僕らのこと ブルー・サマーの理由(1/2)
─茅ヶ崎龍介の話
清々しい朝。そのはずだった。
食事が喉を通らない。
テーブルの上には、いつも通り色彩にあふれ、見るからに美味しそうな母お手製の料理が並んでいる。なのに、なぜか食欲が湧かない。口に入れても、食べ物の味がよく分からない。発泡スチロールでも咀嚼しているような食感がして、不快感すら覚える。
俺の心の中には風の吹きすさぶ荒野が広がっていて、爽やかな朝の雰囲気とはまるでかけ離れた有り様だ。ダイニングのテレビは滑稽なまでに快活な情報番組を映しており、その押しつけがましい明るさが、ささくれだった神経を逆撫でしてくる。
俺の箸がほとんど動いてないことに、母の涼子が気づいたらしい。こちらを心配そうに見やる。
「龍ちゃん……あんまり食べてないけど、お母さんの作った料理、美味しくなかったかしら?」
「……いや」
その後に続けて、美味しいよ、とはとても言えなかった。
新聞に目を通していた父の
「なんだ龍介、食欲が無いのか? 今は体を作る大切な時期なんだ。ちゃんと食べた方がいいぞ」
「……それは、分かってる」
「お母さんの料理はいつも美味いだろう? 感謝して、食べなきゃいかんな。……涼子さん、いつも美味しいごはんをありがとう」
「まあ辰太朗さんったら……龍ちゃんの前で……」
父と母が見つめ合う。
両親はとても仲が良い。二人ともまだ三十代な上に外見も若々しいので、新婚夫婦と勘違いされることもしばしばだ。
仲睦まじい夫婦、申し分なく栄養バランスの取れた食事、掃除のゆき届いた部屋、テーブルと窓際に飾られたみずみずしい植物、窓から射し込む淡黄色の光。どこからどう見ても、理想的な家庭の朝の風景だ。
ただ一つ、息子が俺であるという点を除いては。
いたたまれなくなって、椅子の上に置いていた通学鞄を手に取った。
「……もう出るから」
「あら、そう? お昼はしっかり食べるのよ。じゃあ、行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃい、龍介」
逃げるようにして外に出る。異物、という言葉が、胸の内側でぐるぐると渦巻いていた。
* * * *
息子が出ていった後の扉が、ガチャ、と音をたてて閉まる。
「……恋患いかしら?」
涼子は小首を傾げ、のんびりと呟いた。
* * * *
何に対してかは分からない。ここ数日ずっと気が塞いで、もやもやした正体の掴めない感情が、心の中にしつこく居座っている。振り払おうとしても、それは靴底へ貼りついたガムに似て、無視するには大きい存在を主張してくる。自分のことなのに自分ではどうにもできなくて、頭を掻きむしりたくなる。
数学の授業中、窓の外に目をやった。朝には陽が差していた空がどんよりと淀み、灰色の厚ぼったい雲が、天球全体をぐいぐいと押し下げているみたいに見える。すぐにでも雨が降ってきそうだ。
六月末の空気は湿度も温度も高く、教室に満ちた不快さに、鼻腔が圧迫される。備え付けのエアコンは、七月にならないと使用許可が下りないらしい。
前方に顔を戻す。教科書の章末問題を割り振られた生徒たちが、壇上で解答を板書しているところだった。書き終えた生徒から順々に席へ戻り、今は一番難しい問題を当てられた男子一人だけが残っている。チョークは遅々として進まず、明らかに解法が分かっていないのが分かる。
数学担当の桐原先生は黒板の脇の椅子に腰かけ、その様子をじっと見ていた。どこをどう見ても普通の先生が座っているようにしか見えないが、彼がただの教師でないことを、俺は知っている。
まっすぐ前に向けられた桐原先生の視線は、苛々するでもなく呆れるでもなく淡々としたもので、むしろ俺の方が苛々していた。どうしてそんな、無理に公式に当て嵌めようとして
違う、やめて、間違ってるよ、助けて。
もちろんその声は妄想にすぎないのだが、俺は現実に気分が悪くなってきた。のっそりと立ち上がり、そのまま教室の後ろのドアへ向かう。クラスメイトたちが、はっと身を固くする気配を肌に感じながら。
桐原先生がちらりとこちらに視線を寄越したが、口は結んだままだった。
無言のうちに教室から抜け出た俺の脳裏へ、数日前の夜の光景が、はっきりと立ち現れる。俺は、自分の記憶を追体験していた。赤目赤髪の謎の男・ヴェルナーと初めて会い、
家まで送ってもらうため、俺は先生が運転する車の中にいた。
車内の静寂。前方には赤信号。
先生の告白がにわかに理解できなくて、信号機をじっと見る先生の精悍な横顔を、俺はまじまじと見つめた。
「──え、身を置いていたって……。保護されてたとか、そういう?」
恐るおそる尋ねた問いは、いや、と容易く否定される。
「あの男と──ヴェルナーと同じだよ。八年前まで、私も影の一員だったんだ」
「じゃあ」
その先を言いかけて、ぐっと言葉を飲み込んだ。聞いてどうするんだ、と自分に言い聞かせる。聞けるわけないだろ。
先生も、人を殺したことがあるんですか、なんて。
俺の思考を読むように、先生が横目でちらりとこちらを見た。
「そうだな。聞かない方が利口だ」
「──先生が……どうしてそんなところに?」
俺の疑問に、先生が自嘲めいた笑いを
「それは逆だ、茅ヶ崎。君は、"影の一員だったあなたが、なぜ先生に?"と訊かねばならない。私は教師としてよりも、影の一員として生きてきた期間の方がずっと長いんだ」
「……」
何も言えない。その事実を、どうやって受け止めたらいいのかが分からない。
押し黙る俺へ、独り言めいた調子で、先生が静かに語りかける。
「実を言うと、君が"罪"に狙われる可能性があることは、ずっと前から知っていたんだ」
「……そうなんですか」
「ああ。八年前に、影を辞めたときからな」
「そんな……前から……」
絶句する。
八年前。俺は、小学校の低学年だった。その頃にはもう、先生と知り合うのだと決まっていたというのか。
頭の中を、誰かがぐるぐるかき回しているみたいに、思考がまとまらなかった。
不意に先生が俺の顔を見た。星のない夜空を思わせる、深い黒の瞳に見つめられる。鋭さと思慮深さが混じり合う、猛禽のような目だと思った。
「私が怖いかね」
問いかけは落ち着いていた。
すぐには答えられなかった。先生の姿のその向こうに、見通せない暗がりが果てなく広がって見えた。その不透過の淀みが俺のそばまで這い寄ってきて、足元の感覚が覚束なくなる。そのままどこまでも落ちていきそうに感じられた。
俺はそこで、氷山の九十パーセントは海面下にある、という話を思い出していた。人間も、それと似ているかもしれない。
先生の過去を、自分は、何ひとつ知らない。
怖いと答えるのも、怖くないと答えるのも、なんだか違う気がした。
「……分かりません」
「そうか」
先生は表情を変えないままに軽く首肯する。
胸の中でわだかまる、ぐにゃぐにゃした不定形の思いが、そのまま口をつく。
「──あの」
「ん?」
「先生は……誰なんですか」
我ながら馬鹿な質問だと思った。が、先生は難しい表情をつくって、
「それは私も知りたいところだな」
顔を歪め、皮肉っぽく言った。
前方の信号が青に変わり、また車がするりと動きだす。その後は、俺の家に着くまで、会話はなかった。
喉に小骨が刺さっている、ちょうどそんな感じで、先生の話の何かが、思考回路の途中に引っかかっていた。
「無理に今までどおりに振る舞おうとしなくてもいいからな」
家の前で、ドアを開けて降りようとする俺に、先生が告げた。
曖昧に頷くことしか、俺にはできなかった。
ふらっと教室を出て向かった先は、いつもの旧校舎だ。
梅雨入り前には屋上に放置していたソファを、先日、屋上へ続く階段の傍らに移動させておいた。雨が降るとよくないからだ。
のそのそ歩いてきた俺は、その上にごろりと横になる。屋上ほどの開放感は無いが、人がいないだけ教室よりましで、ドアのガラスから外が見えるだけ、保健室よりましだった。
目を閉じて、気分の悪さを忘れようとする。
教室という場所が苦手なのはずっと前からだ。同じデザインの机と椅子がずらりと並び、皆が同じ服を着て、同じ教科書を開きながら同じ内容のノートを取る。狭い箱に同じ年齢の子どもを集めて押し込め、行動を時間で管理する。画一的で特徴のない人間を生産するための養殖場みたいだと思っていた。
クラスメイトたちは何の疑問も持たない様子で、毎日時間割の通りに過ごしている。きっと、俺の感覚のほうがおかしいのだろう。
教師たちは個性が大事だと繰り返すけれど、あんなところで個性なんて育つのだろうか。そもそも、教師たちの言う個性とはおそらく、創造力とか協調性とか寛容さとかリーダーシップとかの"優等生的な"個性であって、教師にしてみれば、俺が持っているのは"個性"の枠組みから外れた、ただの厄介な性質にすぎないだろう。
みんなには当たり前でも、俺にとっては苦痛でしかない。
青臭い考えをこねくり回していると、こちらにすたすたと近づいてくる足音に気づいた。幼なじみかつ学級長の未咲であれば、ぱたぱたと駆けてくる音がするはずだ。
先生かな、桐原先生以外に見つかったら面倒だな、と暗鬱な気持ちを抱きながら目を開けると、鼻先三十cmほどの至近距離に赤目赤髪の彫りの深い顔があって、うわ、と口に出してしまう。反射的に上体を起こし、ソファの上で後ずさる。
「やあお坊っちゃん、浮かない顔だね。さては恋患いかい?」
派手な外見のその男、ヴェルナー・シェーンヴォルフは、俺の顔を覗き込む体勢で、厚い雲でも払えそうな、明るい笑みを作った。
欧米人だからなのか──欧米人が皆そうなのかは分からないが──ヴェルナーは人に対する距離が近い。自分の領地にずかずかと立ち入られるようで、少し恐怖感があった。
能天気な彼の問いに、俺はむすっと答える。
「……そんなんじゃねーよ。なんであんたが、ここに居るんだよ」
「あれ、違うの? 俺はお坊っちゃんがどこへ行こうと着いてくよ、君を守らないといけないからねェ」
ヴェルナーは唇を横に引き伸ばして笑う。揃った白い歯の中で、肉食獣のように尖った犬歯が目立つ。何度見ても
俺の命は、狙われているらしい。
数日前にそんな話を聞かされてから、この調子の軽い外国人が護衛に就いた。いまだに実感は無く、以前と比べて変わったのは、至るところでヴェルナーの姿をちらちらと見かけるようになったことくらいだ。
もし本当に危険な目に遭ったとき、この適当極まりない人が助けてくれるのかどうか、俺は怪しんでいる。
「誰かに見られたらどうすんだよ。説明すんのが面倒くせぇだろ」
「大丈夫大丈夫、ちゃんと人の気配は避けてきたから。でも今は授業中だろ。こんなところに来るなんて、さてはお坊っちゃん、不良だな?」
「……だったら何?」
ヴェルナーがしげしげと見てくるのを、俺は下から睨み返した。明らかに面白がっているのが気にくわない。彼の台詞には、見れば分かることをわざわざ明言する、あの不可思議な英語の例文に似た趣があった。
他人はいつもそうだ。表面上の要素で判断して、分類して、自らがいる領域ではないところに勝手に押し込める。あいつは自分とは違うのだと安心する。俺はいつでも分類される方だから、そういうのには慣れきっている。
視線が交錯して、にわかに訪れた沈黙を、ヴェルナーの薄笑いが破る。
「君は違うように見えるけどなァ」
「違うって、何が」
「君は不良を気取りたいわけじゃないだろ? 人が多いところが苦手なんじゃないのかい。君は人と関わるのを怖がってるように、俺には見えるね」
「……」
冷たい風に頬を撫でられたかのように、すっと顔が冷えた。一瞬、呼吸を忘れる。心臓をぎゅっと握られたみたいに、胸が苦しくなった。
どうして分かったのだ、と声なき声を漏らす。そこは触られたくないところだった。この人は、物事を横目で適当に眺めているようで、実際はじっくり観察しているのだ。
俺は、他人が怖い。
その恐怖心を、"関わるのが面倒だから"という言い訳で、何重にもくるんで見えないように隠していた。自分でも忘れていた本当の理由を、ヴェルナーは容易く
嘘という
「むやみに怖がらなくてもいいんじゃない」
ヴェルナーが唐突に優しげな口調になる。
彼の思考の展開に着いていけず、は?とえらく不機嫌な声が出てしまう。
「坊っちゃんはあれだろ、人と関わって傷つくことが怖いんだろ」
それは俺の嫌いな断定口調だったけれど、そういう台詞にありがちな、
でもよ、とヴェルナーが続ける。
「人間ってのは案外、寛容な生き物のはずなんだぜ。坊っちゃんは小さい頃に嫌な思いをしたのかもしれんが、十五才にもなればそれなりの分別をみんな身につけてるだろ。それに、大概の人間は自分のことで手一杯さ。他人にそこまで興味持ってねーよ」
「……」
俺は押し黙る。確かに、人は成長するものだろう。俺だって、自分にしか見えてない景色のことを、誰彼構わずぺらぺら喋るなんて馬鹿なことはしなくなった。
けれど、ヴェルナーの言葉をそっくり飲み込むには、俺の過去の経験は苦すぎた。
そうかもしれない、とは思う。でも、そうでないかもしれない、とも思う。
堂々巡りの思考に陥りかけた俺へ、銀幕のスターよろしく、ヴェルナーの完璧なウインクがばちんと送られてくる。
「何にせよ、人は一人じゃ笑えないもんだぜ、坊っちゃん。人が腹の底から笑うのは、誰かと一緒にいるときだけだ」
「……あんた、たまには良いこと言うんだな」
「だろォ?」
皮肉のつもりだったのだが、どうもヴェルナーには通じないらしかった。
赤髪の男は、ソファの脇にある階段へ腰を下ろし、どこか達観した目を細めて俺に向ける。
「悩めよ、坊っちゃん。若者は悩むべきだぜ。"青春は苦悩の時代だ"って、たぶんどこかの偉い人も言ってるはずだし」
「どこの誰だよ」
「そんなの俺に聞かれても知らねーよ」
「……あんた、適当すぎんだろ……」
口を尖らすヴェルナーに苦言を呈すると、今度は腕を組んで教え諭す顔つきになる。
「あのねェ、そうやって簡単に人に聞くのはよくないと思うよォ。その前に自分で調べてみる、そういう気持ちが大切なんじゃないのかなぁ」
「あんたが言ったんだろうが……」
とは言いつつ、あまりにも目の前の男が堂々と構えているために、ちょっとだけ"俺が悪いのか?"という思いが湧いてくる。
ヴェルナーの捕らえどころの無さに、俺は困惑していた。困惑というか、辟易していた。こんなのらりくらりとした人間が、大人然とした表情で、平気で世を渡っていることが信じられなかった。俺にはこんなにも悩みがあるのに、ヴェルナーは何も思い悩む要素なんかないような、いっそ間抜けともいえるつるりとした顔を周囲に晒している。それがひどく、羨ましくもあった。
意図せず、あんたは良いよな、と口に出していた。
「うん?」
「あんたは人生楽しそうで、良いよな」
「そりゃあ、楽しもうと思ってるからね。人生ってのは一度きりなんだぜ、今楽しまないでいつ楽しむんだい?」
ヴェルナーは笑う。くつくつと、本当に、心底楽しそうに、笑う。
彼の台詞が、俺のなかで反響した。
いつ?
楽しむ?
そんなの、考えた試しがあっただろうか。俺はぽかんとして、ヴェルナーの顔をただただ見た。
「坊っちゃんはどこかで、自分の人生なんて、と思ってやしないかい?」
「……」
「恵まれた環境に生まれて、順風満帆な人生を歩んでる人間だっているだろうさ。だが、羨ましがったり自分の境遇を嘆いたりしたって、他人にはなれねえんだ。だったら、与えられた場所でどう楽しんで生きるか、そいつを考えるのが、一番有益な時間の使い方だと思わないかい?」
問われて、俺は答えられなかった。
俺はどうして、こんなところでこんな変な外国人に人生論を説かれているんだろう?
そう疑問に感じつつ、軽薄が間違って人の形を持ってしまったようなこの男にも、他人を羨んだり境遇を嘆いたりした時期があったのかと思うと、なんだか不思議な心地がした。
「……あんたも、苦労してんだな」
「はは。そうは見えねェだろ? 大人ってのはな、大なり小なり苦労してきてんだよ。それが、大人になるってことだ」
「……」
自分の周りの大人の顔が次々と思い浮かぶ。みんながみんな、それなりの苦労を重ねて大人になったというのだろうか。
父親。母親。親戚。先生方。近所の人。
そして、僅かな痛みとともに浮かぶ、まるで過去のことなど読ませない凛々しい顔。
「……じゃあ、桐原先生も」
ヴェルナーが遠い目をして、大きく頷く。
「そりゃあそうさ。あいつなんて、人一倍苦労してんだろ」
「先生が……」
無意識のうちに、拳を握っていた。さらりと紡がれた言葉を思い出す。
"君が"罪"に狙われる可能性があることは、ずっと前から知っていたんだ。"
喉元の奥の方をかりかりと引っかく、あの台詞。
「なあ坊っちゃん、君、あいつのことでも何か悩んでいるんじゃないのかい」
はっとして顔をあげる。ヴェルナーは俺の顔をつぶさに眺めていた。この人はどこまで察しがいいのだろう、怖いくらいだった。
「悩みなんて──」
「隠さなくてもいいじゃんか。このお兄さんに何でも言ってみな? ま、聞くだけは聞いて相談に乗るとは言ってねえけどな、あは」
そう臆面もなく言い放って飄々と笑う。
ヴェルナーの言い回しは適当の極みだったが、それゆえに、駄目で元々、言うだけ言ってみるか、という気持ちにさせられるのは不思議だった。
「桐原先生が影の一員だったって……本当なのか」
「ほー……へえ、あいつ君に話したのか。ちょっと意外だな。ほんとだよ、今は大人しく見えるかもしれないけど、昔はけっこうトゲトゲしてたなー」
「それは」
あんたに対しては今もそうなんじゃないのか、と言いかけたが、面倒になりそうなので寸前で飲み込む。
「まあ、一員だったっていうか、今もなんだけどね」
「は?」
「錦の奴、影に戻ってきてくれたんだよ。それは聞いてない? 坊っちゃんが危ないって言ったら血相変えちゃってねー」
「……そうなのか?」
「そうそ。あ、あいつがいきなり物騒なもん取り出して暴れまわっても、びっくりしないでね。……って、あれ? 坊っちゃん、聞こえてる?」
俺は聞いていなかった。
桐原先生は元・影のメンバーであり、そして現在、影の一員に復帰している。
そう考えたら、ここ何日も心の一角に居座っている、もやもやの正体が掴めたように思えた。
それは、問いの形をしていた。
そして、その解を求めようとする行為が、ともすれば自分を傷つけかねない予感もあった。
いきなり黙りこんだ俺に顔を向け、ヴェルナーは目をしばたかせる。気まずい間を取り持つように、終業のチャイムが鳴り、ややあって、上履きの音や話し声が聞こえてくる。そのざわめきの中に、こちらに近づいてくる足音を聞いた。
気づいた俺が顔を上げるのと、ヴェルナーがよう、お疲れさん、と言うのが同時だった。
きりりと引き締まった顔色で、当の桐原先生がそこに立っていた。ヴェルナーが楽しそうに手を振るのを、先生は一瞥しただけで黙殺する。
茅ヶ崎、と先生が俺に紙を差し出してくるので、慌ててソファから起き上がった。
「ここにいたか。さっき、期末試験の事前問題を返却し損ねたのでな」
淡々とした声音に、どこか気遣いの響きを聞いてとる。ヴェルナーが俺の手元を覗いて、おーすごいすごいと声を上げた。反対に俺は、言葉を失う。
九八点。
嘘だろ、と思った。小学校に入学してからというもの、算数や数学のテストでは百点しか取ったことのない、俺が。
心臓がはやる。どこだ。どこを間違えたんだ。
誤答はすぐに見つかった。取るに足らない計算間違い。凡ミスだ。こんなの、いつもなら絶対やらかさない。やはり今の俺は、おかしいのだ。
「証明問題も返却しておこう」
手に紙が重ねられる。いつもはほとんど無い、赤ペンでの修正がたくさん入っていて、俺はまたひやりとした。先生が手を伸ばして、用紙のある部分をなぞる。
「ここの部分、自明とあるが、この条件は自明ではない」
「あ……」
「他にも色々不備はあるが──証明は焦ってするものではないぞ、茅ヶ崎。最近の君の解答は、数学以外のことを考えながら書いたように見える」
言葉のナイフが心臓をえぐる。図星だった。
こんなにも、自分の中の憂いは、外に現れてしまうものなのか。ささやかなバツ印と、赤い訂正たちが、俺の気持ちのよりどころがぐらついていることを、喚きながら声高に主張しているように思える。
桐原先生の、こちらを問いたげに見る目を直視できなくて、口元あたりに目線をずらす。
「何かあったのかね」
「……」
「このお坊っちゃんね、病気なんだよ。恋患いという名の──」
「貴様は口を挟むな」
ヴェルナーがへらへらと喋りだすのを、ぴしゃりとした声が止める。
先生が俺を見る。変わらぬまっすぐ射抜く視線だ。ああ、駄目だ。逃げ出してしまいたい。見られていることに耐えられない。正面からその視線を受けとめることが、俺にはできなかった。
「私に言えないことならそれでもいい。証明問題はしばらく中止しよう。期末試験も近いことだし」
「……はい」
返事は力なく、先生に届く前にきっとへにゃりと折れた。
ヴェルナーが、手で口を覆う身ぶりとともに、俺に視線を寄越している。
「なんだよ」
「坊っちゃん、まさか……坊っちゃんの恋患いの相手って……」
「ちげーよ。患ってもねーよ」
こういう心境を意気消沈というのだろうなと思いつつ、とぼとぼと教室に戻る。ドアを開けると、まなじりを盛大に吊り上げた未咲に出迎えられた。噛みつかんばかりの剣幕だ。
「ちょっと! あんたのせいでまた桐原せんせーに怒られたんだからね! わたしが! どーしてくれんの!」
「……悪い」
反論できる状態にないのでそうぼそりと返す。未咲が目を丸くして、ついでに瞼もぱちくりさせる。俺はぼんやりとそれを眺めながら、こいつ睫毛長いなとか思う。未咲が不審げに、あんたが素直に謝るなんて気持ち悪い……と堂々と失礼なことを言う。
いつもみたいに言い返す気力も湧かない。未咲が
未咲が答案に目をやり、おや、という顔をする。
「あれ、龍介が満点じゃないなんて珍しいね。ってか、今まで満点じゃないことあったっけ」
俺は幼なじみの顔を見た。
元気良さそうな逆ハの字の眉の形。存外長い睫毛に縁取られた、ぱっちりとした眼。決して高くなく、慎ましげに中心にちょこんとある鼻。薄めの唇と、よく笑う口から覗く白い歯並び。顔の輪郭を切り取る、茶色がかった髪。
見慣れてしまった、未咲を構成する要素たち。
お前は変わらないな。お前は変わらないよな。
「未咲、俺さ」
命を狙われるかもしれないんだって。
"罪"っていう、得体の知れない犯罪集団がこの世にはいて、そいつらに敵対する、存在を隠された組織もあるんだって。
桐原先生もその一員で、何年も前から、俺と知り合うことになってたんだって。
何もかもが、ずっと前から、俺が知らないところで、そういう風に決められてたんだ。
もういっそ、そうやって吐き出してしまいたかった。
誰かに、できれば未咲か輝に、俺が知っているすべてを話してしまいたかった。
影に関する話は口止めされていたし、今だってヴェルナーがどこかで見ているに違いなく、会話だって聞かれているのかもしれなかった。情報漏洩に何かしらのペナルティがあるのかどうか、それは知らないが、意識して試そうなんて反逆心もない。
だから俺は、その先の言葉を飲み込むほかになかった。
未咲が眉をひそめて、俺が何事か言うのを待っている。
「──いや、やっぱ何でもない」
「は……? なんなのよ……」
不快感をあらわにした未咲から、舌鋒鋭い文句を聞けるかと思ったのに、彼女は未確認生物を見る目で、俺をじろじろと眺め回しただけだった。
「なんか龍介、変」
ぽつりと発せられた声とともに、答案用紙が突っ返される。その言葉の意味が、いつもと違う未咲の視線が、ちくちくと俺の心を刺す。
紙束が、ずしりと重くなって返ってきたように感じられた。
(続く)
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