僕らのこと ブルー・サマーの理由(2/2)

(承前)


 夕刻。

 一人で下校している途中で、道端に猫がうっそりと佇んでいるのを発見した。毛並みのよい、黒猫だ。

 曇天の下、薄闇が迫るなかでも、毛づやが輪のように光るのがはっきり分かる。こちらをじっと見ている目は、青と金色のオッドアイ。白猫のオッドアイは何度か見かけたことがあるが、黒猫は珍しい。

 目が合ってしまったのでゆっくりまばたきをすると、黒猫は警戒する様子もなく、こちらにぽてぽてと近づいてきた。そのまま俺の膝に体を擦り寄せる。


なつっこいやつだな、お前」


 見ると、赤い首輪をしている。飼い猫のようだ。

 腰を落として、喉や頬や耳の後ろを掻くように撫でてやると、うっとりと目を細め、喉を鳴らし始めた。かわいいやつ。


「猫はいいよな。やんなきゃいけないこともねーし、やっちゃいけねえこともねーし、悩み事なんてないもんな」


 誰にともなく呟く。猫に向かってというより、自分自身に向けて。

 黒猫はそんなことない、とでも言うように、色違いの瞳を見開いてニァアアァ、と鳴く。


「そっかそっか、猫も忙しいか。悪いこと言ったな」


 こうして猫を撫でていると、すさんで毛羽立った心の表面が、少しずつ滑らかになっていく。ちくちくと心臓を刺しつづける、長さも太さも異なる針が、一本ずつぽろぽろと抜け落ちていく。現実逃避といわれればそれまでだが、この効能は決して人間には作れない。

 一頻ひとしきりもふもふしてやると、黒猫は撫でられるのに飽きてきたようだった。その気配を察知し、俺は満足して立ち上がる。

 別れの挨拶だと言わんばかりに、猫がすねに何度も頭突きをかましてくるので、俺は含み笑いをこらえる。かわいいやつ撤回だ。とても、かわいいやつ。


「じゃあな。車には気をつけろよ」


 ちらりと振り返ると、そういった意思は無いに違いないのだろうが、色の違う双眸が、見送るようにじっと俺に向けられていた。



 前日の下校と同じく、翌日も一人で登校すると、自分のクラスの下駄箱の前に男子生徒がいて、俺にちらりと視線をくれた。

 ほとんどのクラスメイトは、俺の姿を見かけるとそそくさと先へ行ってしまう。彼もそうするのだろうなと思った。別にそれで傷つきはしない。目つきも言葉遣いも悪い、授業を勝手に抜け出たりサボったりする生徒となんか、誰だって関わりたくないだろう。俺だって嫌だ。

 そんなだから、その男子に、おはようと声をかけられて驚いた。予定外の事態に、おはようと返すのがワンテンポ遅れる。朝から調子が狂う。

 事態はそれで終わらなかった。

 そいつは俺が上履きを履くのをなぜか待っており、一緒に教室まで歩く流れになった。背格好は俺と同じくらいだが、やたらと姿勢がいいので、相手の方が一回り大きく見える。何が起こっているんだと混乱する。

 相手の顔をまともに見て、昨日の数学の時間、最後まで教壇の上に残っていた生徒だと気づいた。


「茅ヶ崎ってさ、猫好きなん?」


 意外な展開に口ごもっていると、相手が自然体な様子で尋ねてくる。脳裏にオッドアイの黒猫の姿が浮かぶ。


「もしかして、昨日の?」

「見ちゃまずいとこだったかな」

「別に、そういうわけじゃねえけど……」


 悪事をはたらいていたわけでもないので見られてもまずくはないが、かなり気まずくはある。猫相手に笑ってたり、話しかけたりしていたのを見られたということか。だいぶ恥ずかしい。


「……そっちも、猫好きなのか? ええと──」

「あー俺の名前、分かんないよな。太田だよ。猫は好きだけど、近づくと逃げられるんだよな」


 気を害する素ぶりも見せず、そう太田は教えてくれる。

 高校に入学してほぼ丸三カ月経つが、未咲や輝以外のクラスメイトとまともに会話したのは、これが初めてだった。太田の口ぶりは穏やかで地に足が着いている感じで、旧知の人間に話しかけているのかと思うほど無理がなかった。

 二人並んで昇降口を抜け、廊下に達すると、生徒会役員の面々がずらりと勢ぞろいしている。

 模範的に着こなされた制服の列。

 なかなか壮観な眺めだった。朝の挨拶運動とかいうのが始まったのだろうか。強制的に挨拶を強要されるのは、あまり気分のよいものではない。

 その列の先頭に立つ男子生徒を、俺は知っている。まあ、この高校の人間は誰でも知っているだろうが。

 生徒会長の九条悟くじょうさとる。たぶんおそらくきっと、未咲が好きな相手。

 相も変わらず一分の隙もない立ち姿に、文句のつけようがないパーフェクトな微笑みをうかべている。彼自身が空気清浄機なのではと疑うほど、周りの空気が澄んで見える。なんて輝かしいオーラ。目が焼けそうだ。

 俺は気づかれぬうちに横をすり抜けようとした。が、悟は目ざとく俺を見つける。


「おはよう、茅ヶ崎くん。久しぶりだね」

「……おはようございます」

「バスケ部の話、あれからどうだろう? 今は試験前で部活休みだけど、いつでも見学に来てくれていいからね」

「はあ……」

「じゃあ、今日も頑張ろうね」


 清涼な初夏の風に似た笑みが俺に向けられる。うぐぐと歯の奥で唸りつつなんとか頷きを返す。脳裏に、日光にやられて昇天するモグラの図が不意にちらつく。なんという情けない体たらくだ。

 横にいる太田が、そんな俺を目を丸くして見ていた。


「すげーな茅ヶ崎、生徒会長と知り合いなのかよ」

「……別に、俺が悪名高いだけだろ」


 そういう事情でもないのだが、俺は投げやりに答える。太田が口の端っこでちょっと笑う。

 教室にたどり着くまで他愛もない話をした。俺のなかの混乱と動揺はいつしかほどけていた。太田は普通にいい奴だった。

 

「そういえば、茅ヶ崎は試験勉強進んでる?」

「……まあまあかな」


 不意に、痛いところを突かれる。期末試験まであと二週間弱。実際は心のもやもやに阻まれてちっとも進んでなんかいないが、正直に言うのははばかられた。

 突如として太田が、ぱんっ、と乾いた音をさせて両手を合わせる。え、何、と俺は軽く驚く。


「お願いがあるんだけどさ。良かったら数学、教えてくれないかな? 俺、数学すげー苦手で」


 唐突に切り出された頼みに、つい足の歩みが止まる。予想外ではあったが、嫌な気持ちはなかった。むしろ、

 ──俺でいいのかよ? 

 その思いが胸に広がる。

 咄嗟に反応できないでいると、太田はばつが悪そうに眉尻を下げた。


「悪い、駄目だったらいいんだ。いきなり無理言ってごめんな」

「いや……別に、俺はいいけど」

「え、マジで? ありがとう!」


 ぼそぼそという俺の返事に、太田の表情がぱっと明るくなる。下がった眉が跳ね上がる。なぜそんなに嬉しそうなのか。

 自分の口が放つのは弁解じみた言葉だ。


「でも俺、あんま人に教えたことないし、うまく説明できねえかも……」

「いや、茅ヶ崎が教えてくれるってだけで充分だよ! 俺も、現文か社会系ならちょっと得意だから、一緒にテス勉しようぜ。今日の放課後とかどう?」


 急展開に頭が着いていかない。かろうじてこくりと首を縦に振る。

 太田はほくほくした顔だ。自分の言葉でこんなに誰かの表情がプラスに転じた例なんて、最近ではちょっと記憶にない。


「良かった。マジ嬉しいわ」

「喜ぶのはまだ早ぇだろ」

「確かに」


 太田がぷっと噴き出す。

 やべ、ホームルーム始まる、と急ぐ周りの声に我に返り、俺たちは教室への移動を再開させた。



 放課後、自分たちの教室で、俺と太田は試験勉強を始めた。

 俺ら以外には、三人で勉強している女子グループが一組。そちらからは時おり静かな談笑が聞こえる。うるさくもなく、静かすぎもしない。これなら同じ部屋で、俺たちが少し喋りながら勉強していても大丈夫だろう。

 机をふたつくっつけ、上に必要なテキストや参考書を並べる。その脇に太田が、いくつか紙箱をぽんぽんと置く。


「購買でおやつ買ってきたから、適当に食べて」


 パッケージを順に見る。最後までチョコたっぷりのやつと、たけのこの形をしたやつと、コアラの行進のやつだ。見事にすべて小麦粉とチョコレートの組み合わせ。この暑い時期に。


「俺、甘いの駄目なんだよな、きのこなら食えるんだけど」

「茅ヶ崎はきのこ派かー。じゃ、次はきのこかしょっぱいのにするわ。購買に煎餅とかあったかな」


 太田は楽しげだ。次があるのか、と俺はうっすら感慨深く思う。

 こういうのってなんか高校生っぽいな、と考えていると、教室のドアがスライドする音に続いて、女子の声がした。


「あれー、茅ヶ崎くんと太田っちが一緒に勉強してる!」


 出入口に背を向けていた俺は、振り返って確認する。姿勢のいい二人の女子生徒が俺たちを見ている。ショートカットに茶色い眼鏡の女子と、長髪をややこしい形に編み込んだ女子。たぶん、同じクラスの生徒だが、確証はない。太田を太田っちと呼んだのは、先に入ってきた短髪女子らしい。

 太田が茶化すように言う。


「出たな、天然コンビ」

「何それ、人を化け物みたいに。それに太田っち、天然の意味知ってる? ちゃんと辞書引いてみた?」

「その発言が既に天然なんだよな」


 二人は太田の知り合いのようだ。俺はこういう、一緒にいる奴に友達が現れるという状況に弱い。どうすればよいのか戸惑い、何もできなくなってしまう。

 近寄ってきた編み込み女子が口先を尖らせる。


「太田くん、茅ヶ崎くんに数学教えてもらってるの? ずるい!」

「茅ヶ崎くん、後で太田っちにアイスでも奢ってもらわなきゃ駄目だよ! 学校近くのジェラート屋さんとかで、できればダブルで!」

「いや……俺は……」

「私はピスタチオとチョコがいいなー」

「あたしはイチゴとオレンジかな」

「お前らふざけんな。勉強の邪魔なんだよ、帰れ」


 太田はしっしっと追い払うしぐさをするが、その顔には笑みがある。本気で言っているわけではないのが分かる。女子とは親しい間柄のようだ。

 その発言には無論従わず、短髪女子が身を乗り出す。


「私たちも茅ヶ崎くんに数学教わりたい!」

「は? 何言ってんだよ、迷惑だろ。なあ茅ヶ崎?」


 女子が積極的に関わろうとしてくることに面食らっていた俺は、太田に振られた話ではっとする。正直、一人に教えるのでも三人に教えるのでも、労力としてはそれほど変わらない気がする。

 俺はいいけど、と返答すると、女子二人がやったーと声をあげてさっそく机を移動させ始めた。

 二人が四人になる。俺は太田と、女子は女子同士で向かい合う。みんなの数学を見てやりつつ、文系科目を中心に、授業でポイントと言われたところを教えてもらう。授業を抜けることが多かったため、ありがたい。


「悪いな、茅ヶ崎。こいつらが急にお願いしてさ」

「いや、いいよ。つうかみんな仲いいな」

「あたしたち、部活が一緒なんだよね」

「そうそう、弓道部」


 なるほどと俺は納得した。それでみんな姿勢がいいわけか。


「弓道部って、冬とか大変そうだよな。寒そう」

「おー、大変だぞ。俺、中学ん時も弓道やってたけど、ありえねえよ。半分外みたいなとこでやってたから、極寒。死ねる」

「ありえねえのに、高校でも続けてんのかよ」


 太田の言葉が可笑おかしくて、つい声を出して笑う。

 その拍子に、三人がしんと静まり返った。

 俺のなかにまた動揺が戻ってくる。なんだ、この沈黙。今、笑っちゃいけないとこだったのか?

 どぎまぎしていると、斜め前に座る短髪眼鏡女子が、


「茅ヶ崎くんも、笑うんだねえ」


 としみじみと呟いた。

 なんだ、そりゃ。


「まあ、俺も人間だから……笑うときは笑うけどな」

「ばかお前、どうして平気でそういうこと言うんだよ。ごめんな茅ヶ崎、こいつ天然でさ」

「別に、気にしてねーよ」

「茅ヶ崎は優しいな」

「でも茅ヶ崎くんて、喋るとけっこう普通だよね。私ももっと怖い人かと思ってた」

「お前らなあ……」


 隣の編み込み女子が笑いとともに発した言葉で、眉間を押さえる太田。こいつは割と苦労性のようだ。

 俺はほっと、息をつく。

 

「普通って言われると、なんか安心する」


 それは、偽らざる本心だった。

 これまでさんざん、周りから変わってると言われ続けてきた。自分でもそうだ、俺は変わり者なんだ、と思いこんできた。

 自分は他人とは違う。

 マジョリティの一員にはなれない。

 俺の内側にはいつも、疎外感や孤独感、孤立感といったものが、通奏低音のようにずっと流れていた。

 俺はいつでも、普通の人間になりたかったのだ。

 

「……やっぱり、変わってる」


 女子二人が顔を見合わせて笑うが、その笑い方には後ろ暗いところは何もなくて、親密ともいえる温かさに満ちていた。



 結局、下校を促す校内放送が流れるまで、俺たちは和気藹々わきあいあいと試験勉強を続けた。ちなみに三箱あったお菓子は、女子二人によってチョコが溶ける間もなく無くなった。女子ってすげえ。

 帰り際、太田が携帯を取り出し、俺の前で左右に動かす。


「茅ヶ崎、良かったらだけど、連絡先交換しない? 後で分からないとこあったら聞いてもいいかな」

「いいけど、俺メールと電話しかねえぞ」


 えっと太田が漏らし、SNSの名称をいくつか挙げるが、俺はすべてに首を横に振る。


「マジかあ……茅ヶ崎も登録してみたらいいよ。トークの方が楽だしさ」

「うーん……」

「じゃ、とりあえずメアド交換しようぜ」

「あたしも!」

「私も!」

「ちゃんと許可取れよお前ら」


 3人の(というより主に女子二人の)勢いに気圧けおされながら、俺は不慣れな連絡先交換の手順を踏む。もしかしなくても、これが高校に入学して初めてのメアド交換だ。

 無事に登録が済むと、短髪女子が俺の目を見つめながらにっこり笑った。


「茅ヶ崎くん、今日はありがとうね。おかげでちょっと分かるようになったよ。あたし、茅ヶ崎くんと一回話してみたかったんだ」


 横から、私も!と編み込み女子が加わってくる。


「喋ってみたかったけど、きっかけが掴めなくて。茅ヶ崎くんの教え方、すっごい分かりやすかったよ。本当にありがとう」


 そんな風に思われていたなんて。意外すぎて、俺は返すべき台詞を何も思いつかなかった。怖がられているとばかり予想していたのだが。

 ありがとうという言葉は、人からの感謝など滅多に受けない俺には、少し、いやかなり、気恥ずかしいものだった。

 太田は呆れたと言わんばかりの視線を二人に向けている。


「どうせ茅ヶ崎がイケメンだからだろ」

「それが理由で何が悪いんですかー?」

「開き直んな」


 教室を出る。窓から見える景色はまだ明るい。ちょうど西の空にだけ、雲の切れ間がある。夕陽が空と雲を赤々と染め上げながら、今日という一日を引き連れて燃え落ちていく。


「茅ヶ崎はチャリ通? 電車通?」

「いや、俺はちょっと職員室に用があるから」

「これから? そっか、じゃあまた明日な。テスト終わったら飯でも食いに行こうぜ。奢るよ」

「私はイタリアンがいいなあ」

「あたしはタイ料理!」

「言っとくけどお前らには奢んねえからな」

「茅ヶ崎くんばいばーい」

「ばいばーい」

「聞いてんのかよ……」


 3人に手を振り返し、その後ろ姿が見えなくなったところで、俺はさてと体を反転させた。

 向かうは職員室だ。

 朝から予期しないこと続きだったけれど、悪くない日だった。やわらかく穏やかな気持ちで満たされている。これが充足感というやつだろう。

 "むやみに怖がらなくてもいいんじゃない。"

 昨日のヴェルナーの台詞を思い出す。確かに。今なら多少は同意できる。

 俺は一歩一歩しっかりと、歩数を刻むように廊下を進む。頭にあるのは、桐原先生のことだ。


 "ずっと前から知っていたんだ。"

 "八年前に、影を辞めたときからな。"


 先生のその台詞が、耳に残っていた。心の喉元ともいえる場所に、ささやかな、しかしくっきりした痛みの輪郭を持って、引っかかっていた。

 入学当初の出来事を思い返す。先生が、俺の試験の解答を美しいと言ってくれた瞬間のことを。俺の目をまっすぐ見て、俺一人のために向き合ってくれた時のことを。

 あの時の俺は何も知らなかった。先生の過去も。先生がいた世界も。先生が何を考えているかも。

 何日ものあいだ、自分を内面から苛んでいた問いを、今の俺は明確な言葉で表すことができる。


 それは、桐原先生が自分に目をかけてくれたのは、俺の信頼を得、影の話をすんなり信じさせるためのではなかったか、という疑念だ。


 俺が先生の立場だったとして、影の話を生徒に話すつもりがあるなら、その前にその生徒に目をかけておくだろう。でなければ、未来の見える人間がいるだとか、秘匿された倫理違反の犯罪グループの存在だとか、それに敵対する組織が身近にあるだとか、そんな突飛な話をすんなり信じられるはずがない。

 それこそ俺は、桐原先生が言うから渋々信じたのだ。ヴェルナー一人が相手だったら、馬鹿馬鹿しいと断じて帰っていた可能性だってある。

 "生徒のために何でもしたいと思っているものだ。"

 先生はそう言った。

 あれは、計算されたものだったのだろうか?

 あれは、俺の信用を得るための、本心とはかけ離れた方便にすぎなかったのだろうか。打算的で、まるで人間味のない、無味乾燥な行為だったのだろうか。

 俺はあの時、とても嬉しかった。やさぐれた俺の心に、あたたかい光が投射されたように思えた。

 しかし、俺のこの感情が、意図的に作り出されたものだったとしたら。

 桐原先生に直接問いかけて、もし答えがイエスだったら、俺は確実に傷つくだろう。そして再び、他人など信用に足らないという思いに囚われるだろう。

 ──昨日までの俺ならば。

 昨日の俺と今日の俺は、少しだけ違う。クラスメイトのおかげで、自分を受け入れてくれる場所が、どこかにはあるだろうと信じることができる。それは、音楽が短調から長調に転じるような、些細で、それでいて明確な違いだ。

 俺は桐原先生に会うために、先生に問いをぶつけるために、職員室に向かっている。下校時間が迫っているが、たぶん、先生はいるはずだという無根拠な確信を持って。

 弓道部員の彼らを真似て、背筋を伸ばし、胸を張る。ノックをして、職員室のドアを開く。

 今しがた帰ろうとしていた先生が、俺を見て驚きに顔を染める。それは果たして、桐原先生だった。

 職員室には他に先生はいない。好都合だ。


「なんだ、まだ帰っていなかったのかね。早く校舎から出た方がいい」

「……聞きたいことがあるんです。"影"のことで」


 俺はまっすぐ先生の目を見据える。逸らさずに、真正面から。こんなにも近くから、先生の視線を受け止められる。

 先生はそんな俺の様子から何か察したのか、私の家に来るかね、と静かに問う。俺は何の逡巡もなく頷きかえした。



 桐原先生の家では、リビングのソファでヴェルナーがのんびりと寛いでいた。俺の護衛は先生の家を拠点にしているのだ、と説明を受ける。先生より先に帰ってるなんて、やっぱりこの人は真面目に護衛なんかやってないんだな、と思う。今さら、落胆も怒りもないけれど。

 俺の姿を認めると、まるで来るのを予期していたみたいに、整った顔を歪ませて上品とは到底いえない笑みをつくる。


「おっ、来たな。なあ坊っちゃん、オッドアイの黒猫に話しかけるのは、もうやめといた方がいいぜ」

「……あんたも見てたのかよ」

「見てたっつーか、俺は聞いただけだけどな。どこに人の目があるか分からねえんだ、ちょいと用心するのをお勧めするね。いいかい、人の目ってのはな、人間の目じゃないかもしれないんだぜ」


 さっぱり意味が分からない。この人は一体何を言っているのだろう。禅問答でもしているのだろうか。

 困って桐原先生に視線を移すと、肩を竦められた。放っておけ、という意味だと勝手に解釈する。


「ヴェル、少し外してくれ。茅ヶ崎と話がしたい」

「はいはい、邪魔者は消えますよっと。あとは二人でごゆっくり」 


 ヴェルナーは不審なほど物わかりよくドアの磨りガラスの向こうへ消える。俺は桐原先生に促されてリビングのソファに座る。

 先生は、俺を見ている。星のない夜空の瞳。底知れぬ夜の海の瞳。


「聞きたいこととはなんだね」


 俺は思っていることを、考えていることをできるだけ詳しく話した。分かりやすく説明できた自信はないけれど、先生は何も言わずに耳を傾けてくれた。

 そして俺は問う。先生が、俺に声をかけてくれたこと。あれは計算だったのか、と。

 疑問を形にしてしまってから、無意識に腿の上で拳をつくる。掌にはいつの間にか汗をかいていた。緊張しているのだ。

 それでも、下を向くことはしなかった。

 先生がふ、と短く息を吐く。その口が開くところが、微速度撮影の再生かと思うほどスローに見えた。

 先生が、いや、とあっさり否定したので、俺の全身から一気に力が抜ける。


「あれは純粋に、教師としての欲求だったんだ。能力があるのに、それを持て余している。くすぶらせている。勿体ないと思った。それに、君があまりにも昔の私に似ていたから、見て見ぬふりができなかった」

「あの人……ヴェル……さんも、そんなこと言ってましたよね。俺、そんなに似てるんですか」

「ああ、いや」


 先生はいたずらが見つかった子供のように、決まり悪そうに笑う。らしくない表情だ。でも、悪くない表情だ。


「あの男が言うのは見た目だろう。そうじゃなく、境遇という意味でだ。私も数学に没頭したかったんだが、環境がそれを許さなかった。まあ、私は君とは違って、ただの凡人だがね」

「凡人なんて──」

「事実だよ」


 先生は、目尻を下げて、表情を緩める。


「私の行為が、君の言うように解釈できることに思い至らなかったよ。私のしたことが、君を追いつめていたんだな。すまなかった。あの事前問題と証明のミスも、私のせいだったんだな。私が影に復帰したのも、隠すつもりはなかった。いつか話さねばならないと思っていた。──言い訳にしかならないが。どうか、許してもらえないだろうか」


 先生は深々と頭を下げる。元はといえば俺の勘違いが原因なのに。大人が躊躇いなく詫びる姿を見慣れていないため、慌てる。込み上げるものがある。そんな、と自分も頭を下げると、手の甲が濡れる感覚があった。

 ぽたりと、水滴が落ちたのだ。

 俺は泣いていた。

 自分がこんなに追いこまれていたなんて、知らなかった。ただこれは、悲しみとか怒りだとか、感情がたかぶったときの涙ではない。感情が弛緩したときの、安堵の涙だ。

 この涙は、あたたかい。

 大丈夫かね、と先生がやや焦った調子で言う。俺は、おなかに力をいれて、はいと答える。昨日の力ない返事とは違うと宣言するように。一直線に、しっかりと先生まで届くように。


「それなら、いいが」

「……あの」

「うん?」

「数学の証明問題、試験が終わったら再開してください」

「ああ、分かった」

「それと、この前の質問の答えなんですけど」

「質問?」

「先生のこと、怖くないです。俺にとって、先生は先生ですから」

「そうか」


 先生が相好を崩す。立派なたてがみを持ったライオンを連想させる、強い包容力を感じる笑み。俺もつい釣られて笑う。

 そこで、終わったみたいだな、と舞台俳優ばりの大袈裟なターンを決めて、ヴェルナーが部屋に戻ってきた。


「おやおや、いくら男の子とはいえ、他人を泣かすのは感心しないねェ」

「貴様、ドアのそばで全部聞いていたな」

「何のことだか」


 桐原先生は一転して凄味のある顔になる。刺々しく冷たい視線を、ヴェルナーは小首を傾げるだけで受け流した。


「それより錦、飯は」

「……今から作るから待っていろ。茅ヶ崎はどうする? 夕飯、食べていくかね」

「……はい」


 俺はまた迷わず答える。



 夕食は、煮魚を中心にした純和風の献立だった。

 茶碗に盛られた真っ白なご飯から、ほかほかと湯気が立ち上る。それがやけに眩しく目に染みた。

 俺の前に先生が座っていて、その隣にヴェルナー。日本人と遜色ないくらい器用に箸を使っている。へえ、とちょっと意外に思う。


「今回も遅くなってすまんな。親御さんに謝っておいてくれ」

「いや、食べていくと言ったのは俺なんで……。親には先生が準備してるあいだ、連絡しときました。母さ──母が、後で菓子折りとか持ってくかもしれません。いつもお世話になってますとか言って」

「そういうのは気持ちだけで充分です、と君から言っておいてくれ」


 穏やかだ。会話も、心の内も、料理の味も。

 食事の際に数日間感じていた、砂を噛むような感覚もすっかり無くなっていた。一回の咀嚼ごとに、素材の味が湧きだすみたいに濃くなってくる。それを存分に味わう。味わえる。

 美味しい。心の底から思う。とても美味しい。

 美味しさとは喜びなのだ。


「先生が作る料理って、ほんとに美味しいですよね」

「そんなにしみじみ言うほどではないと思うが……。自分の家で食べるものは違うのかね」

「いや、家のも美味いんですけど、洋食が多いというか──レストランみたいな食事が多いんで。こういう和食はあんまり無いです。おふくろの味っていうか」


 いきなり、黙々と箸を動かしていたヴェルナーが盛大に吹き出した。先生が信じられないといった表情を浮かべる。


「汚いな……何なんだね急に……」

「いやだって、生徒にもオカン認定される錦って……あーもう面白すぎ」


 ヴェルナーは肩をぷるぷる震わせながらダイニングを出ていく。扉が閉まった途端、一人で笑い転げるヴェルナーの声が聞こえてきた。


「ああいう大人になってはいかんぞ」

「分かってます」


 俺は神妙に頷く。

 できれば桐原先生みたいな大人になりたいな、とダシの利いた味噌汁を啜りながら考えた。

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