虚勢だと、分かってしまう。俺はシャーロットを抱きしめて、頭を撫でた。


「そんなわけないだろ。俺もロッティちゃんと一緒に気持ちよくなりたい。でも君を大切にしたいんだ。君が好きだから」

「やめて……」

「大好き」

「やめてよ……」

「本当に、続けていいの?」


 肩口あたりに、首肯の気配を感じる。

 俺は覚悟を決めた。

 


 初めての子を相手にしたことがないわけじゃないが、そう経験が多いわけでもない。さっき一本だった指を二本に増やし、じっくり時間をかけて慣らしていく。大丈夫、夜は長いのだ。そう焦ることはない。


「ヴェルナー……」


 シャーロットが俺の名をうわ言のように繰り返す。その様子は切なげと言ってもよく、俺の心臓がきゅうと締めつけられる。表情は今や溶けきって、瞳は生理的な涙で潤んでいた。蠱惑的に腰がくねる。その乱れた顔を他の男の前で見せるのだ、と思うとたまらない。嫉妬で気が狂いそうだった。

 俺だけを見ていてほしかった。永遠が叶わないならば、せめてこの一瞬だけ。この夜だけは、どうか。

 俺よりも幾回りも小さいシャーロットの手が、添え木を探す植物みたいに俺の腕を掴む。


「ヴェルナー……我慢できないの、早く来て……足りないの……」

「ロッティちゃん、そんなこと言われたら俺──」

「ヴェルナーの……もっと熱いの、ほしい……」

「どこで覚えたの、そんなの……」


 シャーロットの表情が、声が、吐息が、体が、体温が、匂いが、水音が、俺の欲望を煽る。もう限界だった。

 俺ので気持ちよくなってほしい。

 一緒に気持ちよくなりたい。

 シャーロットの上に跨がる。この光景が幻だったとしても驚かない。彼女の瞳の中に恐怖はなかった。


「入れるよ」


 自分のものの根元を掴んで、彼女の体の中心の潤みにあてがう。シャーロットがびくりと反応して、俺の体に足を絡めてくる。極力ゆっくり、少しずつ、深くしていく。シャーロットの呼吸は上がり、顔は徐々に痛みに耐えて歪んでいったけれど、苦悶の表情にまではならなかった。

 繋がった悦びを感じたのは、きっと俺だけだっただろう。

 最後まで入れたら、今までにない絶対的な幸福感が俺に訪れた。もう死んでもいい。忘我の状態で、シャーロットの手を取り、交接部まで導く。


「一緒になってるの、分かる」

「……分かる」


 泣きそうな顔で、彼女はか細く答えた。


「動くね。辛かったら言って」


 腰をスライドさせる。奥を突くたび、甲高い声が可憐な唇から漏れ出た。

 シャーロットと、ひとつになっている。

 その事実だけが真理で、他のことなんてどうでもよかった。俺はシャーロットを愛しているのだと、その時強烈に感じた。愛している。世界で、シャーロットだけを。


「好き。大好き。愛してる」


 体位を変える。リズムを変える。

 シャーロットはいやいやをするように、首を振る。君が俺を好きじゃないのは分かってる。でも言わずにいられなかった。


「ヴェルナー……だめ……」


 不意に、彼女が呻いた。俺は慌てる。一人で突っ走りすぎたか? 好きな人と繋がれたのが嬉しくて、独りよがりになっていたかも?


「ごめんっ、痛かった? 苦しい……?」

「駄目よ……」


 涙で潤みきった眼が、俺を見上げていた。


「そんなに優しかったら、練習にならないでしょ……っ、もっと、酷くして……」


 シャーロットの言葉は震えていた。切実な、乞うような声色だった。俺の体もぞくりと震える。

 彼女の泣きそうな声が、自分の内には存在しないと思っていた暗い欲望に、火を点けたのを感じた。


「──ごめん」


 俺は本能の欲求に従い、シャーロットを抱いた。いろんな角度、いろんな深さ、いろんなリズム、いろんな体位で。こんなめちゃくちゃなのは初めてだった。それは抱くというより、犯すと表現した方が正しかった。大好きな人を、世界でただ一人愛している人を、俺は欲望の赴くまま、身勝手に、でたらめに犯した。

 シャーロットの目尻に光るものが伝ったとき、俺はなんてことをしているんだ、と愕然とした。


「……ロッティちゃん、もうやめよう……?」

「やめないで……お願い……」


 シャーロットは必死になっていた。影のために、任務のために、汚くなるために。それが彼女の願望ならば、叶えてあげたかった。俺にできるなら、叶えなければと思った。俺は自分のなかの理想を殺した。

 シャーロットは声を押し殺し、泣きじゃくっていた。この腕のなかで。俺が、泣かせたのだ。彼女が絶頂を迎えて仰け反っても、唇を噛み、腰を動かし続けた。部屋に嗚咽が響いた。幸福感などとうにしぼみきっていた。

 俺は何度目かの絶頂を迎え、罪悪感という名のどろどろした液体が、ゴムの内部に溢れ出る。

 俺は彼女に、ちっとも優しくできなかった。


* * * *


 ふと目が覚めると、窓の外には冷たい夜が残っていて、隣ではヴェルナーがすうすうと寝息をたてていた。私は今夜、この人に抱かれたのだ。穏やかな寝顔に指を伸ばそうとして、すんでで思いとどまる。愛おしいだなんて、私に思う権利などない。

 朝が遠くから迫ってくる気配がした。行かなきゃ、と思うのに、体は指示に従わない。眠ったままのはずなのに、ヴェルナーが身じろぎをして、その逞しい腕で私を抱き締めた。自分を好きだと言ってくれる人と、こうして眠るのは最後なんだ、その実感が涙として溢れ出て、彼の胸を濡らす。

 彼はこれからも、その大きな手を私へと差し伸べ続けるだろうか。その手を取って、彼の胸に洋々と広がる愛の海に飛び込んで、二人で溺れてしまえたら。

 そんなことを考えられるのも、今だけだ。もう少ししたら、私は私の想いを殺す。それまで、あと僅かだけ、このままで。

 私はヴェルナーの腕の中で、声を殺して咽び泣いた。


* * * *


 行為の後、いつの間にか眠ってしまったらしいことを、暗がりの中で目覚めて知る。

 まだ夜明け前だ。目が覚めた原因は衣ずれの音だった。シャーロットが服をその身に纏い直している。濃紺のカクテルドレスではなく、ダークグレーのパンツスーツを。信じられないことに、傍らにはキャリーケースが置かれていて、既に荷支度を整えてある風情だ。

 ベッドの上で起き上がると、彼女の澄んだ眼がこちらを向く。


「起こした? ごめんなさいね」

「ロッティちゃん……? どこに行くの」

「決まってるでしょ。イングランドに帰るのよ。部屋の鍵はお願いね」

「どうして? まだ夜なのに……。そんなに焦らなくても──」

「あなたと違って、私は忙しいの」

「そんな……せめて朝まで、一緒にいられない?」

「駄目よ。それは恋人がすること。私たちは違うでしょう」


 追い縋る調子の俺の言葉へ、シャーロットは静かに答える。その声は高地に吹くそよ風のように優しく、清涼で、それでいて冷淡だった。俺の下で取り乱していたのが嘘だったみたいに、シャーロットは淡々としていた。

 厳然とした事実を突きつけられ、俺の喉は言うべき単語を何も発せられない。ああこれで、シャーロットは他の男に抱かれる準備が整ったのだな、とぼんやり考える。

 仕事着を身につけたシャーロットは、もはや元の彼女ではなかった。未知に震える雛ではなかった。そこにいる彼女はもう、俺の手が届かないところへ飛びたってしまっていた。その理解が、俺の心にざっくりと傷をつける。

 シャーロットが体の正面をこちらに向き直す。粛然とした佇まいで、俺への言葉を紡ぐ。


「私はあなたが、私の頼みを断らないことを──断れないことを、初めから知ってた。それを分かっていて、私はあなたを利用したの。あなたの好意を踏みにじったのよ。……ひどい女だと思ったでしょう」


 それを、俺は全裸のままで聞いている。阿呆みたいだった。

 でも君は、俺のことを分かってないよ、シャーロット。苦笑して、肩を竦める。


「全然だよ。本当にひどい人間は、自分をひどいだなんて言わない」

「……あなたはもっと気をつけた方がいいわ。あなたは優しすぎる。だから私みたいな、たちの悪い女に付け入られるのよ」

「君はたちの悪い女なんかじゃないし、そんな心配も要らないよ。俺が好きなのは、君だけだから」


 シャーロットは押し黙り、眉間に力を入れ、奥歯を噛む。苦痛に耐えている表情。

 好きだなんて言ってごめんね、と心の中で謝る。だけど、本当のことなんだ。応えてほしいとも思わない。

 籠で歌う鳥より、自由に羽ばたく鳥の方が美しい。

 俺は語りかける。遥か彼方へ飛び去らんとする彼女に。


「優しくできなくてごめんね。君に辛い思いをさせてしまった。泣かせてごめん」

「あなたが気に病む必要はないのよ。私が望んだんだもの。私があなたに、頼んだことよ」

「それでも君に……優しくしたかったんだ。ロッティちゃん、どうか忘れないで。俺はいつでも、君だけを愛してる」

「……私のわがままを聞いてくれて、ありがとう。さよなら」


 ぽつりと言い残して、最愛の人は未明の闇へ消えていった。

 ドアが静止するのを見届けてから、ベッドに倒れこむ。シーツからシャーロットの残り香が立ちのぼる。酷い気分だった。彼女のすすり泣きが、耳にこびりついて離れてくれない。生まれてこのかた、こんなに惨めな気持ちになったことはなかった。

 シャーロットは俺を利用したと言った。俺の好意を踏みにじったと表現した。

 それは違うよ、と俺は唸る。

 俺は嬉しかった。まるきり打算の意図しかなくとも、彼女が俺を選んでくれて、とても嬉しかった。シャーロットに利用され、いいように扱われ、最終的にボロ雑巾同然に棄てられようと構わなかった。むしろ、それが俺の願いだった。ひたむきな望みだった。


 俺を利用してよ、ロッティ。

 擦り切れるまで利用して、そうして手酷く棄ててくれ。


 でもそれを言う相手はもういない。小鳥は飛びたってしまっていた。

 朝の歌を聞かせてくれないままに。

 冷えた夜気が体を浸食してくる。冷たい夜はまだ、明けない。

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